ドラゴンフラワー******
轟々と水はうねり、巻いて流れていく――幼い子を飲み込んだまま。
「ヒュンケル!」
私はすぐさま急流渦巻く川の中へと飛び込んで、不幸な子を探したが、青くも暗い水底は見通すことが出来ず、ただ、岩にぶつかり弾く大質量の水の音を轟かすだけ。
「ヒュンケル!」
私の中には後悔が渦巻く。何故、あの時、あの子の剣を受け止めてやれなかったのかと。
いや、受け止めるのは無理な話だと、もう一人の私が言う。
あの心臓を的確に狙った突きを躱すには、剣ごと上へと弾き出すことが正解だった。
だが、その衝撃で子供は大きく弾かれ、川へと落ちて行ってしまったのだ。
――こうなることは、予め分かっていた筈なのに。
父の仇と私の傍へと付き従いつつ、いつでも殺せるようにと相手の隙を淡々と窺っていた、あの子――ヒュンケルなら、卒業の儀式に浮かれている私の隙を狙って来るだろう。
(……期待していた)
出会った頃は私への殺気を隠そうともしなかったが、時が経つにつれて警戒心は徐々に薄れ、軽口に笑いこそないけれど、少し……ほんの少しだけ、表情を和らげる瞬間もあった。
だから、期待した。
仇ではあるが、そこにほんの僅かでも愛情に似た何かが芽生えているのではないかと。
私の罪は消えるものではない。それでも、償える方法が愛ならば、私は存分に与えようと――。
それは独りよがりな幻想だったのだ。
実際、ヒュンケルは私の命を的確に狙ってきたのだから。
ごうごうごう、と激流に揉まれて力なき体は簡単に飲みこまれ、いつの間にか私は下流の少しばかり緩やかな流れへと押し出されていた。
水を擦った衣服は冷たく重く、渦巻く水流を掻いた腕は鉛を仕込んだように重い。それでも私の体は日頃の訓練の賜物か、機械的に動いて生きようとする。気が付いた時には見慣れた風景を茫然と眺めている自分に気が付く。
「……わたしが」
頬を冷たい水ではない、暖かい何かが流れていく。
「わたしが死ねばよかった!」
顔を覆い、私は河原に膝をついて慟哭する。
こんな事をして何になる。私が泣くことで、あの子が蘇ると思うのか!
そうは思っても涙は後から後から流れ出て、枯れ果ててしまうまで、私はそこから離れる事が出来なかった。
そのまま小一時間を過ごしただろうか。
一縷の望みを掛けて私は川の下流をずぶ濡れのままに探す。どこか、岩に引っ掛かっていないか、水底に何か痕跡はないかと探しては見たが、結局、何の手掛かりを得られないままに夜を迎えてしまった。
これ以上の捜索は不可能と判断したが、もしかすると川向うから子供の声がするかもしれないと思うと川から離れる事は出来なかった。
そのまま、眠れない夜を二晩越えて、ようやく、私は街へと足を向けると、今度は上流の街から下流の集落へと「川で溺れていた子供を知らないか」と聞いて回る日々が待っていた。
ああ、一体、どのくらいの時間が経っていたのだろう。
気が付けば、私は大きな荷物を背負って頂に雪を抱く山々へと歩き出していた。
山脈の奥深くに伝説の竜がいる。それは魔道に通じ、死者の魂の行方を知る事の出来る竜だと聞いた。
きっと、その竜ならば教えてくれるだろう。
私の大事な弟子の魂の行く先を。
道の両脇に咲いていた草木は先を進む程に数少なになり、道も途切れて荒涼とした山肌が私に立ちはだかる。刺すような寒さが肌を裂き、雪が降り出してからは視界の悪さに絶望感がふつふつと身を浸した。
きっと、これが罰なのだろう。
まだ小さな子供を川へと落とした――私の罪。
壁とも見まがうような山の斜面の登り下りを繰り返し、時に、崖の亀裂に足を取られて滑り落ちそうになり、「ここまでか」と覚悟を繰り返して、ようやく、わたしは目的の洞窟へと辿り着いた。
まるで豪奢な宮殿のように洞窟は口を開け、一歩、中へと入ると洞窟は下方へと空間を作っている。天上からは鍾乳洞のつららが下がり、地面には紫水晶の六角注が敷き詰められている。
魔法の明かりを生み出し、私は一歩、一歩、足元を確認しながら前へと進む。己の中にある、頼りない光だけを共にして、きっと、あの子は生きていると言う望みを繋ぐために歩いていく。
「洞窟の主はおられるか!」
必死の叫びに洞窟の奥へとわだかまった暗闇がのそりと動き、金色の光が二つ、灯る。
『何用か、人間よ』
重々しい声が響くと、途端に洞窟内の水晶は光を放って輝き、その声の主を映し出した。赤黒い――熾火のような輝きを持つ鱗、開かれた眼は猫の目のように黄金色で、三日月のような瞳孔が見えた。
これが――だ。私が求めていたもの。
『人間か。偶然、ここに来た訳ではあるまい。この私に何用か』
私は大きく息を吸って声を出そうとするが、それは微かに空気を震わせるのみで音にはならない――私は自分が随分と長い間、声を使わないでいた所為で唖になっていたのだ。
それでも、引き攣れる喉を無理矢理酷使して、私は一つの願いを口に出す。
「私の……大事な迷い子が何処にいるのか教えて欲しいのです!」
口にした途端、膝の力は抜け、私は間抜けにもその場にうずくまってしまったのだ。
******
1
激しく呼吸を繰り返し、アバンは夢の世界から急激に現実へと引き上げられる。
ここは竜のいる水晶の洞窟ではなかったし、あの悲劇が引き起こされた川でもない。柔らかな朝の白い光が差しこむ室内、窓の外では軽やかな小鳥のさえずりが響き渡っていた。
アバンは余りにも懐かしい夢に、もしかするとこちら側が夢ではないのかと疑い、頬を自らつねって痛みを感じると、やはり夢だったかと胸を撫で下ろした。
そろりそろり、と足をベッドから下ろして、アバンは窓辺へと身を寄せると、朝の光を透かして見せるカーテンを押し開いて外の景色を確かめる。確かにここはカール王国の城の中で、自分は王配としてここにいるのだと確信する事が出来た。
「おはようございます。殿下、朝のお支度の準備が出来ましたが」
扉の向こう側からは聞き慣れた侍女の声が響く。
「おはようございます。入ってきてよろしいですよ」
「それでは、失礼いたします」
