ひどい雨の日の兄妹の話寝室に備わる完全遮光のカーテンは今の時刻を教えない。
宇宙のかなたから放たれて尚地表を温めるほどのエネルギーをもつ輝きすらも阻む一枚の布は、しかし地表からたかだか十数キロメートルの高さから落ちて生まれる音は遮断しなかった。
隣に横たわるぬくもりがおれを抱き締めているから、まだ朝ではないらしい。だが今日はきっとだめな日で、そう判断できるうちに目が覚めたことだけはマシな日だった。
腕の中からそっと抜け出し身体を起こすと、それだけで目の前に灰色の砂嵐が巻き起こる。目を閉じて落ち着くのを待ち、はあ、と息を吐いてゆっくりと立ち上がろうとしてもやはり、すぐにベッドに尻もちをついてしまった。
「悪い、起きただろ」
「いえ。むしろ起こしてください」
そうはいっても普段起きるのと違う時間に目が覚めたのであろう男は、よく見えないが恐らく少し眠たげな様子でいつもより緩慢に起き上がる。おれは枕を背中に座りなおし、男が立ち上がって部屋を出ていくのをぼんやりと眺めていた。
枕元に置いてあるスマホの充電コードを外し、画面をつける。昨日までに済ませた業務を思えば、今日はおれがいなくても滞りなく回るだろう。暗い部屋の中で寝起きに浴びるブルーライトに気分が悪くなりながら、割れた画面をなぞる。これ以外で休むことは滅多に無いから、慣れるというほど欠勤したことはないにせよそれでも慣れた文面を各所に送り、電源ボタンを長押しした。
もういちどドアのほうを見る。ドアノブがゆっくりと回る音がする。カチャリと鳴って、廊下から影が伸びた。パタンと鳴ると、部屋はまた暗くなった。暗闇に目は慣れていた。差し出された水と錠剤のシートを受け取り、いつものものであることを確認する。パキリと割って小さな粒を手のひらの上に出す。男はおれの喉仏を見ている気がした。
薬と水もヘッドボードに置いてようやく再び横になる。羽毛布団を掛け直されて、隣にぬくもりが戻ってきた。手に触れられて初めて、ほんの少しの間だけ布団から出ていたゆびさきが痛いほどに冷えていたことに気が付いた。
「今日は休めないんです」
怒っているような低い声だった。かつてはよく勘違いしていたし、今だっておれが察してやる必要はないとも思う。だがこの可愛い男の欠点なんて感情表現くらいのものだから、おれ以外には一生勘違いされれば良い。だからおれは、せめて向けられる感情くらいは上手に汲んでやるのだ。感情が生じるきっかけはいまいちピンとこなくても。
「いいって、治るモンじゃねえのに休まれる方が気ィ遣う」
返事をすると無言でやさしく抱きしめられた。包みこまれると言うほうが正しいかもしれない。リラックスしている筋肉は柔らかくて、あたたかい。頭痛が心做しか薄れてきた。副作用で訪れる睡魔は抗いがたく、それが今はありがたかった。
ベッドの中には自分ひとり分の熱しかない。余程静かに出ていったのか、あるいは随分熟睡していたのだろうか。なんにせよ耐えるしかない時間を夢も見ない睡眠の中で過ごすことができたらしい。雨音は強まっていた。痛い。電源を落とすように、人間も気絶してしまえたら良いのにと夢想する。じんじんと痛む顔に顎に頭は眠りに落ちることすらも妨げた。
鎮痛剤をざらざらと飲んでいた昔のせいで効きは悪い。二人暮らしのときは自分の分をさっさと飲み干した妹と奪い合いになったこともあった。あのときは本当に最悪で、それから絶対に切らさないようにストックしていた。それが際限ない服用へと繋がったのだが。
ずきずきとどうしようもなく痛むときに鎮痛剤なんか飲んだこともないような若い男に諫められると非常に苛立つものである。飲んでも意味のない薬を飲んで、副作用だけが現れて、それでも飲まなくては楽になれないのに、おれから取り上げようとする男に泣いて怒って口撃をして、そうして疲れ果てると男の体温を感じながら眠るようになっていった。
