怨みつらみ。他のっぺりとしたピンク色が紫水晶に透き通る。
違う。それはおれを見ていた。どけ、と低い声で凄んでみせても、彼に出来ることはおれに掴まれた手首より先の指をぴくりと動かすくらいだった。
震えながらおれを睨みつけるあなたが哀れだと思った。ぐるりと掴めてしまう手首だって、少しだけ力を入れて捻れば簡単に折れてしまうだろう。もののためしに握る力をほんの少し強めてみると、男の表情は苦痛に歪められた。
どうせこうなるのなら、もっと早くにしていれば良かった。初めて触れた肌はひやりとつめたい。痩せているわけではないが中年太りでもない、話を聞く限り不摂生で不養生な男は、いつも黒い革の手袋に包まれた手を頻繁にさすっていた。それを見るたび暖めてやりたいと思いながら、結局自分の衝動はそんなに優しいものではなかったと今更ながら自嘲した。
困惑を浮かべていた男の表情にはだんだんと怒りが滲み出す。仕事が終わるとすぐに広く開けられる襟元の、そこから覗く胸まで紅潮している。それは彼が背にしたシーツと相俟って、熟れた林檎を想起させた。
身体の状態は精神にも影響を与えるものだ。怒りによる震えの中に恐怖が見え隠れしていることがルッチには手に取るように分かった。
「──、」
「はは……怖いんですか」
男が何か言おうとした瞬間を遮るようにして口を開き、自覚のきっかけを与えてやる。あまりにも鈍感な男だった。体格の全く異なるおれにラブホテルのベッドで押し倒されてすら、危機感の欠片も抱いていない──あるいはようやく、抱いたのかもしれない。それは信頼ではない。これまでだって誘って口説いて、これまでになく、正しく人生で初めて丁寧に時間をかけているというのに靡くどころか気付きもしない。だからこの男はタクシーを捕まえようとしたおれを止めてまで、ラブホテルに泊まってみたいだなんて興味本位で言い出したのだ。
ここがどんなところなのか知ってるんですか。ラブホテルだろ知ってるよ、入ったことはないけど。そんな応酬をしながら男はふむふむと知ったように部屋を選ぶ、おれの方を振り向いて「どの部屋が好き?」だなんて聞きながら。おれの気持ちを弄ぼうとしているというわけではないのが、また質が悪い。
半ば引っ張られるようにして入った部屋はラブホテルらしくピンクを基調とした部屋だった。この男は少なくともラブホテルの部屋を選ぶセンスも悪いらしい。断じておれの趣味ではない。
あまりにも、あんまりにもいかにもな部屋に、おれのことをこれっぽっちの微塵にだって気に留めやしない想い人と二人で入るという状況にどんな気分でいればいいのか分からないままになんとか扉を閉めることしか出来ず入口に突っ立っているおれを無情にも差し置いて、酒の入った男は上機嫌に原色の赤が広がる全く落ち着かないベッドに寝転がった。なにがそんなに楽しいのかくすくす笑いながらサイドチェストを開け、コンドームやローションを取り出してはまるで初めて見たかのようにじっと説明書きを眺める。
ほんとうに泊まるんですか、書類を読んでいるときと同じ横顔に向かって聞くと、返ってきたのは前払いだったしなーという要領を得ない応答だけ。
まさか先に帰るわけにもいかない、そう自分に言い聞かせて先にシャワーを浴びる。ラブホテルらしく広いバスルームの中でも思い浮かぶのは部屋で待っている彼のことだ。素面においても不注意の権化を酒の入った今、ひとりでバスルームに押し込んで良いものか。幸か不幸かここは大の成人男性二人くらいならば窮屈にならない程度には広い。エスコート……いや介助をすべきだろう、あくまでも義務として。湯を張っておくべきか? おれは汗だけ流せれば良いがあのひとはどうだろう。熱い湯に打たれながら浴槽を横目で見る。十分に広い。彼が寝落ちる前に入浴するためには今から溜めておくのが良さそうだと判断し、栓を締めてスイッチを押した。
「わ……なんか、えーっと、……さまになってるな?」
備え付けのバスローブを雑に羽織って浴室から出ると、先程と変わらずベッドの上で仰向けになっていた男に一瞥されたのちそんな意味不明な言葉を歯切れ悪く掛けられた。
「酔いでも醒ましてきたらどうですか」
ベッドに腰掛けて声をかける。むにゃむにゃと生返事をする男に苛立った。電気でも消そうとしてか、男はヘッドボードのあたりを目を瞑ったままにまさぐる。それからすぐにプツ、と音が鳴って付いたのはベッド正面のモニターだった。
『あんっ、あ、んうっ、だめっ、らめえっ!』
リモコンを奪い、即消した。突然大音量で流れた嬌声には流石の彼も驚嘆したようで、しかしモニターを直接見たわけではないから何が起きたのかもよく分かっていないのか、助けを求めるようにおれの顔を見上げた。
「…………」
「………………な、なに」