侍女は銀のワゴンを押してアバンの寝室へと入ってくる。ワゴンの上には洗面の器と水差し、化粧水と乳液とがあり、下の段には整髪道具と化粧道具一式が用意されていた。
「随分と顔色がお悪いようですが」
部屋へと入って来た侍女が開口一番、声を上げる。
「え、そうですか?」
「ええ、心なしか瞳に生気が感じられません」
「あーそれは…夢見が悪かった所為かもしれません」
アバンは苦笑しながらベッド横の椅子へと座り、用意された洗面器に水が注がれると顔を洗い始めた。
「そのような様子ではフローラ様も、今日、いらしゃいますヒュンケル様までも心配なさるでしょうに」
「ああ、そう言えば、今日はヒュンケルが来る日でしたね」
洗面器からパッと顔を上げると、笑顔を輝かせてアバンは言い、侍女に鏡を見せてくれるように頼み、望み通り手鏡を渡されるとまじまじと覗きこんだ。
「うん、ちょっと目の下に隈が出来ているけど、午後には消えているでしょう。午前の政務には化粧で誤魔化しますから、用意していただけますか」
「それは構いませんが……本当にアバン様はヒュンケル様がいらっしゃるのを楽しみにしているのですね」
「そりゃあ、私の『誇り』ですからね」
にっかりと笑うアバンに侍女は苦笑する。
「前に顔を合わせたのは三ヵ月前、でしょうかねぇ」
「ええ、殿下の言いつけ通りに、三ヵ月おきの義手、義足のメンテナンスにいらっしゃってますわよ。昨日は夕刻時に城下の貴賓館へとみえまして、そのままお泊りになりました」
侍女の言葉に、ほんの少しだけアバンの表情が曇る。
今のヒュンケルの左腕と左足は二年前に復活した冥竜王、ヴェルザーとの戦いで失ったのだ。アバンはその時、全ての力を注ぎ込んで彼のために義手と義足を作ったのだが、それはヒュンケルの考え通りに動く機械仕掛けもので、三ヵ月おきに自分の元へメンテナンスに来るように言い渡したのだった。
今はヒュンケルはヴェルザーの脅威を退けた英雄としてパプニカでは人気が高いのだが、本人は称賛されるのを心よしとはせず、レオナ姫の許可を得て放浪の騎士として世界を渡り歩き、魔界のモンスターの残党を退けたり、その国の騎士たちの剣術の指南を担っている。勿論、ここカール国でも彼は騎士団に特別指南役として籍を置いている。
何も言わなければ姿を消すだろう彼の唯一の繋がりが「義手義足のメンテナンス」だった。
「律儀なのは相変わらずですね。王子、王女は?」
「お二人ともとっくに起きて、アバン様の言われた通りにカールの城下町を走り込んでいますわ。勿論、こっそりと護衛は付けています」
カール王国の王子王女はアバンの実子ではない。十二年も前にフローラが王家の血筋から選ばれた男性と結婚し、設けた子供だった。男性――以前の王配殿下は元々病弱であった故に、王子王女――双子が生まれて間もなく病で息を引き取っている。今はアバンが父親兼家庭教師として、二人の教育を担っている。
「いいことです。自分がこれから治める国の民の暮らしを垣間見ることは、これからの二人の糧となるでしょう」
「お二人には優秀な先生が付いているのですもの。きっと将来はよき導き人になることでしょう。ここでもう一人、弟や妹が出来れば、お二人ともに精神的に成長されるでしょう。アバン様」
言外に自分とフローラの子を催促しているのだと悟って、アバンは気が付かないふりで手早く身支度を整えると、早々に自室を出て食堂へと向かう。
「おはよう、アバン。昨夜はよく眠れて……ないわね、その様子だと」
朝の光が燦々と注ぐ部屋でフローラは待っていた。
「ええ、ちょっと夢見が悪くて」
「まあ、見掛けに寄らず肝のすわった貴方を脅かす程の夢とか、余程ですね」
「ええ、まあ」
それ以上は聞かないで下さいね、と言葉には出さなくともフローラは詮索しない。嫋やかな笑みで席へ座るように促して、いい朝であることを口にするだけ。
「子供達は?」
「着替えているわ。何せ頭からずぶ濡れだったんですもの」
「ほお」
「何でも川で魚漁をしていた人を手伝っていたとかで。桟橋から落ちてしまったんですよ」
「なるほど、なるほど」
そうして、フローラはまったくと溜息を吐く。
「そんなことをして、漁の妨げになったのではないかと聞くと、そんなことはない、網には沢山の魚が入っていたと自慢げで。事実かどうかは人をやって調べさせてはいますが、何か損害があれば謝罪しなければ」
「やんちゃなとこ、貴女に似たんでしょうね。貴女も良く一人で市井に紛れ込んでは民の生活に触れていた」
人のことは言えませんよ、とアバンは言葉にはしないで伝えると、女王としての貫禄はどこへやら、少女の頃のフローラが顔を出して「意地悪ですね」と少し頬を膨らませた。
その顔を見ながら、アバンは侍女の言葉や周囲の人間から言われている言葉を思い浮かべる。早く、フローラ様との間に子供をと。
しかし、限られた人間にしか知る事のない秘密がフローラにはある。それは、双子を出産した際、彼女は数日間にわたって高熱を出し、一時は命の危険にさらされていた。その結果、彼女は二度と子を授かれない体になったこと。
そして彼女自身に自覚はないが、その際に神に自分の命を捧げてもいいフローラを助けてほしいと願った前夫のことが忘れられないでいることをアバンは知っている。
(このままでいいじゃないですか)
心身ともに健康な子供が二人もいて、忠実な家臣と勤勉な国民がいて、二年前に起こった冥竜王の侵略の爪痕もほぼ消え失せた世界で穏やかに暮らす。激情もなく心の平静を保ったまま、年老いていくのだ。
胸の奥でちりりと痛みが走る。
(ああ、そう言えば、この心臓には種が植え付けてあるのでしたね)
それは遠い昔、巨大な力を持ちながらも隠者さながらの生活をしていた竜との絆だった。
(この種の影響か、私は表面上は大して年を取らずにいますが、もし、この種が原因ならば近々決着をつけなれば)
もしかすると、今朝見た夢の原因は、この国にヒュンケルが来ているからではとアバンは思い立つ。竜との絆を繋げた切っ掛けである存在が身近であることから、種は揺さぶり、あのような夢を見せたのではないか。
それとも何かの予兆なのか?
