【11/23ライキャ新刊先行サンプル】もしものきみと恋をする(仮)【注意】
※原作を読んでいることを前提として話が進みます。
※しかし、お話の都合上、原作改変を多分に含みます(本で最終的に理由がわかります。ある程度察しのいいかたならここだけでわかると思う)
※原作で想定される程度の暴力描写を含みます。
※原作で描かれていない部分を妄想にて補完しています。解釈を多々含みます。
あと、書きっぱなしで見直ししてないので、かなり粗が目立ちます。
ーーー以下本文ーーー
プロローグ
慌ただしく行き交う人波を掻き分けるように、申し訳程度のイルミネーションに彩られた繁華街を突っ切っていく。コートとマフラーで武装している俺を嘲笑うかのように、吹きつける北風は容赦なく全身から体温を奪っていった。どこに設置されているのか知らないが、野外スピーカーは聞き慣れた〝Trickstar〟の歌声をそこかしこにばら撒いていて、まったく落ち着きがない。SSがすぐそこまで迫っていることも、無関係ではないのだろう。リリースされてしばらく、ゆうくんの歌声を聞きたくて飽きるほど再生を繰り返したラブソングはすっかり覚えてしまっていたけれど、今は一刻も早くそれから逃れたかった。
ひとでごった返すこの時期の繁華街に、特別な用事があったわけじゃない。ここじゃなくてもよかったけど、ひとりになりたかったから、誰もが自分のことだけで精いっぱいのこの街はちょうどよかった。フィレンツェに戻るのが正解だったと思うけど、きゅうなことで、フライトの日程変更ができなかった。だからといって、寮でぼんやりしているわけにもいかない。ただでさえSSの準備に追われているあいつらに、これ以上、変に気を遣わせたくはない。まあ、今の俺に、あの場所にいる資格があるとは思えないけど。
最初に〝撮られた〟のは、一ヶ月前のことだ。一緒に帰国していたれおくんに車を出してもらってショッピングに出掛けたその帰り道で、不意打ちみたいにキスをされた。今さら動揺するようなことでもなかったから、目を閉じて受け入れた。それが、ひとつめの油断だ。撮られていたと知ったのは、解像度の低いその写真に『熱愛か』なんてありきたりな文言が添えられた記事の掲載されたゴシップ誌が送られてきてからだった。
れおくんと一緒に事務所に呼ばれ、通されたちいさな会議室で、〝プロデューサー〟の肩書きを身に纏ったあんずは、出会った頃の無力さをまったく感じさせないまっすぐな目で「どうしますか」とだけ俺たちに問うた。
間もなくして、お騒がせしています、という文言とともにネットに上げられた謝罪文には、俺たちがお互いに相手を大事なユニットメンバーで、大切な友人だと思っていることが記載されていた。その言葉に嘘はない。去年、俺があいつをフィレンツェに連れ帰ってから、今まで以上に距離が近付いて、そこそこ〝いろいろ〟あったことは間違いない。だけど、俺たちの関係を語るうえで真っ先に出てくる単語は、相変わらず〝友だち〟だ。それにしてはちょっと重すぎる感情は自覚してるけど、決定的な言葉を言った覚えも、言われた覚えもないから、そういうことだと思っている。
とにかく、記事が出て、しばらく接触を控えるように言われていたけれど、当たり前に仕事はあるし、フィレンツェでは一緒に暮らしているわけだから、まったく顔を合わせないってわけにもいかない。念のため、別々の飛行機で海を渡り、俺はちいさなアパルトメントの玄関を開けた。先に帰宅していたれおくんが飛びついてきて、「深刻なセナ不足だ!」なんて不貞腐れるれおくんを、あの手この手で宥めた。しばらく触れあえなかったのは、俺にとってもそれなりにストレスになってたみたいだ。あっという間に部屋に引き込まれて、お互いを確かめあった。さすがに、こんなところまで悪趣味なやつらはついてこないだろうって油断があった。それが、ふたつめ。つい三日ほど前の、クリスマスイブのことだ。さっさとこちらでの仕事を済ませてSS本戦を戦い、とんぼ返りしてそのままフィレンツェで年を越す予定だった俺たちに、連絡してきた青葉はテレビ通話で画面に映るなり、申し訳なさそうに眉を下げた。「ちょっと、おおごとになりそうです」と言った青葉は、いつも以上に疲れた顔をしていた。そうして、本戦の出場の〝辞退〟をESから要請されたのが、今だ。しばらく静かにしておけ、ということらしい。
アイドルをやめるという選択肢は、今のところ、ない。ステージで歌うことはもちろん、演技の仕事だって悪くない。メンバーと離れたいとも思わない。だけど。
嫌でも耳に入ってくる、ゆうくんの歌声。あいつらとは自他ともに認めるライバルだったはずなのに、きゅうに遠い存在になってしまったみたいだ。〝辞退〟したのは俺とれおくんだけで、ほかのメンバーは出場するって話だから、それだけは救いだ。俺たちの不注意でほかのメンバーまで窮地に立たせるわけにはいかない。それでも、嫌味くらいは言われそうだけど。俺にできるのは、可能な限り〝あいつら〟から距離を取ることだけだ。
「そこのあなた」
不意に、ミステリアスな女性の声が風に乗って耳に届いた。びく、と肩が震える。いくら変装してるとは言っても、俺が〝Knightsの瀬名泉〟だってことは、わかるやつにはわかってしまうだろう。
おそるおそる顔を上げて、きょろきょろと辺りを見回した。よく目を凝らしてみると、建物と建物の間の路地とも言えない空間に、ちいさなテーブルと椅子が置かれている。テーブルの上で存在感を主張しているのは、片手では持てないくらいおおきな猫目石。その向こうには、やたらと装飾の多いフードを目深に被った〝誰か〟がこちらを向いて座っていた。占いだろうか。そういうのなら、看板とか立ってそうなもんだけど。
「何か、用」
ぶっきらぼうな声になってしまったのは、仕方がないだろう。逆先のやつだってずいぶん胡散臭いと思うけど、目の前のこいつの得体の知れなさはそれとは比べ物にならないくらいだ。
「ずっと、あなたと話してみたいと思っていたのです」
鈴の鳴るような、澄んだ声。初めて聞く声のはずなのに、どうしてか、ある種の懐かしさすら覚える。
謎の女性がまっすぐに俺を見つめる。ただでさえ暗いのと、フードの陰になっているので、そいつの鼻から下しか見えないから、見られている気がする、というだけだけど。
「あんた、誰? 俺たち、会ったことあったっけ」
話してみたい、なんて言ったばかりなのに、そいつは俺の問い掛けに答えなかった。フードを飾る宝石と金具が擦れあって、シャン、と音を立てる。
「あなた、後悔はありませんか」
