In your palmIn your palm
ねえ、という天からの声に、少年は肩を跳ねさせた。
姿勢を最大限に低くして、周囲に誰もいないことを確かめたつもりでいて不意を突かれた。まさか頭上に人間がいるとは誰も思うまい。しかもこんな時間に。
こぢんまりとした質素な裏門の柵を握りしめたまま反射的に見上げる。少年が気配を消して伝ってきた塀の縁に、彼は立っていた。
「“アトサマ“ってどういう意味?」
「え…」
この状況にそぐわない唐突な質問。動揺した少年は答えることができない。自身の不審な行動を咎められるに違いないと、ありったけの言い訳を考えていた最中だったからだ。彼は寮を取り囲む塀の上に立ち、早朝の陽を直に浴びて外側を眺めていたが、膝を折る。
蹲踞の体勢だ。
「オレこっちの出身じゃなくてさ。意味わかる?」
「あの…多分、『仏様』とか『仏壇』って意味かと…」
「なーるほど」
合点が入ったように彼は笑んだ。しゃぶっ、と瑞々しい音がして、地面に何かの滴が垂れる。彼の手の中に、何かの果実が握られていた。
この甘い香りは、桃。
「仏壇に供えるって意味だったんかな。いや、さっきランニングしてたら、知らないばーちゃんがくれてさぁ。誰かにあげるのをお裾分けって言ってるのはなんとなく聞き取れたんだけど。そっかぁ。仏様ね」
「はあ…」
少年は下を向いて、地面を見つめるしかない。少年はもちろん彼を知っているが、彼はどうだろう。燦然と輝く太陽のような立場の人間が、自分のように地面を這う日陰者の凡人を知っている筈がない。ふと甘い考えが浮かぶ。——もしかしたら、このまま無事に逃げられるのではないか。
「早朝は逃げるのやめた方がいーよ。この時間帯、外仕事してるじーちゃんばーちゃん、結構いるから」
——だめだ。
少年は、この瞬間、“終わった”と自らの運命を嘆いた。きっとこのまま首根っこを掴まれて『脱走者を捕まえた』と、この後の朝練で公開処刑されるのだ。あともう一歩で裏門を出られるところだったのに。
「おまえ1年だろ?まだ5月じゃん。脱走最速記録かもね」
「……う……」
唇を噛む。彼には分かるまい。
小さい頃から地元で『天才だ』『期待の星だ』と褒めそやされて、自らも自身をそう評価した。それなのに意気揚々とやってきたこの日本一の高校で、「その他大勢」とあっけなく一括りにされる屈辱を。どんなに必死になって動いても、スポットライトを浴びることのない悲しみを。
——天上人には分かるまい。
そうやって下界の有象無象を見下して。
「…沢北先輩に、おれの気持ちはわかりません…」
「そーだね」
飄々と彼は答える。思わず睨み上げた。塀の上にしゃがんで桃を皮ごと齧る姿は、なんだか野生の猿じみている。
「バスケ、楽しくなくなった?」
「…」
少年に残されたなけなしのプライドが、肯定を妨げる。
「責めてるんじゃねーよ?別に、逃げたきゃ逃げればいいと思う。オレも昔、脱走したことあるし」
「…先輩もやったんですか?」
それは初耳だった。
「まーね。やらなきゃって思ったことがあって。まあ色々あってバレなかったんだけど」
少年は柵から手を離した。ゆっくり立ち上がる。もう門の外に出ることは、完全に諦めた。沢北の白い喉元がまた桃にかぶりつき、それを嚥下する。
「桃ってさ、仏の世界だと不老不死になれる果物なんだって」
「…不老不死?」
口慣れない言葉を鸚鵡返しすると、突然、沢北が「ぴょん!」と機嫌のいい声を上げ、塀の上から飛び上がった。驚いた少年が注視する中、サーカスの軽業師みたいに1回転して、柵を挟んだ向こう側の地面に着地する。——信じられない。なんて身軽さだ。尋常じゃない身体能力。ますます猿じみている。
「うん。深津さんが教えてくれた。あの人なんでも知ってんだよね」
彼と初めて目が合った。まるで子どもみたいに大きな瞳がキラキラしている。ただの受け売りなのに、自慢げに笑って。
「死ねなくなっても、楽しくなくなっても、オレはバスケしてたいな」
「…」
「おまえも食う?ひとくち。美味いよ」
形のいい歯形のついた桃を掲げられる。永遠を授ける果実。愉悦も、苦痛も、終わりなく続く世界。無論、それは空想である。しかし、少年は首を横に振った。
「……遠慮しときます」
その時、背後から近づく人の気配がした。少年よりも先にその人物と目を合わせた沢北が、「あれ?」と首を傾げる。
「今朝、なんかある日でしたっけ?」
少年が振り返ると、先ほど名前が上がったばかりの部の統率者——深津一成が完璧な無表情で歩いてくるところだった。
「『なんかある日でしたっけ』じゃないベシ」
——ベシ。何度聞いても慣れない奇妙奇天烈な語尾。
「レギュラーメンバーミーティング。昨日の練習試合の分、朝練前に回すって言ったベシ。おまえ以外もう集まってるベシ。なんで一晩で忘れるベシ。ニワトリ頭ベシ」
矢継ぎ早の責め句に、沢北が気まずそうに目を逸らす。少年が錆び付いた裏門を開けると、トコトコと中に入ってきた。
「へへ…走ってたら忘れました」
「笑って誤魔化すんじゃないベシ」
沢北を連れて歩いて行く。かと思われた深津が、存在感を消し、そっと裏門を閉じて黙っている少年へ振り返った。
「柴野。お前も朝練遅れるベシ。急ぐベシ」
「は、はいっ!」
名前を呼ばれて、背筋が伸びた。5分前まで逃げる気でいたくせに、体には反射が染み付いている。驚いた。——まさか、覚えていてくれるなんて。数えきれないほど部員のいる、この山王工業高校バスケ部の平凡な新入生の名前なんかを。
「腐らずやれ。おまえみたいなタイプは諦めが早いのが弱点ベシ」
「!」
「記録された成績だけに囚われるな。今、表に出てる実力だけにがんじがらめになるな。目に見えるものが全てじゃない。内側に蓄えたものがいつか芽吹く。諦めたら勿体無い。…ベシ」
少年は理解する。深津がなぜキャプテンの座を任されているのか。
見ていてくれたなんて思わなかった。天上からの視点を持っているのは、本当は深津なのだ。
しかし、いくら彼とはいえ、数えきれないほどの部員がいる中、全員の様子をきめ細やかに把握できるだろうか?