アバンには未来を見通す力はなかった。
アバンはヒュンケルと会う時は公的な部屋ではなく、私室で顔を見合わせるのが通常となっている。
この日は中庭の薔薇が美しいからとテーブルをセッティングしてのもてなしとなった。
「いつものことだが、それは召使いの仕事なのでは? 王配殿下?」
緑の芝生の上に白のガーデンテーブルを出し、アバンは上機嫌で優美な模様が描かれたポットを持ち、ヒュンケルへとお茶を勧めていた。繊細な形のティーカップの前にはレモンケーキ、勿論、アバンのお手製である。
「趣味と実益を兼ねて、ですよ。気晴らしにもなるので付き合ってください」
「それほど政務は煩わしいか?」
「煩わしいとかはないですよ。流石、一度は滅ぼされかけたものの復活し、ヴェルザーの侵攻にも耐えた国です。結束力はどんな国よりも硬い。即断即決で国や法の整備が整うのですから、これほど楽なことはないでしょう。ただ、時々ですが趣味に走りたい衝動が走るのも事実です」
「機械いじりもか?」
「ええ、そうですよ」
アバンの隣にはワゴンがあり、その上にはヒュンケルの義手と義足が乗せられていた。今、ヒュンケルが身に着けているのは仮の装具であるが、それでも日常生活には困らない程度の優秀さはあった。
「それにしても……随分と今回は傷だらけにしましたねぇ」
言いながら少々呆れた素振りでアバンは装具を眺める。銀色の冷たい光を弾いた金属の表面には大小さまざまな傷が走っていた。
「孤島に住み着いたモンスターが手強くてな。そこから不定期にモンスターが襲ってくるというので手を貸したが、竜の眷族が仲間に入っていたのは計算外だったな。思いのほか、手間が掛った。修理には手間が掛りそうか?」
「肝心の中身は魔法石の手入れだけで済みそうですけど、外側は全交換ですねぇ」
「そうか……また、数日間、厄介になる」
「構いませんよ。寧ろ大歓迎です。騎士たちの指南に出てくれるのでしょう?」
「ああ、こんな欠陥だらけの人間で構わないなら」
「何を言うんですか。仮の義手義足でも貴方に勝ことは難しいって騎士たちは半分あきらめ顔で言ってますよ」
「それでは困るな。栄えあるカール騎士団が」
「そうなんですよねぇ」
ヒュンケルの言葉を受け、アバンはしみじみと頷いていたが、「しかしですね」というと己の眼鏡の縁を持ち上げた。
「次こそは一本取るんだと息巻いている二人がいるんですよ」
「二人? まさか」
「はい、貴方の考えている通り、ウチのヤンチャな王子と王女の二人で~す」
その言葉を受け止めて、ヒュンケルは眉間に深い皺を刻むと大きく溜め息を吐いて頭を抱えた。
「王子はいい。この国を守る男なのだからな。しかし、王女は……もっと他にやるべきことがあるだろうに」
「母であるフローラ様がヤンチャですからね。その上、この国の騎士団の先頭に立ち、戦うことを厭うことなく辣腕を振るっていた女性――子供達は戦乱の中でそんな母親の生き様を見てきたのです。憧れない筈がありません。それにヒュンケル? 貴方の言いようでは女性は戦いの場に出てはいけないって風に聞こえますが?」
「そのつもりで言った。彼女らは凄惨な戦いの場にいるより、愛する子の傍らにいるべきだ」
「それは今まで戦ってきたマァムやレオナ、女戦士たちを否定することにはなりませんか?」
「そんなことまでは言っていないだろう。オレは彼女たちの力を認めているし、その精神を尊いとまで思っている。寧ろ、彼女たちの力を借りなければならない己自信の力不足を嘆いている」
ヒュンケルの声を聞きながら、アバンはゆっくりと紅茶の入ったカップを傾ける。こうして熱弁を振るうヒュンケルのを聞くのは心地がいいからだ。
大勇者、救国の英雄と周りは持て囃し、弟子達も尊敬する師と敬って、アバンが口にすることは何でも両手離しで歓迎する傾向にあるが、ヒュンケルだけは一歩引いたところで熟考して間違いは間違いであると指摘してくる。その考えは公平で一理あり、アバンを間違った道から引き戻してくれる時もある。
幼い頃は不貞腐れた様子でなかなか口をきいてくれない日も多かったが、今は真っ直ぐにアバンの視線を受け止めてくれるのが嬉しかった。
ダイ探索の期間も時々はアバンの前に現われては、心配事はないかと気遣い、鬱憤腫らしがしたいのならと昔のように剣で言葉を交わした。
それからはアバンの方からもちょくちょくヒュンケルの元へと訪れては、新作料理を振る舞ったり――勿論、ダイ探索に同行しているラーハルトとエイミにもご馳走しては、率直な感想を求めたりしていた。
(会える時間は短いけれど、その分、濃厚な言葉を交わしましたね。それは森の中の秘密の図書室での静かな語らいであったり、剣での稽古だったり)
時には危険な冒険に参加したり、知恵を貸したり、二人の間にあった距離を縮めるように繰り返している内に、アバンにとってヒュンケルの隣は居心地のいい場所となっていた。
「だから、聞いているのか、アバン!」
少しばかり強い口調で名前を呼ばれて、どうやら昔の記憶に引きずられて、現実の世界から遠ざかったいたことにアバンが気付くと、気まずい顔をして「ごめんなさい」と笑顔のまま肩をすくめた。
「まったく貴方くらいですよ。いい歳になって弟子に叱られることになるなど」
眉を顰めて溜息を零す弟子に、アバンは小声で「それが楽しいんですけどね」と呟いて、ふと耳にしたヒュンケルが「何か?」と問う。
「何でもないですよ」
誇りの一番弟子であり、罪を背負いながら真っ直ぐに前を向くヒュンケルをアバンは好ましく思っていた。
反目しあったまま別れてからの再会で、ヒュンケルは昔の自分を恥じる想いがあったが、さりとて今更「先生」と甘えるような気概もなく、何かにつけてアバンの言う事に反目していたが、それも徐々に溶けていき、冥竜王との戦いでは師弟ではなく、頼れる相棒として背中を預けられる存在となった。
戦いが終わってからも、こうして機械義肢のメンテナンスに訪れては、アバンの昔話に付き合い、時には剣の手合わせまでもしてくれる。
気安い相棒となって、きっと、このまま彼が幸福になるのを見届けるのだろうと信じていた。――なのに。
彼の姿を見る度に胸の奥が痛むようになり、頭の片隅が何とかしなければという焦りが生まれるようになっていた。
(何とかとは、何なんだろう)
アバンは自答自問してみるが答えは出ない。代わりに
『本当にお前は己のことには疎いな』
と嘲笑する声がするのだ。
それは遥か昔、鍾乳石と宝石に閉ざされた世界で交わした約束の主の声だ。いつもいつも、その声はアバンが窮地の時に問い掛けても何の返事もせずに、こんな何でもない時にひょっこりと聞こえる厄介な存在だった。
