少し寂れた海辺の街。その中でも更に寂れた地域の端にある小さなカフェ「ブラック」の店員として、トラは静かに暮らしていた。
トラというのは本当の名前ではなく、彼が店にやってきた日、ちょうど阪神戦を見ていた店長のトージが付けたものだ。トラは自分の名前も、この街に来る以前何をしていたかも思い出せない、記憶を失った少年だった。
「ようトラ、今日もアレ作って」
「あいよ、マキさん。大盛りでいい?」
「わかってんじゃねえか」
幸いトラは日常生活に関することは覚えていた。しかも試しに料理をやらせたらプロ顔負けの腕前だったので、トージはこりゃあいいとトラを雇った。トラは良く働いた。トージの無愛想で適当な性格を補うような、愛嬌がありよく笑う彼の存在は客に好評で、たった数ヶ月で常連はみな彼に骨抜きにされてしまった。
「ああ美っ味い。最高。店長のメシの100倍美味いわ」
常連のひとりであるマキが大きな声で言うと、店はどっと笑いに包まれた。トージがそれに舌打ちすると、さらに大きな笑いが起きた。
「何か、思い出したか?」
たまにトージがそう聞いてくる。
「ううん、全然。なーんにも」
トラの答えはいつも同じだった。本当に何も思い出せないのだ。
「あっそ」
トージもそんなトラにいつも通りの言葉を返して会話は終わる。トージは一度だってトラに思い出せと言ったことがない。病院に行けとも、警察に行けとも言わない。それはトージなりの気遣いなのだとトラは思っていて、というのも、この会話をした日のまかないは必ずトラの好物を作ってくれるのだ。記憶のないトラを追い出さず、心配までしてくれるトージにトラはいつも感謝していたし、そんなトージが大好きだった。
トラは病院や警察に行きたくなかった。それはどうしてか分からないけれど、とにかく嫌だった。でも、昔のことなんて知らなくても生きていけるだろうと思っていた。
トラの記憶のすべてはこの喫茶店だ。トージやカフェの客達と、小さな波紋一つ起きない穏やかな日々がトラのすべて。
それで良いはずだった。
風の強い日だった。先週からテレビで幾度も報じられていた通り大型の台風が来るのだろう。黒い雲がすっぽりと街を覆っている。
トージに指示され、トラはカフェの外にある立て看板と植木鉢を店内へ運び入れた。
「裏手のサーフボードも入れとくか」
「ウッス」
もう一度外に出ると先ほどよりも風が強く、入口のドアがバタン!と大きな音を立てて閉まった。やっべえ、あとで怒られるな、と呟きながら急いで裏へ向かうとさらなる強風がトラを襲った。
「うわっ!」
風に混ざった砂が目に入って咄嗟に目を閉じる。海の方から巻き上がる風は強烈で、サーフボードどころか建てつけの悪いカフェも吹っ飛びそうだった。
ふと、風が緩やかになった。何だ?砂が目に入って痛むがまぶたをむりやり開けてみると、トラは驚いた。
目の前に、黒ずくめの男が立っている。
涙の幕で視界はぼけてよく見えないが、恐らくカフェの客ではないだろう。背はトラより頭一つ分は高く、サングラスをかけている。黒いロングコートに黒いシャツ、黒いズボン、黒い靴。全身が黒い。いや、髪だけは白い。
(あ、怪しいおっさん……)
外見で人を判断しないトラだが、こんな台風の日にこんな寂れた街にわざわざやって来た真っ黒な男なんて、さすがに怪しむほかなかった。
男は風からトラを庇うようにじっと立っている。まるで壁だ。
「ユージ」
「え?」
「ユージ」
男が口を開いた。形の良い唇が「ユージ」と言葉を紡ぐ。ユージ?