期待する。もしかしたら、自分にはまだ才能を伸ばせる余地があるのかもしれない。深津の目に止まるほどの余地が。そうでなければ、こんなふうに言ってもらえる訳がない。——キャプテンの期待に応えたい。
心臓を抑えるように、ジャージの胸を握りしめる。そうする間にも沢北と深津が、何かを言い合いながら足早に遠ざかっていく。足を止め、今の自分では到底手の届かない2人の姿を見送った。
その心に、ほんの小さな希望の光を蘇らせて。
「——深津さんだって忘れんぼじゃないすか」
「?」
「おととい。月初の日曜だったのに忘れてたでしょ。今夜してくれます?」
そう咎められて、深津が天に目を向ける。やっと思い出したようだ。
「ああ…忘れてたベシ」
「準備して待ってますから。脱衣所。今夜7時」
「毎月めんどくせーベシ」
「は?今更何言ってんすか。最後までセキニン持ってください」
唇を尖らせて責められて、深津が明後日の方を向いた。
まったくもう、と無意識に手の中の桃を齧る。
「あ、そーだ。深津さんも食います?これ」
深津の隣を歩きながら、沢北が食べかけの桃を掲げた。それを目に入れた深津が、どうりで、と呟き、鼻をすんと鳴らす。甘い桃の香りが、沢北を見つける前から微かに香っていた。
「お地蔵さんのお供え盗んだんじゃないすよ。ランニングしてたら近所のばーちゃんがくれて」
——嘘じゃない。
バスケットのことたば、よぐわからねども、おめだぢのおがげでここだも元気いぐなるよ。おいがださせば、おめだぢがアトサマみてったもんだ。頑張ってけで、ありがとォ。
そう言って、くしゃくしゃの皺の笑顔で、腰の曲がった小さな老婆が差し出してくれた桃だ。
深津が足を止めた。よこせ、と目だけで命令する。沢北が食べやすいように無傷の側面を差し出すと、「逆側」と一言、妙な要求をした。
「こっち?」
手のひらの中で桃を回し、自身が齧ったほうを向ける。
「種の周りの肉が好きベシ」
そう言って、深津は躊躇なく剥き出しの種に齧り付いた。
「…」
白い歯に毟り取られていった種。沢北は手の中の桃と深津を、しばらく黙って交互に見比べた。
「…変な人…」
遠慮もなく苦笑する。
ガリ、と深津の頬の中で、彼の歯が種を削る音がした。
・
沢北栄治は、山王工業高校の歴史の中でも際立った異端児だ。
実力の面でも、態度の面でも。前者は良い意味で、後者は悪い意味だった。
「…えーと、沢北」
「ハイ?」
新入生同士の試合が終了したのち、監督生を務めていた2年の生徒が沢北を呼び止める。誰もが「ああ、とうとうお咎めが行くぞ」と彼らの様子に注目した。この時点で、入学式からすでに2週間が経過している。
「なんですか」
一応敬語ではあるものの、不遜な態度だ。沢北は、額に浮かぶ汗を、前髪ごと肩口で拭い上げた。
「…髪のことだけど」
人のよさそうな監督生が気まずそうに切り出した途端、沢北は『鬱陶しい』という感情を隠すことなく顔に浮かべた。沢北以外の同級、新一年生らがハラハラと固唾を飲んで見守っている。彼らはすでに、型で押したように統一された、部の規定通りの丸刈りである。無敗の山王工業。その所属選手に憧れて、入学前からその髪型にする生徒もいる。それはやる気の主張でもあったし、覚悟の体現でもあった。
しかし部活初日、北関東から推薦で入学してきた沢北は「坊主にしなきゃいけないなんて知りませんでした」と、平然と主張した。新入生の中で、坊主頭にしていない者は彼ただ1人であった。そのまま彼の頭髪は手を入れられることなく、今日まで時間だけが経過している。
「今後も剃るつもりは、ない?」
「ん〜…」
猫のように釣り上がった大きな眼がキョロ、と動く。
「そもそもなんで坊主なんすかね?」
「…は?」
答えをはぐらかすように、逆に質問を返す。
その余りにも生意気な態度に、とうとう監督生の眉が顰められる。上級生たちはトレーニングの手を止めないが、『あいつ、面倒な役押し付けられてんな』と同情した。それは規則で、伝統で、といった旨をやんわり伝えた彼に対し、沢北は全く動じない。
それどころか。
「髪型って、バスケの腕に関係ありますか?」
無邪気に、爆弾を投下した。
「剃って上手くなるならしますけど、1年の中で剃ってないオレが1番上手いっすよね?」
彼を心配していた新一年生たちの表情が一斉に強張る。
「なんなら、センパイたちの中にも、オレより下手な人いますよね?ちゃんと坊主にしてるのに」
とうとう、体育館中の温度が一気に下がった。そのことに気がついてないのは、沢北だけであろう。
「だから、イヤっす。あとオレ坊主似合わなそうだし」
にこお、と沢北が笑った。無垢な幼児のような、ふっくらとした笑顔だった。
監督生は絶句したのち、はは、と乾いた笑い声を漏らすことしかできない。怒ることも、それ以上食い下がることもしなかった。そんなことをしなくても、十分だった。彼に、沢北へ声がけするように命じた最上級生たち——主に部内の風紀を律する役割の者たち——が、その一部始終を観察していた。
「…深津」
そのうちの1人が、2年の中でも特に仕事の出来る後輩を呼ぶ。呼ばれた深津は、「はい」と無気質に返事をした。
「あの問題児、おまえに任せてもいいか?あれを野放しにしちゃ、みんなに悪影響だ」
「…はい」
深津は従順に返事をする。内心で、ああ面倒だ、と毒づきながら。
沢北は上機嫌に鼻歌を流しながら、寮の廊下を食堂へ向かって歩いている。
連れ立って歩く者はいない。3日前の発言で、彼は決定的に同学年から孤立した。しかし、全く気にしていない。鬱陶しい馴れ合いがなくなって、シンプルでいい。とまで考えている。
廊下を曲がれば、1階のエントランス。玄関前を突っ切れば食堂だ。エントランス右手は、共同浴場のある地下へ続く階段である。その角を曲がった先で、突然、あるはずのない壁に当たった。
「いてっ!」
「よう、サワキタ」