空を振り仰げば抜けるような青空に、耳には小鳥のさえずりが聞こえる。真っ白なテーブルクロスを掛けた布の上には、レモンパイとシフォンケーキ、それと香しい紅茶が乗せられていて、絶好のお茶会だと言うのに、気が晴れないのは勿体ない気がしていた。
「ヒュンケル様、他に何か用事はございませんか?」
ヒュンケルの隣に立った侍女が頬を赤らめながら問う。その彼女に弟子は素っ気なく「何もない」と言い放つと、彼女は少しばかりがっかりした表情を浮かべながら、その場を離れるのだ。
「勿体ないですねぇ」
「何がだ、アバン」
「いえね、貴方がその気になれば、幾らだって生涯のパートナーとして立候補する娘は沢山いるのに。ほら、気が付いてますか? カップソーサーに乗せられている砂糖、ハート形に固められているじゃないですか」
ちなみ自分は王冠型です。とアバンは笑顔でスプーンに乗せて見せた。
「エイミさんと別れられて何年経ちます?」
ヒュンケルは答えない。ただ、眉間に深い皺を刻んで己の手元を覗きこんでいるだけだ。
「貴方だっていい歳なんですし……そう言えば、結婚に関して弟弟子に先、越されちゃいましたねぇ」
三か月後には長年行方不明だったダイとレオナの結婚式がある。その招待状をアバンへと届けることも今回のヒュンケルのカール王国への訪問の理由でもあった。
「……結婚の早い遅いに勝ち負けがあるのか?」
「いえ、ありませんけど。兄弟子として見本となる振る舞いが出来ないのは悔しくないですか?」
「ないな。剣技での優劣ならともかく。結婚などと……オレには縁遠い話だ」
「縁遠いだなんて、とんだ勘違いですよ、ヒュンケル。貴方は大層モテるのに、その事実に目をつぶって縁のない話だと決めつけている」
「いや、だからオレは」
「そのハートの砂糖に掛けて、自分には関係のない話だと言えますか?」
にやにやと笑うアバンに、ヒュンケルはキツイ視線を寄越す。その瞳を見返し、アバンは王冠型の砂糖をスプーンに乗せると、ゆっくりと紅茶の中へと浸す。王冠は赤い茶の色に徐々に染まり、速やかに形を崩して紅茶の中へと溶け込んでいった。
胸の中のざわざわは消えていかない。しかし、それを無視してアバンは口を開く。
「これから二人を取り巻く状況は難しいものとなるでしょう。人ではない存在と血縁を結んだレオナ姫を非難する者も出るでしょう」
冥竜王ヴェルザーの侵略は不幸にもパプニカから始まった。魔物の傷跡が大きく残った国には貧富の差が広がり、どろりとした暗闇からは怨嗟の念が吹き溜まって、人の形をしたモンスターを生み出す。
竜の力を持つだけというだけで、いずれダイはモンスターと化して今度こそパプニカを滅ぼすだろうと言う輩までいるのだ。アルキード大陸の消滅の記憶は風化するほどの年月は経っておらず、人々の心の片隅に巣食っていることも不安材料の一つだった。
「そんな奴はこのオレが許さん!」
「ええ、私も協力の手は惜しみません。ですが、若い二人の支えになるのでしたら、貴方だけではなく、もう一人、手がいるのですよ。貴方、レオナ姫の柔らかな部分に立ち入ることが出来ますか?」
「それは……」
「出来る事ならば同じ女性、そして共感できる同じ立場の女性が好ましいのです」
「そこで、オレの結婚話か」
はい、とアバンは笑みを浮かべる。
「気に掛る方はいないのですか? もし、心当たりがないのでしたら」
アバンは言いながら、お節介な仲人のように懐から何枚かの女性の絵姿を出そうとした時だった。
「気に掛る者なら……いる」
「えっ、そうなんですか!?」
目を丸くし、驚いているアバンを見て、この日、初めてヒュンケルは相好を崩して笑い声を立てた。
「気を遣わせたようで悪いな、アバン。貴方が心配しなくとも、オレにだって心を通わせる相手はいる」
「そ、そうなんですか。それでは」
「しかし、結婚はしない。興味がないからだ」
胸を張って堂々と言い退ける弟子に、アバンは何故かしら腰が引けた。
「不甲斐ない弟子で済まんな。だが、アバンの言うことも一理ある。今後、レオナ姫に何かしらあれば彼女に相談しよう」
「そ、そうですか」
胸の奥のざわめきが酷くなる。良くなるだろうと思って放った言葉が、意外な未来図をアバンへと突きつけて眩暈がする。
「その……彼女さんとは、どこで」
「古い知り合いだ。王宮内の者で誇り高く芯の強い……オレの知らないことは全て彼女から教わった。長い黒髪がよく似合う聡明な女性で、彼女ならオレは何もかも相談出来た」
耳鳴りが酷い。
だが、アバンは表面上は取り乱すことなく「そうですか」と柔らかくうなずく。
「それ程までに思う人なら、やはり、結婚すべきでしょうに」
「それは先生の経験則からですか?」
ずきり、ずきり、と胸の奥が痛む。脳裏にはフローラの笑顔が浮かんで、少しばかり視界が歪んだ。
何を馬鹿なことを、とアバンは自戒する。今では形ばかりの自分の婚姻関係をヒュンケルに晒してどうなる、と。
ここは笑顔で彼には幾つもの指標があるのだと、伴侶と歩む暖かな道があるのだと気付かせる場面だろう。
「ええ、そうですよ。ヒュンケル」
脳裏で『嘘吐きめが』と嘲笑う声がした。
表面上は気のいい先生として、明るく朗らかな王配殿下として、王子王女の尊敬される義理の父、そしてこの世に二つとない機械義肢の作り手としての顔を保ちながら、アバンは私室へと戻る。
「今日は疲れました」
ヒュンケルを薔薇の咲く庭で歓待した後は午後の政務をこなし、夜は英雄ヒュンケルを迎えての夜会だった。
お茶会で何が気に障ったのか、ヒュンケルはアバンに対し硬い表情のままで、にこりともしない。いや、元々喜怒哀楽がはっきりした性分ではないことは分かっているのだが、それでもアバンだけに向ける柔らかい薄い笑みを夜会で見ることは出来なかった。
むしろ、彼の笑みは周囲に集まった女性に注がれるばかりで、胸の中の不快感は増すばかり。
表面上は繕えていたつもりだったが、幼い子供には分かるようで、王子王女の二人から心配されて、ようやくアバンは自分を取り繕うことが出来た。
夜も更け、自室へと戻ったアバンは言い知れない疲労感に苛みながら、寝間着へと着替えてベッドへと倒れ込んだ。
自分の呼吸さえも大きく響く夜。アバンはなかなか訪れない睡魔に内心苛立ちながら時が過ぎるのを待つ。
胸の奥で何かがひび割れる音がする。
「……ひっ! ぐ……っ」
ひび割れた傷からは何か――植物のような枝が生え、己の心臓を取り巻き、キリキリと締め上げてくる。
じっとりと額に浮く脂汗に、これは只事ではないと警鐘が鳴る。誰か呼ばなければ、と手をベッドサイドにある呼び鈴へと伸ばしたが、その冷たい感触に触れる前に意識は途絶えてしまった。
次に目を見開いた時、自分の視界にあるのはいつもの天蓋で、朝の白い光が差し込み小鳥たちのさえずりが聞こえる平穏な朝の風景だった。
(あの胸の痛みは何だったのでしょう?)