「探したよ」
トラがユージとはなにかと思う前に壁が動いた。ふわりとコートの中にトラの体は包み込まれ、ちょうど良く収まった。
「ち、ちょっ?」
「もう離さないからね……」
ぎゅ、と後ろに回った男の手に力がこもり、トラはヒェ、と悲鳴にならない悲鳴を上げて固まった。
「おいトラ、パフェだ。早く作れ」
「…店長」
「注文して、金を出して、大人しくしてる限り客は客だ。作れ」
「…店長のバカ野郎!」
バックヤードへ引っ込むトージを恨みがましく睨みつけるが効果なし。しぶしぶトラはパフェを作り始めた。その前には、にこにこと笑顔でトラを見つめる「客」がいた。台風の日に出会ったあの黒ずくめの男だ。トラがちらと見ると、嬉しそうに、とろけるように甘く微笑む。
「ギェッ」
トラはその微笑みを見るたび、なぜだかぞわりとして飛び上がってしまう。心臓もバクバクして、破裂しそうになる。
男ーー五条という名前らしいーーは、この数日カフェに入り浸っていた。トラをよく見たいとカウンター席に陣取り、トラを眺めるかたわら常連たちと競馬談義に花を咲かせている。
「はい。お待たせしました……」
「わあ、さすが悠仁。盛り付けも上手いねえ」
「どーも。俺ユージって名前じゃねえけど」
「うーん、美味い!」
「……」
五条は大の甘党で、毎日必ず甘味を注文する。
「悠仁のパフェは愛が込もってるからこんなに美味しいんだねえ」
なんてことも毎日言う。
「さすが、僕の悠仁」
「……ハァ」
「五条の悠仁」という人物は、どうやら五条の「恋人」…らしい。らしいが、当然トラにはそんな記憶はない。
「熱いねえ」
横からパスタを食べているマキがニヤニヤと囃し立てる。
「クーラー入れてあげようか?」
ユージが半眼で言うと「いいだろ、ここは娯楽が少ないんだ」と悪びれた様子もない。
最後のひと口をちゅるりと吸い込むと、マキは行儀悪くフォークで五条を指さして、なあ、と推理を披露する。
「要するに五条さん、アンタはトラの元カレなんだろ?だがトラにはもう店長がいて、追ってきたアンタは振られた。それでもアンタは諦めずにトラに迫っている。だろ?」
「な、何言ってんのマキさん!?」
「違うのか?」
「違う違う!全然違う!」
あわてて否定するトラに、五条も違う、と同意した。
「悠仁は今も、僕の恋人だよ」
「それも違う!」
どさくさに紛れてなんてことを言うんだこの男。
「おい」
そこへのそりとトージが戻ってきた。嫌そうな顔してマキを睨む。
「変な噂流してくれるなよ?せっかく看板娘が定着したってのに、男の三角関係なんてバ レたら客が逃げちまう」
「バレっ……だから!違うって!」
「店長って意外と嫉妬深いのな」
「マキさん!」
周囲の客も面白がって、トラ坊、どっちと付き合うんだ〜?と笑っていて、トラは付き合わねえよ!と叫んた。
「楽しそうだったね」
「…あんたが変なこと言うからだろ」
トージの計らいで、トラは店から近い雑居ビルの空き部屋を借りていた。ベッドとテーブル、小さなスタンドライトがあるだけの殺風景な空間だったが、トラにはそれで十分だった。その部屋へ五条は毎晩ついて来て、トラの店での日々を聞いて、そして宿泊先のホテルへ帰って行く。
(自分の話はしねえのな…)
五条は過去の話をしようとはしなかった。その代わり、トラのこれまでの日常を求めた。それをじっと聞きながらトラを見つめて、時に優しげに目を細める。
「あの店長さんとは、本当になにもない?」
「ないって」
「そう、良かった」
「……」
イスなんてないから一緒にベッドに座ればいいのに、五条はいいんだと床に腰を下ろして話を聞く。一日中トラを追いかけてくるわりに変な所で遠慮してくる。恋人なんじゃないのかよとトラは思ったが、言ったら恋人と認めたようで嫌だったので言わなかった。
「それでイヌマキって人がマキさんの部下で…あー……、なあ、こんな話楽しい?」
「楽しいよ。君の話ならなんでも」
昼間のとろけるような微笑みとは少し違う、静かな、少し寂しさを思わせる笑み。小さな明かりの中、五条はトラを見つめてくる。
トラをーーいや、違う。その奥にある悠仁を見ているのだろう。
(悠仁は、どんな奴だった?)
