上手の猫が爪を隠す カルデアで人体実験紛いの研究をしそうなやつらの数は数え切れないほどだ。だから何らかの霊基異常が起こるのは、言ってしまえば日常茶飯事。
それでも、今回の「これ」を知られれば面倒事になるのは明らかで。俺は自室の奥のベッドに潜り込んで事態が解決するのを待っていた。
扉をノックする音が、頭までしっかり毛布を被っていても聞こえてくる。この叩き方……マスターだ。律儀にノックをしているが、彼女は勝手に俺の部屋に入ることができる。
マスターはサーヴァントが厄介事を起こしてもすぐ対処ができるよう、どの部屋のロックも解除できる権限を与えられている。鍵穴もないこの部屋のロックは顔認証やら指紋認証……とにかく何も持たずにこの部屋の前に来ようが扉は開いてしまう。そうなれば、俺にできることは狸寝入りくらいだ。それも焼け石に水くらいのものだが。
「アンデルセン、いるんでしょ? 入るよ?」
ここで入るなと警告すれば、確実に何かあったと知られてしまう。だから、返事はしない方がいい。
「起きてる? 確認したいことがあるんだけど」
毛布にくるまっているにも関わらず話しかけてくる。ここでごまかせる確率は五分五分といったところか。
「……うるさいぞ、寝不足なんだ寝かせてくれ」
「やっぱり。アンデルセンもなんだ」
「……」
話す内容、声の調子、動作。彼女に自分の傾向を暴かれてしまうくらいにはもう十分すぎるほどの時間が過ぎた。
「苦しくない? 毛玉吐いたりしてないよね?」
「誰がそんなことをするか! ……あ、おい。毛布を返せ」
あまりの的違いな言動につい、毛布をかぶったまま上体を起こす。その瞬間を狙っていたのか、俺は毛布をばっと取り上げられてしまった。
頭に生えた黒い毛並みは元々俺には備わるはずもないもの。そんな逸話が作家にあるわけもない。耳は四つもいらないだろう、ふざけてるのか? まったく本物の獣耳だなんて、コスチュームプレイにもならない。
「あの! 耳触ってもいいかな?」
「……断る」
「そんな……!」
ーーだから嫌だったんだ、面倒な事になるのは分かっていた。
今カルデアで起こっている異常。どうも食堂で飲み食いしたサーヴァントに起こっているらしいそれは、猫の機能が備わるという奇妙奇天烈大迷惑な現象。
マスターは動物が好きだ。とりわけ、猫好きだ。昔家で猫を飼っていたと聞いたことがある。猫の生態には詳しいのだ。そんなわけでこの状況は非常にまずい。
「ねぇ、アンデルセンは部屋の外に出てないから知らないと思うけど、大変な事になってるんだよ」
「躾のなってないドラ猫共であふれているということか? カルデアがペットショップになる日が来ようとは……」
「みんな壁で爪とぎしようとしたり、喧嘩して唸りながら引っ掻きあったり噛みつきあったりしてる」
「ーーいや、ペットショップに失礼だな。今やカルデアは珍獣秘宝館というわけか」
「普段本能的に生きてる人ほど猫に近くなっちゃうんだって。そう考えるとアンデルセンは理性的に生きてるってことになるのかな?」
毛づくろいもしてないし。そう彼女が言ってるのを聞くに、外は相当なサファリパークらしい。
しかし、俺はこうしてる今も猫の本能に抗っている。それが目の前の彼女には伝わってない、ということだけが救いか。なんにしても俺は理性的だなんて思われるくらいには、安全な男だと認識されているらしいな。
マスターは手に持っていた俺の毛布を無造作に置いて、それから無遠慮にベッドに座り込む。おい、あまり近くに座るな。そんな気持ちが通じるわけもなく、彼女は会話を続けるのだ。
「そんなに持続性はないんだって。すぐ元に戻れそうで良かったね」
「……お前の『すぐ』は信用ならん。元に戻れるまでの時間を明確に示せ」
「え。えーと、一週間くらい、とか?」
「一体どこが『すぐ元に戻る』、なんだ!」
擬似的に猫のようなものに囲まれているようなこの状況は、彼女にとっては喜ばしいものなのだろう。だから、一週間なんてすぐ終わる短い期間だ。しかし、姿が変わったものたちにとっては……。一週間もこんな状態で、本能に耐えろというのか。
「まあまあ、貴重なサンプルケースだと思ってここはひとつ……」
「俺はネタがほしいのであって、ネタになりたいんじゃない!」
猫らしい行動を取ろうとする身体を押さえつけるのに精一杯だ。今も目の前でくしゃくしゃになった柔らかい毛布を前足で踏みつけようとしている。いい加減にしてくれ。
そうだ、猫であるのなら本能を隠し立てする必要はない。見栄も建前も必要がない。だから俺には、都合が悪い。彼女から目を逸らしながら、なるべく視界に入れないように心がける。
自分の身体が半分猫と化していることを意識しなければなんてことはない、いつも通り過ごせるはずだ。
「全然こっち見ないね?」
顔を覗き込んでくる彼女を見目を細めながら見て、それからまた目を逸らす。それを見て少し得意げな彼女に、ああこの顔は俺に都合の悪いことを考えているな、と見当をつける。
「なんか、思ってたよりも今のアンデルセン、猫っぽい。……懐かしいな」