毎朝、感じるような軽やか感触と違い、今は手足が鉛のように重い。怠い体を無理矢理引き起こしてアバンはベッド上で顔を覆い、次いで胸の痛みに気が付いて夜着の前を開けると、そこから赤い華麗な花が一輪、真白のシーツの上へと落ちる。
おそるおそる胸へと手をやれば、心臓の真上あたりに棘を伴った植物のツルが生えていて、赤いつぼみが膨らみ始めていた。
(これは、この花は)
――主が約束を違えた時、種は弾け、心臓へと根を下ろして
お前を食い尽すだろう。
脳裏を重々しい声が響く。
――約束を違えた時?
――ぬしがワシ以外の者へと魂を分け与えようとした時だ。
忘れていた。いや、忘れる筈がない、あれは大きな取引だった。ただ、自分が約束を違える筈がないと、タカを括ってしまった結果、記憶の底へと沈めてしまった情報だ。
――魂を分け与えようとした時?
――ぬしが『恋』をしたと自覚した瞬間よ。
あの頃は自分は二度と恋などしないと思っていた。愛する女性から離れ、守るべき子供を死に追いやった自分は罪深く、とても幸福になる権利などないように考えていたから。
(でも、今更、誰を)
フローラとの結婚で種は発芽しなかった。二人の間にあるのは尊敬と慈愛であり、恋人としての関係よりも、いかにして二人でカール王国を支えていくか、故国の慈母慈父になろうと決心を誓いあってはいたが、それは狂おしい感情とは無縁の緩やかで温かい感情だった。
では、やはり、とアバンは思う。
傷みの消えない胸を掴んで、アバンは赤い花を見下ろしていたが、やがて花は花芯を残して散る。その際に放った言葉――ヒュンケルという名前に絶望する。
花はここにはいない人の名前を呼ぶ。その声音には甘い色が混ざり、乞うように切ないような響きが交じる。
(私は、また罪を重ねてしまうのか)
もう、ヒュンケルには意中の恋人がいるのに。
私だってフロー様や二人の子供がいるのに。
「この恋は罪ばかりだ」
顔を覆って涙を溢すアバンの体を、鋭い棘を持ったツルが胸から伸びて包んでいく。そのツルの端端にも花は咲いて赤い花びらを周囲へと撒き散らす。
『ヒュンケル、愛しています』
シーツへと落ちた花は、アバンの声で愛を紡ぐと花びらを散らしていった。
2
この恋は一生、胸の中に仕舞っておこうと思っていた。
最初は勘違いだと、長い間、憎い仇だと念じ続けていたからこそ胸の奥底に擦り込まれ、それが憎しみの解放と共に慕情へと変質していったものに過ぎないと。
そう、慕情だ。敬愛とも言い換えてもいい。
ダイの行方を捜しながら、時折、カール王国を訪ねては元気な様子を見てほっとすることを繰り返している内に、もっとアバンと一緒に過ごしたいと願うようになった。これも子供時分に憎しみと共に過ごした時間を、尊敬と労りでやり直したいという感情の現れだと思った。
その上、アバンは王配になった今でも無茶をするようで、諫める事が出来るのは自分くらいだと妻女であるフローラ様から直に頼まれたこともあり、カールを訪れる回数は多くなっていくばかり。
決定的になったのは冥竜王ヴェルザーとの戦いだろう。
大人しく国で王様業していますと言った誓いは易々と破れ、戦うアバンの使徒の前に味方としてアバンが現われた時、散々と叱ったのだ、自分の立場をわきまえろ、と。
しかし、アバンは涼しい顔で「充分、王様業はこなしてきましたよ。例え、私の命がここで潰えたとしても、カール王国には聡明で勇敢な女王と、同じように賢く強かな王子王女がいるんですから」と高らかと笑って周りのいう事を聞かない。荷物になるだけだと冷たく引き離しても、荷物は荷物でも一矢報いる事が出来る荷物になりますよと言う。
そのままなし崩しに敵の攻撃が始まり、ヒュンケルはアバンの背中を守りつつ戦うことになるのだが、その死と隣り合わせの限界まで己を高めなければ生き残れない場面で、ふと、このままアバンと共に死ぬことに陶酔感を得てしまった。
この戦場で二人命を落とせば、アバンは永遠に自分のものだと、アバンの死に顔を目に焼きつけ、唇を合わせたまま敵に貫かれることを夢想した。
間違った考えだと思っても、一度捕らわれた酩酊感はなかなか去って行かない。
息つく暇もない敵との攻防戦でアバンがヒュンケルの名を呼ぶとき、確かに二人の間には強固なつながりがあるのを感じるのだ。
そして、昔、バーンパレスの戦いでアバンがキルバーンの罠に引き込まれたことを知って、何故、自分も一緒に付いていかなかったのかと強く後悔したことを思い出し、余計にアバンから離れなくなる。
あの戦場における一体感を今も思い出しては、確かに芽生えた恋心に引き裂かれるような痛みと、甘い多幸感を抱いて今日まで生きてきた。
離れなければと思うのに、心はアバンの傍にいたいと懇願する。左足左腕の装具のメンテナンスという理由をつけては恋しい人の声を聴き、姿を瞳に焼き付けては「これで十分だ」と自分に言い聞かせた。
心がアバンから離れない以上、結婚など考えることも出来ない。一生、独身で貫くつもりだ――なのに。
今日の正午下がり、いつもの通り機械義肢のメンテナンスの為にカールの王城へと訪れると温かい日差しのさす庭へと案内され、そして、いつも通りに懐かしいアバンのお手製のケーキでもてなされながら、穏やかなお茶会となるはずだった。
『貴方がその気になれば、幾らだって生涯のパートナーとして立候補する娘は沢山いるのに』
アバンの柔らかな声が蘇って、ヒュンケルは思わず手にしていた酒のグラスを粉々に握りつぶしそうになる。
「何がいい歳だから結婚した方がいい、だ。ダイと姫の婚礼にかこつけてオレまで結婚させようとする。大きなお節介だ!」
ヒュンケルは夜会が終わると、秘密裏に自分の部屋へと誘おうとする女性を振り切り、王城内にある来賓客用の部屋へと引き込むと、室内にあったキャビネットから酒を取り出すと憂さ晴らしだと飲んでいた。
焼けるような液体が喉元を通り胃の腑へと落ちていくのを感じながら、ヒュンケルは溜息を吐きながら天井を仰いだ。
「……未練がましいことだ。いっそ、アバンの言うように誰かと結婚してしまえば諦めがつくんじゃないだろうか?」
そんな半ば捨て鉢な気分で声を掛けてくる女性に愛想笑いを振りまいたが、女王と肩を並べて現れたアバンの姿を見て意気消沈してしまった。