自分よりも大きな男にのしかかられて、やっとあなたの瞳は困惑に揺れる。掴んだ手首を離すつもりはなかった。
手が届く。
こんなに簡単に触れられるのに、何を怯えていたのだろう。あなたはどうせ、手懐けていた犬だか猫だかに手を噛まれた程度にしか思わない。それならいっそ今ここで好き放題に食い荒らしてやろうか。ラブホテルに引っ張られたのはおれの方だ。防犯カメラがそれを証明する。怖いのかと聞くと返事の代わりに右側を隠すように顔を背けられる。そのとき初めて、マスクに隠された半顔の下が気になった。
両手首を頭の上に挙げさせ、片手でひとまとめにする。空いた方の手で顎に触れた。マスクは見た目通り質の良い革でできているようだ。それから最も広い面積が覆われている頬を撫でた。火傷か暴行か、不注意による事故かもしれない。おれと会う前のことを考えたって仕方がない。しかし暴行──仕事柄可能性が低いとは言えない──だとしたら、この傷を付けた相手のことをあなたは覚えているのだろうか。もしそうなら、それは……もしかしたら、羨ましいという感情が最も近いかもしれない。今ここでこの顎をぐしゃりと潰せばそれはおれが付けた傷ということになるだろうか? そうすればあなたの傷はおれに上書きされますか? おれの知らない人間のことを、あなたが鏡を見るたび、その器具を付ける度に思い出しているかもしれないと思うと胸の奥がぐつぐつと煮えるようなじりじりと灼かれているような気がする。無意識に食いしばっていた歯を緩めると、開いた口の隙間から重力に従って唾液が一筋垂れ落ちた。
それはあなたのくちびるに垂れた。不快感を隠しもせず眉間にしわを寄せるあなたを無視して、おれは追いかけるようにして薄い粘膜を舐めた。
こんな気持ちは初めてだ。自分から触れたいと思ったことも、まして舐めたいだなんて思ったこともない。ただあなたにだけは、そうしたい。引き結ばれたくちびるの中に押し入って、喉の奥までおれのものにしたい。鳥肌が立った体表と違ってきっと心地よくぬくい暗がりを想像しながら、思いのほかしっとりと舌触りの良いそれを舐め、食んだ。
彼にとっては途方もなく長い時間に感じられたことだろう。間の抜けた音が部屋に響いて、湯張りが完了した旨を伝える機械音声が続いた。上から退いても、彼は呆然として動かない。風呂が沸きましたよと言ってやると、ちらりと目だけでおれの方を向き口を開いた。
「……お前こそ酔いが醒めてねえんじゃねえか」
「あなたは酒のせいにすればいい。おれはしませんが」
上半身を起こした男に手を差し出す。男はおれの手を取らずに立ち上がり、浴室へと向かった。
「軽蔑しましたか」
背に向けて問いを投げかけると、男は浴室に続く扉のドアノブに手を置いて立ち止まる。ルッチは答えを求めているわけではないから、それは問いとすら呼べないものかもしれなかった。
「こんなことで、おれを手放すのは惜しいでしょう?」
無言のまま男は浴室に消えた。ルッチは自分の心臓がどくどくと痛いほどに脈打っていることに気が付いた。彼が消えた先は浴室だ。その気になれば簡単に他の部屋に移るなりホテルを変えるなりできる彼が、あんなことをされたあとであっても少なくとも一晩はおれと共に過ごすことを選んだのだ。何も知らない彼に、たった一日でこれ以上を教えようとは思わない。だが、彼にとっておれの利用価値があるうちは、おれをその手に飼うつもりでいるらしいと分かったことが最大の収穫だ。
それはつまりこの先ずっと、彼はおれから離れられないということだ。何も焦る必要はない。目を瞑り、浴室に耳を澄ませる。意外にも滑って転んで意識を失っているわけではなさそうで、ちゃぽんと浴槽に浸かる音が聞こえた。助けを求める相手が先程自分を襲った相手しかいない現状にいつも以上に注意しているのだろう。それくらい警戒してもらわなくてはこちらも困る。警戒は意識だ。ここまでやってようやく、これからは犬猫に対するよりはまともな意識を向けられることだろう。
彼はバスローブの前をきっちりと閉じて浴室から戻ってきた。バスローブなんて前を閉じていようが開けていようがそこに差があるとは思えない。ため息を吐いたおれを見て彼は不機嫌そうに眉をひそめ、文句でもあんのかと口を利いた。返事はせずにベッドの端に寝転がると、彼も反対側の端で横になり、毛布も布団もおれには分けてくれないようだった。
「寒いんですが」
「嘘つけ、筋肉ダルマ」
あまりにささやかな抵抗に思わず吹き出すと、彼は二重の防壁の中に潜り込んですぐに寝息を立て始める。体力が無さそうに見える男が激務の日々をこなすには、この意外な寝付きの良さも寄与しているのだろう。
自分を襲った相手の隣で呑気に寝落ちる想い人の方を見ながら、やはりまだ意識なんてされていないかもしれないなとルッチは思った。