だから、随分と楽にはなった。頻度は多くないとはいえ危ない習慣だ。妹も今は幾分マシになっていることだろう。
これくらいなら睡眠薬で我慢できる。枕元で増えていたゼリーの蓋を捻って開ける。押し出されたぬるさが身体に馴染む。用法なんて気にしたこともなかったが、苦しむおれをじっと見詰める男はすごく我慢しているような顔をして、それこそ涎でも垂らしそうなほどだったから、おれはそれを可愛そうに思った。
薬を飲み、布団に潜る。ふわふわとしているのにしっかりかかる重さが心地良い。足先のほうはすでにつめたい。腹を抱えて丸まって、眠りが来るのを待つしかできることはなかった。
カチャ、と音がした気がした。ぼやけた意識の中でひとの気配を感じる。手のひらが確かめるように額に置かれて、それから傷痕の残る頬に熱を分けた。そこからじわりと広がる熱は冷えた身体を温めてくれる。同じ熱だな、と思う。気配も呼吸の仕方も、今はおれへの触れ方も、身体の内側の熱まで同じな彼らはいっそ不気味だ。そうしなければ生きられないという状況はおれには想像できやしない。おれの男と違って、軽薄なふうを装っているよく似た男が、どうしてここにいるのかも分からなかった。きっとおれよりもつらい妹を、お前は抱きしめてやるべきだ。
だが、差し出されたものを素直に受け取れる程度には信用している。ほんの一瞬おれを温めた体温のおかげで、次は悪夢を見ないだろう。身体の震えは止まっていた。おやすみなさい、と呟いた音を鼓膜が拾った。同じ声を違うと分かってしまえるおれのほうこそ彼らにとっては不気味なのかもしれない。同じと信じる彼らに違うと突きつけることがどんなに残酷なことか、おれは知らない。興味もない。うつらうつらとしているうちにいつの間にか気配は消えていた。
今度こそ隣にあるのは愛する男の熱だった。随分眠れたのか、はたまた早退でもしてきたのか、おれたちと彼らの優先順位は違うらしいということはようやく理解できたので、好きにすれば良いと思う。上半身を起こして伸びをする。関節がポキポキ鳴って気持ちいい。水をひとくち飲んで立ち上がる。寝室を出てリビングに降りると、義弟がソファに長い脚を持て余しながら座っていた。
「あいつは?」
「シャワー浴びたいって」
義弟と二人きりになるタイミングは少ない。いつもわいわい騒いでいるような印象だったから、なんとなく知らない雰囲気だった。それにしても妹たちはいつも一緒に風呂に入っていた気がするがそうじゃない日もあるらしい。妹はまだ本調子ではないだろうから、英断だろう。
冷蔵庫からブラックのコーヒー缶を取り出す。ルッチはまだ淹れてはくれない。カシッと音を立てて缶を開けると、ヒョウ太が音もなくおれの傍に立っていた。
「だめだよ」
「……お前には関係ない」
この義弟はいつも笑顔のように見えるが、その実口角が上がっているだけだ。それならおれはまだルッチの無表情のほうが誠実だと思う。子どもをたしなめるように見下ろされながらそう言われ、しかもそれが正論なのは分かっていた。子どものような返事を聞いたヒョウ太は今度こそ困ったような笑顔になった。
「僕にとってはスパンダムさんがいちばん大事だけど、あなたもその次に大切なんだわ」
意想外の言葉におれは思わず目を見開いた。大変に驚いた顔をしているに違いない。ヒョウ太は笑っていた。ぽかんとしているおれの手からコーヒー缶を奪って一息に飲み干した義弟は、せめて微糖にしてよ~とよく動く表情筋でしおれた顔を作っていた。
ルッチは? なんて意地悪を言ったらこのおとうとは拗ねてしまうだろう。
雨は止んでいた。今日を平穏に保ってくれた義弟には感謝しなくてはならない。コーヒーを飲んで戻っていたら、おれはきっとルッチに怒られていたから。