例え、伴侶となる女性と仲睦まじくても、前王の子供たちの良き父となっていても、アバンはアバンだった。
飄々として掴みがたく、しかし、その謎の瞳の中に得難い光を携えて魅了する。知れば知るほどに分からなくなる底の深さにいつしか捉えられ、もっと素顔を暴きたくなる衝動に駆られる。
寒い国で暖かな手を差し伸べられて甘い飲み物を飲んだ日、花々が輝く日に一つ一つ、植物の名前を教えてくれた日、うだるような暑さの中、マントの影へと招き入れられた日、遠い星々を数えては流れ星が現れるのを待った夜。様々な思い出がアバンとヒュンケルの間には降り積もって、これを手放す気はさらさらになかった。
結局、アバン以外を欲しいとは思えなかったし、心を寄せようとしている女性にも申し訳ないと、ヒュンケルは逃げるようにしてこの部屋へと戻ってきたのだ。
「幸せなのだな、アバン」
長年、思いを寄せていた女性と一緒になり、幸福だからこそ、弟子たる自分にも味わってほしいのだと思ったのだろう。
「だがな、アバン。幸せの形など、人それぞれだとオレは思うぞ」
ヒュンケルはグラスの底に残った酒の一口分を煽ろうとして、やめた。もうこれ以上は眠れなくなりそうだし、醜態を晒しだしそうだからだ。
「温めたミルクでも出してもらおうか……それで眠れるかという保証はないが」
眠れない夜など、今更珍しくないのだから。
「明日はアバンに謝ろう。そうして、オレは結婚する気などないのだとハッキリ告げよう」
だが、次の日も、その次の日もアバンに会うことはなかったのだ。
3
「王配殿下は今日は港町の視察に」
「殿下は朝の会議の後は自室へと籠られまして、誰も通すなと言われております」
「殿下は先ほど食事を終えまして、噴水の庭にいるのではないでしょうか?」
「王配殿下は武神流道場へと顔を出してくると」
とにかく、行く先行く先、アバンの姿はなく、すれ違いばかりが重なっていく。何故、そんなに出かけるのか従者を問い詰めると、機械装具のメンテナンスを放り出されたと思っているのだと勘違いされて「夕食を取られた後、アバン様は夜中まで貴方様の機械義肢へと取り組んでおります」と従者に言い返された。
「貴方様も分かっておいででしょうに! あれ程までに壊れていては、一から作り直した方が早いです! アバン様は夜遅くまで修理に取り掛かっておられるのですよ!?」
「そうか、それは済まなかった」
だが、ヒュンケルも単純に「はい、そうですか」と引く気もない。
「それでもアバンと一度、話がしたい。忙しいこととは思うが、この不詳の弟子の為に時間を作ってもらえないかと伝えてはくれないか?」
ヒュンケルが頼み込むと、従者の顔が初めて曇る。
「その……実は日中の王配殿下の行方はわたくし共も分かりかねるくらい、神出鬼没でして」
「朝議や視察、騎士の訓練と顔を出しているのだろう」
「はい。ですが、全てあらかじめ決まった予定ではなく、本当に気まぐれに顔をお出しになるのです。朝議も必ずということはなく、時にはフローラ様しか姿をお見せにならないこともありまして」
「それは……」
「その上、アバン様の部屋には誰も近づけてはならないという命令がございまして」
「馬鹿な、あのアバンがか?」
「はい、これにはフローラ様も困っておいでで、数日の間だけだから我儘を許してほしいとアバン様に言われたとか」
城の中、特に王族周りの召使いはそれこそ分単位で仕事をこなしている。緻密に練り上げられたスケジュールがあり、一つ崩れれば後々面倒なことになる。王配殿下とあろうものが自由気ままに振舞わっていては仕事にならない。それが分からないアバンではない。
「分かった。今からアバンの私室へと行く」
「それはっ!」
「貴方はこの城の者だ。王配殿下の命令を聞くのは尤もだろう。だが、オレはアバンの弟子ではあるが同時に戦友でもある。友人ならば、間違っていることは正してやるのが本道だ」
最初の方こそ困ったような顔つきだった従者だったが、ヒュンケルの歯に衣を着せない物言いで始まるアバンとやり取りを何度も目にしていたことを思い出し、ほっとした表情になり、頼みますと深々と頭を下げられた。
「時に女王は……フローラ様はどうお考えなのだ」
「アバンがすることならば仕方がない、と。きっと何かお考えがあるのだと言っていました」
「そうか」
アバンが城内を引っ搔き回して楽しんでいるとは思えない。確かに、何か考えがあってのことだろうと思うが、それならば身近な者に相談してから行動して欲しいとヒュンケルは思う。
「何もかも一人で抱え込むのは悪い癖だぞ、アバン」
苦々しく思いながらも、ヒュンケルはアバンの私室へと向かう。幾度か訪れては旅の話をしたり酒を酌み交わした思い出のある場所だ。
「アバン、オレだ」
ヒュンケルは弟子でもなく、パプニカからの賓客でもなく、友人として扉を叩くも中からは何の返事もない。いや、返事どころか人の気配もないのを感じて、ヒュンケルは思い切って体当たりでドアを壊す。
「ヒュ、ヒュンケル様!」
背後で従者が素っ頓狂な声を上げているが、ヒュンケルの耳には届かない。それよりも目の前の光景ーー家具の位置こそ変わらないが、いつも机の上にあるアバン愛用のペンがないこと、コート掛けに掛けていたマントもなく、壁際のチェストの引き出しは開けられ、中身は何もなかった。そして、何よりも空気の淀みが、長い間、ここに人がいなかったことを証明していた。
「アバン!」
ヒュンケルはすぐさま、隣の寝室へと飛び込むと天蓋付きのベッドにシーツはなく、スプレットがむき出しのまま。ベッド脇のチェアの上にあった水差しは横倒しになり、おそらく中身は床へと零れただろうに、絨毯は濡れた感触を伝えなかった。
「そんな、アバン様は毎日、ここから出るところをわたくしは見ています。汚れものはございませんかと聞くと、もう私以外の侍女に手渡しましたと笑って……」
「……今日、アバンはどこに行くと言っていた?」
暮れていく光に照らされた室内を見渡しながら、ヒュンケルは問う。
「今日は午前中に騎士団の視察を済ませたら、すぐに戻って機械義肢の修理を続けると」
「では、とっくに戻っていないとおかしいな」