彼女の態度は、久しぶりに猫と戯れたいといったところ。そのうちボールやら猫じゃらしやらを持ち出す恐れすらある。一週間、逃げ切れるかどうか。……それでも警戒心が薄れてしまうのは、長い付き合いのこいつに油断しているからだろうか。ともかく無駄話を上手く切り上げて彼女から離れた方がいい。
どう話を切り上げるか、そればかりを集中して考えたのがいけなかった。
「……それであの、アンデルセン?」
「うん? なんだ改まって」
「その、少し。いつもより距離が近いかなぁって……」
「!」
同じベッドに座っているとはいえ、マスターとの間には十分な距離が空いていたはずだ。それがいつの間にかすぐ隣に移動している。……いや、移動したのは俺の方だ。隙間なく隣に詰め寄って、それだけでは飽き足らず、隣から擦り寄るようにして身を寄せている。上半身のさらに左半分、触れた部分だけ溶けるような体温。
自覚した途端に顔が熱くなるのが分かる。何が猫の本能を抑えるのに精一杯、だ! よりによって猫博士のような無駄知識ばかり取り揃えているような相手の前で、こんな醜態を晒すことになるだなんて。
「……っ!」
考えに沈んでいれば、新しく生やした耳の後ろを遠慮なく撫でる指。そのまま頭を撫で、背中に伝っていく手の動き。翻弄されている場合じゃない。続け様に、押し黙る俺の顎下に、ダメ押しのように触れた手はあからさまに猫を撫でる手つき。
「おいやめろ! 勝手に触るな」
「だって、ホントに猫みたいで、つい」
ゴロゴロと鳴り出しそうな喉を抑えるにも限界がある。別に触れられるのが嫌と言っているんじゃない。ただ、このように一週間も構われ続けるかと思うと、とても正気ではいられそうにないだけだ。そもそも人に身体を触れられるなんてことはそうそうないのだから、慣れない他人の体温が落ち着かない。
「なんだか甘えられてるみたいで嬉しいな」
「誰が、甘えるか!」
そうは言えども俺を撫で続ける彼女の手を避けられないのは、今や猫のようになったこの半端な身体のせいに違いない。
実に慣れた手つきで俺に触れる彼女は、俺を男だなんて認識していないのだろう。俺を何だと……いや、猫だと思っているんだったな。これは飼い猫と俺の姿を重ね合わせて猫と触れ合っている気分を味わうという高度でアブノーマルなイメージトレーニングだ
……こいつはこうして俺が身を寄せたことに関してもっと、何か思うところはないのか。猫としてしか認識されてないとはいえ、俺は今この瞬間もカルデア内の何らかの女達の勢力によって始末される危険に晒されている。
「アンデルセンは可愛いね」
「まぁ、何を思おうが批評は自由だ。飯の種になるそれを今更どうこう言うつもりはないが」
「……あの、もしかして怒ってる?」
「はぁ?」
「だって、尻尾が……」
背中の方に意識をやると、忙しなく動いてベッドマットに何度も叩きつけられる黒い尻尾が見える。俺の思惑とは関係のないところで勝手に動く猫の器官。
「可愛いっていうの、嫌だった? ……私は可愛い方が好きだけど、」
「好き」とは。
魚が好き、レジャーが好き、猫が好き。ただの嗜好性の問題で、今のこいつの「好き」は人間に対するものとは違う。絆されるような言葉じゃない。今のは、美少女戦隊とヒーローものなら美少女戦隊が好きだ、と言ったのと同じようなことで。
だというのに、緩慢に揺れ始める尻尾を見ながら彼女は微笑ましそうな顔をする。だからその顔を今すぐやめろ。
「お前は尻尾と会話しているのか?」
「いや、だってアンデルセンはあんまりこういうの表情に出ないから尻尾の方が分かりやすくて」
とうとう俺本体ではなく尻尾とコミュニケーションをとり始めるなんて、厄介なマスターだ。やはり、俺を猫扱いしている。ああ、だが、いっそここまで猫のように扱われるのなら。ーー今の俺は何をやっても許される気すらする。
「……にゃーお」
「えっ!」
下手くそな猫の鳴き真似までして、もう一度彼女の横に擦り寄る。意識して真似をしなくとも今は本能を抑えつけるのをやめるだけで俺は相当猫に近い。
彼女の腕を頭で小突いてから、そのまま横で仰向けに寝転がる。……寝転がる瞬間、彼女の腕を一緒に引っ張るのを忘れない。
「わっ」
バランスを崩して彼女が倒れ込んだのは、雄猫の寝床だ。俺よりも背の高い彼女の耳は、今は俺の口元にある。
「俺はお前がどこまで、『可愛い』で済ませられるのか興味がある」
「!」
「今の俺は猫だから、何をやっても可愛いんだろう?おいどうなんだ、マスター」
側に寄っても大した反応も示さなかった彼女だ。猫らしいパーツにずっと興味を示しているようなやつが、今更こんな体勢をとったところで俺に危機感を覚えることもないだろう。だから、これはただの戯れだ。こちらがどういう心持ちでいるかなんて、残念ながら彼女は考えつきもしないだろう。
そう思っていたのだ。
「何とか言ったらどうだ?」
顔色を窺おうと覗き込むと、彼女は両手で顔を覆い始めてしまって、顔色はよく見えない。それでも手で覆い隠せない耳が赤く染まっているのが見えて。……照れている? あのマスターが?