壁が声を発した。人だ。向こうは蹌踉もせず、仁王立ちのまま動かない。沢北を難なく弾き飛ばせるガタイの者は同級にはいない。しかも沢北の名前を知っている。顔をちらりと見た。この顔は覚えている。部の先輩だ。一応謝っておかないといけない。
「…さーせんした」
そんなとこに突っ立ってるのが悪いのにと、ぶつかった胸を撫でながら心のこもらない謝罪をする。小山のような威圧感を放つその男は、そんな沢北を見てニヤリと笑った。
「待ってらど。悪く思わねでけれな」
「?」
頭に浮かべたハテナが消える間も無く、見た目の印象とは裏腹な機敏な動きで、男が沢北の腰から下へ組み付いた。あっという間に足を掬われ、いかつい肩の上に米俵のように抱え上げられてしまう。
「うわっ?!うわっ?!」
「忙しねぐすな。ケガす」
「何?!アンタ何なんすか?!」
ジタバタ暴れても、男の重心はブレない。それどころか、そのまま地下への階段をのしのしと降りていくではないか。
「先輩の名前だば全部覚れよ。オレは2年の河田雅史だ」
カワタと名乗った秋田訛りのきつい男が、まだ「時間外入浴禁止」の札が掛かった共同浴場の引き戸を開け放つ。広々とした脱衣所の床に沢北を放り、自身も中へ入って扉を閉めた。まるでボーリングの球のように奥に向かって転がされた沢北は、咄嗟に取った受け身の体勢で何かにぶつかる。ガシャンと金属音を立てたのは、なぜか脱衣所のど真ん中に置かれたパイプ椅子であった。
「いでっ」
「1年6組、出席番号17番、沢北栄治」
背後から河田とは別の男の声がした。床に横たわったまま振り返ると、壁際に設置された横長のベンチに座った誰かの足元が見えた。
「念のため訊くナリ」
——ナリ?
「おまえの反抗は、床屋に行くカネを親から貰えないのが理由か?時々そういう家庭環境の奴もいるナリ。もしそうなら、おれたちを頼れ。少しなら手伝ってやれるナリ」
「ナリって…なに、この人…?サムライ…?コロ助…?」
「ガリッと聞けぜ。喋ん口はおかしいども、話っこはシャンとしてらがらよ」
口を挟んだのは、入り口扉に寄りかかった河田だ。
「これも2年。深津一成。レギュラーん入ってらがら顔ぐれ見だごとあるべ」
紹介された本人は、返答を待つようにじっと沢北を見下している。沢北はその顔を見返した。確かに彼の顔は覚えている。河田と同様に。——上手いやつの顔はすぐ覚えられる。
「…別に、カネはあるけど」
「座れ」
ぶすくれて口ごたえした途端に、深津に命令された。顎で示されたのはパイプ椅子だ。その威圧的な指示にカチンときて、沢北は尻餅をついた格好でその場を動かない。それを見て、河田が腕組みを解く。その太い腕に物を言わせようとした河田を制して、深津が立ち上がった。
沢北のそばへ寄り、膝を折る。そうして、表情の乏しい顔を近づけた。
「おまえは幼い。子供すぎる」
瞬きもせず、深津が目を覗き込む。
「どんなに才能があろうが、この世界では周囲に馴染む努力を見せない人間は必要とされないナリ。今までに言われたことなかったか?」
静かに諭されて、逆に神経を逆撫でされる。
——うるさい。このお説教野郎が。
だから年上は嫌いなんだ。出る杭をすぐに目の敵にする。オレは悪くない。目立つのは、馴染めないのは、オレが誰よりも上手いからだ。間違ったことだって言ってない。いつだってオレは正しい。
頭の中で言葉だけが嵐のように沸き起こる。しかし、沢北は気づいている。怒りが増長するのは、深津に指摘されたことが本当は図星だったからだ。
この状況には覚えがある。
退屈で凡庸な人間たちが、取り囲んで暴力に訴える。無理矢理に自分を潰そうとする。——きっとこいつらもそうなんだ。日本一のバスケ高校?笑わせるな。どこでも同じだ。ここも同じ。『山王なら、今までと違う。きっと楽しいよ』と言った父親。頭の中で、『嘘つき』と喚き散らす。
じわっ、と目の奥が熱くなる。
「——沢北。“周りに馴染め”と言ってるわけじゃないナリ。“馴染む努力をしているように見せろ”と言ってる。意味がわかるか?」
「…?」
難しいことを言われて、涙目で睨み返す。
「正直、おまえの主張には賛成ナリ。上手けりゃ、髪型なんて関係ない。昔から残ってる規則だから全員頭を丸めろなんてバカバカしい」
河田が、向こうで肩をすくめた。
「だが、人間ってのはバカだから面白いナリ。カタチに囚われる。目に見えることを無条件で信用するナリ。だから、大人しくルールに従うカタチを見せて、誰にも見えない頭ん中で中指立てておけ。それは服従じゃない。賢さだ。それが分かれば、おまえはどこまでも自由に、思う存分戦えるナリ」
「…」
——なんとなく。
なんとなくだが、深津の言いたいことが理解できた。そして、目の前にいる彼が、今までに会った誰よりも奇妙で、誰とも違う人間だということも。普通とは違う次元から物事を見ている。
達観している。
「やっぱり嫌か?嫌いか。坊主は」
優しい声音で穏やかに問われて、ぼたっ、と大粒の涙が垂れた。彼の言葉が拒絶の壁をすり抜けて、勝手に心の中に入ってこようとする。もうすでに、染み込んできてる。
「…やだ…寺の坊さんがいっぱいいるみたいで怖い…やだ…」
「ふむ」
悪あがきの駄々をこねると、深津が顎に指を掛けた。
「坊主は良いナリ。思いのほか快適ナリ。髪が落ちないから部屋の掃除がラクだし、シャンプーが全然減らないから節約になる。ドライヤーもほとんどいらないナリ。夏は涼しい」
「んだども、冬はサッと寒みど。慣れだ、慣れ」
河田が相槌を入れる。
「沢北がいいなら、俺たちが今剃ってやる。床屋に行かなくて済むからカネが浮くナリ。それでお菓子でも買うといいナリ」
「…お菓子って…おれ小学生じゃねーんすけど…」
鼻を啜り上げて、言い返した。深津が顎を指で擦る。
「実はな、明日までにおまえが坊主になってないと、俺たちよりもっと怖い3年の先輩たちが剃りにくるナリ。『悪い子はいねーか』てバリカン持って集団でやってくるナリ」
さらりと脅されて、震えた。
「やだっ!!絶対やだぁっ!!」
「じゃあ今やるか?」
もう、降参だ。しゃくりあげて、深津を見つめる。
