もしもし、奥様 基本的には家にいるのだから、家に電話をかければ問題ない。そういう理由で職場にはスマートフォンの番号を教えていなかった。
――だが最近、観念して番号を教えることになった。
「お前の友人は家ではなくお前のスマホにかけてくるだろう。家の電話は出なくていい」
「でもアンデルセン、原稿中は電話の音気がつかないでしょ」
「……いいから気にするな。どうせ担当からだ」
そんなやりとりをしたにもかかわらず、受話器をあげるのはいつも彼女の方だった。
「はいっ、竹中、ですっ……!」
それで俺はあのたどたどしい電話応対を何度も聞かされる羽目になるのだ。だから、俺が出ると言っているのに。
しかし実際のところは電話が鳴ろうが気がつかない俺は、彼女の拙い電話応対の声は何故だか良く耳に通る。
藤丸、という言葉の響きが失われたことが少しもったいない。……そしてそれ以上に、新しい名前の響きを存外気に入っている。
前とは違ってぎっしりと詰まった冷蔵庫の中身も、気がつけば補充がされているティッシュペーパーも、出ることのなくなった家の電話も、何もかもが新しい生活の証拠だった。
キッチンの方からそこはかとなく漂う香りに、さて今日の夕飯は何かと予想する。
煮詰まった原稿を置き去りにしてキッチンに向かう俺はいつものように味見係を買って出る。
鍋を煮込む彼女の隣で、スプーンに鍋の中身を掬ってもらうのを待つ。俺の身体は口を開ければ勝手に味見をさせてもらえることをもう覚えてしまっていた。
俺が食べる様子を嬉しそうに見ながら、彼女は相変わらず俺の原稿の進捗を気にかけているようだった。
「締切もうすぐでしょ? 大丈夫そう?」
「やれやれ、お前まで担当のようなことを言い始めるとは。どうにもならなくともどうにかするのが俺の仕事だ」
「だってギリギリになったらいつも家の電話にかかってくるから、私も気になるんだよ」
「……だから出なくていいと言っているだろう。何だアレか、そんなに新しい名字が気に入ったか?」
俺はそうからかえばムキになって、赤くなり「そんなことない!」と言う彼女が見られると思ったのだ。
「……うん」
コイツは本当に、これだから困る。人間観察なんて慣れ親しんでいるはずが、予想通りだったのはその顔色くらいのもので。……目の前で見ていたら俺までその顔色につられてしまいそうだ。
「まぁ、なんだ。気に入っているならそれでいい」
藤丸という言葉の響きも悪くなかったが……と申し訳程度に付け足せど、この何とも言えない空気を払拭できるわけもない。下手をするとき新しい生活に浮かれているのは彼女よりも自分の方かもしれないだなんて、気が付きたくもなかった。
今夜は二人で夕飯を食べながら、とっておきのワインでも開けようか。それなりに酒に強い彼女は簡単なことでは酔わないだろう。だが、明日は休日だ。……少しくらい油断して、酔った姿を見せてはくれないだろうか。
そんな生産性のないことを考えながら、新居の夜は瞬きの間に過ぎていくのだった。