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    natukimai

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    2022年2月に思い余って書いた妓夫太郎受け小説です。キメツ学園ベースで宇髄×妓夫太郎,炭次郎×妓夫太郎で小話が続き、最終的には宇髄で落ち着きます。PIXIVでアップしていたものですがポイピクでも読めるように転載します

    黄昏月鬼譚[事の始まり]

     ごうごう、と炎が音を立てて燃え上がる。
     目の前が真っ赤になる、その風景を何度眺めたことだろう。
     何千回? 何万回?――いや、憶か?
     今や、一日の始まりとしか感じなくなった責め苦に、妓夫太郎の唇は歪な笑顔になり、その炎が自分の身を焼き尽くすのを想像する。
     おそらく、ここは人の世から見れば地獄というものなのだろう。
     だが、言い伝えの物語の中にあるような鬼は一切いない。
     死人を責める極卒も体を切り刻む鬼も、死人の衣服を剥ぎ取る奪衣婆もいない。
     人の世を去った後、途方もない距離を妹の梅を背負いながら歩き続けた。周囲は暗く、足元は見えなかったが、ごつごつとした岩場を歩いている事だけは分かっていて、足裏からは血が吹き出すまで歩いた。
     ここが地獄かと半ば拍子抜けした面持ちで歩いていたが、ある日、突如として呼び止められ、唐突に地面から吹き出した炎に身を焼かれたのだ。
     これが人の世で妓夫太郎が犯してきたことへの罰なのだと、誰から教えられたのでもなく地獄なのだと理解できた。
     背で妹の絶叫が響き渡る。
    「や、やめろ! 妹……梅だけはやめろ!」
     炎に喉を焼かれつつ、妓夫太郎は天へと声を張る。
    「俺が悪いんだ! 俺がいたから梅は鬼になった! 罰なら梅の分も俺が受けるから!」
     あああ、やっぱり、あの時、梅を突き放せば良かったんだ。
     梅はあの明るい方へ――おそらく、地獄とは縁のない、人の世へと戻れる輪廻の世界へと踏み込めた筈なんだ。
     俺が、俺が!
    「嫌だ! 絶対、離れない!」
     梅の声が響き、その腕が妓夫太郎の首へと強く、しがみ付くようにして回される。
    「言ったじゃない! 絶対、離れないって! お兄ちゃんと離されるぐらいなら、アタシ、死ぬからね!」
    「……ホント、おめーは頭が足りねぇなぁ」
     俺達はもう、とっくに死んでんだよ。
    「それでも……おめーに、またあの時の責め苦を負わせてなぁ、わりぃなぁ」
     もう立っている事も出来ず、妓夫太郎は膝をつく。全身を覆う痛みよりも呼吸が出来ない苦しみで胸を掻きむしりながら喘ぐ。
     間もなく、背の妹から何の返事もなく、嫋やかな体が自分の背へと圧し掛かってきたことで、妹がこと切れたことを知った。
     いや、これは仮の死だ。
     時折現われる、辻説法で聞いたことがある。地獄に落ちた罪人は鬼どもにいたぶられ死に至るが、すぐに生き返って鬼の責め苦を受け続けるのだ。
     だから、いずれ妹は生き返ってくる。そして、自分と同じように何度も火で焼かれ続けるだろう。
    ――それが、何百と人を食ってきた俺達の罪。
     やがて、妓夫太郎自身も燃え尽きて地面へと倒れ伏すが、気が付けば元の姿のまま、妹を背負ったままに立ち上がっている。
     ごう、と火が噴く。
    「や、やめ! 梅は!」
     幾度となく繰り返す責めに、妓夫太郎は姿を見せない「何か」に向かって嘆願するが、炎の勢いは止まらず、何度となく妹を焼いていく。
    ――鬼の時のように。
     妓夫太郎は思う。
    ――俺が梅の体の中で眠っていたように、梅を俺の体の中に仕舞い込めたらなぁ。
     延々と続く責め苦に、思考が掻き消されながらも、妓夫太郎は妹――梅のことだけを考え、妹の為だけに天へと嘆願する。
     その声を聞き届けたのだろうが、ある日、背にあった妹の重みが軽いものであることに気付いて、そっと手を伸ばすと、白い玉だけが妓夫太郎の手の中にあった。
    ――梅だ。
     他の誰もが否定しようと、妓夫太郎には分かる。白い小さな玉は梅の成れの果ての姿だ。
    ――梅、梅……分かるか?
     妓夫太郎は玉へと話し掛けるが、白く霞むように輝く玉は何も返してはくれない。
    「そうかぁ、あまりの辛さに記憶が薄れているんだなぁ」
     きっと、死者はこうして記憶を失い、再び、人として生まれ変わるんだろう。
     妓夫太郎は愛おしげに玉を撫でると、おもむろに口元へと運び、次の瞬間、飲み込んでしまった。
    「どうやったら、おめーを輪廻の輪へと戻すことが出来んのか分かんねーから、いつか、くる――その日まで腹ん中にいろよなぁ」
     ごう、と炎が妓夫太郎を包むが、彼の表情には一切の苦悶もなく、寧ろ笑みを湛えた表情のままに腹を撫でた。

     あの時から、数え切れないほどの炎が妓夫太郎を焼いた。
     焼かれては再生を繰り返しつつも、妓夫太郎は彼である記憶を失わないまま、荒れ果てた荒野を睨みつけ、責め苦を与え続ける「何か」を殺す夢を見続けていた。
    ――今日も、また来る。
     妓夫太郎は慣れたように全身を焼く痛みに耐えるよう、自分に言い聞かせていたが、一向に炎は現れない。
     これはどういうことかと首を傾げていると、妓夫太郎の頭に直接響く声があった。
    『恩赦が出ました。貴方は現世へと生まれ変わります』
     幾ら呼んでも恨んでも現れなかった「何か」に、妓夫太郎は一瞬、言葉を失ったが、すぐさまこみ上げてくる怒りに全身を震わせ、声を荒げた。
    「何を今更! 幾ら呼んでも来なかったくせによぉ」
    『貴方は犯した罪を償う為にここにいるのですよ』
    「俺のことはいいんだよ、でも、梅はなぁ」
     言いながら妓夫太郎は自分の腹を撫でる。
    「弁解の言葉ぐらい、聞いてやっても良かったんじゃねぇか!」
    『弁解する意思のない者から聞く必要がありましたか』
    「梅じゃねぇよ。俺が梅の減刑の申し開きがしてぇって言ってんだ……もう、おせぇがなぁ」
     梅は記憶を失ってしまった。今は妓夫太郎の腹の中で次に転生する準備を始めてしまっている。
    『恩赦が出ました。貴方は現世へと生まれ変わることが出来ます』
    「俺は――いい」
    『そういう訳にはいきません』
    「なら、次は鬼がいいなぁ」
     言いながら妓夫太郎は顔を掻きむしる。
    「人間はこりごりだぁ。鬼になって、てめーやてめーの眷族どもをぶっ殺すのがいいなぁ」
    『そう言うわけにはいきません』
     おそらく、そう言われるだろうと分かっていた妓夫太郎は、にやにやしながら相手の言葉を聞いていたが、次の瞬間、固まった。
    『鬼はもういないのです』
    「なっ!」
    『貴方が現世で死んで程なく、鬼は死に絶えました』
     脳裏に鬼狩りたち、中でも額に火傷の跡のある少年と、片手片目を失った銀髪の男が浮かび上がる。
    「奴ら、やったのか」
     途端、足元の地面が音を立てて崩れ落ち、妓夫太郎の体も崩れて出来た穴へと飲み込まれていく。
    「待て! 俺は現世なんぞ行きたかねぇ」
     妓夫太郎は己の腹へと爪を立て、中から白い玉を取り出して天へとかざした。
    「でも、妹は! 梅は現世へと連れてってやってくれねぇか! おいっ!」
     だが、長い間待ち続けてきた「何か」は、再び妓夫太郎の前には現われず、代わりに彼の視界はどんどんと闇の覆われ、ついには閉ざされてしまった。




    [光り瞬く記憶。(妓夫太郎と宇随)]


     赤、青、黄色、緑に紫、そして目まぐるしく瞬く光。
     実際、目にしたわけではない。それはイメージなのだとわかっているけれども、長い間、夢として妓夫太郎の心の奥底で光り輝いていた。
     目にした途端、四肢に力が沸く。心臓の鼓動が力強く鼓動し、胸の中が熱い何かで満たされる。
     夢の中で妓夫太郎は力強く地面を蹴りだし、腕を振り上げ、勢いのままに光のイメージへと振り下ろすと、硬い何か――おそらく磨き抜かれた刃に弾かれ、火花が飛び散る様さえ美しいと思えた。
     綺麗だ。妬ましくなるくらいに美しい光景に心を奪われていると、耳元で今では聞き慣れた電子音が鳴る。
    (あぁ、朝か)
     手を伸ばし、枕元の充電器にセットされたスマホへと手を伸ばし、妓夫太郎はアラームの音を止めた。
     重い目蓋を押し上げ、辺りを見回すと部屋の中はまだ薄らと青い闇が覆っていた。時刻は夜明け前、凝り固まってしまった肩を回し、軽く背伸びをしてから妓夫太郎はベッドから足を下ろして洗面所へと向かう。
     空気の温さに春を感じながら身支度を済ませると、妓夫太郎は別室で寝ているだろう妹を起こさないよう、そっと住み家としているマンションから抜け出した。
     ビルの合間から見える空には青のグラデーションが刷かれ、間もなく夜明けが来ることを告げていた。
    (高校に入ったらバイクの免許でも取るか)
     その方が今、続けているバイト――新聞配達にも有利になるし、バイト代も高くなる。
     マンションの置き場から自分の自転車を引っ張り出すと、一つ、溜息を吐いてから妓夫太郎はペダルを漕ぎ出した。
    ――妓夫太郎は現代へと転生していた。
     特別、裕福な家庭に生まれたいとは思っていなかったが、実際に転生してみると妓夫太郎は孤児だった。
     幼い頃の記憶はない。気が付いてみれば、孤児院で妓夫太郎は転生した梅を妹として施設で暮らしていたのだ。
     だが、何度となく親に殺されそうになった妓夫太郎にとって、優しく接してくれる大人がいるだけ、親なしの今の状況の方が幸運とも言えた。ただ、梅だけはふた親の揃った普通の家庭に転生して欲しかったが、前世の際に「何度生まれ変わってもお兄ちゃんの妹になる!」と絶叫した梅の決心を思うと邪険に出来ず、それに今更、兄妹でなかったことにする訳にもいかなかったので、そこは諦めて妹に新しい家族が出来る事だけを祈っていた。
     案の定というか、梅の外見の美しさから何件もの里親の候補が上がったが、梅の「お兄ちゃんも一緒でなきゃいかない!」という言葉により、無事に縁組とはいかなかった。
     自分は醜い。肌には血のような痣が点在し、歯は獣のようにギザギザだ。人を下から睨みつける目付きは相変わらずで、転生前の子供時代のように不潔ではなかったが、それでも親になろうという人などいなかった。
     施設の人間からも頼まれ、何度か梅を説得したが、その度に「絶対に離れない」と泣かれて失敗した。
     これは自分の義務教育が終わる時には妹共々施設を出て、自活の道を探すしかないなと思い始めた頃、兄妹二人とも引き取りたいと申し出る人間がいた――童磨だ。
     いや、童磨に前世の記憶があるのかないのか。何度か鎌をかけてはみたのものの、のらりくらりと躱されて真実は闇の中だ。
     本当に親切心からなのか、何か別の思惑があるのか。
     しかし、童磨自身が独身だった為、里親の資格はなかったので養子縁組の話は流れてしまったのだが、可哀想だから救ってあげたいという彼自身の積極的な働きかけによって、それでは彼の住まいに下宿と言う形で住居費や生活費などを援助してもらうことになり、今に至る。
     童磨自身、前世で世話になった記憶から嫌いではなかったが、彼の性格を鑑みるに、金銭面を援助してもらう事イコール借りを作ることに大いに抵抗を感じた妓夫太郎は、最低限の援助を受ける以外はバイトで妹を養っていたのだ。
     お蔭で諦めかけていた高校を、奨学金を受け取りつつも通う事が出来たし、この分なら妹も高校へと進学できるだろう。
     大きな借りは作らないように慎重に行動しながら、妓夫太郎はこの春には高校へと進める事に希望を抱いていた。


