不器用な、俺たちの「ただいま」
人の気配のない二〇四号室の明かりを点けながら紬はちいさく呟いた。
返事がないとわかっていて口に出してしまうのは、昔からの癖のようなものだ。拾われなかった言葉は、一人きりの部屋にぽとんと落ちて消えてゆく。
就職をして一人暮らしを始めた頃を思い出す。演劇とは関係のない仕事をして、電車に揺られてひとり暗い部屋に帰る。そんな時は無性に、喧嘩別れをした幼馴染みが恋しくなった。
心なしか肌に触れる空気までいつもより冷たく感じて、紬は指先を擦り合わせた。陽が傾きかけた冬の庭で庭仕事をして洗ったばかりの両手はなかなかあたたまらない。思わずため息がこぼれる。
ひとりぼっちの左手と右手で体温を分け合うのは早々に諦めて、紬は白いじょうろを手に取った。いつもより少し早い時間だけど、お部屋の子たちにもお水をあげなくちゃ。
今夜は丞と出かける予定がある。ある、はずだ。
出かける支度をしながらもどこか自信が持てない原因は紬自身が一番よくわかっている。
昨晩、丞と喧嘩をした。
じゅうぶんに自覚をしていることなのだけど、紬は頑固なタチで、だけど紬に言わせれば丞も同じだ。きっかけはささいなひとことだったが、互いに譲れなくて気がつけば言葉を重ねてしまった。毎朝、紬には考えられない時間に起きてランニングに出かける丞とは、今日一度も顔を合わせていない。
じょうろを傾けながらぼんやりと考える。高遠、月岡、今日は外泊です。夕飯はいりません。団員たちには伝えた予定は、変わってないだろうか。
手に馴染んだじょうろがちょうど空っぽになった頃、丞が部屋に帰ってきた。
勢いよく開いた扉の音に驚いて、紬は植木鉢の前でしゃがんだ姿勢のまま、扉を背に立つ丞を見上げる。丞はふいと目を逸らした。
「……ただいま」
「おかえり」
いつものあいさつがぎこちない。
紬はじょうろを置いて、デスクに置かれたトートバッグに視線をやった。中身を揃えて準備をしたのは昨晩。丞と言い争いになる前だった。その時の浮かれた気持ちを思い出し、悲しくなる。
ふいに、正面から手が伸びてきた。
目を丸くする紬の前でトートバッグが軽々と持ち上げられる。
「もう出られるのか」
ひとこと、かけられた言葉に慌ててうなずく。丞は紬の荷物を持ったまま、すでに扉の方へと歩き出していた。
「う、うん」
「なら、行くぞ」
よく鍛えられた広い背中を追いかけて部屋を出る。寮には嗅ぎ慣れた夕飯の匂いがただよっていた。今日もカレーか。同情を含んだ丞の呟きに、思わず笑ってしまう。
「ちょっとだけ、みんなに悪い気がするね」
「だな」
玄関で、ちょうど帰宅してきた咲也と顔を合わせた。
「おふたりはやっぱり仲良しですね」
「お出かけ、楽しんできてください」
微笑む紬の隣で「佐久間も、バイトお疲れ」丞はバイト帰りの咲也を労った。
玄関の扉を閉め鍵をかける。駐車場までの道をふたりは黙って歩いた。夜の始まり。外はひやりと冷たい空気に満たされていたけれど、腕がふれる距離にいる丞の大きな体が風よけになってくれているお陰で寒くはない。
夜に紛れるように静かに、丞のワゴンは迷いなく目的地へと進む。そのことに、紬は安堵した。
普段ふたりで外泊をする時は、先にどこかで夕食をとるが、今日はまっすぐに隣町のホテルへと向かった。
なんとなく、丞がそうすることを紬はわかっていたし、そうして欲しいと思った。早く丞に触れたい。強くハンドルを握る丞の手を、はやる気持ちで紬は見ていた。