ヒュンケルは床に落ちている枯れた花を拾った。大ぶりの華麗な形で、色は抜けてしまっているが、おそらく鮮やかな赤だったろうことが花びらに僅かに残った色で分かる。
それは瞬く間にヒュンケルの手の中で砕けて零れていく。
床に触れる瞬間、微かな声でアバンの声が聞こえたような気がしたが、それを言葉として拾うことがヒュンケルには出来なかった。
それからのアバンは神出鬼没もいいところだった。ふらふらと柱と柱の間を駆けていく姿を見て、幽霊だと騒いだ者もいる。
一度、フローラが遭遇したことがあったが、アバンは悪びれもせずに、にっこりと笑うとお許しくださいと深々と頭を下げ、でも、時間がないのですと口にする。
それから、私のいない国政は上手くいっていますか? と聞くので、以前、アバンが立案した計画通りに彼がいなくなった時の非常事態製で物事は進んでいるというと、良かったと微笑んで消えてしまったのだ。
「瞬間移動呪文に脱出呪文、他にもありとあらゆる魔法や呪術を体得している彼を捕まえるだなんて困難の極みよ」
と、後にフローラは語る。
「それに……何だかひどくやつれてしまって。顔色も悪くて……どうして、もっと早くに気づかなかったのか」
言うや気丈な女王は顔を両手で覆い、声を震わす。
今、城の中にある玉座の周りには、ヒュンケルとフローラをはじめとしたアバンに身近な者だけが集まっている。一国の重鎮が突然に奔放に及んだなど、余計な憶測を呼び込みかねなかったが、それを表ではっきりと現す訳にはいかなかったからだ。
「ご自分を責めないように。あの人は――アバンはそうと気づかれないように、少しずつ少しずつ、オレ達から距離を取っていった。それも巧妙に。気づかないのも無理はない」
ヒュンケルはフローラの前にひざまずき、騎士の礼を取りながら相手を慰めた。
「だが、アバンは必ずオレの前へと現れます」
何故なら、とヒュンケルは自分の左腕の袖をまくって見せた。
「彼はオレの義肢を作り直すといっていました。この魔法石で作られた機械は至極デリケートであり、以前も微妙な調整を何度も繰り返して後に完成に至りました。アバンがその調整をせずに去ることはない」
それがいつの日になるのか、知ることは叶わないが、アバンなら絶対に約束を果たすだろうとヒュンケルは確信していた。
「んな、チンタラやって、取り返しのつかないことになったらどーすんだよ」
突然割って入った声に一同が振り返ると、そこには白く小さな花を束ねたものを抱えているポップがいた。
「ポップ、お前、なんで」
ポップは修行兼、見聞を広めるために世界各国を回り、世界中の魔法使いのホットラインを繋ぎ、独自のギルドを作るために旅している最中だった。
「ん、一昨日さ、アバン先生がオレに会いに来てくれたんだよ」
「アバンが!?」
「おうよ、久しぶりに語らいたいとか言ってさ、一晩、宿を取って色々と話をしたんだよ。そうして別れ際にさ、この花束を寄越して『元気で』と言って飛んで行っちまったんだけどさ」
ポップは露骨に顔をしかめると、ヒュンケルに向かって大きく一歩を繰り出す。
「オレの直感が言うわけ、なーんか、変だってな。第一、先生、すげーやつれていたし。魔法で誤魔化していたけど、この大魔導士ポップ様の目は騙されねーっての!」
そうして、不安になったポップはダイやレオナのいるパプニカや、武神流の流儀を後世に伝えるために道場に詰めているマァムの元に行き確かめたのだ。
「オレと同じように先生が来て、泊りがけで色々と話をすると、花束を渡して帰っていったって」
そうして、ヒュンケルへと掴みかかって声を張り上げた。
「なあ! なんでオレらの所にわざわざ顔を出したんだよ! 先生は! 昔話がしたい? んなのまだ先の話でいいじゃねーか! あんな具合の悪そうな顔をして! オレ、不安で不安で仕方なくって」
「それでカールに来たのか」
ヒュンケルの問いに、こくりとポップはうなずく。
「ダイ達の所を回って、これはやっぱりおかしいって確信して来てみたら、先生はいねーわ、お前らは雁首揃えてトロくせーこと言ってるわ」
「トロくさいとは随分な言い草だが、現に探す方法が分からんのだ。何せ、相手は万能の天才だからな」
「んなの、この更に天才のポップ様に任せなさいって」
悲壮な表情から一変、いつものおちゃらけた魔導士に戻ると、ヒュンケルへと蓋つきの平たい容器を渡した。
「なんだ、これは」
「前にさ、先生がルラムーン草を使って異空間から現実に帰ってきたの知ってるだろ? あの草の成分を練りこんだクリームが中に入っているんだよ。でさ、なーんか、先生怪しいなって思って、そのクリームを肌荒れ防止とか言って先生の手の平とか手首に塗りこんであるんだよ」
ポップの言葉に周りがはっとしてざわめいた。
「では、これでアバンの居所が分かるのか!?」
「魔法力とは何かを理解し、感知できる人間だけだけどな。勿論、このオレにとっちゃ、お茶の子さいさいだけどな。まあ、実はここに来る時に怪しい場所は特定できてんだ。ただな」
言うとポップは元の暗い表情へと戻る。
「ルラムーン草の波動と共に、何か得体の知れねぇ大きな力も感じるんだよ――悪でも善でもねぇ。もしかすると、先生の不可解な行動に関わっているやつかもしんねぇ」
それでも、行くか? とポップは問い、ヒュンケルは己の左腕をさすると不敵な笑みを浮かべた。
「当然だろう。例え、片腕片足だろうとオレは行く」
4
死はいつも隣にいた。
だから、怖いと思うことはない。
父と母を失った時、私はとても小さくて死というものが分からなかったけれど、祖父が死んだとき、はっきりとそれが目の前へと現れたのだ。
それはとても冷たくて無慈悲なのに、一方で安らぎと郷愁とを感じさせた。
死は「そうである」ということの現状に過ぎない。
ただ、その人の生きた軌跡が輝かしい花束となって次代へと渡されたり、残すものなく土くれとなって飲まれてしまうのかは運であったり、本人の努力であったり。
私は、ある時、死と背中合わせの世界へと歩んだ。身近であった死が、急に友人のような顔をして私の隣に立ったのだ。
思考の海の中で虚ろなしゃれこうべの眼窩を覗き込み、自分の死を想像した。
敵の刃にかかって血の海に沈むのか、魔法によって体が四散するのか焼かれるのか。どちらにしろ、私は友人の泣いている顔を見ながら死ぬのだけは嫌だと思った。