     中高一貫校を選んだのは、少々学力が振るわない妹の為だった。私立なので入学金がある事は痛かったが、その分は童磨から借金をした。
     妓夫太郎自身は勉強をする事自体嫌いではなかった。むしろ前世では知ることが出来なかった世界を知り、様々な知識が吸収できることが楽しかった。
     ただ、優等生ぶるのは己の性格上、虫唾が走る程に嫌いだったので、事あるごとに近隣の不良相手に喧嘩を仕掛けては、己の評価を下げていった。
     今も妓夫太郎の近くに寄り付く人間はいない。みんな、怖れ、面倒ごとを避ける様にして遠くから眺めているだけだった。
     それで良かった。妓夫太郎にとって大事なのは妹だけであり、今は彼女を立派に独り立ちさせ、幸せにすることしか頭になかった。
    ――あの男に声を掛けられるまでには。
     昼休み。弁当を食べる場所を探して校内をうろついていた時だった。
     キラキラと様々な色が交じりあった光が自分の目の前を横切り、聞き覚えのある爆発音に身構える。
     攻撃だと判断したのは前世の記憶からだったのだろう。素手のまま、鎌を構えるようなポーズで音がした方角へと視線を向けると、そこには遠い記憶とよく似た男が茫然とした風に自分を見下ろす様子だった。
    ――宇髄天元!?
     忘れもしない。自分が鬼であった頃に最後に相対した人間。正直、その美貌や妻が三人もいる境遇から妬ましいと思いはしたが、不思議と憎いという感情は一切なかった。倒されたという事実はあったが、彼は彼自身の使命によって自分と相対し、自分も狩られる前に相手の命を仕留めに行っただけであり、結果、自分が倒されたわけだが、それでも己の計算違いに嘆くことはあっても、宇随自体を恨むことはなかった。
    ――それにしても。相変わらず派手だなぁ。
     制服を着ていないことから、彼がこの学校の生徒ではない事は分かる。白のパーカーを羽織り、そのフードからは銀髪が光りを弾いて揺れているのが見え、肌の色は相変わらず綺麗で、左目の回りに施された化粧が映えていた。
     何よりも目を引くのが様々な輝石が施された額当てだろう。外から差し込んでくる光を受けてキラキラと様々な色の光が瞬いている。
    ――なるほど、この光に目が奪われていたわけかぁ。
    「おい、お前」
     昔の記憶を掘り起こし、今と比べて変わった点を探し出そうとしていた妓夫太郎に、宇随が一気に距離を詰めていた。
    「な、なんだぁ」
    「お前、その……絵のモデルになる気はねぇか」
     思ってもみなかった申し出に、一瞬、妓夫太郎の思考が飛んだ。
    「黙っているってことは了承したってことだな。じゃあ、早速」
    「――ま、待て待て、なんでそうなる。何で絵のモデルとか、俺に一番縁遠い事をさせようとするんだぁ」
    「何でって……気に入ったから?」
    「質問に疑問形で返すな」
    「いや、でもな。この俺様だぞ?」
    「はあ?」
     自信満々に自分を指す宇随に毒気を抜かれたように脱力すると、そのまま壁まで押しやられて顔を間近まで迫られた。
    「この学園一の派手な色男でスタイルも抜群、絵の腕も一流の美術教師の俺様だぞ? 絵のモデルに指名されて感謝されることは勿論、断ることなんぞ論外だろう」
    「どこまで自信過剰な男だぁ、そんなとこも変わんねぇんだな」
    「えっ?」
    「いや、なんでもねぇ。兎に角、絵のモデルなんぞ、到底身に合わねぇことはしねぇよ」
    「身に合わない?」
    「合わないだろうが。目ん玉ついてんのか? この容姿を見てモデルとか、考えらんねぇんだよ」
     言うとじろじろと宇髄は妓夫太郎の頭のてっぺんから足の爪先を眺め、うんうんとうなずく。
    「地味だな、お前」
    「判断基準が派手か地味かしかないのかぁ、お前」
    「でも、面白い」
     ますます、妓夫太郎の肩が落ちる。
    「あのなぁ……この顔を見ろって。血みてぇな痣があるだろ? 普通、これだけでも相当マイナスだろ。それと、いつだって目の下の隈も取れねぇし肌艶もよくねぇ」
    「そうか? 骨格とかは整っているじゃねぇか。まぁ、俺のような色男を目の前にして気後れしちまったんだったら謝る」
    「ホント、妬ましい男だなぁ」
     クスクス笑いながら妓夫太郎は自分を見下ろす宇随を見上げた。
    「いいなぁ、その顔。肌もいいなぁ、痣も染みも傷もねぇんだなぁ。上背もあるなぁ。女にさぞかしもてはやされるんだろうなぁ」
     前世は兎も角。今は鬼も鬼狩りもいない。
     ここは何もなかったことにして通り過ぎるのが正解だろう。
    「妬ましいなぁ。自分がどれだけ恵まれてんのか、感謝しながら絵筆でも握ってろ。俺に構うんじゃねぇよ」
    「いーや、構う」
    「へっ?」
     言うや否や、宇髄は軽々と妓夫太郎を肩に担ぐと走り出した。
    「お、おい、馬鹿か。お前!」
    「口ぃ開くと舌噛むぞ! しばらく黙ってろ」
     妓夫太郎は痩せていて身は軽いが、それでも男1人を担ぎつつ階段を猛スピードで上がっていく宇髄の剛力に呆れつつ、下手に振り落とされないようにしがみ付いていると、宇髄は3階にある広い部屋へと入り、そこで妓夫太郎を床へと座らせた。
     いきなり何をするんだと声を荒げる前に、妓夫太郎は目の前で広がる光景に目を丸くした。そこにはある筈の壁がなく、外の景色が一望できる穴があった。
    「なんでぇ、これは」
    「俺が明けた穴だな。火薬で」
     さらっと怖いことを言う宇髄に、心底呆れた様子で妓夫太郎が「馬鹿か」と呟く。
    「芸術は爆発だからな。多少の犠牲はやむをえん」
    「だからって本当に爆発させるかぁ。作り上げてるモンも何も壊しちまうだけだろ……が」
     ふと、妓夫太郎は何か忘れていることに気付き、次いで床へと転がった鞄を見て慌てて取り上げ、中から布に包まれた四角いものを取り出した。
    「あー、この分じゃ、中身はぐちゃぐちゃだなぁ」
     包んでいる布を解き、中から四角い――弁当を取り出すと、妓夫太郎は中身を確認すると、盛大に派手にご飯とオカズとが混ざり合っていた。
    「す、すまない!」
     慌てる声に見上げてみれば、先程まで自信満々、傲岸不遜な態度だった宇髄が顔を青褪めさせながら弁当を覗きこんでいた。
    「何で謝るんだぁ」
    「いや、だって、俺の所為だろ」
    「まぁ、間違いなくそうだなぁ」
    「わりぃ! 折角の手作り弁当を」
    「まぁ、食えるから気にすんなぁ」
    「でもなぁ。お前の母親が作ってくれたんだろ?」
    「……俺に母親はいねぇ、父親もだ。家族は妹だけ」
    「え……ああ、じゃあ、折角、妹が作ってくれた……」
    「作ったのは俺だぁ」
     次に驚くのは宇髄の方だった。
    「お前が作ったのか? これを?」
     弁当の中身はぐちゃぐちゃだったが、彩りの良さ、オカズの品数の多さに相当の手間が掛っただろうことは想像に難くない。
    「妹……梅は料理苦手だからなぁ」
    「凄いな。これだけ作るのは手間だったろう」
     宇髄の問いに妓夫太郎は面白おかしげに笑う。
    「おかずは5品以上、彩りも良くなくちゃ周りに笑われるって言われているからなぁ。友達とおかずの取り換えっことかもしてるみてぇだし。それで今日も美味しかった、サイコーだったって褒めてくれりゃ、苦労した甲斐があるってあるってもんだ」
     妓夫太郎の話を聞きながら、ふうんと頷く宇髄だったが、いつの間にか和やかになった二人の間の空気に、腹の虫の音が高らかに鳴った。
    「……あーそういや、俺、食堂に行く途中だったんだわ」
     目を爛々と輝かせ、弁当を覗きこんでくる宇髄に呆れつつ妓夫太郎は「食ってみるか?」と問うと速攻で答えが返ってきた。
    「食う!」
    「ぐっちゃぐっちゃだぞ?」
    「そうしたのは俺だからな。俺が責任を取って全部、食う」
    「……俺はどうすんだよ」
    「お前は俺が食う筈だった日替わりランチを食え」
     宇髄は晴れやかな笑顔のまま、床に座り込んでいる妓夫太郎へと手を差し出すと、然したる苦労もないまま引き上げる。
    「食堂行く前に見せてぇもんがあるんだ」
     どうやら宇髄は部屋の奥――美術準備室へと案内したいらしく、早く来いと手招きをする。今更、断るのも面倒くさいとばかりに妓夫太郎は言う通りにすると、目に飛び込んできたのは見上げるほどのキャンパスで、そこに描かれたのは赤い光と様々な光が交錯する抽象的な絵だ。
    「これはな、俺がガキの頃から見ている夢の景色なんだ」
    懐かしいものを見る様に、宇髄が絵画を指差す。
    「そしてな、さっき、お前とすれ違う時に見た光景と同じものだ」
     意味ありげに笑う宇髄に、妓夫太郎の眉間の皺が深くなる。
    「気の所為じゃねぇの」
    「そんな筈はないね。確かに俺は見たし感じた。俺の感性は派手に外れたことがねぇんだ。そして、その直感はこうも言っているんだ。お前が何かを知っているということをな」
     耳の中に響くは斬撃の音。刃が触れた瞬間い飛び散る火花。命のやり取り、互いにギリギリをかけた刹那の時。記憶にはなくとも魂の一部に自分が生きていた証があるのだと思うと、胸の内が震えた。
     だが。
    「そんなことねーよ。俺はしがない地味な一般生徒にすぎねぇ」
     お前の前世と俺の前世とは交わって、殺し合いをしていたなんて言える筈がなかった。言ってどうする?  とも思う。
    「白状する気はねぇ……ってことか」
    「白状するも何も、お前の夢ん中のこととか知らねーって言ってんだよ」
     おもむろに妓夫太郎は立ち上がると、弁当を仕舞い込んだバックを宇髄に渡して美術室から出ようとする。
    「おい、待てよ」
    「弁当はやるよ。入れモンだけ後で取にくる」
    「奢るって言ってるだろ」
    「いらねぇ。ここで借りを作って後でいいように取り立てられちゃあ、たまったもんじゃねぇ」
    「借りじゃねぇよ。交換だろ? お前の弁当と俺の日替わりランチとをよ」
     出て行く妓夫太郎を宇髄が追い掛ける。
    「仮にも教師とあろう男が生徒にメシを奢ろうとか、問題なんじゃねぇかなぁ」
    「だから奢りじゃねぇって、交換だろ? 俺はこの弁当が食いたい。だから、代わりにって奴だ」
    「みょうちきりんなセンコーだなぁ」
    「普通でない結構! 他人と同じで何が面白い。ど派手生きた方が面白いじゃねーか」
     二人の軽快なやり取りを見て、二人を知る者は驚きの視線を送った。中でも妓夫太郎の笑みは珍しく、瞬く間に二人が意気投合して、食堂でも仲良く――妓夫太郎はそうは思っていなかっただろうが、していた光景は学園中に広がった。