「…アンタがやってくれるなら…いい…」
深津が、一瞬キョトンとした。
——その譲歩は、本心からのものだった。なぜだか、この人ならいいと思った。変な人だけど、不思議と信用できる。逆に言えば、この先輩以外には絶対にされたくない。そう思った。
彼が再び凪いだ無表情へ戻る。
「『アンタ』じゃないナリ。『深津さん』。先輩は敬称で呼べ。最低限の礼儀ナリ」
「ふかつ…ふかつさん」
復唱する間にも、河田がてきぱきと動いている。床に新聞紙を敷き、その上にパイプ椅子を置き直す。中から金属の道具が擦れる音がするボックスをどこからか用意し、奥から掃除機まで持ってくる。ゴツい顔と図体の割に、無駄がなく細やかな手際だ。
深津に椅子を示されて大人しく座ると、間髪入れずに首元へ布が巻かれた。
「バーバー深津へようこそ、ナリ」
耳元でシャキ、と鋏が開閉する音がした。沢北の正面の壁に凭れた河田が、なんとも言えない顔で2人の様子を見守っている。
「あの…鏡とか…」
「ん?」
ジャキ、と小気味のいい音がして、息を呑む。まさか、と思った瞬間、髪の束が目の前を通過し、膝に落ちた。
「…っ!…っ」
了承はしたものの、躊躇いもなく鋏を入れられたショックで沢北が口をぱくぱくさせる。鋏の音は止まらない。あっけない軽い音を立てて次々に自身の黒髪が床に落ちて行くのを、ただただ絶句して見つめるしかない。後ろの深津は、機嫌良く鼻歌を歌っている。
「おーおーおー…」
それほど景気の良い断髪っぷりなのか、河田が声を漏らす。姿見は脱衣所の入り口横にしかなく、沢北は今、自分の頭がどんな状態になっているのか確認ができない。
「一度で良いからやってみたかったナリ。結構楽しいナリ」
「えっ?!」
——ということは、今まで一度も他人の断髪の経験がない?
沢北はプルプル震え出した。そうこうしている間に、今度は後ろから電動音がスタートする。電動バリカンの音だ。本格的に刈りに入る。これもまた、躊躇がなかった。
「ヒィッ」
「動かない方が良いナリ。急に動くと耳も落とすナリ」
「おーおー、うめねが。深津、おめ才能あらんでねが?」
「丸刈りなんて才能も技術も必要ないナリ。刈りまくるだけナリ」
「あ…あ…」
深津と河田は、2人でクスクス笑ったり、ここはこうして、と真面目に相談し合ったり、青い顔をしている沢北をそっちのけで楽しそうだ。——もしかしてやっぱり、これってただの後輩イジメなんじゃ。そんな悪い予感が頭をよぎる。だがもう遅い。頭はもうスースーしている。手遅れである。
ぽろぽろと、また沢北が涙を零し始めた。
「うえっ…ええっ…」
「デケった図体してらども、しったげ泣く奴だねが」
「ふえっ…やっぱヤダァ…一休さんになりたくないぃ」
「沢北」
深津は沢北の周りを移動しながら、細やかな手つきで電動バリカンで微調整を行っている。名前を呼ばれて、俯いた顔をのろのろと上げた。
「『色即是空、空即是色』」
「へ…?」
「『色即ち空なり、空即ち色なり』。この世に不変のカタチなどない。その実体は目に見えないものナリ。本当に大切なものは、カタチには残らない」
「な…なに…?」
「カタチに囚われるな。おまえは、目に見えない本質を悟ることができる者になれ。そうすれば、おまえは誰にも負けない。この山王で、バスケの世界を斉する男になれ」
「ふぇ…?」
電動音が止まった。
「まだ分からないか。いつか分かるナリ。“分かりたい”と思ったなら、返事をしろ」
「……ハイ……」
訳がわからないまま、涙を堪えながらこっくりと頷き、返事をした。
目の前に、無言で手鏡が差し出される。おそるおそる、それを受け取る。顔の前に持ってくるが、恐ろしくてぎゅっと目を瞑る。泣いちゃダメだと思うほど、涙が溢れて止まらない。何度もしゃくりあげ、ようやく覚悟を決めて、薄目を開けた。
「…え…?え…」
——想像していたような、ツルツルの一休さんじゃない。
角度を変えて、自分の頭を確認する。後頭部を触ってみる。未知の手触りがする。
確かに短く刈り上げた髪型ではあるが、流行りの雑誌で見るような、洒落たツーブロックだ。子どもっぽくなくて、清潔で、キマってる。似合ってる。鏡越しに深津と目を合わせた。彼は相変わらず、器用に一仕事終えたにも関わらず何事もなかったかのような無表情だった。
「ふかつさん……オレ……超かっこいい……」
嬉しくてまたボロボロ涙を零すと、河田が吹き出した。
「ったく、調子良い童っ子だ。仕方ねな」
・
まるで曲芸だ。変幻自在のテクニック。ゴールを決めた勢いそのままに、コートの中で側転しバック宙返りまで見せつけた沢北のせいで、その瞬間、相手チームの士気がボッキリと折れた。審判さえ見惚れる始末だったが、ワンテンポ遅れて笛が鳴る。
「こら!きみ、試合中だぞ」
「へへっ、さーせん」
全く反省していない軽い調子で頭を掻き、自陣ベンチに走ってくる。
「見た?見ました?深津さん!」
「今のは、おまえに対応できる松本あってのゴールだピョン。調子に乗るなピョン」
「わかってますってー」
釘は刺すが、手のひらは差し出してやった。深津の手にタッチして、沢北は軽快にコートに戻る。ベストメンバーのうち、コート内にいるのは沢北と松本のみ。——前半は2人で事足りる。九州からわざわざ秋田まで出向いてくれた練習試合の相手をそんな風に思っているとは、おくびにも出さないが。
「絶好調だな。あいつ」
「前半だけピョン。そのうち相手の手応えがないから、急に飽きてくる。リズムが悪くなったらおまえと交代ピョン」
「へいへい」
河田は頭の後ろで手を組んだ。全て、深津の目論見通りというわけだ。
インターハイの緒戦まであと1ヶ月。今年もシード出場だ。調子を整える時間はまだ十分にある。外野は「今年のメンバーは格別だ」と山王を評する。誰もが、配られた手札にほくそ笑む。勝利しか有り得ない役が何通りも揃った奇跡の手札なのだ。——ゲームの根本を覆すほどの、法外な『革命』を起こす相手でも現れない限り。