やれ武術だ何だと何らかの稽古に付き合わされて、半ば押し倒されるような体勢になっても毛ほども動揺しないくせに。そもそもこのカルデアのサーヴァント全般、男として扱ってるかどうか疑わしいというのに。
それが戯れ程度の、本当にこれくらいのことで?
その瞬間に、これは明らかにほんの戯れでは済まない事態にすり替わる。目の前の光景にくらくらと惑わされながら、彼女に擦り寄る俺の行動は「猫だから」なんてものでは終わらないだろう。だとしてもなおさら、この様子を見て止まれというのは無理な話だ。彼女の耳と同調するように、自分の体温が上がっていく。
「……それで、感想は?」
「可愛くない! 可愛くないからもう離れて!」
「さぁ、どうするか。猫は気まぐれだからな」
こいつが俺をどかそうとして腕を伸ばすから、顔がよく見える。この世にも珍しい、目の前の赤い顔をもう少しだけ見ていたい。潤んだ目に光が反射して光って見える。ところで猫は光るものは嫌いだなんて、あれは真っ赤な嘘だと証言されたのを知っているか? 目の前で光られると、興味をそそられる。猫は小さな鳥を狩るものらしいが、さて。
伸ばされた腕を捕まえて、そのまま喉元に唇を落とす。
「ひぇ……」
「随分色気のない声だな」
こんな危機的状況で発される女の声とは思えない。
「ス、ストップ……ストップ!」
かつてないほどに慌てる彼女を見てようやく、俺は猫からただのサーヴァントに戻る。
腕を解放した途端、転がるようにベッドから脱出してドアの前に向かったマスターは、思ったより危機管理ができているようだ。
「ふん、これに懲りたら自分にマーキングするような男の部屋には入り浸るなよ。このカルデアは猫だと思って気安く触れれば噛みつくような男だらけだ」
「!」
きっとこれから彼女は俺への接し方を誤りはしないだろうが、その分油断も一切しなくなるだろう。男として見られる代わりに、猫のように気軽に触れられることはなくなる。少し思うところがないこともないが、こんな状態で何度も構われてはたまらない。
……気まずくなるだろう今後を考えると、もう少しくらい彼女に触れておけば良かっただろうか。まぁそんなことができるほどの度胸があれば、とっくにそうしていただろうが。
彼女はまだ扉の前に陣取ったまま、部屋を出ずにこちらを見ている。
「何をしている? 懲りたら入り浸るなと言っただろう」
それから、手のひらを固く握ったまま、どういうわけかこちらへ引き返してくるのだ。
「おい、話を聞いているのか?」
「誰の部屋でも入り浸るわけじゃないよ」
「は?」
「猫みたいだなって思っても、簡単に皆に触ったりしない」
それは、つまり。
「マスター、それは」
「それじゃあ、そういうことだから!」
「! 待て、話はまだ、」
さっきあれほど扉を開けるのを躊躇っていたくせに、素早い動きで部屋を出ていった。
つまり、言い逃げだ。
これは少しくらい、自惚れても良いのだろうか。逃げた彼女の表情も顔色も、見慣れないものだったのだから。とはいえ捕まえないことには、話の続きもできはしない。
「猫は動く獲物の方が、追いかけたがると言うが……」
逃げられるとこうも捕まえてみたくなるのは、やはり感覚が猫に引っ張られているからだろう。
期限は一週間。猫の間に起こった騒動は、本気を出して猫の間に解決してやろうじゃないか。