     そして、この時から宇髄先生の妓夫太郎へのアプローチが盛んになり、やがて日常風景に溶け込んでいくのだが、まさか、宇髄も妓夫太郎がモデルを承認してくれるまで二年も掛るとは思わなかったのである。




    [真夜中の取り立て。(妓夫太郎と梅)]

     梅は兄である妓夫太郎が好きだ。強くて格好いい、優しくて面倒見がいい所が好きだ。素直に好きなところを口にすると、きまって兄は頬を掻きつつ、そう見えるのはお前だけだと苦笑したが、その笑顔でさえも素敵だと思う。だが、兄が言うように妓夫太郎の魅力を誰も理解しないのなら、それはそれで兄を独占出来たような気分に浸れて気分がいい。
     ただ、そんな兄でも嫌いな部分があって、梅の生活態度や勉強にいちいち口を出してくるところだった。
     勉強なんかより遊んでいたいと素直に口にすると、今、手にしている課題を終わらせたらなぁと軽く一蹴する。今も梅の部屋でローテーブルで額を突き合わせつつ教科書を覗きこんでいた。
    「勉強なんて、特に数学なんて意味ないわよ。将来、こんな関数とか使わないでしょ」
    「そうかぁ? 一回、ハマれば面白いぞぉ」
    「アタシは面白くない!」
     妓夫太郎は頭を掻きながら暫く考え込むと、梅の顔を覗きこんだ。
    「これは考える為の訓練だぁ。いいか、梅。学校を出れば考える事をしなくていいなんてこたぁねぇんだぞ。寧ろ、社会の方が柔軟に考える奴が出世していく。だから、ここで苦しんどきゃあ、後々楽になれるって寸法だ」
    「そうかなぁ」
    「それにな、今は女でもいい学校に行ける時代だぁ。いい学校に行ければ、それだけの箔がついて就職だって楽になれるぞぉ」
     兄は時々、古い価値観を持ち出して話すことがある。特に女は不利だ、とか女だてらにとか、女性の地位が低いかのように話すことがあるので戸惑うことが多い。
    「アタシ、大学にはいかないもの」
    「おい」
    「ねぇ、今も芸能事務所から声が掛るのよ。今どき、高校生デビューなんて珍しくない、このまま芸能界に入らないかって」
    「駄目だ!」
     滅多に妹には荒げない兄の怒号が響く。
    「お兄ちゃん」
    「あんな、人の美醜を食いモンにするような場所に可愛い妹をやれるか!」
    「そんな事ないわよ! 声掛けてきた事務所はちゃんとした大きな所だし」
    「人の話をほいほい鵜呑みにするようなお前じゃあ、無理だ」
    「そんなに心配なら……お兄ちゃんがアタシのマネージャーになればいいじゃない」
     前にも言ったけどさ、と、顔色を窺うように上目づかいで覗きこむと、思い切り不機嫌な様相となった兄を視線が合う。
    「俺も言ったよなぁ。俺には到底合わねぇ世界だと」
    「そんな事ないよ! お兄ちゃん地頭いいし! すぐに仕事も覚える様になるよ!」
     梅の頭の中には自分に合っている仕事と思っているとはいえ、兄と離れる事に不安があったので、妓夫太郎さえ芸能界へと引き込めば、梅には明るい未来しかないように思えたが。
    「俺ぁ自分の分はわきまえてる。キラキラとした人種しかいねぇ場所にはいかねぇよ。そんなことになりゃあ、俺は毎日他人を妬み通しで疲れちまうわ」
     そうして、口の中で小声で「前はそういう奴は速攻でぶち殺していたが、現世じゃあ無理だしな」と呟いた声は梅には届かなかった。
    「お兄ちゃん!」
    「俺ぁバイトの時間だ。夕めしはキッチンに揃えてあるから、あっためて食べろよな」
     やれやれと言った風に妓夫太郎は腰を上げ、梅の部屋から出て行ってしまった。
    「バイトバイトって……アタシ、もう大学いかないから無理して貯金しなくてもいいのに」
     閉まってしまったドアに向かって口を尖らせながら梅は愚痴ったが、もう、返る答えはなかった。
     兄は中学の頃から働き通しだ。最初の頃は新聞配達で、空いた時間に宅配業者の荷物の仕分けをこなしていた。全ては童磨から借り受けた借金を返す為で、その借金を返し終えた今では梅の大学進学の為の資金作りだった。
    「もう、働けるんだよ。お兄ちゃん」
     テーブルに突っ伏し、梅はノートの上へとシャーペンを転がすと、大きな溜息を梅は吐いた。
     幼いころから16歳となった今日まで、親代わりに自分を育ててくれた兄に、梅は恩返しがしたかったし、これ以上、自分の為に働いても欲しくなかったが、兄は頑なに梅に大学進学を勧めてくる。代わりに自分の進路は高校卒業後は就職だと担任の先生には伝えてあるという。学ぶことに楽しさを見出し、進んで挑戦していく地頭の良い兄の方が大学進学に相応しいと思うのに。
    「色々と上手くいかないわね」
     梅は大きく背伸びをすると、そのままごろっとカーペットへと突っ伏した。
     昔から兄は、自分に対して過保護すぎるという程に可愛がられてきた。多分、兄には妹のことで分からない事は何一つないだろうと思えるほどに、彼は梅の世話をする。
    『今度は間違いねぇ。ちゃんと育ててやるからなぁ』
     世話を焼く度、兄から聞こえる小さな声に梅は首を傾げる。
     今度とは何だろう。まるで自分以外にも育てていた子がいる様に聞こえるが、一緒に暮らしている中で兄にもう一人、家族がいたとは思えない。しかし兄の唇から紡がれる声は後悔に彩られ、二度と同じ過ちを犯すまいとする決心が窺えた。
     分からない。時折見せる古い価値観や古い言い回し。そして異様なまでに自分を可愛がり、同時に将来独り立ちできるよう厳しく指導する様は兄妹の情を越えている気がする。一体、何が兄を突き動かしているのか興味があったが、何を聞いても「お前の気の所為だ」と取り合ってもらえない。
    「夜の十一時には部屋に閉じこもって鍵まで掛けちゃうし、でも、何をしているかは教えてくれないのよねぇ」
     年頃の男子だ。幾ら妹でも――妹だからこそ知られたくない事があるんだろうと自分を納得させてはいたが、それでも兄の言動には不思議なことが多すぎる。
    「今夜、びっくりさせようかな」
     ふと、頭の中で思い浮かんだ悪戯を実行させようと決心すると、途端にお腹が空いてきた。ふと、窓の外を見れば日は落ちていて、部屋の中を夕日の明かりが差しこんでいた。
     うとうとと落ちかけていた意識を引き戻し、カーペットの上で寝転んでいた所為で硬くなってしまった体を思い切り上へと伸ばしてから、梅はキッチンへと向かう。
     大型の冷蔵庫を開けてみれば、そこにはオムライスが鎮座していているし、コンロには小さな鍋にコンソメスープがスタンバイしていた。一人前だけということは今晩、このマンションの持ち主であり、妓夫太郎と梅の身元引受人でもある童磨は帰ってこないということだろう。
    「一人きりのご飯かぁ」
     兄は童磨に対し「油断はするなよ」と常々警戒していたが、梅は童磨のことは嫌いではなかった。時折、サイコパスかと思うような物言いはするが、常に笑顔で会話が明るい童磨との会話は楽しかったからだ。
     少しだけガッカリしながら、梅は兄に言われた通り料理を温めて、テーブルの上へと並べていく。
     ハンバーグ付きのオムライスは梅の大好物だ。他にもベーコンを散りばめたグリーンサラダにコンソメスープを置いて、梅は手を合わせてから頂きますと口にしてから箸を手に取った。
    「う―ーん、やっぱりお兄ちゃんのオムライスは美味しいね」
     好物を口にして思わず感想が口を付いて出たが、それを受け取る人物がいないことに気が付いて、がっくりと肩を落としてしまう。
    「寂しいな」
     呟いた言葉はリビングの虚無な空気に溶け込んで、霧散してしまった。