鈴を転がすような音に、逆先が魔法をかけるときのような不思議な声が混じる。頭のどこかが逃げろと叫ぶけど、そんなに〝悪いもの〟でもないようにも思える。ふらふらと操られるように、そいつの前に置かれた椅子に腰を下ろす。謎の女性がもう一度「後悔はありませんか」と問うた。つられるようにして、口を開く。
「俺の、後悔は──」
▲▲▲▲▲
01
セナが乱闘騒ぎに巻き込まれてケガしたって聞いたのは、二年生に上がったばかりの、ある晴れた日のことだった。
「セナっ!」
看護師さんに教えてもらった病室に飛び込むと、真っ白な入院着を身に着けたおれの大好きな友だちが、きれいな顔を露骨に歪ませて「げ」と鳴いた。
「わ、ほんとにいる! なんで教えてくれなかったんだよ~! 誰にやられた? 地獄の果てまで追い掛けて同じ目に遭わせてやる!」
セナのいるベッドに駆け寄って、仮想の敵に牙を剥く。おれは本気だったのに、セナは迷惑そうに「やめて」と眉を顰めただけだった。
「ちょっと転んだだけだってば。打ちどころが悪かったのは最悪だけど」
「でも、ケンカしたって」
なおも言い募ろうとしたところで、不自然に投げ出されたままの右腕に目が行った。どくん、と心臓がおおきく跳ねる。おれの視線に気がついたセナは、ひとつ舌打ちをすると、まっすぐにおれを見た。
「あのねえ。俺がケンカなんてすると思う? 俺たちはアイドルなの。ひとを殴ったらアイドル人生はお終い! あんた、ほんとにわかってる?」
「わあ、わかってます! ごめんなさい!」
いつもみたいにまくし立てられて、ちょっとだけ安心した。少なくとも、ガミガミ怒るだけの元気はあるみたいだ。入院とか手術とか、嫌な気分になるような単語ばっかり聞こえてきてたから、不安でしょうがなかった。べつに、おれが手術するわけじゃないのに。
「ていうか、俺がここにいるって誰に聞いたわけ? あんたには絶対に言うなって口止めしておいたはずなんだけど」
「え~、なんでそんな寂しいこと言うんだよ! 友だちだろ! おれだってお見舞いとか、そういう仲良しっぽいことしたい!」
「あんたは耳までバカになったわけ? 誰に聞いた、って質問してるんだけど」
怒りを垂れ流しまくってる目で、ギロリと睨まれる。さっき元気で安心したって思ったけど、あれはやっぱりナシにしたい。ちょっとくらいしおらしくなってくれてもよかった。まあ、しおらしいセナとか、あんまり想像できないけど。
渋々、みけじママに聞いたことを白状すると、セナがちいさな声で「あいつ、絶対に殺す」とか物騒なことを呟いた。ごめん、みけじママ。おれ、取り返しのつかないことしちゃったかも。
そういう、おれたちにとっては当たり前の〝いつものやり取り〟をしていると、防水加工をされているクリーム色のカーテンの向こうから押し殺したような笑い声が聞こえてきた。そこでおれはようやく、この部屋にいるのがおれたちだけじゃないことに思い至る。
「わ、同室のやつがいたのか。うるさかったよな、ごめんなさ──」
カーテンを開けたことに、深い意味はない。謝るときは顔を見て謝るっていうお母さんの言いつけを思い出したのと、あとは単純に、入院してるセナがどんなやつと一緒にいるんだろうっていう、純粋な興味。
連想したのは、大天使ガブリエルだ。病的なほどにしろい肌。セナの見た目もわりと人間離れしてると思うけど、それとはまた別の儚さがあるっていうか。ベッドの上で背中を丸めて笑っていたそいつはおれと目が合うと、身体を起こしてにこやかに笑った。
「構わないよ、続けて。瀬名くんがああいう態度をとる人間がいるなんて思わなかった。なかなか面白いね、きみ。制服から察するに、うちの生徒かい?」
「無視していいよ、れおくん」
後ろから冷たい声が飛んできて、びくんと肩が跳ねた。いっつも不機嫌なやつではあるけど、セナがここまで敵意をあらわにするのは、意外に珍しい。ああ、でも、同じユニットのやつらに対しては、いつもこんな感じだったっけ。
「ほらね。彼、いつもこうなんだ。何かきみの不興を買ってしまうようなことをしたかな」
「べつに。生理的に気に食わないだけ」
周りの温度が、きゅうに下がった気がした。ええ、もしかしてこいつら、いつもこうなのか? 入院生活なんてただでさえストレスがすごそうなのに。
「こら、セナ」
だからおれは、友だちの平穏な入院生活を維持するべく、心を鬼にすることにした。
「よく知らんやつにその態度はないだろ。ひとには親切にしなさい、ってお母さんに教わらなかったのか?」
「天祥院英智。俺たちと同じ、夢ノ咲学院の二年。っていうか、それを言うなら、まずあんたが俺に優しくしなよねえ」
セナはやっぱり、ピリピリしてる。ピリピリっていうか、カリカリっていうか。さっきまで普通だったと思うのに、おれがこのカーテンを開けてから、なんか、ちょっと変だ。何がどう変なのかは、よくわかんないけど。傷が痛むとか?
「あんたも、こんなところに来てる暇があるなら、レッスンするなり、お得意の作曲するなりしなよねえ。時間は有限なんだからさあ」
「わっ、こっちに飛び火したっ!」
要らないことまで言った気がして、ふたつのベッドの間で頭を抱えて蹲る。なんでこんなことになるんだ? おれはただ、セナのことが心配だっただけなのに。
「へえ、きみ、曲をつくるんだ」
反対側のベッドからまた声が聞こえてきて、顔を上げる。我ながら単純だと思うけど、おれの曲に興味を持ってくれたのが嬉しくて、カーテンレールで仕切られた敷地の向こう側に身を乗り出した。後ろからセナの舌打ちが聞こえたけど、今は無視することにする。セナだって、さっきおれの忠告を無視したんだから、お相子だ。
「なんでもつくるぞ! あ、しまった、慌ててたからなんにも持ってきてない! セナ、紙と書くもの持ってない? なんなら音源でもいい!」
「ない」
きっぱりと否定されて、さすがに傷ついた。セナならおれの曲を持ってきてるはず、なんて根拠のない自信があったから。セナにとって、おれの曲は〝特別〟なんだって思いたかったのかもしれない。
感じてしまった落胆を振り払うように首を振る。今は〝こっち〟のほうが大切だ。
「じゃあ、おまえは何か持ってない? ノートでも何かの裏紙でもなんでもいいんだけど」
「きみ、もしかして、今から曲を書くつもりかい?」
「え、そのつもりだけど?」
驚いたような目で見つめられて、ちょっと身構えた。おれはちょっと変わってるらしいから、また何か変なことを言っちゃったのかもしれない。だけど、水あめみたいな色の目がきらきらと輝きだして、そんな心配は要らなかったのだと悟る。楽しいと嬉しいがこっちにまで伝わってきて、おれの頭のなかで、それが音楽に変わっていく。
「おまえ、顔色はすっごく悪いけど、髪はキラキラしててきれいだな! インスピレーションがわいてくる! せっかく出会えたんだ、お近づきのしるしに、おまえにぴったりの曲を書いてやるぞ! 大天使の行進曲だ! なあセナ、紙とペン!」
