夜更けのテレフォンコール 仕事に明け暮れ、ボロ雑巾のような状態のところにスマホの着信音。アドレナリンの出涸らしでどうにか保っている体調で会話が頭に入るわけがない。だが画面に表示された名前を見た途端に間髪入れずに電話に応答したのだ。
「もしもし? アンデルセン、今大丈夫?」
「大丈夫かだと? 馬鹿め、正気なら電話など取るものか」
いつも通り、軽い息抜きのつもりで会話を続ける。頭はほとんど働いていない。だが雑談の半分が頭から抜け落ちるのも、聞き返すのも分かっていても通話を続ける物好きが相手だ。構うものか。
「――でね、今度お見合いすることになって、」
さすがにイカれて眠気だらけの頭も衝撃を受ければ目が覚める。オミアイ。つまり。
「あれ、アンデルセン? 寝ちゃった?」
「……お見合いと言ったか?」
「あ、良かった。電波悪かったのかな? うん、それでお見合いなんだけど」
さらりと、何のことでもないように会話が続く。いや。……たかが腐れ縁の相手にする世間話だとしても軽くない内容のはずだが。
「もう来週なんだよね! それでなんかわたしも緊張しちゃって……」
相手には困らないようなこいつだから、いつか結婚すると報告を受けるのならそれは俺が知っている男の誰かが相手だろうと考えていた。事実、そうなってもおかしくないようなただの親しい男友達も山のようにいるはずだ。
それが、自分の全く聞き及ばない、彼女ですら知らない男が選択肢に入ってくるとは。
「相手はどんな奴だ」
「えっ、相手の人? 詳しくは知らないけど……」
自分の結婚に関わりがあるとは思えないほどの無関心。
「何も知らない? まさか無理やり組まれた縁談じゃないだろうな」
「そんな、漫画じゃないんだから」
無理やり組まれた縁談でもなく、かと言って相手のことなど何にも知らず。
「……つまり、社会見学か」
「社会見学? いや、多分上手くいけば結婚するんだと思うけど」
「っ……!」
結婚。かつての自分が焦がれるほど求めていたもの。彼女もその単語が出てもおかしくない年頃の娘ではある。
だが。……だが、こんなにあっけなく、俺の預かり知らないところで終わるものなのか。高い酒で祝っている場合でもない。
――言っておきたいのは、あの日の俺は迫る締切に苦しめられていた。だからまぁ、思考力や判断力など地の底もいいところだったということだ。
「誰でも良いなら俺にしておけ!」
「えっ?」
「惚ける必要があるか? 俺と結婚しろ。今は見ず知らず、趣味も感性も分からん男から選ぶなら俺でも変わらない! 少なくともどこの馬の骨か分からん男より俺の方がお前のことを知っている」
「あの、えっと落ち着いて……」
「充分冷静だ。まだお前の部屋に乗り込むための電車にも乗っていない!」
履こうとした靴のかかとがつぶれた。いやそんな事は構うものかと履き潰したまま玄関を出る。
「待って、もしかして外出てる⁉︎」
「交通費をせがむつもりはないから安心しろ」
「な、なんでうちにくるの……!」
「電話で済ませる話題でもない、嫌なら通報でも好きにしろ」
「ああもう、だからお見合いの話は、」
頑なな彼女にこちらもヒートアップする。思考低下した頭に大した語彙は残らず。
「俺の方がお前を幸せにできる!」
大した自信もないくせに、そう宣言した。
「あの、アンデルセン……?」
「……なんだ」
さすがにああも明け透けな台詞を吐いた後で通話を切りたいが、問いかけてくるのではそうもいかない。
「お見合い、その、友達の話なんだけど」
「…………友達」
「うん、わたしじゃなくて、」
「…………」
終電もとっくに発車した深夜、人気のない道端にしゃがみ込む。
発してしまった言葉は消えない。これだから、仕事に詰まった時に電話なんてするもんじゃない。
「俺が悪かった。今すぐ忘れてくれ」
「いや、えっと。じゃあ、その……結婚する……?」
「は?」
「だからわたし達、結婚しようかって……」
強いて言うならはじまりは電話を取ったこと。あるいは原稿で思考力を低下させたこと。
かくして交際歴ゼロ、見合いのような結婚準備が始まったのだった。