     夕食を終え、兄言われた分の勉強を済ましてしまうと時計を見ながら自分の時間を過ごす。自分の手の爪を眺めながら、卒業したら絶対にマニキュアは塗ると決心する。今の学校では華美な装飾は禁止で、薄っすらとした色でさえ濡れないのだ。
     ふと、点けっぱなしにしていたテレビが夜の十時半であることを告げる。そろそろ兄が帰ってくる。
     慌てて梅は書き置きをダイニングテーブルの上へと置くと、急いで妓夫太郎の部屋へと入っていった。書き置きには美味しかった料理へのお礼と、今日は疲れたから寝るとだけ書き記した。
    「今日こそはお兄ちゃんの秘密を暴いてやるんだから」
     梅は部屋の中で自分が隠れる場所がないかと見渡し、ベッドの下はと思ったが意外と狭い空間に断念した。他に隠れるところはないかと探していると、自分の物をあまり持たない妓夫太郎のクローゼットは身を隠すには絶好の場所だった。
     手足を縮め潜んでいると、やがて妓夫太郎が帰ってきた気配を感じる。確かな足取りでこちらへと向かう足音が聞こえてくると、強い緊張感が全身に漲って声を上げたくなるのを、何とか根性を叩き伏せると、部屋の中へと妓夫太郎が入ってくるのが、僅かに開けた隙間から見る事が出来た。
     流石に夜遅くまでバイトで疲れているのか、日中に見た時よりも目の下の隈が酷い。思わず大丈夫と声を掛けて寄り添いたい衝動が込み上げてくるが、その次には何故、クローゼットの中にいるのか問い質されるだろうことは必須だ。兄の秘密を握った後なら兎も角、今はばれる訳にはいかないと息を殺して兄の動向を見守る。
     やがて、ベッドの上に畳まれてはいるがタンスの中に仕舞い損ねた洗濯物中からスウエットと下着を取り出すと、妓夫太郎は部屋の中から出て行ってしまった。
    (ちょ、今から風呂に入るの!? ……って、そうよね。帰って来たら風呂に入るの普通よね)
     兄の秘密を暴くのだと張り切って隠れたのはいいが、早々秘密が握れるわけでなし、根気勝負だという事にこの時気が付いた。もっと、言うならたまたま洗い終わった洗濯物がベッドの上にあったからいいものだが、部屋着に着替えようとすれば当然、クローゼットは開かれていたし、そうなれば自分の姿は丸見えだっただろう。
     『おめぇはホント、頭が足りねぇなぁ』
     よく耳にする兄からの嘲りに涙が込み上げてくる。泣きそうになるのを何とか堪えていると、再び部屋に戻ってきた妓夫太郎の気配に意識を集中した。
     兄は扉に鍵を掛けると、疲れているだろうにベッドに横になろうともせず、ただ、床の上に胡坐をかいて座ったままだ。項垂れた視線の先には時計が置かれ、やがて長い針が十一時を指した――瞬間だった。
     突如、床から湧き上がってきた炎に兄が包まれた。
     物心ついた時から梅は何故かしら炎を怖いと感じていたが、そんな事も忘れるくらいに取り乱しながらクローゼットから飛び出し、兄へと抱きついた。
    「いやぁあ! お兄ちゃん、燃えてる燃えてる!」
    「梅っ!?」
    「いやあ、消えないっ! 消えないよおお!」
     咄嗟に、部屋の中にあったクッションを鷲掴み、梅は火を消そうよ何度も振りかぶっては兄へとクッションを叩きつける。
    「お、おいっ! 落ち着け」
    「やだやだやだ! アタシのお兄ちゃんが焼けちゃう! 焼けちゃうよおお!」
    「落ち着け!」
     妓夫太郎が梅を強く抱きしめたところで、ようやく彼女は周囲を見渡すことが出来ていたが依然として炎は消えず、妓夫太郎の皮膚を徐々に焦げ付かせていた。
    「……お兄ちゃんだけ、燃えている? アタシには燃え移らない、の?」
    「これは俺だけの取り立てだからなぁ。梅には関係ない」
    「お兄ちゃん、だけ?」
    「ああ、俺だけだぁ」
     これで落ち着くと思ったのだろうが、妓夫太郎の言葉に梅は徐々に顔を歪ませて、ついには大きな声で鳴きだした。
    「うわ~~ん。なんで、お兄ちゃんだけなの? アタシだって一緒になりたい!」
    「……馬鹿なこと言うんじゃねぇよ。意外と痛いぞ、これ」
    「痛いの?」
    「ああ、いてぇな。でも、痛みよりも息がしづれぇのが辛いなぁ」
     皮肉な笑みを浮かべる兄の顔を見ていると、堪らないものが込み上げてきて、視界が大きく歪み、気が付けば再び鬼へと抱きついていた。
    「何でお兄ちゃんがこんな目にあってんのよ! 取り立てって何よ!」
     とんとん、と慰める様に、妓夫太郎の手が優しく梅の背中を叩いていく。
    「……話してやるから、今は、ちょっと待ってくれなぁ」
    「お兄ちゃん?」
    「さっきも言ったけどなぁ、これ、意外と痛いんだよ」
    「……待ってれば、収まる?」
    「収まる」
     じゃあ、待つと言って、梅は妓夫太郎から少し離れると体を丸めて苦しむ兄を見つめるだけしか出来なかった。
     火は永遠に焼き続けるかと思えたが、時間にして三十分程度の現象だった。
     大きな溜息と着くとおもむろに妓夫太郎は立ち上がり、梅に喉が渇いたろうと声を掛ける。
    「何言ってんのよ! お兄ちゃん! そんなことよりも今起きたことの説明をしてよ!」
    「説明たってなぁ」
    「でなきゃ、アタシ、ここを離れないから! 学校に行く時間になってもここから離れないから!」
     半泣きになりながらも言い放つ梅に、これ以上の説得は無理だと感じたのか、妓夫太郎は上げかけた腰を下ろして真正面から梅の顔を覗きこんだ。
    「あれはぁ、取り立てだなぁ」
    「だから、その取り立てって何なの!?」
     妓夫太郎が薄く笑う。
    「俺は前世では相当酷いことをしてきたからなぁ」
    「ぜん。せ?」
    「ああ、信じられねぇか?」
    「突飛過ぎていうか、お兄ちゃん、リアリズム主義だと思っていたから、突然、前世とか言い出すの違和感ある」
    「リアリズムであることは間違っちゃいねーよ。でも、これも事実なんだなぁ」
     兄が言うに、自分は前世で大きな罪を犯した。その所為で地獄に落ち、毎日、あの炎で焼かれていたという。
    「だが、ある日、恩赦と言われて、再び人間の世に押し出されたんだ――炎は俺への罰だな。俺はたっくさんの罪を犯して借りを重ねたから、今、こうして罰として取り立てられているんだ」
    「でも、こんな……酷い」
    「この痛みは俺だけモンで、お前にはやれねぇんだなぁ」
     妓夫太郎の手が梅へと伸ばされ、優しく髪を梳かれるのを心地よく感じて、梅はその手を取って自分の頬へと押し当てた。
    「……ここだけの話だが、あの童磨も前世では俺と同じ仲間だったんだよ。そして、おそらく俺よりも罪を重ねてきた男なんだが」
    「童磨さんも! じゃあ、童磨さんも人知れずお兄ちゃんと同じ目に合ってるっていうこと!?」
    「どうだろうなぁ」
     妓夫太郎はにやりと笑いながら頭を掻いた。
    「あの人はぁ元々感情がねぇから、毎晩焼かれていようと表には出さねぇだけかもしれねぇけど、それでも、あの人には取り立ては来てねぇ気がするんだよなぁ」
    「……どういうこと?」
    「俺の前世に気付いてる節があるのに、決して確かめようとはしねぇとこだなぁ。きっと、前世の記憶の蓋が開いて、俺みてぇな目に合うのが嫌なんだろうぜぇ」
     罪の業火に焼かれる条件は、前世の記憶の蓋が開いているかどうかなのだろうと妓夫太郎は言う。
    「そんなのズルい! お兄ちゃんが苦しんでいるのを知ってるくせに、助けようともせずに自分だけ安全圏にいようだなんて……ねぇ、童磨さんに相談して、お兄ちゃんの炎がお兄ちゃん自身を苦しませないように出来ないか相談して――」
    「やめとけやめとけ。聞きいる訳がねぇし、お前程度なんざ童磨さんにかかりゃ赤子の手を捻るようなもんだ。のらりくらり躱されてお終いだろうぜ」
    「でも」
    「やめるんだ、梅」
     凄みを利かせた声で制する妓夫太郎に、梅は息を飲むが、次の瞬間、兄はいつもの「お兄ちゃん」に戻っていた。
    「それと、今後、俺の部屋に入って来ることも禁止だ。醜い野郎が燃やされてのたうち回ってる姿なんぞ、見ても面白くねぇだろうからなぁ」
    「そんな! アタシはお兄ちゃんのこと!」
    「俺が嫌なんだ。聞き分けろぉ、梅」
     醜くなんかない。それは本当だった。
     兄は自分の肌に点在する痣を唾棄する程に嫌悪していたが、それだって梅にとってみれば素敵なアクセントだと思っているし、たれ目で比較的大きな瞳は澄んでいて、二重瞼をくっきりと刻んでいる。少し猫背なのも暗い雰囲気があって良い。
     欠点は何処にもないと強く言いたいのだが、妓夫太郎は頑として聞き入れないだろう。
     うん、と力なく頷いて、梅は妓夫太郎の胸の中へと飛び込んでいく。
    「こんなこたぁ、大したことはねぇんだ」
    「うん」
     胸の中の妹の髪を、優しく指が梳いていく。
    「だから、お前もここでのことは忘れろ……とは、言わねぇが、胸の奥にしまって取り出そうとはするな」
    「うん」
    「お前まで焼かれたら、今度こそ俺は俺を許さねぇだろうしな」
     最後に吐かれた声は小さすぎて、もう一度だけ聞き直そうとしたが、柔らかな眠気に包まれて思うように口を開くことが出来ない。
     何故だろう、きっと大事なことをアタシは見過ごしている。そう思うのに、体は思うように動かず、間もなく眠りの底へと落ちていった。
    「眠ったかぁ、梅」
     どこか優しげな妓夫太郎の声が響く。
    「お前はお前だ。前世の罪なんざに振り回されていい訳なんざねぇ……どうか、このまま、記憶には蓋をしたまま、今生を生きてくれ」



    [共闘(妓夫太郎と宇髄)]