凡人であれば、安心し、慢心する。しかし、深津はそうではない。彼を筆頭に、山王高校バスケ部に所属する全ての部員が、深津と同じ志を持っている。
「…ほんと、随分懐いたよね。あの暴れ小猿」
1年前の様子を思い出したのか、ベンチからコートを眺めてしみじみと一ノ倉が言う。
あの頃に比べれば沢北は随分大人になった。我の強い自由奔放さはそのままに。
「ああ。変わった。深津のお陰だべ」
そう言う河田も、変わった。沢北に「河田さんの秋田弁、難しすぎます」と文句を言われてからというもの、彼なりに話す言葉を標準語に近くなるよう努力してくれていた。こう見えて、優しい男なのだ。
「入学当初はどうなることかと思ったけどね」
「有能な人材を潰して言うことを聞かせるのは素人のやることピョン。ああいう暴れん坊は、むしろ野放しに伸び伸びと育てる。育てられている、懐柔されてると本人に気づかせないのが一流ピョン」
「こわ」
どこまでが本気の発言なのだろう。
「おめだけは敵に回したくねえ」
河田も、一ノ倉と同感のようだ。
「言うのは簡単だよ。けど思い通りになるとは限らないだろ。どんな術を使ったのやら」
「それは秘密だピョン」
——秘密、ということは、方法があるということか?
勘ぐろうとして、一ノ倉はすぐに止める。無駄なことはしないに限る。本気になれば、無闇に惑わされる。先ほどと同じように、どこまでが深津の本音なのか、共に過ごして2年を過ぎた今でも計り知れないのだ。
『山王は今までと違う。きっと楽しくなる』という父親の言葉は真実だった。
正確に言えば少しだけ異なる。沢北は、これほどまでに楽しいのは『山王に来たから』ではなく、『この得難い人々に出会ったから』だと分かっている。特に、深津に。
コートを走りながら、不思議な感覚に陥る。
バスケの本当の楽しさ。
それは、自らの技術が誰よりも突出することを実感する瞬間ではない。真逆だ。自分が完璧に采配された舞台装置の、一つの歯車になったと錯覚する瞬間である。
こうも言える。
自分は銃弾に過ぎない。寸分の狂いもなく組み立てられ、さまざまな部品が正確に働いて初めて、拳銃は成り立つ。銃弾がひとつあったところで、何も撃ち抜けない。彼らと自分が完璧に噛み合って初めて、爆発的な『それ』を味わうことができる。誰にも負けないと心の底から思う。自分と肩を並べて戦える実力を有した彼らがいなければ、辿り着けない境地。
そこは、深津の器用な指先で作られた完璧な箱庭だ。彼の掌の上で踊らされる快感。
——とても、とても気持ちがいい。
「バスケで誰よりも注目を浴びるスターになることは、さぞ気分がいいだろう」と考える者には一生分からないであろう、この感覚。
沢北は随分大人になった。しかし、それを言葉という『カタチ』に表す術をまだ知らない。表さなくていい。大切なことはカタチにならないのだから。深津の言葉を借りるのであれば。
言葉にならない代わりに、それを象徴するような出来事がある。
沢北が「脱走しよう」と思い立ったのは、初めての夏合宿でのことだった。
新しい自分の髪型に慣れた頃。まだまだ「手のつけられない暴れん坊」だった頃だ。沢北はまたしても、山王の歴史において前代未聞の扱いを受けていた。
山王高校における処罰は有名である。
特に合宿脱走の罰は伝統だった。最上級生と勝つまで戦わされる。単独犯であれば1on1だったり、共犯がいれば連帯責任として周囲を巻き込んだ試合形式だった。大抵の者は勝てず、終わりのない地獄に泣き出したり、嘔吐したり、一指も動かせなくなって罰が終わる。——望むところだ、と沢北は思った。
なぜなら、沢北が試合中に子供っぽい暴言を吐いたり、そのほか規律違反があった場合、彼に限ってのみ「何もさせない」ということが罰だった。山王において、かつてない事態である。
実際トレーニングもさせず、試合に出してもらえないことは沢北にとって最大の屈辱となり得たし、甚大なストレスを与えた。最上級生たちにとっては、後輩たちの前で生意気な1年にコテンパンにやられる機会を失くすという裏のメリットもあった。
ただでさえ重たいメニューである朝練前に、早朝ランニングを始めたのも、それがきっかけである。——足りないのだ。こんな扱いを受け続けていれば体が鈍ってしょうがない。脱走すれば、罰を受けるはず。伝統的な罰を。例外はない。坊主頭以外が許されないのと同じに。
沢北はそう考えた。
前日のうちに、脱走の道筋の目星はつけた。
合宿所のブロック塀が一部だけ低い。自身の身体能力を持ってすれば、そこを乗り越えて外に出られるはずだ。
計画の実行は、誰かに見つかりやすいよう、真昼間に行われた。束の間の昼休み、沢北は悠々と目的の場所に向かった。体力は有り余っている。塀の前で準備運動をする。助走をつけて、塀に走り登ろうとした時、後ろから声を掛けられた。舌打ちをする。——まだ早い。見つかるのは外に出てからでないと。
現れたのは深津だった。よりによって。
「沢北。お前もルン?」
「は?」
深津が首を回し、ボキボキと鳴らした。
「手ェ貸すルン。こんなクソ合宿やってられないルン。実家に帰ってガリガリくん食べるルン」
「え…あの…」
「この高さ、1人じゃ無理だったルン。お前でもギリギリ無理ルン」
「…」
深津が壁際で、バレーボールのレシーブのような格好をする。それを取っ掛かりに登れということらしい。深津が道連れになるとは予想外だったが、指示に従う。彼のサポートで塀をよじ登り、塀の淵に立って、上から逆に、彼を引っ張り上げてサポートをする。こうして、あっけなく2人は合宿所の塀を乗り越えた。
そこから沢北と深津は走ることもなく、まるで散歩をするように逃避行した。近所の人間に遭遇することもあったが、深津が先んじて礼儀正しく「こんにちは」と頭を下げると、向こうもにこやかに挨拶し返す。「やあ深津くん」と、深津のことを知っている者さえいたが、同じだった。
