どうか幸せに 手放した意識が手の中に戻り、重い瞼を開けた時、何もない白色の空間に佇んでいた。
「え……」
キアラは思わず薄い唇から声を漏らしたが、声は響かずに中空を刹那漂って消えた。
此処が何処かは分からない。しかし、知らない場所という事だけは理解した時、垂れていた両腕を胸の前に寄せて強く握った。握った手の指先は冷えているが、掌は汗ばんでいる。それがどうにも気持ち悪いが、手を開く気にはなれなかった。
キアラはその不快感を抱くなかで辺りを見渡した後、当てもなく歩き出した。
「おじさん、山﨑先生……どこぉ、おじさぁん? どこー?」
蚊の鳴くような声で頼れる人物の名を呼んでしばらく歩くと、長椅子に座って談笑する男女が居た。
男は青みがかった癖のある黒髪と眼帯が印象的で、年若く見えるが杖を持っており、女性と話す声は柔らかく、にこやかな笑みを浮かべていた。傍らに居る女性も白い頬を赤めて話す横顔が愛らしく、黒髪がさらさらと揺れる様子が美しかった。
キアラがそんな二人を前に呆然としていると、男性が気づいて立ち上がり、キアラへ歩み寄ってしゃがんだ。
「どうしたの? 迷子かな?」
「えっと……うん、そう」
「そうか……帰り道は分かる?」
「ううん、分かんない」
「そっか……じゃあ、コレをあげる。コレがきっとキミを帰る場所に送ってくれるよ」
男はキアラの掌に黄色のハンカチを置いた。ハンカチはキアラの掌に置かれてすぐフワリと浮かび上がり、蝶のような姿となって羽ばたいた。それを見たキアラが目を輝かせて声を上げると、男も溜息を吐くように笑った。
「じゃあ、気をつけて帰ってね」
「うん……あの、ありがとう」
「ふふ、どういたしまして……じゃあ、どうか幸せに」
「ねぇ、おじさんは帰らないの?」
「僕? 僕はずっと此処に居るよ。大切な人と一緒に」
「ふぅん……そっか」
二人が言葉を交わした時、ハンカチの蝶はふわりと羽ばたいてキアラを導いた。キアラが蝶に目を奪われて踵を返した後、ふと気になって振り返ると、土で汚れた長椅子が在るばかりだった。
キアラはそれを見て首を傾げるも、蝶が導くままに歩いていき、歩き疲れて一瞬目を閉じてまた開いた時、見慣れた光景が広がっていた。視界の端には皺の寄ったシーツが映り、その先のキッチンで男が煙草を吸っていた。
瞬間、キアラはベッドから抜け出して男に抱きついた。男は驚いた声を上げるが、すぐに笑って言った。
「こら、危ないでしょ?」
「うん」
「今日は随分甘えん坊だね」
「うん」
「まぁ、いっか……もうすぐ朝ご飯出来るから準備しておいで」
「うん、わかった」
キアラの日常はあの時から大きく変わった。
おじさん。と呼んで慕う男の養子となり、男はキアラの父となった。そして父となった男はキアラの為に朝食を作っている。
少し前ではあり得なかった日常が今ここに在り、この日常がいつまでも続けば良いと思いながら、セーラー服に袖を通して身支度を整えた。それからリビングに向かえば、先に食事を始めている男がキアラに気づいて微笑んだ。キアラも笑みを返して席に着くと、手を合わせて食事を始めた。
そうしてしばらく食事をしていると男が声を掛ける。
「今朝は随分機嫌がいいけどどうしたの?」
「うーん……分かんない。でも、なんか嬉しい」
「そっか」
「うん」
キアラが言ってはにかむと、男はそれ以上何も聞かずにコーヒーを飲んだ。そして朝食を終えた二人はそれぞれの場所へ向かって一歩踏み出した。