    「どうだ、絵のモデルになる決心はついたか?」
    「しつけぇ。ならねぇって言ってんじゃねぇか」
    「拘束している間の時間分のバイト代は出すぞ?」
    「金で買収とか。いいのか? センセ―?」
    「等価交換だ。俺はお前の時間を金で買う。それだけだ」
    「それが買収って言ってんだよ」
     もう二年も不毛な会話を続けている。押し問答を繰り返しつつ、しかし、妓夫太郎は宇髄から逃げるどころか、こうして美術準備室でくつろいでたりするわけで。
    「俺の絵の腕前は知っているだろ」
    「あぁ、それは十分になぁ」
     言いながら妓夫太郎は手元に広げた本から、壁に掛けた宇髄の絵へと視線を移し、しばし見入るようにして眺めている。
    「だがなぁ、それとモデルになるとは別だ。こんな容姿は絵なんかに残さねぇで人の記憶から消えるのが順当だぁ」
    「醜いとは思わねぇけどなぁ」
    「色男の余裕だなぁ、おい」
    「いや、ホントだって」
     宇髄は準備室に用意されたソファでくつろぐ妓夫太郎へと、ずいっと身を乗り出した。
    「骨格も悪くねぇし、目付きが悪いから気が付かねぇだろうが、お前、目は綺麗だぞ。二重瞼で彫りは深いし」
    「……何度も言うが、この痣見ろよぉ。気持ちわりぃだろうが」
    「そうか?」
     宇髄は右目の下に走る赤黒い痣へと指を這わす。
    「いいじゃねぇか。格好いいよ。寧ろ、個性だ! 俺だって目の周りに化粧しているしな」
     宇髄は自分の顔――左目の回りに花火のような形を描いた模様を指差した。
    「お前のは化粧だろうが。俺の痣とは違う」
    「違わないね。お互いにこれは個性だ!」
    「……お前、美術教師の癖に美的感覚ねぇんだなぁ」
     ひょいっと宇髄の手から抜け出すと、妓夫太郎は立ち上がって絵の前に立つ。一旦、そうしてしまうとなかなか彼は絵の前からどこうとはしない。
    「……お前くらいだよ。その絵を気に入ってくれてんのは」
    「だろうなぁ」
    「その絵の何処が気に入ってんだ?」
    「制作者がそれを聞くかぁ」
    「自分の作品がどう評価されるかとか、聞きたいに決まってんじゃねぇか」
     妓夫太郎は首を傾げると、おもむろに口を開いた。
    「火花が見えるのがいいなぁ」
    「火花?」
    「そう、あちこちで火花が瞬いて、腹の底が重くなる」
     妓夫太郎の手が持ち上がり、絵の中にある赤い光を指した。
    「縦横無尽に流れる力もいいなぁ。息が出来なくなって……でも、一切苦しくねぇんだ。そして、弾ける光のが一つ一つが異様に遅くなるのが面白れぇ」
     持ち上がった手はやがて空に円を描くのだが、まるで武器を振り回しているようで不思議だと宇随は思う。
    「甲高く澄んだ音がするんだ。ぶつかり合い、擦れあう音……それが胸を高鳴らせるんだぁ」
    「……いい加減、教えてくれねぇか」
     空にあった手を宇髄は捉える。
    「何がだぁ」
    「だから、この絵のことだよ。知っているんだろ?」
    「……お前の夢ん中だよな」
    「そうだが、違う。どうして、こんな夢を見るのか、お前は知ってるんだろうってことだよ」
    「知らねぇなぁ」
     妓夫太郎は宇髄の手を振り払うとソファへと戻り、自分の鞄を手に取って準備室出口へと足を向ける。
    「おいっ!」
    「そんな事ぁ、心理学の先生か夢占い師にでも聞くんだなぁ」
     そのまま妓夫太郎は振り返りもせずに準備室から出て行ってしまった。
    「……ったく! 箸にも棒にも引っ掛からねぇ」
     宇髄は頭をがしがしと掻きながら溜息を零す。
     妓夫太郎に絵のモデルを申し込んでから二年が過ぎたというのに、一向に了承してもらえない事に苛立ちが募る。これが自分が嫌いでモデルを引き受けたくないのなら分かるが、妓夫太郎はどうやら宇髄のことを嫌ってはいないのだ。今もこうして準備室で管を捲いていたり、時々、材料が余ったと言っては弁当を作ってきたりするのだから、どちらかと言えば好意に近いだろう。
     なのに、絵のモデルの件は断り続け、妓夫太郎が気に入っている絵の謎については一切、口を割ろうとはしない。
    (この絵のことについて何か知ってることは確実なんだがなぁ)
     様々な色の光に彩られた背景を切り裂くように赤い光が走る絵――これは宇髄が子供の頃から見てきた夢だ。そして金属同士がぶつかり合い、擦れて奏でる音が涼やかな鈴の音に似ていることを話してもいないのに妓夫太郎は知っていた。
    (そう、カネの音しか聞こえていなかった……二年前までは)
     それが妓夫太郎と会った日から、夢の中で声がするのだ。
    ――いいなぁ、いいなぁ、お前。
    ――その顔いいなぁ。肌もいいなぁ。
    ――染みも痣も傷もねぇんだなぁ。
    「……間違いなく、お前の声なんだがなぁ」


     絵のモデルの話の後は、いつもなら一日間を置いて妓夫太郎は美術準備室へと顔を出してくるのだが、あれから三日間、妓夫太郎は姿を見せない。どうやら学校も休んでいると聞いて理由は分からないが宇髄の胸が騒いだ。
    (家庭訪問してみるか? いやいや、美術教師が家庭訪問って何だよ、担当教師なら兎も角)
     うろうろと美術室を行ったり来たりしていると、パーカーのポケットに入れたスマホが鳴った。
     手に取って見てみれば懐かしい名前に受話器のマークをタップしてみれば、想像通りの声が返ってきた。それは宇髄が高校時代、喧嘩に明け暮れていた頃の舎弟の一人だった。
     しばらくはお互いに懐かしいと言葉を交わし合っていたが、一体、どんな風の吹き回しで自分に連絡してきたのかと問うと、相手の声のトーンが落ちた。
    『謝花妓夫太郎って、お前んトコの生徒だよな』
    「そうだが……何でお前が知っているんだ」
    『こっちの界隈じゃ有名にありつつあるんだよ。喧嘩の滅茶苦茶強いガキがいるってな』
     電話の相手は到底堅気とは言えない職業なのもあって、一気に緊張が高まる。
    『で、しめしが付かねぇって話になって、どうやらいい大人が総がかりで痛めつけようって話になってる』
    「おいおい、相手はヤクザだろう? ホント、いい大人が何やってんだ」
    『まったくだな。それでガキの通ってる高校を調べてみたらお前んトコじゃないかってな。知っているかどうか……』
    「知っているも何も。俺の絵のモデルだよ!」
     憤りのままに吐き出すと、宇髄は大喧嘩が行われるだろう場所を聞きだすと美術室を飛び出した。


     場所は町はずれにある廃工場だった。
     気配を殺して工場の入口へと近づくと見張りらしき男が二人いるのを確認した。
     ギリギリまで身を伏せ――油断からだろう、通りから目を離した瞬間に音もなく駆け寄り、一瞬で昏倒させた。
     工場敷地内は意外にも広く、こんな事ならば見張りの一人は昏倒させずにしておけば良かったと後悔した次の瞬間、左手の朽ちかけたコンテナの奥から大勢の人間の怒号が聞こえた。
    (向うか! どうやら、始まっちまったらしい)
     妓夫太郎の無事を祈りながら、状況を把握しようとコンテナの上へ登ると、高校時代の一番やんちゃな頃を思い出して思わず唇の端が持ち上がってしまう。
     絶妙なバランスでコンテの上から覗きこめば目的の人物はいた。壁を背にして戦っているが、どうやら誰かを庇っているらしいと見て、その人物が彼の妹であることを確信した。ちらちらと彼の背中から見え隠れする少女、あれが謝花梅なのだろう。
    「なるほど、そういうことか」
     何はともあれ、二人とも自分の学園の生徒だ。助け出すのが筋だろう。
     宇髄は手にしていた火薬に素早く火を点けると、妓夫太郎を取り囲んでいる半円の一画へと放り込んだ。
     途端、激しい火花と轟音が辺りに響き渡る。当然、火薬が破裂した辺りの人間は突然の事に驚き身を竦ませる。
     視線が爆発点に集中したのを見計らって宇髄はコンテナから飛び降り、もうもうと立ち上がる煙に紛れて妓夫太郎の隣へと立つ。
    「よく守ったな! 後は俺に任せろ」
    「宇髄っ!?」
    「え、ウチの学校の美術教師じゃん! 何しに来たのよ、アンタ!」
    「折角助けに来てやったっていうのに。お前んトコの妹は礼儀がなってねぇな」
    「助けに来てくれとか、頼んでねーんだけどなぁ」
    「そう言う訳にいくか。二人ともウチの可愛い生徒だ」
    「偽善くせぇなぁ」
    「偽善結構、俺は生徒が助かりゃそれでいいんだ!」
    「だから、それがいらねえって言ってんだ」
     よく見ると妓夫太郎の手には黒い棒――トンファーが握られていたが、くるりと手の内で回すとトンファーの長い本体部分の先端を掴み、取っ手の部分を相手へと向けた。
    「おい、それじゃあ防御なんか出来ねぇんじゃねぇか」
    「いいんだよ、これでぇ。この方が俺はぁ慣れてるんでねぇ。それより、お前はいいのか? 素手で。俺は助けないぞぉ」
     突然の爆発で遠のいていた包囲網だが、これ以上の攻撃はないと判断したのか、再びヤクザたちは三人へと距離を縮める。その数二十人程度。高校生と侮ってか、手にした武器は木刀やら鉄パイプやらで拳銃は見当たらないのは幸いだった。
    (まあ、近くには稼働している工場もあるしなぁ。万が一でも発砲音を聞かれて警察を呼ばれちゃまずいって所か)
    「心配すんな」
     間合いを測っていた男達だが、その内の一人が木刀を振りかざして宇随に襲い掛かってきたが、軽い身のこなしで躱すと難なく男の手から武器をもぎ取った。
    「こういうのは現地調達ってな」
     言うや否や、宇髄は流れる様にして男達の中へと身を躍らせた。
     一人二人三人と、瞬く間に叩き伏せると一旦、注意を謝花兄妹へと向けるが、妓夫太郎も既に戦いの渦の中に突入しており、そのすざましい攻撃に思わず口笛を吹いた。
    「派手だねぇ」
     先程見た時と変わらない。トンファーの先端部分を持ち、取っ手部分を打撃として攻撃する妓夫太郎のスタイルはまるで。
    (鎌を振り回してるみてぇだな)
     途端、脳裏に夜の光景が広がる。空には白い月が掛り、地上は崩れた家屋があちらこちらに見受けられるし、燃え上がっている家まである。まるで震災のようだと見ていると名前を呼ばれた――様な気がする。
     見上げれば月の光を背景に、痩せこけた男のシルエットが浮かびあがった。両手には血の色の鎌。振り下ろせば赤い斬撃がこちらへと迫って――。
    「馬鹿野郎!」
     鈍い音がして気が付いてみれば、目の前で妓夫太郎がヤクザの一人をトンファーで叩き伏せている所だった。
    「目ぇ開けたまんま寝てんのかぁ! 俺の荷物になるくらいなら帰りやがれよなぁ!」
    「あ、ああ、悪い」
    「まったくよぉ」
     喧嘩の最中に意識を逸らすとは。いけないいけないと深呼吸で気持ちを整える。
     ふと、妹はどうしているかと見てみれば兄から貰ったトンファーで自分に迫るヤクザを、兄ほどではないが叩き伏せている。どうやら喧嘩のやり方は知っているらしい。
     宇髄は改めて木刀を握り込むと、前を向いて不敵に笑った。
    「借りは返すぜ! 妓夫太郎!」
     木刀を振り回し、何の躊躇もなく男達の中へと宇髄は飛び込んでいく。
    (あぁ、これだ)
     喧嘩の真っ最中、特に気分が乗るとキラキラと周囲が輝く。それは夢の中の光景と同じで、途端、体が軽くなり、相手がどんな攻撃を仕掛けてくるか分かるようになる。
     赤、緑、黄色、紫、様々な色の光が点滅して、まるで万華鏡の中に迷い込んだ気分になる。
     自分の中で生まれたリズムの乗って攻撃していると、ふいに目の前をあの赤い光が過ぎる。
    「妓夫太郎!」
     円を描きながら横切るソレに宇随は納得した。
    (あぁ、お前なんだな)
     魂のギリギリまで切迫した相手。互いに歯を剥き出しにして戦った相手はお前だったんだと。