関東に比べてさほど暑さの厳しくない秋田の田舎の昼下がり。あまりの長閑さに頭がぼーっとしてくる。——もっとスリルのあるミッションかと想像していたのに。
「駅前のスーパー寄るルン。おやつ買うルン」
隣を歩いていた深津までも呑気なことを言う。幼稚園の遠足みたいだ。いっすよ、と返事をする。ほどなく店にたどり着く。田舎にありがちな、ドラッグストアとスーパーと雑貨店が合体したような古びた複合店だ。「何か買って欲しいルン?」と訊かれたが、要らないと答えた。実際、欲しいものなどなかった。
店の前のボロボロのベンチに脱力して座って、何の変化も起きない景色を眺めていると、しばらくして深津が戻ってきた。両腕に買い物で最大限に膨らんだビニール袋を下げている。
「…ずいぶん買ったっすね」
「ルン」
缶のコーラを差し出された。何も考えられずに受け取ると、深津も隣に座る。自分の分のコーラを袋から取り出し、プシッと蓋を外した。沢北もそれに倣った。
久しぶりの炭酸飲料を飲み干す。——何やってんだろ、と思う。見上げた夏空の、雲の動きも鈍い。
どれくらい2人で黙ってそうしていただろう。
「…駆け落ちってこんな感じすかね」
どうでもいいことが口から出た。
「おまえにしては古臭い言葉知ってるルン。意味わかってルン?」
「…なんとなく」
薄ぼんやりとしか知らない。国語は苦手だ。——1人だったらただの『逃亡』だけど、2人で協力して逃げたら『駆け落ち』って感じ。ただそれだけ。
「このまま行ったら、オレ深津さんの実家までついてっちゃう」
踵で土を蹴った。そもそも本気で逃げる気で出たわけではない。北関東の実家まで帰る路銀もないし、そんな気はハナからない。行くところがない。なぜか追手も来ない。深津の手前、『やっぱり戻る』とも、格好悪くて言い出せない。迷子になった気分だった。
「安心するルン。もうすぐ五郎が迎えにくるルン」
「………?」
少し遅れて、え?と聞き返した。
嘘みたいなタイミングで、車が駐車場に滑り込んできた。そのバカバカしいほど黄色い車に、顧問の堂本が乗っていた。ベンチから立つこともできないでいると、深津が姿勢を正し、停止した車体に近寄る。開けられた窓から顔を出した堂本は笑顔だ。
「悪いな、深津。待ったろう」
「いえ、お忙しい中わざわざ迎えにご足労いただいて恐縮です」
「追加分の差し入れ、たんまり買えたみたいだな。ついでの俺のつまみは…」
「もちろんです。堂本先生」
「よしよし」
五郎呼びも、ふざけた語尾も封印し、優等生そのものの態度で“追加の差し入れ”を後部座席に乗せる。堂本が身を乗り出して、深津の同行者を意外そうに確認した。
「沢北を連れてきたのか」
「ええ。マネージャーが全員出払っていましたので。問題でしたか?」
「いや、いい。お前が一緒なら心配ない」
助手席のドアを開けた深津に手招きされ、2人の会話からようやく状況が飲み込めてきた沢北が無言で後部座席へ乗り込んだ。
「外を散歩できて、いい気分転換になりました。な?沢北」
「…あ…、はい…」
他所行きの微笑みで同意を求められ、言いたいことを喉につかえさせたまま、歯切れの悪い返事を返す。堂本が、バックミラー越しに沢北と目を合わせてニヤリと笑った。
「毎年、素行のいい奴には買い出しを頼むんだ。いわば合法の息抜きだな。この車は『よい子しか乗れない車』だぞ。ラッキーだったな。沢北」
さらに、合宿所に戻る車内で深津は堂本に、実にさりげない会話の流れで沢北を上級生のトレーニングや試合に引き入れることを約束させた。特例中の特例だが、監督自身の許可があれば、最上級生らの反対は無意味になる。
沢北は悟った。
——どれだけ暴れようと、どこまで行っても、深津の掌の上。
それが不愉快でないことが、何よりも不思議だった。
・
誰もいない校舎の廊下で沢北は足を止めた。
居眠りをしたせいで移動教室の授業が終わったのにも気がつかず、クラス全員に置いて行かれた。その、教室に戻る途中のことである。
廊下の壁には、選択美術を取っている上級生のスケッチ作品が上下2列でずらりと張り出されている。その中に、よく知った名前を見つけた。
「深津さん、美術選択だったんだ」
下段に位置するため、間近で作品を眺められる。大きなスケッチ用紙に白黒で描かれた人物像は、作品の中でも異彩を放っていた。美術など微塵も嗜まない沢北にも、その腕前が尋常でないことが分かる。写真かと見紛うような歪みのないバランスと自然な陰影。執念すら感じさせるほど緻密に描き込まれ、そのくせ、どこか冷めたような、徹底した客観性で観察されたような絵だ。
描かれた人物は、生きた人間ではない。仏像を頭頂から腰あたりまでスケッチしたものだった。添えられたラベルを読む。
「“薬師如来像”…あれ、この神社」
沢北は、タイトルと共に記載された神社を知っている。近頃気に入って、その本殿に続く石段をトレーニングに利用している場所だった。
「こんなのが祀られてたんだ」
本尊が開帳するのは数年に一度だけだ。まだその機会に遭遇したことはない。ほぼ毎日のように訪れ、ついでに参拝する神社だが、自身が手を合わせていた対象を深津のスケッチで初めて知った。
まじまじと鑑賞する。如来の、やや重たそうな瞼。合いそうで合わない、半分伏した目線。妙に均衡の取れた静かな顔立ち。
ふと思った。
——なんか深津さんに似てる。
唇だけが少し違う。彼のそれは、描かれた像より少しだけふっくらしているはずだ。しかし、見れば見るほど、彼の自画像と言われても違和感がない。途端に、慈愛に満ちているはずの如来像が、腹に何かを抱えた切れ者に思えてくる。小さく吹き出し、密かに笑う。——そんな、5億年先に起こることも知ってます、みたいな顔しちゃって。
如来の頬を人差し指でなぞる。当然、反応はない。これは平面に描かれた絵だ。けれど、本人に同じことをしても大差ないだろう。彼はきっと動じず、表情を変えない。
深津のことを考える。ずっと、彼に対して思っていることがある。
——あなたの掌の上にあるモノの中で、おれはいっとう、特別ですか?