「ないってば」
振り返るけど、セナの返事は変わらなかった。何が気に障ったのかわかんないけど、おれたちに背を向けたまま、ちらりともこっちを見ようとしない。おれはこれが、おまえとこいつを繋ぐ架け橋になってくれるんじゃないかって、ちょっと期待してるのに。おまえのためでも、あるのに。
「ノートでいいなら、下の売店に置いてるはずだよ」
「あっ、そうか! おまえ、いいやつだな! ひとっ走りして買ってくる! じゃあまた後でな、アスタラビスタベイビ~!」
油断したらせっかく浮かんだメロディが消えちゃいそうだったから、ふたりの返事を聞かないまま、病室を飛び出した。看護師さんの「静かに!」という注意が飛んでくるけど、構ってはいられない。この曲をこの世に生み出すことが、おれにとっては何よりも優先されるべきことだ。
だから、考えない。当たりはきついけど、あんまり理由なくひとを嫌ったりしないはずのセナがどうしてあいつにあんな態度を取っていたのか。そもそも、セナが巻き込まれたっていう乱闘は弓道場で起こったはずなのに、弓道部でもないセナが、どうしてあんな場所にいたのか。妄想だけならいくらでもできるけど、それは妄想でしかない。おれはセナみたいに頭がよくないし、考えても、どうせわからない。
だけど、おれはこのとき、ちゃんといろいろ考えておくべきだったんだ。そうすれば、出会ったばかりの天使みたいなあいつがこの先、おれたちに牙を剥くなんて未来も、ちょっとは想像できたかもしれない。ほんとにバカだと思うけど、おれはまだ、無邪気に信じていたんだ。ひとの善性ってやつを。
それがおれたちを狂わせていくなんて、これっぽっちも思わないまま。
02
いろいろなことが少しずつ〝悪いほう〟に向かっていたのは、うすうす勘づいていた。
セナが退院して、〝バックギャモン〟のリーダーが不祥事を起こしたとかなんとかで、なぜか、その座がおれに回ってきて、ユニットの名前を〝チェス〟に戻して。よくわかんないうちにみんながばらばらになっていって、セナとふたりで〝Knights〟を立ち上げて、かつての仲間とライブ対決みたいなのをするようになって。いわゆる〝おおきな流れ〟ってやつにはあんまり興味がなかったけど、おれには曲をつくることしかできなかったから、いっそう曲づくりに励んだ。実際に、おれたちは快進撃を続けていて、仲間だったやつらを次々に倒していった。
セナが〝それ〟に気づいていたのかどうかは、よくわからない。おれも、そういうのには鈍感なほうだと思う。でも、舞台裏に引っ込んだときに向けられる〝対戦相手〟の、この世のすべてを憎むような悪意をはらんだ眼差しに気づかないでいられるほど、おれは幼くはなかった。
「セナぁ」
すっかり〝いつもの場所〟になってしまったガーデンスペースに、春の柔らかなひかりが差し込んでいた。太っちょのリトル・ジョンを抱っこしながら、おれはセナの肩にもたれかかる。右腕はまだちょっと動かしにくそうだったから、どんなに甘えたい気分でも、遠慮なく全体重をかける、なんてことはできない。振り払われる可能性だってあったけど、今日のセナはそこまで虫の居所が悪いわけじゃないみたいだ。ちらりとだけこっちに目を遣って、ちいさくため息をつく。それでも、拒まれはしなかった。
「なに」
「おれのこと、好き?」
「あんた、何回聞けば満足するわけ?」
「え~、いいじゃん、減るもんじゃなし! 何回だって聞きたい!」
心の底から呆れてるみたいな声なのに、嫌がってる感じはしない。もう何回めだよってくらい同じことを聞いてるのに、セナの答えはいつもイエスだ。今回も、「当たり前でしょ、そんなの」と言って頭を撫でてくれる。おれはそれが、すこしだけこわい。セナに〝嫌い〟なんて言われたら、生きていけなさそうだ。リトル・ジョンを抱きしめる腕に、思わずちからを込める。
「こぉら、れおくん」
ちいさな子どもを叱るように名前を呼んで、セナはおれからリトル・ジョンを取り上げた。あ、と思う間もなく、猫を抱きかかえたセナが眉を寄せる。
「ていうか、生き物は大事に扱えって何度も言ってるよねえ? 潰れちゃうでしょ、そんなにぎゅって抱きしめたら」
「うん、ごめん」
まだ腕は完治してないはずなのに、リトル・ジョンを撫でる手つきは優しい。芽吹きのにおいが広がって、チャイコフスキーも裸足で逃げ出すくらいしあわせな、花びらの舞う穏やかなステージが生まれる。
大丈夫。セナがいれば、おれは何とだって戦える。たとえそれで、大好きだったかつての仲間たちを惨たらしく殺すことになったとしても。
「棄権してほしい?」
おれを見下す、ナイフを突き立てるような鋭い目で睨まれて、跳ねそうになる肩を必死で抑えた。ドアの向こうで待っていてくれるママが隣にいてくれれば、ちょっとは気分もマシだったかもしれないけど、おれがひとりでやると言ったのだ。
「ダメかな。出演料とかは、規定どおり払うからさ」
なんでもないふりをして、へらへらと笑う。おれの前にいる緑色のネクタイを申し訳程度に巻いたやつは、おれから〝チェス〟の名前を奪った男だ。ううん、ユニット名の申請は〝早い者勝ち〟だったから、奪われたっていうのは、単なる気分の問題でしかないんだけど。
こいつらと話をしようと思ったきっかけは、ほんとにたいしたことじゃない。今日のライブは、謂わば、因縁の戦いだ。おれとセナの〝はぐれ者〟の〝Knights〟が、母体である〝チェス〟と正面対決する。ほら、よくあるだろ、王者と対峙する挑戦者、みたいな展開。おれたちは舞台を整えたし、今日のために牙を研ぎ澄ませた。だけど、肝心のこいつらは、ちっとも動く気配を見せなかった。だから、こういうのはあんまり得意じゃないけど、煽ろうと思った。発破を掛けようと思った。だって、今日のライブは思い出に残るはずだったから。数合わせとはいえ、セナのお見舞いに行くうちに仲良くなったテンシやオバちゃん、それにママだって、出演してくれることになってるし。こいつらにはキレられると思うけど、いつか今日を振り返ったとき、「よかったね」って笑えるなら、おれだって〝悪役〟くらいにはなれる。その、はずだった。
「は、そりゃいいや」
だけど、そいつから返ってきたのは、気のない笑い声だった。
「え?」
「じゃ、そういうことでよろしく」
ぽん、と肩を叩かれる。練習室にはざっと十人くらいのメンバーがいるのに、誰も声を上げない。誰も、止めない。
「なに、言って」
身体じゅうがカタカタと震える。これが怒りなのか、それともほかの感情なのか、よくわからない。おれの憧れた〝チェス〟は、知らないうちに、こんな掃きだめみたいな場所になってしまっていたのか。