    「誰かいるのか!」
     あらかたヤクザを倒した頃、工場の入り口の方で声が上がった。
    「やべぇな、警察か?」
    「あんな爆発音立ててりゃ通報されるだろ。完全な無人地帯じゃねーからなぁ」
     非はないが火薬を使って暴れた以上、痛くもない腹を突かれるのは目に見えていた。
    「裏口から逃げるぞ」
    「場所、分かるのか」
    「逃走経路ぐらい、事前に調べるのは基本だぞぉ」
     妹の手を引き走り出した妓夫太郎の後を追うように、宇髄もついて行く。
     狭い、通路とは言えない空間を通り抜け、吐いてきた方向とは反対側へと三人は出る事が出来た。ここからどう抜けるのかと思っていると、妓夫太郎は道端にあったバイクへと跨って妹を後ろへと乗せた。
    「お、おい」
    「バイクで三人は無理だぁ。お前は自力で何とかしろな」
    「一緒に喧嘩した仲じゃねぇか」
    「頼んだわけじゃねぇ」
     それもそうか、と腕を組んで溜息を零すと、少し間を置いてから妓夫太郎が口を開いた。
    「……やってやる」
    「へっ?」
    「でかい借り、作っちまったからな。借りは返す。取り立てられるのは真っ平だからなぁ」
     意味が分からず首を傾げていると、だから! と荒げた声が妓夫太郎から上がった。
    「絵のモデル、やってやるって言ってんだよ!」
     その時、壁の向こうから「声が聞こえたぞ」という警官の声が上がった。
    「ほ、本当か?」
    「本当だよ。お前は……」
     妓夫太郎はバイクのエンジンを点火し、アクセルを回した。
    「また、光を見せてくれたからなぁ」
     にやりと笑った顔を最後に見せて、妓夫太郎と妹はその場からバイクで走り去っていった。
    「……何つーんだろ? 怪我の功名? 禍を転じて福と為す?」
     やがて、自分達も通った細い空間から数人の足音が聞こえてきた――警察が近づいているのだ。
    「ま、今は逃げる事に集中するか」




    [花の下で逢いましょう。(妓夫太郎と炭次郎)]


    「竈門くん! またあの人が学校近くの神社の境内で暴れているよ!」
    ――いつからか、あの人の乱闘の際には必ず自分が呼ばれるようになった。
     頼りにされているのか、それとも厄介者扱いを委任されているのか、一番悪いのはそれを断らない自分自身であるという事を炭次郎は痛いほどに理解していた。
     分かった! と二つ返事で切り返し、鞄を肩へと引っ掛けると大急ぎで廊下を駆け抜ける。
     急がなければ、と思う。でなければ……。
    「相手が大怪我を負ってしまう!」
     不安を抱えつつ教えてもらった場所へと辿り着くが時は遅し。いつもなら閑静な神社の境内には十人ほどの人間が死屍累々の様相で、その中で立っている者は一人しかいなかった。
    「謝花先輩!」
    「おー、来たか。竈門兄」
    「来たかじゃないです! どうして待っていてくれなかったんですか!」
    「お前を待っている道理なんざねーんだが」
    「そこは待っていてくれないと」
     竈門――炭次郎は倒れている一人に膝を付き、怪我の具合を見ていると、それを覗きこむようにして謝花――妓夫太郎が腰をかがめてきた。
    「どうだろう。見た目はそれほど酷くないけど」
    「だろ? みんな一発でキメたからなぁ」
    「自慢になりませんよ、それ」
     眉間に皺を寄せながら、炭次郎はバックの中からこの時の為に用意した簡易な救急セットを取り出して治療に当たった。
    「大袈裟だなぁ。いつも言ってるが、こんな奴らに親切にしなくってもいいんだぞぉ。こいつら、学園の生徒からカツアゲで金を巻き上げていた連中なんだからなぁ」
    「そう言うわけにもいきませんよ。そして、俺の方こそ毎回言いますけど、暴力で解決しようとかしないで下さい」
     淡々と治療を進める炭次郎に、嘲るように妓夫太郎の引きつった笑いが上がる。
    「話し合いとかで大人しくするタマかよ、こいつら。だったら、取り立てられる前に取り立てた方が早いし簡単じゃねーか」
    「どうして話し合いに応じないと決めつけるんですか。殴り合う前に、何故、力で他人からお金を捲き上げるのか聞いてみたっていいんじゃないですか」
    「……そんなの、力で奪い取る方が簡単だからじゃねーかぁ」
    「それがいけないっていってるんです。金品を力で奪い取っても何の利益にもなりません。お金は地道な労力で得られてこそ、そこに感謝の気持ちが生まれるんだと思いませんか」
    「いや、なんで俺が説教されてるんだぁ」
    「説教じゃありません! 俺は誰かに教えを施す程、立派な人間じゃありませんから。でも、そんな俺でもこれが間違った方法だって言うのは分かります!」
     人が痛みを負って苦しんでいる様子を見るのは心が痛い。それが馴染みの全くない他人であったとしてもだ。
     そして、暴力に身を染める妓夫太郎を見るのも辛い。根からの善人でない事は本人自身が認め、炭次郎もそれは分かっているが、その一方で妹の梅を心底可愛がっている事も知っているから、自分は残虐なのだとうそぶく妓夫太郎自身を見るのも辛い。
     ウンザリしている様子の妓夫太郎に、更に畳みかける様に話を続けようとした炭次郎だったが、視界の端、相手の足元にうつ伏せで倒れ伏した男が僅かに動き出した事に気付いた。
     気が付いたのか、と思った瞬間、その男が手に何かを持って起き上がり、振りかぶって妓夫太郎めがけて腕を振り下ろそうとした瞬間、我知らず体が動いた。
     妓夫太郎とその相手の間に割って入る形となり、その結果、相手の持っている何か――スタンガンが炭次郎の背中を焼いた。
    「炭次郎!」
     珍しく余裕のない妓夫太郎の叫びを耳にしたところで、炭次郎の意識は遠のいた。