彼にそう訊いたら、動揺してくれるだろうか。
いいや、答えは分かっている。その期待は勘違いだ。彼が、『特別な寵愛を自分が受けている』と、あらゆる人間にそう思わせることができるだけ。
『一視同仁』という言葉がある。
全ての人間を分け隔てなく慈しみ、差別なく平等に愛する、という意味だ。深津はそれだった。
如来に祈りを捧げる時、人はそれと1対1になる。自分の祈りが誰よりも特別に輝いて届くはずだと信じる。けれど、一歩引いてみれば分かる。その愛は、天上からあらゆる人に平等に降り注いでいる。
——それでも。
沢北は瞼を下ろした。
そうして首を伸ばし、描かれた如来の口元に、自身の唇をそっと触れさせた。
薄目を開けて離れる。唇だけが深津に似ていない如来が、相変わらず表情を変えずにそこにいる。
唐突に正気に返る。
「……いや、おれ、何やってんの」
血潮が顔に急激に集まる。慌てて辺りを見回し、無人の廊下にホッと胸を撫で下ろした。急いでその場を離れる。
——変だ。今、誰かに操られたように勝手に体が動いた。
せかせかと先を急ぎながら、沢北はまだ、そんなふうに1人で言い訳しながら、自身の行動を誰かのせいにしたがっている。
・
この髪型は、少し伸びただけで不恰好になるというデメリットがある。髪が伸びるたびに、沢北は深津の袖を引いた。床屋へ行けと言われても聞かなかった。
そうやって、いつしか月初の最初の日曜日は、沢北の髪の手入れ日として2人の間に定着していったのだった。
「いよいよキャプテンすね、深津さん」
栄光の夏が終わり、世代交代が行われた。次期キャプテンの適任は、深津しかいなかった。全員が納得する人選である。もちろん沢北も『深津さんに決まってる』と当たり前のように思っていた。彼はキャプテンに内定し、もうすぐ正式に、この山王工業高校バスケ部をまとめる頭領となる。
「これからはキャプテンて呼んだ方がいいですか?」
深津は返答をせず、淡々と髪の手入れに向き合っている。鋏を細かく動かし、時々電動バリカンも使う。正面に立たれると、彼はやっぱりあの絵に似てる。と密かに思う。あのスケッチを描くときも、こんな顔をしていたのだろうか。
「…おれ、髪伸びんの早いっすよねっ」
つい、彼の作品の話題を出しそうになって、全然違うことを口に出す。後ろめたくて、1人で勝手にほんの少し気まずい。
「しょっちゅうスケベなこと考えてるやつって髪伸びるの早いらしいっす」
深津が会話に参加しないせいで、独り言を喋ってるみたいだ。仏像に話しかけているのではあるまいし、返事くらいしてほしい。
「ほんとかな。ほんとかも。おれ結構スケベだし…」
自分でも何を言っているのか分からなくなる。
「深津さん?聞いてます?」
五月蝿いと思われてないか不安になって、真剣に訊いてしまった。深津が鋏を沢北の前掛けで拭い、大きく一息ついた。
「悪い。考え事して聞いてなかったベシ」
「…何考えてたんすか」
「おまえに枷を嵌めるならどこが1番似合うか」
「へ?」
——カセ?
頭の中でその音を変換できないでいると、突然、前掛けを剥ぎ取られた。そうして、膝の上に乗せていた両の拳の、その手首を纏めて握られる。
「手はイマイチ。沢北の手はボールをよく掴む良い手ベシ。拘束するには惜しい」
「な…何の話ですか…?」
「ようやくキャプテンになれる。おまえも、みんなも、俺のものベシ。だから、俺には責任がある。沢北、おまえには特に」
「せ、責任…?おれに…?」
「飼い犬につけるリードみたいなもんベシ」
話についていけずに混乱する沢北の目の前で、彼が跪いた。右の足首をギュ、と握られて、びくりと体を跳ねさせる。
「悪くないベシ。少し似合う。だけど、足につけたら飛べなくなる。だからここでもない」
深津がすっくと立ち上がる。素早く手を伸ばし、足と同じように握りしめた。沢北の喉を。
「…っ」
「犬なら、やっぱりここか?」
彼が首輪のことを言っているのだと悟り、背筋に震えが走る。喉が反らされて、視線がかち合った。彼のその熱心な目線に、鳥肌が立つ。沢北は初めて彼に対して『怖い』と感じている。心臓がうるさい。
どうしてだろう。——変だ。やっぱり、それが嫌ではない。
「すごく良いベシ。でもやっぱりベストじゃない。おまえを制御するには役不足ベシ」
喉を掴んでいた掌がそっと離れる。そうして、この上なく穏やかな手つきで、彼の両手が手入れされたばかりの沢北の頭に触れる。額の中心に親指を揃えて、頭の外周を手のひらで包み込んだ。
「ここがいい」
深津が満足そうにそう言って、まるで額に言葉を吹き込むように、唇を近づけた。
「沢北。枷を嵌めるのは、おまえの頭だ。おまえの思考に、精神に、刻み込んでおくベシ」
彼の吐息がかかるほど近い。
「おまえは良く成長したベシ。この山王で縮こまらずに、誰にも負けない良い選手になった。もちろんまだ足りないモノもある。それでいい。そのまま行くベシ。俺たちが必ずサポートする。おまえを制御してみせる。暴れたくなったら、思い出すベシ。この“枷”が、むしろおまえを自由に戦わせる」
彼の言葉が、また勝手に滲みてくる。
もし神や仏が本当にいるなら、こんな声をしているはずだとさえ、思う。
「好きにやるベシ。山王はただの通過点ベシ。おまえにはアメリカが待ってる。行く末は計り知れない。勝っても、負けても、おまえの未来の糧になるベシ」
「…負けても?負ける訳ない」
「1億通りの未来があれば、1回くらいは負ける。可能性は無限だから、否定はできない」
「やだ。絶対に深津さんたちと今年もまた優勝する」
そんな1億分の1の細い通り道を、自分がいる山王に行かせるわけにはいかない。——死んでも。弱気からではなく、慎重さと謙虚さ、そして起こりうる可能性に対するフラットな目線からの発言だったとしても、キッと深津を睨み上げずにはいられなかった。
瞬間、息を呑む。
頭を包んでいた手が緩んだのと同時に、親指の添えられていた額の真ん中に、彼が小さく接吻したのだ。
時間さえ止まった。
「頼もしいベシ」
ぽかんと、顔を見返す。彼の行動と、表情は全く一致しない。甘さも苦さもない完全な無だ。沢北は無意識に額に手のひらを当てた。ジンジンとそこだけ熱い気がする。「じゃあ、また明日」と去ろうとする深津の、手首を咄嗟に捉えた。
「待ってください」
握りしめる手に力を込める。
「待って。待ってください、深津さん」
パイプ椅子に腰を据えたまま、俯く。顔なんか上げられない。訳がわからない。今までだって難しいことや意味不明な言動ばかりだったけど、今のが1番わからない。
——こんなふうにされても、期待するなと?まだ「自分は一視同仁のうちの1人でしかない」と信じ続けろと?