「つうか、前から言おうと思ってたんだけどさ」
これ以上はないってくらい冷えた声が、耳に届く。聞いたらだめだと頭のどこかが叫ぶけど、逃げ出すことも、耳を塞ぐこともできなかった。
「俺らは〝朔間零〟みたいな天才じゃねえんだよ。何者にもなれねえ、ただ、ちょっと平均より顔がよくて、〝それらしく〟振る舞えるってだけの凡人だ。お前、一年ここにいてほんとにわかんねえのかよ。ああ、いちばん弁えてねえ〝あいつ〟とつるんでんだから、そりゃあ鈍るか、いろいろ」
何かが、ガラガラと音を立てて崩れていく。こいつが言ってることは間違ってる。おまえらこそ、セナを見ててなんにも思わないのか。本気でアイドルになろうとして、アイドルでいようとして、あいつは──。
言いたいことは山ほどあったのに、噛みしめたくちびるはなんの音も発してくれなかった。みにくい感情が渦を巻いて、気持ちが、悪い。だけど、そんなおれにとどめを刺すように、音が、届く。
「どうせこれが最後だろうし、言っとくわ。お前、書く曲はたしかに悪くねえけどよ。そういう周り見えねえとこ、大ッ嫌いだったよ」
頭にカッと血が上る。一発殴ろうと拳を振り上げかけたところで、セナの顔が浮かんだ。
『俺たちはアイドルなの。ひとを殴ったらアイドル人生はお終い!』
「おれは、アイドルだ」
誰にも聞こえないくらいちいさな声で、そう呟く。おれはアイドルだ。だから、今、こいつを殴るわけにはいかない。アイドルを捨ててるこいつらと同じところまで落ちるわけには、いかない。だってそうしたら、セナがひとりぼっちになっちゃう。
「……そっか!」
だから、笑った。
「おれのことは嫌いでも、おれの曲のことは気に入ってくれてたんだな! じゃあ、いいよ。なんでも好きに使え。その代わり、二度とおれたちに近づくな」
うまく笑えていたかどうかは、わからない。気がついたときには、練習室を飛び出していた。待っていてくれたママに飛びついて、戸惑うママのブレザーを掴んで、「おれのこと好き?」と迫った。
「好きに決まっているだろう。はあ、やっぱり無理やりにでもついていくべきだったなあ」
「じゃあ、おれとおれの曲、どっちが好き? おまえも、おれの曲が目当てで近づいてきただけなのか?」
「何を言われたのか知らないが、落ち着きなさい、レオさん」
言ってしまってから、自分の失言に気がついた。こんなところまでついてきてくれるママのことは、疑っちゃいけなかった。そもそも、同じユニットですらない。じゃあ、おれがたくさん曲をあげてきた〝あいつら〟は? 好きだったのはおれだけで、ほんとはあいつらも、おれを〝曲だけのやつ〟だと思ってたのか?
いちど疑ってしまえば、もう〝そう〟としか思えなかった。校内をでたらめに走って、元〝チェス〟のやつを探す。最初の何人かが「友だちだろ」と嘘なのかほんとなのかよくわからない返事を寄越して、そこでようやく〝条件〟を思いついた。おれとおれの曲、どちらかを選ばせる。おれを選んだら、もうおれの曲は使わせない。おれの曲を選んだらいくらでも使っていいけど、もうおれに関わらない。そんな、条件。
おれの予想は当たっていて、誰もおれを選んではくれなかった。後から思えば、タイミングの問題もあったんだってわかる。誰も、自分を負かしたやつを好きだなんて言えない。傷が新しいなら、なおさらだ。だけど、茹であがった頭でそこまで考えられるわけがなくて、おれはただひたすら、〝おれ〟を選んでくれる〝誰か〟を求めて玉砕し続けた。おれはこの世でひとりぼっちなのだと言われてるみたいだった。セナの顔が浮かんだ。おれのことを好きだと言ってくれたあいつなら、きっと欲しい言葉をくれると思った。
今まで、こんなにあいつを渇望したことがあっただろうか。
「ごめんごめん、お待たせ!」
何もなかったふりをして会場に飛び込むと、案の定、セナのお小言が降ってくる。
「こぉら……。遅刻だよぉ、れおくん。時間厳守は基本でしょ」
いつもどおりの、眉間に皺を寄せた不機嫌そうな顔。胸が締め付けられたように苦しくなる。セナにとってこれは、日常の延長線上でしかないんだ。セナとのぬるま湯みたいな関係に波を立てたくなかったら、何も言わないのが正解だ。だけど、どうしても、気になって仕方がない。おまえはいつも、どんな気持ちでおれに〝好き〟なんて言ったんだ。
「ちょっと、今日の対戦相手の〝チェス〟と交渉してたんだよ。それでひとつ、おまえにも確認しておきたいことがあって」
「え?」
不意に、セナの表情が固まった。何かを察したのかもしれない。空気を読むのは下手なくせに、変なところに気が回るやつだから。
「ちょっと、今からライブなんだから、変なこと言うなら後にし──」
「おれのこと、好き?」
セナの言葉を遮って、まっすぐに気持ちをぶつけた。セナが戸惑ったように、じり、と一歩下がる。
「なに、そんなこと、今まで飽きるほど言ってきたでしょ」
心なしか、その声が上ずっていた気がした。それで、わかってしまう。こいつも〝本気〟じゃなかったんだって。あいつらと同じだったんだって。そう思えば、心がすうっと冷えていく。
「なあ、おまえが好きなのは、おれ? それとも、おれの曲?」
セナが息を呑んだ。そうして、きれいに透きとおる、おれの大好きだった青が揺れる。
「なんで、俺に〝それ〟を聞くの」
「いいから答えろよ、セナ」
おれの高音を紡ぐくちびるが震える。今になって、セナがおれの渡した曲をむきになって練習していたことを思い出す。〝おれ〟を選んでほしかったはずなのに、〝おれの曲〟を捨てられるのも嫌だった。
「そんなの、選べるわけ、ない」
だけど、セナはどっちも選べなかった。傷ついたみたいに整った顔を歪めて、ぶんぶんと首を横に振る。一拍遅れて、傷つけたのはおれなのだと思い至った。
「セナ」
今のおれにそんな資格があるとは思えなかったけど、せっかくのきれいなメイクが崩れそうで、その身体を掻き抱いた。ごめん、とちいさく謝るけど、届いたのかどうかはわからない。ただ、おれにはこいつしかいないのだと、今さら、実感した。
「セナ!」
身体を離して、両肩を掴む。相変わらず感情はぐちゃぐちゃだけど、さっきよりはマシな笑顔がつくれたと思う。
「ライブをしよう! あとでぜんぶ説明する! だから、今は歌おう! お客さんだって入ってきてる! 〝チェス〟のやつらは来ないぞ! おれたちの独壇場だ! そこのおまえらも、ステージに上がれ!」
「ちょっ、れおくん──」
テンシとオバちゃんとママと、あと見知らぬ誰かさんたちを引き連れて、チェス盤をイメージした舞台に飛び込んでいく。ふたつの知らない顔は、たぶん、セナが見つけてきたやつだろう。