     次に目を覚ました時、目に飛び込んできたのは桃色に咲き誇る花々であり、その光景にここが何処なのか炭次郎には分かってしまった。
     火傷のようなチリチリとした痛みを感じながら身を起こすと、自分は木のベンチに横になっていて、その傍らには妓夫太郎が何ともいえない表情で自分を見下ろしているのが分かった。
    「よぉ、目覚めたか」
    「妓夫太郎先輩」
    「何処か痛いとか辛いとかねーか?」
    「背中がちょっとヒリヒリ……でも、それ位で後は何でもないです」
     身を起こし、ベンチの上でちょこんと正座すると、そのまま炭次郎は深々と妓夫太郎へと頭を下げた。
    「ありがとうございます」
    「何がだよ」
    「だって、妓夫太郎先輩が俺をここまで運んでくれたんですよね」
    「スタンガンで気ぃ失っているだけっつーのは分かっていたからなぁ。あのまま不良共の中で寝かせるのも何だし……連れてきた」
     ここまで――この中央公園まで背負って来てくれたのだと分かって、炭次郎は恐縮してしまうが、同時にやはり妓夫太郎は優しいのだと分かって嬉しくなってしまう。
     しかし、これ以上、妓夫太郎の世話になっても迷惑だけだとも思うので手足に力を込めて動こうとしたのだが、未だに軽い痺れが残っていて上手く動かせない。どうしたものかと思案していると、頭上から「甘いモンは好きか?」という声が降りかかる。
    「あ、はい」
    「食えねーモンとかは」
    「それもありません」
     じゃあ、待ってろとだけ言い残し、妓夫太郎はそこから姿を消してしまう。
     何をと問い掛ける事も出来ず、炭次郎は妓夫太郎が姿を消してしまった方へと溜息を零すと、足を崩してベンチへと腰掛ける形へと座り直し、手の平を両膝に乗せて握ったり開いたりを繰り返す。
    (確かに痺れてはいるけど、この程度ならすぐに回復するな)
     空を見上げてみれば日は大きく傾き、太陽は街並みの中へと沈みかけている。太陽と反対側を見れば群青色の空が徐々に夜の訪れを告げている。
     公園内には遊んでいる子供達の姿はなく、通勤帰りの人達が疎らに通り過ぎるだけだった。
     さわり、と頭上の花枝が揺れる。
     鮮やかなピンク色の小さな花々は枝の先へと一塊に身を寄せ連なり、咲き誇る様子は初夏の到来を教えてくれた。
    「おら」
     気が付けば、いつの間にか妓夫太郎は炭次郎の隣に腰掛けていて、手にしていたもの――クレープを炭次郎へと差し出した。
    「あの、これ」
    「礼だ。スタンガンから庇ってくれたことのなぁ」
    「いや、咄嗟に体が動いただけで、そんな」
    「食え、それとも苺は嫌いかぁ?」
    「いえ、そんな、大好きです!」
     じゃあ、食えと渡されて恐縮しながらも受け取ると、妓夫太郎自身の分も買ってきたのか、隣で黙々と食べだした。
    「あの、妓夫太郎先輩は」
    「ん? 俺か? 俺はバナナクリームだ……運動したらハラ減ったからなぁ」
    「ああ、それも美味しいですよね」
    「……こっちの方が良かったか?」
    「いいえ、苺大好きなんで。いただきますね。ありがとうございます」
    「礼なんか言うんじゃねぇよ。さっきも言ったろ? スタンガンから庇ってくれた礼だって。俺ぁ借りを作るのは大っ嫌いなんだ」
    「また、そんな事を言って」
    「性分だからなぁ、仕方ねぇ」
     空を仰いで言う妓夫太郎が何とも可笑しくて、クスクス笑いながら炭次郎は手にしたクレープへとかぶりついた。
     そうして、しばらく二人無言でクレープを食べていると、ふいに炭次郎は鮮やかな花を付けた枝を指差して妓夫太郎に問う。
    「そう言えば、この花、何て言うか知ってますか?」
    「花ぁ? 花の名前とか知らねぇよ」
    「サルスベリって言うんですよ」
    「さる?」
    「ええ、サルです。何でも幹がツルツルしていて、猿でも滑るってことで付けられた名前だそうですよ。禰豆子の受け売りですけど」
     ふうんと、興味あるのかないのか分からない顔つきで花を見上げる妓夫太郎を親しい気持ちで見つめながら、炭次郎は手元にあるクレープにかぶりつく。
    「花言葉は何だったけ。確か『不用意』だったかな。これもサルが滑ることからきているって」
    「それも妹からの受け売りかぁ」
    「はいっ! そうです。俺と妹、この公園をよく通るんですよ。それで公園に咲いている花とか木とかの名前を教えてくれて」
    「相変わらず、仲いいなぁ」
    「それを言うなら妓夫太郎先輩だって、仲いいじゃないですか。よく二人で校内を歩いているのを見掛けますよ」
    「……まぁ、なぁ」
     木々がざわめく、さっきまで凄惨な場面にいたというのに、今はこんなに和やかだ。ふと、脳裏に妓夫太郎曰く『他校の不良』が浮かぶ。
    「そう言えば、あの人達、大丈夫だったんでしょうか」
    「あぁ!? 馬鹿か? 標的は俺だったんだろうが、奴らスタンガンでお前を気絶させたんだぞ? そんな奴ら心配してやる資格なんざねーわ」
    「それでも……怪我したまま放っておいてよい理由にはなりませんから」
     炭次郎の物言いに呆れたのか、一瞬、息を飲んだ妓夫太郎は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべて天を仰ぐ。
    「……大丈夫だろ」
    「えっ」
    「お前、背負って離れる頃には何人かは立ち上がろうとしていたからよぉ。三十分後経ってもここにいやがったらとどめを刺すって言ったら、なっさけねぇ声上げていたからなぁ」
    「……ここに来てどれくらい経ちます?」
    「二時間だなぁ」
    「様子を見に行ったりとかは……」
    「するかよぉ。あんなボンクラ共なんざ、どうでもいい」
     引きつった声を上げて笑う妓夫太郎を、炭次郎は目を丸くして見返していたが、大丈夫だという彼の言葉を信じてもいいのだろうという気持ちになった。
     確かに地面に伏した男達の外傷は軽いもので、一発でオトしたという妓夫太郎の言い分を信じるなら、今頃は境内から姿形を消してしまっているだろう。
    「そうですか」
    「ほんと、お前は変わんねぇなぁ」
     引きつった笑みのまま、肩を揺らして妓夫太郎の手が炭次郎の頭を優しく撫でていく。
     変わらないというのは出会ってから――という事なのだろう。けれど、炭次郎には別の意味に聞こえる。
    (こういう時の先輩は、凄く遠くに見える……なんでだろう)
     ゆっくりと、そして自分の体温が相手に移るようにと触れていく手つきに胸の中が暖かくなって、追求などどうでもいいように思えてしまう。
    「妓夫太郎先輩」
    「なんだ?」
    「……バナナクレープ、一口くれませんか? 俺のも一口あげますから」
     意外な申し入れだったのだろう、妓夫太郎の目がこれ以上にない程に見開かれる。
    「駄目ですか?」
    「いや……俺が口つけた後だぞ?」
    「? ……構いません」
    「気持ち悪いとは思わねぇのか?」
    「思いません。あ、もしかして、俺の食いかけじゃ嫌とか」
    「いや、思わねーけど」
     一瞬の間を置いて、後で文句言うなよと言いながら妓夫太郎がクレープを差し出してくれたので、ぱくり、と一口かじると、バナナの柔らかな甘さとクリームの甘さが程よく溶け合って美味しい。
    「はい、じゃあ、俺のも」
    「……」
     暫く妓夫太郎は、いいのか? とでも言いたげな顔をしていたが、どうぞ、と念押しすると観念したようで、同じように一口かじる。
    「……どうです?」
    「うめぇよ」
    「良かった」
     そうして、二人の目が合うとくすくすと忍び笑いを重ねた。
    「じゃあ、俺はこれからバイトだ。送らねぇから、ちゃんと迷わず帰れよなぁ」
     妓夫太郎はベンチから立ち上がりながら言うと、近くにあったゴミ箱へとクレープの包みを投げ入れた。
    「はい。クレープ、ありがとうございました」
     炭次郎は妓夫太郎に向かって、ぺこり、と頭を下げると、風が吹き、ざわざわとサルスベリの枝を揺らし、次いでピンクの小さな花を振り落としていた。
     青い帳が落ち始めた公園に、中紅の花が舞い落ちる。
    「……もう、俺の喧嘩に首突っ込んでくるなよなぁ」
     じゃあな、と猫背気味になりながら軽く手を振る妓夫太郎に炭次郎のハッキリとした声が響く。
    「また、ここで話をしましょうね! 今度は俺の家で焼いたパンを持ってきますから!」
    「ああぁ?」
    「その時は喧嘩の後じゃなく、普通に話をしましょう!」
     喧嘩は駄目です! と言い切った炭次郎に、うんざりとした妓夫太郎の顔が向けられる。
    「……ホント、お前はブレねぇなぁ」
    「諦めないのが取り柄ですから!」
     今度こそさよならだと、妓夫太郎は背を向け公園を出て行く。
     炭次郎は、その姿が見えなくなるまで妓夫太郎の姿を目で追っていた。




    [――が、欲しいから。(宇髄×妓夫太郎)]


    『展覧会で出した絵が戻ってきたから、見に来てくれ』
     そんなラインが入ってきたのは校庭の銀杏の木が色づき始めた頃だった。
     ちなみにラインは妹の梅が絶対に入れろと言って半ば強制的に始めたもので、梅、宇髄、そして何故だか竈門炭次郎の三人が友達登録されている。
    (そういや、宇髄に会うのも久しぶりだなぁ。最後に会ったのは夏休みの前かぁ)
     これでも一応、妓夫太郎は受験生なので、以前ほど気安く美術室で入り浸る事は出来ないのだ。
    (とはいえ、俺が受験とかなぁ)
     妓夫太郎は放課後で誰もいなくなった階段を一つ一つ丁寧に上がっていく
    (高校でたら、すぐ働くつもりだったのになぁ)
     中学からずっとバイトをしてきたのは、ひとえに梅に進路のことで苦労して欲しくないからだった。専門学校だろうと入学金のお高い私立大学だろうと、梅が希望するなら受けさせてやりたいと思っていたのだが、「アタシ、芸能界に入るから」と進学を蹴ってしまったのだ。
     勿論、反対はした。あんな海千山千のくせ者がいるような世界で梅がやっていける筈がない。堅実な道を選ばせようとしたが「お兄ちゃんは好きな道、行けばいいって言ったじゃない! これがアタシの選んだ道なの!」と言われてしまえば、妹が可愛い妓夫太郎には反対する術はない。
     結局、幾つか来ていた芸能事務所からの勧誘から評判の良い、芸能人のバックアップも安心出来るところを幾つか選び、直接出向いてみて、自分の顔を見ても嫌な顔一つせず、真摯に対応してくれた事務所に入ることに決まった。――とはいえ、本格的に始めるのは高校を卒業してからだが。
     無事、決まったことはいいが、結局、梅の為の進学資金は無用となってしまった。仕方ない、これは梅の結婚資金にしようと口にした所、妹の冷笑を浴びてしまった。梅曰く「悪いけど、アタシ、芸能界デビューしたら、お兄ちゃんが貯金していた額の何倍ものお金を稼ぐから、結婚資金はいいわ」と突き放されてしまったのである。そして「そのお金はお兄ちゃんが使って。これまでアタシの為に頑張ったんだもん。これからはお兄ちゃんの好きな事に使って」と。
     正直、子供だ子供だと思っていた妹の成長に涙しそうになってしまったが、自分に涙は似合わないことは重々承知しているので何とか堪えた妓夫太郎であったが、さて、自分の好きな事に使ってと言われてもピンとこない。半ば途方に暮れた所で宇髄から大学に行ってみないか? と勧められたのだ。
    『お前は頭の回転が速いし、的確な判断が下せる能力がある。ちと、協調性がねぇのが心配だが……今、見つけられなくても大学で学ぶうちに何か見つかるかもしれねぇじゃねぇか』
     不良を自称していたので、あまり口にはしなかったが、妓夫太郎は勉強自体は好きだった。前世で子供の頃に字も書けず、何も学ぶことがなかった妓夫太郎は、鬼になってから童磨から与えられた本から得られた知識が面白くて面白くて。寝る間も惜しんで勉強していたことを思い出す。
     と、いうことで妓夫太郎はただ今、絶賛受験勉強中だった。時折、息抜きで遊びに来いとは言われていたが、目標を高く上げたお蔭で行く暇がなかった。
    (いや、違うなぁ)
     妓夫太郎は宇髄に会うのが心地よかった。準備室であの絵を前にして他愛のない話をしたり、弁当を大目に作って二人で分けて食べたり、楽しくて居心地が良くて――だから怖かった。
    (こんな俺にも怖いものがあるとか……笑えるなぁ、おい)
     日が翳り、足元から寒さがひたひたと忍び寄るのを感じながら、妓夫太郎は美術室の前に立つ。
    (だから、これで終わりにするんだぁ。いい絵だと褒めて、これからは受験で忙しくなるから会えないなぁと、いつものように何でもない風を装って)
     目を閉じれば、あの日、宇髄から貰った光の数々が脳裏に浮かぶのを確認する。
    (この光があるから、俺は大丈夫なんだよなぁ。だから……)
     軽く深呼吸を一つして、妓夫太郎はいつものように美術室の扉を開けた。
    「うずーい、いるかぁ」
    「宇髄先生だろ! 何度言っても治らねぇな」
     準備室から聞こえる声に、にやりと笑いながら妓夫太郎はズボンのポケットに手を突っ込むながら声のする方へと歩いていく。
     扉を開けて中に入ればムッとした熱気に、妓夫太郎は顔を顰めた。
    「なに、もうストーブ焚いてんのかよ。まだ十一月だぞぉ」
    「餅が食いたかったんだよ、餅」
     見てみれば、確かにストーブの上には網が乗せられており、その脇のテーブルには餅が乗っていただろう皿が置かれていた。
    「お前も食うか? まだ何個か残っているぞ」
    「いや、遠慮しとくわ。それより、この熱気どうにかなんねぇのかぁ」
    「それもそうだな。じゃあ、そこのドア開けっ放しにしてくれ。外からの風が入ってくるからよ」
    「外からの風、なぁ」
     美術室の壁は宇随が絵をかいてる最中、興が乗ってくると「芸術は爆発だ!」と言って火薬で破壊してしまうので、結構、大穴が開いたままのことがある。夏は暑いし冬は寒い。美術の授業は良いが美術室には行きたくないと言われる所以であった。
     妓夫太郎自身はコートを着ていたので、多少、部屋の中が寒かろうが問題はないし、今日はそう長いこといる予定はなかったので宇髄の言う通りにした。
    「で、絵が戻ってきたんだよなぁ」
    「おう、それそれ。待ってろよ」
     言いながら宇髄は部屋の隅へと行くと、布が掛けられたまま、イーゼルに置かれた絵を持ってきた。
    「何だぁ、随分もったいぶってるじゃねぇか」
    「そりゃあな。俺の最高傑作だし」
    「どうだか。モデルが最低な以上、最高のモンなんざ無理だろうよぉ」
    「また始まったな、自虐趣味め」
    「……これっばっかりは治らねぇよぉ。これでも少しはマシになってきたんだがなぁ」
     自分の容姿を蔑む度に妹は勿論、宇髄も炭次郎もそんな事はないと否定してくるので、もしかして……という気になることはあるが、やはり前世も含めて百年以上続いた慣習は治ることはない。
     きっと、この布の向こうにある顔は随分と醜悪なものだろうと覚悟した。
    「その自虐も今日で終わりだ。この最高傑作を見ればな」
     自信たっぷりに宇髄は妓夫太郎の前に絵を置くと、覆っていた布を取り去った。
    「――――?」
    ――最初、何が描いてあるのか分からなかった。いや、確かに自分だとは思う。思うが。
    「う……あぁ」
    「どうだ?」
     収まりの悪い髪の毛、そこから覗く目は落ちくぼんでいる。そして何より、顔にある特徴的な痣は間違いなく自分のものだ。
     だが、やはり自分だとは認識できない。
    「俺、こんな顔してねぇ」
    「……しているよ。そりゃ、確かに出会った当初は陰険なツラだったけどよ」
     暖かく淡い色調。その中心にいる自分。――それは子供のように笑っている顔だった。
    「でも、時々、こうして笑う時があるんだよ」
     もう駄目だ。
     「う」とか「あ」としか声が出せない。こんな恥ずかしい顔をしていたなんて、なのに、この絵は展覧会に出されて大勢の人の目に晒されてきたのだ。
     かーっとまるで火が付いたように頬が熱い。さぁ、感想はどうだ? と面白げに問い掛けてくる宇随が憎く思える。
    「知るかよぉ!」
     妓夫太郎は勢いよく立ち上がると絵を引っ掴み、そのまま抱えて準備室を飛び出した。
    「おいっ! 妓夫太郎!」
     宇髄が止めるのを聞かず、妓夫太郎は美術室に空いた大穴から外へと飛び出すと、三階にも関わらず壁を蹴りながら器用に地上へと降り立った。