「深津さん」
まただ。口が勝手に彼を呼ぶ。熱くなった体が勝手に動く。強く手を引いて、彼を引き寄せた。迷子の子どもがやっと見つけた親に縋り付くように、彼の腹に頭をつける。腕の中に巻き込んで、腰にぎゅうぎゅう抱きついた。
「もう一回してください。おでこじゃなくて。深津さん」
ぐいぐい頭を押し付けて、何度も何度も名前を呼ぶ。どこに、なんて言わなくても聡い彼は悟るはずだ。口には出さない、目には見えない願いを。
「……大好きなんです……」
一体いつの間に、こんなに。
誰かの名前を呼ぶだけで涙が出たのは生まれて初めてだった。
温かい手が、そっと慈しむように俯いた頸を撫でる。その手のひらに誘われて、顔を上げた。多分、そうするのがいいと思って、目を瞑る。
触れた唇は、きちんと人間のそれだった。柔らかく、優しい温度だった。1度触れ、離れて、2度。3度目は自分で追いかけた。
「…」
脳みそが生ぬるい湯に浸かったみたいに朦朧としていた。しばらく瞼を開けられず、夢から覚めるみたいに視界を開いたそこに、黙ってこちらを見つめる深津がいた。
我に返る。
——なんてことを。
血の気が引いたのに、顔の中では、その血が急激に沸騰した。紅潮した顔を覆って、沢北は背中を丸めた。あまりにも、あまりにも恥ずかしかった。
「すいません、おれ」
完全に気が動転している。
「本当にすみません、変なこと言って、変なことさせました」
もごもごと、手の中で言い訳する。
「なかったことにしてくれますか…」
自分で強請ったくせに震える声で乞うと、深津はすぐさま、静かに「了解」と返した。まるでミーティングの時のそれだ。沢北の我儘をものともしない。動じない。
——やっぱりそうだ。こんなこと、彼にとっては何でもないことなんだ。どうせ、お願いされたら誰にでもそうやってキスするんだ。もうワケわかんない、この人。変だよ。
「うーっ」
顔をくしゃくしゃにして唸った。深津は立ち去らない。そうして、静かにこう言った。
「なかったことにはできる。けど、一生忘れない」
「…へ?」
涙と鼻水で濡れそぼった顔を、恥も忘れて上げる。
「…ベシ」と、しばらくして思い出したかのように深津が付け加えた。
・
「ところで」
ミーティングを忘れていたことについてひとしきり小言を述べた後、深津が話題を戻す。沢北は、最後の桃のかけらを「あーん」と口の中に入れて、頬を膨らませたところだった。
「種、口の中に入れたままミーティングには参加できないベシ。ガムでも食ってるとみんなに思われるベシ。こういう場合、どうするのが良いと思うベシ?」
沢北はキョトンとしながら、甘い果肉を咀嚼し、ごくんと飲み込んだ。
「…おれだったらペッてしますね。そのへんに」
「急に寮の裏庭に桃の木が生えてきたら管理人さんがビックリするベシ」
「楽しいじゃないですか。3年後に未来の後輩に収穫させましょうよ」
「ふむ」
深津が、指先で顎に触れる。思考する時の、彼の癖だ。
「俺はこういう時、誰かに押し付けるのが1番良いと思うベシ」
「…」
“誰か”って、ここには自分以外誰もいない。言葉の意味が、遅れて脳に届く。
「…はい?!ちょっと待って」
警戒して距離を取ろうとする前に手を捉えられた。まるで噛み合った社交ダンスみたいに、体が彼に引き寄せられる。
「何考えてんすか!ちょっ、やめっ…マジで最悪…んむっ」
文句は物理的に塞がれる。誰かが見てたら一体どうするつもりなんだろう。器用に唇がこじ開けられる。なんて御無体な。
抵抗すれば、それだけ長引く。沢北は降参して、彼の舌を迎え入れた。
「…?」
ひとしきりキスを交わして、首を捻る。唇を解き、真正面から彼を見つめた。
「…無いじゃないすか。種」
「とっくにペッてしたベシ。おまえに訊く前に」
「っはぁ?!」
流石に大きな声が出た。
あんたって人は、と食ってかかろうとする沢北に、しれっと深津が言い訳する。
「チューしたかっただけベシ」
「…!」
なんて人だ。こんなの、怒れない。全くもって、彼は沢北の扱いに長けている。またしても手のひらの上で転がされて、おちょくられて。勝てない。どこまで行っても。もうどうしようもない。誰かどうにかしてほしい。
彼を、ではない。
こんなふうに揶揄われても、嬉しくてたまらない自分をだ。
深津は上機嫌に沢北の手を引いて先へ歩いていく。
——まったくもう。
沢北は自分に呆れて、少しだけ頬を緩ませる。
そうして、朝日の差す方とは逆の空に顔を向けた。今年のインターハイの会場は広島だ。
西を目指そう。得難い仲間と共に。ワルモノ退治といこうじゃないか。
天竺へ至りたいわけでも、稀有な宝を手にしたいわけでもない。
彼の手のひらの中こそが、誰もが羨む桃源郷だったと証明するために。
fin