ふと聞いてみたくなった。五条が言う悠仁とは何者なのか。恋人なのに何故離れたのか…。
しかしトラは聞くことが出来ない。もし聞いてしまったら、きっと良くないことが起こるから。内心トラは恐れていた。警察も病院を避けている自分ーーそれはきっと良くない自分だ。いつか誰かがそんな自分を見つけて、真っ黒な正体を暴いて、糾弾して……。
「悠仁?」
ふ、と影がさした。いつの間にか五条がト ラの前に立っている。
「大丈夫?」
「……あ……」
手を頬へ伸ばされた瞬間、トラは急に怖くなってしまった。ばちんと、五条の手を払う。
(この人は、俺を知ってる……)
暴かれる。
トラにはトージや客たちとの、喫茶店の日々が全てだ。穏やかで凪いだ日々が。なのに五条が現れた。トラを悠仁と呼び、恋人などとうそぶいて、この体から「トラ」を奪おうとしている。
(嫌だ……!)
「か、帰ってくれ……」
「悠仁」
「やめろよ!」
トラは叫んでベッドの奥へ転げるように後ずさった。怖かった。五条は困惑した様子で、しかしトラへと近付いてくる。再び手を伸ばされて、トラは戦慄した。
「落ち着いて。悠仁……」
「俺は悠仁じゃない!人違いだ、店長に拾われたトラ!それだけ、それだけなんだよ…!俺に過去なんかない、俺はアンタの悠仁じゃない…っ!」
「悠仁……」
「トラだ!俺はっ…トラなんだよ!アンタのことなんか…知らない……」
大声でまくし立て、五条の手を逃れるようにトラはぎゅっと身体を縮めて丸くなった。
「だから…もう、帰ってよ…帰れよ……」
「……分かった」
ぎ、とベッドが鳴いて五条が身を引いた気配がした。
「怖がらせたみたいで…ごめんね。今日は帰るから、ゆっくり休んで。じゃあ……」
コツコツと革靴の音が遠ざかり、少し躊躇ったのだろうか、少し間を置いて入口の扉が開けられ、そして静かに閉じられた。
「……」
しばらくしても、もう靴音は戻っては来なかった。トラはのろのろと顔を上げ、窓から下を覗いてみた。
「……」
五条はいなかった。それを確認するとトラはまた布団の中で丸まった。誰もいないのに、監視されてるようでひどく恐ろしかった。
ーー
『本当に忘れていいの』
『うん』
『何か他に方法があるんじゃないの』
『いいんだ。俺は。俺は、あの人が幸せなら幸せ……だから』
ーー
ずっと布団の中で眠れず、ようやく意識が遠のいた明け方、奇妙な夢を見た。
トラは誰か知らない女性と話している。重くて、暗くて、悲しくて。そんな感情のなか何度も同じ問答を繰り返して、やがて女性はため息をついて、トラの額に手をかざした。
目が覚めた時、トラは泣いていた。
「なンだその顔」
翌朝、トラの重く腫れぼったい瞼を見てトージは眉をひそめた。
「夜更かしとはいい度胸だな。看板娘の自覚あんのか?ああ?」
「ち、ちょっと、眠れなくて」
「ガキか」
ため息をついたトージは「顔隠せ」と店のディスプレイ棚からサングラスを取ってトラに着けさせた。
「ん、ガキにしては似合ってるぜ」
笑ってぽんぽんとトラの頭をたたくと「アロハも着とくか?」とバックヤードにある段ボール箱を漁り始めた。
「店長……ありがと」
「あー?」
「俺、店長のこと大好き」
「ハァ?なんだそりゃ…気色悪ィ」
「へへ」
トージは無愛想だが優しい男だ。いつだってトラを気遣い守ってくれている。自分に兄がいるのならトージのような人がいいとトラは思った。
少し元気を取り戻したトラはよし、と心の中で気合いを入れた。
「店長、アロハはいいから開店の準備しよ!」
「ああ、もうそんな時間か」
「外の掃除してくるね!」
にかっと笑うとトラはバックヤードを飛び出した。
「……」
トージはトラの出て行った扉を見つめて小さくため息をついた。
「昨日はごめんね」
「…あの、いや、俺の方こそ」
「君から見たら僕はただの怪しい男だよね。君の気持ちも考えずに、本当にごめん」
「い、いいから、手離して」