セナを傷つけてしまったおれに、今から何ができるのかわからない。ただ、なんとなくだけど、あんまり〝長くない〟気がした。
「なあ、セナのこと、よろしく頼むな」
だから、せめて今のうちに、セナと仲がよさそうなこいつらにセナのことを頼んでおく。いきなりだったから変な顔をされたけど、今のおれは、そうするだけで精いっぱいだった。
03
歯車が狂い始めていたことに、気がつかなかったわけじゃない。ドリフェスはずいぶん勝てていなかったけど、おれがいい曲を書けば〝何もかもうまくいく〟って信じてた。芸術はひとの心を変えられるんだって思い込もうとしていた。だけど、現実はそう甘くなかった。
「さっきのライブで大敗したのは俺のせいだって? 『おれの曲についてこれない、おまえが悪い』って、そう言ったよね、〝王さま〟?」
制服が夏服から冬服に変わってしばらく経った頃、鮮血みたいに真っ赤な夕陽が差し込む廊下で、セナは苛立ちを隠そうともせずにそう言い放った。
「……〝れおくん〟って呼んでくれなくなったな、おまえも」
セナはいつの頃からか、ほかのやつらと同じように、おれを〝王さま〟と呼ぶようになっていった。突き放したようなその呼び名で呼ばれると、どうしたって変な距離を感じてしまう。王と騎士、なんてうわべだけの役割のはずなのに。おれたちの本質は今だって〝対等な友だち〟のはずなのに。ただひとりの〝友だち〟だったはずなのに。
「なあセナ、おれ、わかんなくなっちゃった」
きっと、こいつは知らないんだろう。〝王さま〟って呼ばれるたびに、おれの息が詰まって、呼吸すらままならなくなることなんて。
「賢いおまえならわかるだろ。おれはどうすればいい? 教えてくれよ、セナ」
心臓はこんなにも張り裂けそうなのに、すっかり顔に貼りついてしまった笑顔がおれの本心をすっかり覆い隠していく。あれ、〝本心〟ってなんだっけ。おれは、おれのことをどう思ってるんだっけ。
「ッ、なんでもかんでも、俺に押しつけないでよ!」
おれの目の前で、セナがちから任せに壁を叩く。ドン、という鈍い音を、どこか遠くの出来事みたいに聞いていた。
「俺は努力したよ……! あんたが、あんたのつくる曲が好きだったから、俺以外のみんなにも、世界じゅうのみんなにも好きになってもらえるように、精一杯やった! なのに、〝れおくん〟の頭のなかにあるのは新曲のことだけだ! その曲も、近ごろは何なの? 怨みや痛みに濁って陰鬱な曲ばっかりで、歌っててちっとも楽しくない!」
頭はちっともはたらかないけど、それでも、セナがおれに浴びせる言葉を、怒りのもとを、おれなりに理解しようとした。だけど、ちっともわかる気がしない。おれがいい曲を、〝勝てる曲〟を書けば、おれたちはしあわせになれるんじゃなかったのか。おれには曲をつくることしかできないのに、それをおまえは〝無駄なこと〟だったと切り捨てるのか。おれのこと好きだって言ったその口で。
「おまえのせいだろ、ぜんぶ!」
気がついたときには、そう叫んだ後だった。ほんとは、みんなで楽しく歌えればそれでよかった。それが叶わなくても、大好きなセナさえ笑ってくれればじゅうぶんだった。
「おれはさぁ、おまえの夢を叶えてやろうと思ったんだよ! もう、おれの曲を望んでくれるのはおまえだけだったから! それ以外はみんな闇だ、苦痛だ! おまえの笑顔が目の前で輝いてなきゃ、おれはもう明るい曲はつくれない!」
頭のなかはぐちゃぐちゃなのに、くちから勝手にべらべらと文句が出てくる。そんなことちっとも思ってない、と言ったらうそだけど、ほんとに言いたいことはまた別にあるはずだ。だけど、おれはそれをうまく言葉にできない。曲でなら表現できたはずなのに、ここのところは、それも難しくなってきてる。
できることなら、あの日々に戻りたい。あのときのやつらがおれのことを好きでもなんでもなかったのは、もうわかってる。でも、それでもいい。ほかでもないセナが、おれと一緒に笑ってくれてたから。もう、戻らないけれど。
「でも、近ごろ負け続けで、プライドの高いおまえは傷ついて憤ってるから! 唯一、おれに届くひかりまで、憎しみで濁ってる! それなのに明るい曲なんてつくれるか!」
おれの書いた曲をセナが歌って、「いいね」って笑ってくれたら、それだけでおれはしあわせだったのに。
「限界なんだよ、もう! ふざけんなよ、おれのために笑ってくれよ!」
「……あんたさあ」
おれの激情を、不意にセナの温度のない声が遮った。何か、逆鱗に触れたのかもしれない。でも、知るか、おれは──
「最近、俺に好きって言わなくなったよね」
「……は?」
身体のなかで渦巻いていたほのおが、きゅうに出口を塞がれたみたいに沈殿する。今、こいつはなんて言った?
「今はそんな話、してないだろ」
「じゅうぶん、関係のある話でしょ」
セナが何を思ってそう言ったのかなんてわからない。だけど、逆上してたはずのセナが、何かに気づいたみたいに静かになったのはたしかだ。
「わかっちゃったの。あんた、俺のこと憎んでるでしょ」
射貫くような眼差しを向けられて、背中を冷たい汗が伝う。
「なに、言って、」
セナを憎むとか、考えたことなかった。だけど、セナのそのひと言は、自分でもびっくりするくらい、おれの気持ちを端的に表していた。
「いいよ、無理しなくて。俺なんかに引っ掛からなきゃ、あんたはその才能を潰さずにいられた。俺もきっと、〝それなりの人生〟ってやつを歩めた。それがどういう人生なのか、ちっとも想像できないけど」
身体が強張る。なんだか、セナがきゅうに〝大人の男〟になったみたいに見えて、どうしていいのかわからない。
「でも、ほんとに悔しいけど、こんなになっても、俺はあんたが好きなの。ずっと、好きだった」
その苦しそうな微笑みは今にも消えていきそうで、どくん、と心臓が鳴った。それと同時に、今まで気づかなかった、ううん、気づかないふりをしていた欲望を自覚する。
笑ってほしい、って、そういう意味じゃない。このまま進んでも、状況はよくならない。だめだって、わかってる。
「なあ、おれのこと好きだって、言った?」
「最初からずっと、言ってるでしょ」
だけど、すべてを焼き尽くしかねないほのおを吐き出せる先を見つけた気がした。見つけて、しまった。
「なあ、」
ごくん、と喉が鳴る。手を伸ばして、その頬に触れる。おれに憎まれてるって思ってるくせに、セナはおれの手を振り払わなかった。
躊躇いはなかった。まっすぐに、そのつやつやのくちびるに歯を立てる。
「ちょっ、」
さすがに突き飛ばされて、はっとした。悪いことをしたとか、まったく思わなかったわけじゃない。だけど、セナのくちびるから流れた血の味に刺激されて、これまでにない音楽が頭のなかに響く。