     兎に角、がむしゃらに走った。宇髄と自分、どちらが足が速いか分からないが、前世は兎も角、バイトで動き回ってる自分と部屋に閉じこもりになって絵ばかりを描いている美術教師では、自分の方に分があると思った。
     行き先など決めていない。ただ、足の赴くままに走り、いつの間にか河川敷まで出てしまった。
     流れゆく川を見て、最初は流してしまおうかと思ったが、それでは誰かが拾ってしまう可能性がある。じゃあ、焼いてしまおうかと考えるがライターがない。
    「それなら」
     絵が描かれているのはキャンパス地だ。木の枠も大した強度はない。妓夫太郎の力で難なく壊せるはずだ。
     両手でキャンパスの両端を持ち力を籠める。
     みしっと木が軋む。
     あと少しで壊すことが出来ると思った瞬間、耳慣れた声が聞こえた。
    「気に入らなかったか」
     息を飲む。嫌な汗が吹き出して、こめかみを通って顎へと流れた。
    ――どうする? どうすればいい?
    「いいぜ」
    「えっ?」
     掛けられた言葉に驚き、後ろを振り返ると神妙な面持ちの宇髄の瞳にぶつかった。
    「気に入らなかったんだろ?」
    「でも……一生懸命描いたんだろぉ?」
    「そりゃな。見て分かるだろ?」
     大作と言い切り、派手な作風のこの男ならば、さぞかし大きく派手な色合いの作品だと思った。しかし、今、妓夫太郎の手の中にあるのはA4ほどの大きさしかなかった。
     しかし、そこに彩られた光は様々で、一体、幾つ絵の具を重ねたか分からない。
    「モデルはお前だ。そのお前が要らないというのだから、好きにしていい」
     背の高い宇髄から見下ろされ、その瞳の静かさに気後れしてしまう。
    ――捨てるのか? これを?
     自問自答しながら、もう一度、絵を確認する。
    ――本当にこんな顔をしていたのか? 俺は。こんな……幸せそうな。
     多分、いや、そうなのだろうと妓夫太郎は過去の記憶を反芻する。どんなに気味悪く、そして素行が悪かろうが相手をして心配してくれた人達、梅、炭次郎――そして、宇髄。
     掴んだ手から暖かいものが染み渡り、胸を温めて視界が揺れる。
    「……虫けらボンクラのろまの腑抜け」
    「妓夫太郎?」
     限界だった。歪んだ視界はそのまま涙となって溢れ出ていく。
    「捨てられるかよおお、馬鹿野郎ぉぉぉぉ」
     ふっと、表情を緩めた宇髄から手が伸ばされ妓夫太郎の頭に触れると、そのまま自分の胸へと引き寄せた。
     青い夕闇が足元まで迫る頃、ようやく激情が去った事を悟った妓夫太郎は宇髄の胸から顔を上げる。目蓋が重い感じがするが、それはこの夕闇が隠してくれることを祈るしかない。
    「落ち着いたか?」
    「……わりぃなぁ。こんなトコまで付き合わせちまってよぉ」
    「いいって事よ。それより」
     宇髄の物言いに肩が揺れる。出来れば自分の予想が外れてくれることを祈っていたのに、神様はそれを叶えてはくれなかった。
    「この絵、見て何か感じなかったか?」
    「何がって……なんだよぉ」
    「見た瞬間、分かっていたんだろ? だから逃げた。違うか?」
     答えられない。再び頬が熱く燃え上がっていて、また逃げたくなるが、今は宇髄の腕ががっちりと自分を捕まえてしまっているので不可能だ。
    「……そう言うお前も分かっているんだろうがぁ。なら」
    「答えが聞きたいんだ、俺は」
     俯いたまま、妓夫太郎はようやく口を開いた。
    「――――ひかり」
    「ん?」
    「きらきらと……あの光が俺ぁ、好きだな」
    「準備室のか?」
     宇髄の問いに妓夫太郎はうなずく。
    「そして、あの光は宇随だ」
     絵を抱きしめたまま、妓夫太郎は真っ直ぐに宇随を見る。
    「思い返してみれば、俺ぁあの光に囚われっぱなしだったのかもなぁ」
     にやり、と笑って見せれば、目を丸くするのは宇髄の方で、次の瞬間、思い切り抱きしめられた。
    ――常に俺の回りは闇だったなぁ。梅が一条の光だったが、それも俺の所為で闇に落ちてしまった。
     だから光が恋しいと思うのは仕方がないのだ。
    「ん?」
     妙に顔が近い。微かな息遣いがくすぐったいと思った瞬間、宇髄が何をしようとしているのかが分かって、妓夫太郎は真っ赤になりながら腕を相手の胸に押し当てて距離を取ろうとした。
    「何すんだ、この不良教師がぁ」
    「告白が成功したならキスだろ? そんな空気だったろ、今」
    「何が空気だぁ。今、目の前にいるのは学徒だぞぉ」
    「残念、ここは校外だ」
    「校外でも生徒の模範となるのが教師だろう」
    「俺は不良教師なので」
     くすくすと笑う宇髄は、このまま拒否を続けていれば許してくれるだろう。しかし、熱のこもった瞳の色に妓夫太郎の中にある羞恥心と理性はぐずぐずに溶けて、触れてみたいという欲情に手足が甘く痺れていく。
    「軽く、だぞ」
    「軽く、だな。了解した」
     緊張で口元が硬くなる。そこへ小鳥が啄むようなキスを何度もされて気恥ずかしくなる。
    (一回じゃねぇのかよぉお)
     もう、恥ずかしいと突き飛ばそうかと思った瞬間、右の頬――痣の所へとキスされて、これ以上にない程に熱が上がった。
    「こ、この――」
    「笑え、妓夫太郎」
     見上げた先にも上気した頬の宇髄がいて、幸せなのは自分だけじゃないという事実にぶわりと体中が暖かくなる。
    「俺はお前の笑った顔が見たい。絵じゃなく、リアルなお前で」
     傲岸不遜もいい所だ。ここまで自分を振り回して、尚且つ、もっと幸せが欲しいなど。
    「ボンクラめ」
    「欲張りなんだよ、俺は」
     悔しいが叶えてやりたい自分もいて、仕方ねぇなぁと思うしかなかった。
    「叶えてやるから、感謝しろよなぁ」


     そして、そこには満開の笑みが咲き誇る。


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    natukimai

    DONE2023年4月8日WEBオンリー「先生はすげえんだから!」展示作品です。
    長い間、先生とポップの出会いはこうだったんじゃないかなぁと妄想していたものをようやく形にすることが出来ました。魔法のシステムは原作を踏襲してはおりますが、大分、独自の解釈が交じっております。
    あと物語を進めるための名前ありのモブキャラが出てまいりますが、あくまでの舞台設定上のキャラです。
    緑の軌跡緑の軌跡



    「すみません。もうついていけません」
     そう言って志半ばに去っていく背中を、幾度眺めた事か。
     彼は真面目な生徒だった。生真面目すぎるほどに修行に打ち込み、そして己の才能に限界を感じてアバンの元を去った。
     彼の志望は魔法使いで、魔法の成り立ちや、各魔法で使用する魔法力の値、禁忌などの座学は優秀だったが、実践ともなると危うさが散見した。
     理論だけで突き詰めるな、感覚で魔法を掴めと言っても、目に見えないものをどう掴むのかと詰め寄られる次第で、時折、昔の盟友である大魔導士に指導を頼もうかと思うこともあるが、一旦、引き受けた以上は自分が最後まで彼を導くのだと自分に言い聞かせた。
     これで彼自身が魔法力を持さない者ならば、戦士や武闘家の道を勧めるのだが、ある程度の基本的な呪文が契約が出来たことが、彼を余計に瀬戸際まで追い込んだ。
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    便箋なんて中々売っていないし、書けたとしても送る手段が限られ相手のいる近くに行く用がある、信頼できる商人や旅人に託すしかない。
    その上長旅の途中で紛失したり商売の都合で渡すタイミングが遅れたり、返事は期待しない方が精神衛生上良い位。

    手紙に花言葉のような惹句をつけるとすれば「不確実」でしょうか。
    それでも人は手紙を書くのです。
    相手の為より自分の為に。

    そもそも貴男の場合長い間宛先、というか住処が分からなかったですし。
    私も修業の為に世界中を旅していましたからもし貴男が私に手紙を書いたとしても届けようが無かったと思えば…あぁ貴男は鏡にメッセージを書けましたね。
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