カウンター越し、五条はトラの両手をぎゅっと握っている。
「熱いねえ」
五条の横からマキがそれをにやにやと見守っている。トラが睨むもにやにやは止まらない。
「ああもう、離せって!」
トラはだんだん顔が熱くなってきて、強引に五条の手を引き剥がした。
「許してくれる?」
「許すもなにも、別にあんたは悪くないだろ」
「じゃあ、また家に行ってもいい?」
「い、いいけど」
「…!ありがとう」
嬉しそうに微笑むと、また五条はトラの両手をぎゅっと握った。
「おい!」
「お、元サヤ〜」
マキの拍手が飛んできて、トラは違う!と叫んだ。
「トラ君」
その後、五条はトラを悠仁と呼ぶのを止め、トラ君と呼ぶようになった。五条なりの気遣いの表れなのだろう。彼の知る「悠仁」ではなく今ここにいる「トラ」を、自分を認識してくれているようでトラは嬉しかった。
(悪い人じゃない)
そう思った。だが、五条に気を許すことは出来ない。五条は昔のトラを知っている爆弾のような存在だ。しかし彼はトラとは本当に話をするだけで、どこかへ連れて行こうともしなければ通報もしない。本当は何が目的なのか聞くことも出来ていない。
微妙な距離を保ったまま、トラは今日も店へやって来た五条にパフェを作り、五条はとびきりの笑顔でトラを見つめてくる。
(悪い人じゃないけど)
「……あのさ、あんま見ないでくんない?」
「どうして?」
「どうしてって」
「トラ君は可愛いね」
「……」
(ほんとになんなんだ、この人)
「お、この車かっけー」
「いいね。買おうかな」
「マジ?」
「君が一緒に乗ってくれるなら」
「あー、ハイハイ」
店の常連客が新しく大型テレビを買ったらしく、トラにそのお下がりをくれた。それはトラの部屋に置かれ、以来五条とスポーツ番組などを観るようになった。
五条が現れて一か月。五条は変わらずトラに優しく、トラの生活を尊重し、見守るようにトラの側にいた。そんな五条を警戒し続けるのは至難のワザで、トラは少しずつ彼に心を許し始めていた。テレビを一緒に観ようと提案したのもトラで、五条は驚き、本当に?と何度も聞き返して喜んだ。
トラはトージから毎月受け取っている給料という名のささやかな小遣いでクッションを一つ購入した。五条がいつも床に座っているのが気になっていたからだ。
「これ」
部屋に入った五条は目ざとくクッションに気付き、そして掲げるように持ち上げると勢い良くトラの方を振り向いた。
「僕のために?」
五条は興奮のままトラに詰め寄り、慌てたトラをクッションごと抱きしめた。硬直するトラをぎゅっと腕の中に引き込み、夢かなと呟いた。
「ありがとう。君からプレゼントを貰えるなんて」
トラを抱きながら五条は小さく震えていた。トラはギョッとして、泣いているのではないかと顔を見ようとしたが許されず「もう少しだけ」と、五条はさらにトラをきつく縛りしばらく離さなかった。トラは抵抗しなかった。
(クッションひとつで大げさ過ぎだろ……)
その夜トラはベッドでなかなか寝付けなかった。まだ抱き締められた感触が、震えが生々しく残っていてずっと心臓がドキドキしていた。五条の興奮がうつったのだとトラは何度もごろごろと寝返りを打った。
眠れない。ずっとドキドキしている。
五条から向けられる気持ちに自分の気持ちが呼応している。五条の喜ぶ顔に自分は喜びを感じている。五条に抱き締められて、抵抗もせず自分はーー
「や、やめろ、考えんなァ……!」
寝返りを打つたびに、床に置かれたクッションが目に入った。もう部屋にいないはずの五条がいるような気がして、トラは更に眠れなくなってしまった。
翌日、目にクマをくっ付けてやって来たトラにトージはまたかよ、と呆れた。
寝不足のむすりとしたトラに反し、当の五条はいつものようににこにこと店にやって来た。そして、
「昨日はありがとう。最高の夜だったよ」
とトラに笑いかけ、店を騒然とさせた。
続