「おれのこと好きなら、おれのためになんでもできる?」
「は──」
夕陽の赤に染まったかたちのいい目が見開かれる。何を言われたのかわからないって顔に、おれのなかのみにくい部分がひどく満たされていくのを感じた。
「おまえがおれのことを〝好き〟だなんて言ったから、おれにそんなこと言うのはもうおまえだけだから、おれはもう、おまえから逃れられない。だから、責任取れよ、セナ」
その右手を取って、指を絡める。人差し指で触れた指の側面をなぞると、セナの肩がびく、と跳ねた。
セナは俯いたまま、しばらく何かを考えてたみたいだけど、やがてゆっくりと顔を上げて、透きとおる目でおれを見た。血の滲んだくちびるが動く。
「それで、あんたは〝楽しい曲〟が書けるの?」
一瞬、逃げてくれてもよかったのに、なんて思ったけど、逃げられてたら逃げられてたで傷ついてたことは明白だ。だからきっと、これはもう、どうしようもないことだったんだろう。
「わかんないけど、おれにはもう、おまえしかいないんだ」
その刺激で書いた曲は、セナの言う〝陰鬱な曲〟でこそなかったけれど、楽しくもなんともない、滑稽なだけのラプソディだった。
それを聞いてくれたセナは、何かを諦めたような顔で「久しぶりにいい曲じゃん」と笑った。
04
時は流れる。無情に、そして残酷に。いろんなものをすり減らしながら。あんなにも神聖に見えたいきものを汚す、罪悪感に塗れた行為すら、今となっては〝日常〟の一ページでしかない。
あの日、不条理な要求を叩きつけたおれに、セナは簡単に自分を差し出した。愛なんてない、ひどく蹂躙されるだけだとわかっているそれを、セナが拒んだことはいちどもない。それどころか、苦しそうに顔を歪めてなお、あいつはおれに「好きだ」と言うのをやめなかった。おれに憎まれていると知りながら、どうしてセナがおれに尽くすのか、おれはよくわからない。その献身を怖いとすら思っているのに、切れ切れにおれを呼ぶその声に底の知れない優越感みたいなものを感じてしまう。そこにあるかもしれない愛情を求めてしまう。このままじゃいけないってわかってるのに、今日もおれは、いまいち気が乗らないまま、セナと約束したガーデンスペースに足を向けていた。曲なんてもう、ほとんど書けていないのに。
ナァン、という聞き慣れた鳴き声を耳にしたのは、世界の終わりみたいな真っ赤なひかりが差し込む廊下でのことだった。ガーデンスペースを根城にしているはずのリトル・ジョンを校舎のなかで見たのは初めてだ。灰色と黒のしましまの猫は、細長い尻尾をぴんと立てて、おれの前を我が物顔でのたのたと歩いている。
「わは、自由だな~、おまえ。おいでおいで、おれと一緒にセナんとこ行こ!」
憂鬱だった気持ちがちょっとだけ晴れて、声を掛ける。こいつがいれば、重い身体を引きずるようなレッスンも、自己嫌悪に苛まれるのがわかっているのにやめられない〝その後のこと〟にも耐えられる気がした。だけど、リトル・ジョンはちらりとこっちを見ただけで、おれのことなんてお構いなしに、廊下を昇降口とは反対方向に曲がっていく。
「待って、無視しないで! そっちにごはんはありませんよ~? あっ、もしかして冒険か? おまえはトム・ソーヤの生まれ変わりか? いいな、おれも連れて行って!」
こいつの行き先に興味はあったけど、誰かに見つかって摘まみだされるのもかわいそうだったから、あとを追った。追いかけっこが楽しくなってきちゃったのもある。
ふと、セナの身体を初めて暴いたあの日のことが頭をよぎった。あれからずいぶん寒くはなったけど、あの日の息が詰まりそうなほどの真っ赤な日差しはきっと、おれの胸のなかの柔らかいところにいつまでも居座り続けるのだろう。自分で招いた結果だけど、〝セナのせい〟にしたい自分もいる。
空き教室のならぶ、放課後のひとけのない廊下に、そのとき、何人かの品のないおおきな笑い声が響いた。思わず、びく、と肩が跳ねる。
「……あれ?」
慌てて通り過ぎようとしたところで、その声に聞き覚えがあることに思い至る。ええ、誰だっけ、これ。おれの記憶力が残念なのは前からだけど、思い出せないのはちょっと気持ちが悪い。〝チェス〟だったやつらか?
だけど、おれが思い出すより、そいつらが〝その名前〟を口に出すほうが早かった。
「見たかよ、昨日の〝QUEEN〟と〝Knights〟の対戦。ケッサク」
途端に、身体が石になったみたいに動けなくなる。悪く言われるのには、もう慣れた。だけど、どうしても身体が強張る。セナは「言わせておけばいいでしょ」なんてツンと澄ましてるけど、おれはまだ、その域には至れない。悪口なんて聞きたくないのに、どうしても耳が音を拾ってしまう。
「つうか、いつ辞めんだよ、あいつら」
「無理だろ。負けるって決まってる勝負に突っ込んでく脳筋馬鹿しかいねえじゃん」
「どっちが馬鹿よ」
「そりゃあ瀬名だろ。月永も馬鹿だけど」
好き勝手に言われて、頭にこないわけじゃない。セナのことを〝怖い〟と思ったばっかりだけど、よく知らないやつにあいつのことを悪く言われたくない。セナがどんなに気高くて美しいのか、爪の先ほども理解していないくせに。
「つうか、マジで生意気なんだよな、あいつ。腕折って懲りたんじゃねえのかよ」
「やっぱ、腕じゃ生温かったんじゃね。あのタイプは顔狙わねえと」
瞬間、全身が凍りつく。思い、出した。こいつら、よく弓道場にたむろってたやつらだ。いつからか、姿を見せなくなった──。
カチカチとピースが嵌っていく。春。転んで腕を折ったセナ。弓道場。よく考えなくても、導き出される答えはひとつだ。
衝動のままに、引き戸を開けた。夕陽に照らされた教室のなか、六つの目が一斉にこっちを向く。
「うお、って、噂をすれば月永じゃん」
「なんだ、今日は片割れはいねえのかよ」
頭に浮かんだ〝怖い〟という二文字を必死で掻き消して、そいつらを睨みつける。影になっていて、その表情はよく見えない。油断すれば声が震えそうだったけど、それのもとになっている感情が恐怖なのか怒りなのかは、よくわからなかった。
「あいつに何した」
おれの声は、なんとか届いたらしい。瞬きひとつの間だけ静まり返って、次の瞬間、笑い声が響く。
「なんもしてねえよ。ちょっと小突いたら、あいつが勝手に転んだんだって」
「つうか、仮になんかしてたところで、もう時効だろ時効」
「そもそも、先に邪魔してきたのはあっちだしな」
何もかもが癇に障る。こいつらの言うことが、さっぱり理解できない。いつの間にか足元にすり寄ってきていたリトル・ジョンが「にゃあん」と鳴いた。
それからのことは、よく覚えていない。気がついたらおれはくちのなかをひどく切っていて、身体じゅうがボロボロで、おれの目の前には、目に大粒の涙を湛えたセナがいた。