少し大きな丞の唇に自分のそれを押し付けたのと、待ちきれなさが滲む声が紬の名前を呼んだのと、どちらが早かっただろう。扉が閉まると同時に丞の首に腕をまわした。丞の手が、コートとシャツの間にするりと入ってきて、熱を押し付けるみたいにきつく腰を引き寄せた。
「たーちゃん」
キスの合間に呼んだ名前が思った以上に甘えてねだるように響いて、耳が熱くなる。だけど丞は紬の羞恥など気にもとめていないようで、返事の代わりに低く唸ると紬の腰を抱きベッドへと運んだ。
ふたりもつれ合うように清潔なシーツに沈む。心臓が紬を急かすようにとことこと走り出す。丞の心臓も、同じように早鐘を打っているのが伝わってくるようだった。夢中で名前を呼び合って、その間もどこかしら相手に触れていたくて指を、足を絡める。止め方なんてわからない。
「丞、たーちゃん」
「なんだ。つむぎ」
「仲直り、しよ」
してる、いまと丞はたぶん言った。心臓が耳元でうるさく鳴るから、丞が紬の体のあちこちに噛み付く合間に言うものだからもう、訳がわからない。
咲也くんからは、俺たち仲良しに見えるんだって。
たしかに性格は正反対なのに、丞と喧嘩をすることなんて滅多にない。日常のささいな言い合いはあっても、拗れることは稀だ。丞が折れるか、紬がアッサリと考えを変えるか。
互いに譲れない、心の真ん中の大事なものに触れてしまったとき。きっと喧嘩になるのはそんな時だ。
離したくないというふうに、紬の足は丞の腰をしっかりつかまえている。くっつきすぎて、動きづらいはずなのに丞の動きはいつも以上に激しい。仲の良い幼馴染みなんて言葉だけじゃおさまらないことを、ふたりでしている。
不器用だなぁと紬は思った。めったに喧嘩なんてしないから、俺たちの仲直りはいつまで経っても不器用なままだ。
同じ十二日をループしたことを思い出し、紬はこっそり笑みをこぼした。何にも知らない世界中のひとたちと不思議な力をもつ年下の男の子を巻き込んだ盛大な仲直り。
紬の意識が逸れたのが気に食わなかったのか、丞の汗ばんだ手が頬を挟んだ。噛みつくようなキスに思考がとろとろと蕩けてゆく。もう、目の前の恋人以外のことは考えられそうになかった。
これはもしかして痴話喧嘩というやつだったのかも。仲直りをして冷静に思い返してみれば、恥ずかしくなって紬はひとりシーツの中で赤面していた。でも、だって。大事なことだったのだ。
受け身を選んだ紬を気遣った丞の言葉を紬は素直に受け取ることができなくて、試すような言葉を返してしまった。
「ほら、飲めるか」
丞が水の入ったペットボトルを差し出してくれる。受け取って飲む間ずっと、丞の愛おしげな視線が真っ直ぐに紬に注がれていた。うなじがじわっと熱くなる。
悪かったな、と丞は言いながら半分に減ったペットボトルを取り上げた。腰を支えられて、ふたたびベッドに寝かされるのを、大げさだよと笑い飛ばせないくらい体は疲弊していたので、されるがままでいる。
「俺、こういうこと、無理してしてるわけじゃないよ」
「ああ、今日でよくわかった」
恥ずかしくて素直に伝えることが出来なかった、丞に抱かれるようになってはじめて知った感覚を、今日は隠す余裕もなくてぜんぶ言葉にした。そのひとつひとつに、丞はきっと煽られて、強く紬を求めてきた。
「俺も。他の誰でもない、お前としたくてしてるんだからな」
「うん。ごめんね」
返事の代わりに丞の指先が耳をくすぐって、紬は肩をすくめた。どちらからともなく唇を重ねる。
もう、三角耳の青いあの子に会うことはきっとないだろう。
もしどこかで出番を待っていたら、申し訳ないけれど。