停学処分を言い渡されたのは、その数日後。おれが元〝チェス〟のやつらをはじめ、セナのことを悪く言うやつに片っ端から殴りかかるようになってからのことだった。
05
ずっと張りつめてた糸がぷっつりと切れちゃったみたいだ。
電気を点けるのもなんだか面倒で、布団に包まったまま、ぎゅっと身を縮める。眠い気がしたけど、意識を手離したくはなかった。ここのところずっと、悪い夢ばっかり見る。からっぽの客席、浴びせられる罵倒、憐れむような目でおれを見上げてくる、あいつ。
「〝王さま〟大丈夫?」
さらに悪いことに、終わった記憶だったはずのそれは、ちいさなおれの城のなかへと侵入してきた。おれの姿を見るなりセナが息を呑んだのが、厚い布団越しでもわかる。びく、と全身が跳ねた。きらわれる、と思った。
「せ、」
セナの顔を見るのは怖かったけど、セナに見捨てられるのはもっと怖かった。よろよろとベッドを抜け出して、セナの前でぺたんと座り込む。胸に渦巻くのは、言いようのない焦りだ。
「ごめ、」
責めるような青を受け止められなくて、血の気の飛んだくちびるを見つめた。おれから顔を背けたセナが「電気、点けるよ」と言って壁のスイッチを押す。眩しくて泣きたくなったけど、今はそんなことより、セナに謝ることのほうが大事だ。
「新曲、まだなんだ。今、つくってる。勝てる、曲」
震える声でそれだけ絞り出して、ベッドの上に散らばっている五線譜を指差した。セナはちらりとそっちに目を向けて、ゆっくりと首を振る。
「いいよ、そんなの。ていうか、停学ちゅうでしょ」
直接、言われはしなかったけど、責められているのは明らかだ。以前、ほかならぬこいつに言われた。〝ひとを殴ったらアイドル人生が終わる〟って。それを無視して凶行に及んでしまったから、セナはおれのせいでライブができない。じゃあ、これからこいつは、ほかのやつとユニットを組むのだろうか。
「せな」
見限られるのだけは耐えられなくて、その腰に縋った。みっともない、とかは思わなかった。ただ、セナのきれいな顔が苦虫を噛み潰したみたいに歪んで、それだけが僅かに残ったプライドを粉々に砕いていく。
「うそ、ちがう、ごめん、もうちょっと時間かかりそう。でも、きっとすぐ書けるようになる。おれは天才だから。だから、」
ああ、おれはほんとにちっぽけなやつだ。そうやって自分を奮い立たせないと、曲ひとつ書けない。あんなにもよく見てたはずなのに、セナにふさわしい旋律がわからない。おれが見ていたセナは、ほんとうにセナの〝本質〟だったのだろうか。
「おれのこと、きらわないで」
みじめに縋りつくおれのことを、セナはどう思ったのだろう。はあ、とちいさなため息が聞こえて、身体が跳ねた。
「嫌わないよ。ちょっと、自分に嫌気が差しただけ」
結局〝こう〟なるんじゃん、とセナが舌打ちする。セナの言ってることの意味がさっぱりわからなかったけど、これはきっと、おれが理解できないのが悪い。おれの頭が悪いから、セナはおれから離れていく。
「い、今すぐ書く! だから、きらいにならないで」
跳ねるように立ち上がって、くしゃくしゃの五線譜が散らばったベッドに向かおうとした。だけど、慌てたようなセナに腕を掴まれて、それ以上進めなくなる。
「だからべつに、無理しなくていいってば」
「だって」
涙なんてとうに枯れ果てたと思っていたのに、身体の奥から熱いものがこみ上げて、しずかに頬を濡らしていく。これを止める方法を、おれは知らない。
「書かないと、おまえに置いていかれちゃう」
「だから、なんでそうなるの。あんたの曲は好きだけど、べつに、それだけがあんたの価値ってわけじゃないでしょ」
いたたまれなくなって、ゆるゆるとセナの手を振り払う。おれは、そんな言葉を掛けてもらえるほど上等な人間じゃない、のに。
「なんで、そこまでするんだよ」
ゆっくりと首を振る。さっきセナに縋ってたときより、今のほうがずっとみじめに思えた。セナは驚いたみたいに一瞬、身体を固くして、そうして真綿で包むみたいに、後ろからおれのことを抱きしめた。
「〝好き〟に理由が要る?」
「でも、」
こみ上げるこの熱はなんだろう。今すぐ逃げ出したいのに、ずっとこの声を聞いていたいような、変な、気持ち。
「ほんとに、たいした理由じゃないの。ただ、今度こそあんたのことを守りたかっただけ」
「セナ」
たぶん、頭の回転とか、いろいろ鈍ってるんだと思う。なんだか無性に、セナが〝大人のひと〟みたいに感じた。ううん、もしかしたら、今までもずっと。
「おれのこと、すき?」
「うん」
何百回と繰り返したはずのやり取りは、どうしてか、今だけは別の意味を持っている気がした。
「おれ、おまえにひどいことしたのに」
「ひどいことだなんて思ってない。ちょっと段階をすっ飛ばした気はするけどねえ」
何がおかしいのか、耳元でセナがくすくすと笑う。ぎゅっと胸が締め付けられて、涙がまたひとしずく、頬を伝った。
「許すなよぉ……」
「許すよ。あんたの過ちは、そのまま俺の過ちだから」
すべてを受け入れるような優しい声に、ぞわりと肌が粟立った。だめだと思った。セナは優しい。このまま甘えてたら、きっとおれはだめになる。こいつのことを道連れにして。だから、この男に、これ以上〝おれ〟を背負わせちゃいけない。
「ッ」
ちからいっぱい腕を引いて、カーペットの上にセナを押し倒す。傷つけなくちゃ。おれのことを二度と思い出さなくなるくらい。そうでないと、こいつはまたおれのところに戻ってきてしまう。
「お、おまえのせいだ!」
きょとんとした目に見つめられて、声が震えた。セナは悪くない。こうなったのは〝セナのせい〟もあるかもしれないけど、ここからはおれの意思で、セナに消えない傷跡を残す。
「気持ち悪いんだよ、おまえ! おまえがおれに〝好き〟なんて言うから、こんなことになったんだ! おれはおまえに好きになってもらえるほど、上等なやつじゃ──」
「〝王さま〟──、〝れおくん〟」
ひどい言葉をぶつけているはずなのに、セナはおれの下で、聖母のように美しく微笑んだ。ほんとに悔しいんだけど、おれはその微笑みを、いとおしいと思ってしまった。
「おいで」
長い腕が伸びてきて、なすすべもなく飛び込んだ。怒りと憎しみと執着と、そのほかのいろいろな感情が複雑に入り混じる。マーブル状になったそれはたぶん、どうしたって完全には伝わらない。言葉は不自由で、おれに許された音楽すら、今はノイズだらけの不協和音を奏でるばかりだ。そのことが、ひどく苦しかった。
次に正気に返ったときには、神さまがつくったみたいに美しい造形をした男が、おれの前にぐったりと横たわっていた。その身体のいたるところには、おれがつけたと思われる無数の歯形が残っていた。
おれにできたのは、意識を取り戻して帰り支度をしているセナに「もう来るな」と言うことくらいだった。
ーーー(中略)ーーー
▲▲▲▲▲
01
ぽかぽかの日差しに誘われて、どうやらうとうとしちゃってたらしい。
「レオさん、大丈夫かあ?」
気がついたら目の前に、夢ノ咲の制服を着たみけじママがいた。まだ夢心地のおれはぼんやりと、今はいつだっただろう、と考える。
「ええと、おれ」
〝何か〟を思い出そうとしたおれは、その瞬間、走馬灯みたいな記憶の渦に呑まれた。「好きだよ」と言って笑ったセナ、夕暮れの教室であいつを組み敷いたこと、フィレンツェの街並みと、家主のいなくなった部屋。それから、繁華街で会った、占い師みたいな恰好をした〝あいつ〟。自分の身体を見下ろすと青いネクタイが見えて、これが〝高校二年生の春〟なんだってことに思い至る。
ほんとにおれ、〝戻ってる〟んだ。
「ママ!」
ママと会うのも久しぶりだったし、いろいろ話したいことはあったけど、今のおれが置かれている状況を理解することのほうが先決だ。記憶力はよくないほうだし、さすがに日付とかはわかんないけど、二年生の春に起きたあの事件を忘れるほど、おれは薄情ではない。
「今、いつ? おれたち、どうしてここにいるんだ?」
「レオさん?」
「いや、待って、先に自分で考える! ここは夢ノ咲学院のガーデンスペース、おれたちは今、二年生! ママとおれは親友!」
口に出して情報を整理しながら、繁華街での出来事を思い出す。〝あいつ〟はたしか、イメージした〝戻りたい瞬間〟に戻れるって言った。あのとき、おれが戻りたいって思ったのは──。嫌な汗が、つう、と背中を伝った。
「親友と言ってくれるのは嬉しいが、それならついさっきのことを忘れないでほしいなあ。歩いてるレオさんを見つけたから、俺がおしゃべりに誘ったんだぞお」
ちゃんとおれが〝戻れてる〟なら、たぶん、今日は〝あの日〟だ。弓道場で、セナが怪我した日。
「おれ、行かないと!」
とっさに駆け出そうとしたけど、無理だった。隣で喋っていたママのおおきな手が、おれの腕を掴んだのだ。
「待ちなさい。どこに行くんだ、レオさん」
「弓道場! セナを助けに行く!」
その瞬間、ママの表情が固まったのがわかった。そうしておれの腕を握る手にちからを込める。そうしてママは、すぐには信じられないことを言った。
「弓道場は、だめだ」
「なんでだよ! こうしてる間にもあいつが──」
「落ち着きなさい。泉さんに何が起こるって言うんだ」
おれのことを諭すような声音に、逆に選択を迫られている気がした。おれが〝前回〟で起きたことを話すのは簡単だ。だけど、そんなに非現実的なことを、すぐにママが信じてくれるだろうか。ただでさえ、おれは簡潔に説明するのが苦手なのに。
「あとでゆっくり説明する! お願いだから行かせてくれよ! あいつのこと、絶対に守るって誓ったんだ」
「だが、俺も〝あるひと〟から、今日だけはきみを弓道場に近づけるな、と言われてるんだよなあ」
「え」
自分の身体から血の気が引いていくのを感じた。ママの言う〝あるひと〟はきっとセナだ。だとすれば、セナは〝この先〟を知ってるってことになる。いや、今はそんなことを考えてる場合じゃない。一刻も早く、セナを助けに行かないと。
「あれ?」
だけど、気がついてしまった。じゃあママは、セナに頼まれておれを遠ざけた、ってことじゃないのか。おれはもう、この時点でセナに〝守られてる〟んじゃないのか。
「じゃあ、みけじママも一緒に来て! 時間がないんだ、こうしてる間にも、セナが〝ひどいこと〟になってるかもしれない! なんにもなかったら、すぐに帰るから──!」
ママはちょっとの間、黙っておれを見つめてたけど、おれの必死の訴えが効いたのか、「わかった」と首を縦に振ってくれた。
「俺も行こう。ただ、ひとつ約束してほしい。何か危険なことに巻き込まれそうなら、レオさんはすぐに逃げてくれ」
「でも、それじゃあセナが、」
「そのために、俺が行くんだ」
今になって、自分がとんでもないことを言っていたことに気づく。おれは、セナのためにママを犠牲にしようとした。たいていのやつならママに歯が立たない、って甘えて。
「できないなら、この話はナシだ。レオさんをどこかに閉じ込めてでも、俺はきみを行かせない」
そう断言したママの目は、背筋が凍るくらい鋭かった。
「わかってくれ、なんて言うつもりはないが。きみが傷つく可能性のあるところに、俺はきみを連れて行けない。泉さんのことを見捨てるのは心苦しいが、〝どちらかを選べ〟と言うなら、俺はきみを選ぶ」
「おれは、」
ママの気持ちを、嬉しく思わないわけじゃない。だけど、この世界のセナがほんとに〝おれの知ってるセナ〟なら、おれが何もしなかったら、あいつは間違いなく〝ひどいこと〟になる。
「それでも、あいつを見捨てられない」
「うん、それでいい」
絞り出すように言ったそれに、ママは満足げに頷いた。ママのことは大好きだけど、こういうところだけは、ちょっと嫌いだ。そうして、ママは今までの湿った空気を吹き飛ばすみたいに、カラッと笑った。
「でもまあ、杞憂だって可能性もある。行くだけ行ってみようか。何事も、対策は早めにしておくにこしたことはない」
「うん!」
正直、セナが暴力を振るわれている現場を見たら、黙っていられる自信はない。だけど、それなら余計に〝ひどくなる前〟に乱入するのが正解だ。ママには、たぶん怒られるけど。
とにかくそういうわけで、おれたちは柔らかな日差しの差し込むガーデンスペースを後にした。そうして弓道場に駆け付けたおれたちが見たものは、ほかに誰もいない静かな射場で〝何か〟を探しているセナの姿だった。おれたちに気づいたセナはお化けでも見たような顔で「れおくん」とおれの名前を呼んだ。ほっと胸を撫で下ろす。どうやら間に合ったらしい。
猫が迷い込んだと言うセナと、おれとママと三人で捜索を始めて、的の陰で寛いでいたリトル=ジョンを捕まえた。暴れて腕から降りようとするリトル=ジョンを抱き込んで、そそくさと弓道場を後にする。途中でガラの悪そうなやつらとすれ違ったけど、なんでもない顔をしてやり過ごした。
ガーデンスペースに戻ったおれたちは、リトル=ジョンをしっかりと抱いたまま、とりとめのない話をした。
セナがどうしてあんな場所にいたのか、このセナはほんとうに〝おれと同じ〟なのか、気になることはたくさんあったけど、セナに変な目で見られるのが怖くて、おれはどうしても、なんにも聞けなかった。
ーーーーーーーーー
後半(中略のあと)まだ始まったところだけど今ぜんぶで78500あるので、たぶん14万文字くらいになる……?