あの時―ー自己犠牲呪文で死ぬのだと決めたときのポップやダイ、ゴメちゃんの大粒の涙が今も脳裏に焼き付いている。やめてと心からの叫びを笑顔で押し返して、負けませんと言葉を残して自分では最後だと思っていた戦いへと赴いた。
それ以来、私の愛する人達の悲しむ顔を見るくらいなら、猫のように人知れず消えてしまいたいとずっと思っていた。
「よし、できた」
城の西の塔。
ここは冥竜王ヴェルザー軍との戦いの爪痕深く、未だ修繕が進まない箇所だった。最上階の部屋へと続く階段は破壊され、瞬間移動呪文や飛翔呪文を体得している者でなければ入ることは出来ないだろう。
ヒビの入った壁には幾つもの工具が並び、同じように並べられた壺の中には魔法石が入っていた。機械義肢のパーツは以前から予備として用意してあったので、あとは組み立てていくだけだったが、日中に公務を済まして工房に戻るころには、ひどい倦怠感でなかなか作業が思う通りには進まなかった。
どうやら体から生えてくる植物はアバンの体力を吸い取って花開くようで、作業中は無心でいられるが一旦横になり目覚めたときには、自分の周囲に赤い花が散乱している光景を何度も目にした。
『好きです、ヒュンケル。私の大事な人』
花々は歌うように微かな声を立ててアバンを責め立てるが、最初のうちこそ罪の深さにおののき、何度もかき消そうと努力したが、そうすればするほどに胸の痛みがひどいことになるので、それでは受け入れてみればと自分の感情に素直になってみれば、不思議と痛みは遠のいた。
アバンは義肢の動作を確認しながら、これを身に着けたヒュンケルがどんなに格好いいかを想像して楽しくなる。
「あの子は昔からこういったギミックめいたもの好きでしたよねぇ。道具屋に行ってはショーケースにある機械仕掛けのアイテムをじっと眺めていたりして。欲しいなら買いましょうか? って言うと『少し気になって見ていただけだ。別に欲しいなどと言ってない』って意地張って」
今も中の機械類が動くのが目に見える懐中時計を大事にしているのをアバンは知っている。いつどこで手に入れたのか、聞いてほしくて堪らないといったヒュンケルを思い出すと胸の奥が温かくなり、次いで痛みを伴うと襟元から赤い花が顔を出した。
――約束は違えないか。
脳裏で再び声がする。それは懐かしく悲しい記憶と共に感情を揺さぶる。
「忘れていませんよ。もうすぐです。もうすぐ、貴方の所へといきますから」
アバンは出来上がった義肢を箱へとしまい込み、小さな窓を見上げる。そこには紅蓮の赤から群青色に浸食された空が切り取られていて、今からの訪問は難しいように思えた。
「まあ、いいです。明日、私の機械工学の一番弟子という風体に変身してヒュンケルに会いに行きましょう」
――変身して? 何故。
「素顔で会うとか! とんでもない」
いうとアバンは大きく何度も首を横に振る。
「無理ですよ。きっと、心臓がバクバクして胸だけじゃない、手足や顔にまで花が咲いちゃいますよ。そ、それに、今は私は姿を隠している状態なんですよ。変身しないで会うとか、きっと追及されてしまいます」
だから、自分の正体を隠してヒュンケルに会うのだとアバンは言う。
――最期の挨拶をしないで消えるのか?
「これまでだって、私は最期の挨拶なんてしてませんよ。ダイもレオナ姫もマァムもポップも、他のみんなも顔を見たら世間話をして終わりです」
そうして、みんなの記憶の中に穏やかな思い出だけが残ればいいとアバンは思う。
「私がいなくなったら大騒ぎでしょうが、まあ、色々とおかしい行動は起こしましたし、放浪癖が出てきたかとみんな納得するでしょう。困りものの王配だと呆れられるのも時間の問題です」
明日が最後の日だと、それまでに自分の体が動くことを願う。何故なら、もうこうして椅子に腰かけているだけでも辛いのだ。出来ることならば、部屋中に散った花をかき集めて眠ってしまいたい。
「そうしなかったのは、彼と約束した義肢の修理が終わっていなかったからで……明日には彼に渡すことができます」
その時だ。
大地斬という掛け声と共に、塔の影が轟音を立てて崩れていく。
「アバン!」
聞きたくて、でも会いたくはなかった人の声が壊された壁の向こう側から降り注ぐ。
「ヒュンケルと……ポップ?」
不穏な夕焼けを背景に、ポップに肩を支えられながら剣を構えるヒュンケルがアバンの視界に移った。
「そんな、何故」
アバンの問いに答えたのはポップだった。
「なんで? は、ねーだろ? 先生」
ヒュンケルを抱えて、ポップが空中をスムーズに移動して塔の中へと入ってくる。
「オレんとこ来た時さ、なーんか様子がおかしいなって思ったんで、探りに来たんすよ」
「……なるほど、何か仕掛けましたね? ポップ」
アバンは自分の手や髪の毛に触れ、何か思い立って目を見開くと顔を上げ、そして薄く笑う。
「これは失敗しました。地上一の切れ者の貴方へ行くのは明日にすれば良かったです」
「先生にはかなわないっすよ。これは先生が弱っていたから使えた手で、きっと万全の体調だったら無理だった」
「私の体調が良くないと……」
「だって、先生、具合が悪ければ悪いほどにおちゃらけるじゃねーっすか、不自然なほどに」
弟子の成長は喜ばしいものだが、自分のたくらみがバレることとなると、少々厄介なことだとアバンは溜息をこぼす。
「何故、みんなの前から姿を消した」
久しぶりに聞くような地を這うようなヒュンケルの声にアバンの鼓動は大きく跳ねる。キリキリとした痛みと共に何かが膨らみ始めるのを感じて眩暈がしそうになる。
「訳は……ポップだけに話しますから、貴方は席を外していただけますか?」
「オレが原因なのか?」
「それも貴方には話せません。どうか、私の最後の頼みだと思って」
「アバン」
どこか悲痛で悲しげな声を聴いて息が苦しくなる。
(師と仰ぐ人に拒絶されたのですから当然ですね。でも、本当に貴方だけには話せないのですよ、ヒュンケル)
出来ればポップにも話したくないが、今のアバンの状態では追及を逃れることは難しい。きっと瞬間移動の呪文発動の際にはポップが気配を察して止めに入るだろう。
その時、壁の穴から差し込んでいた赤の光は消え、代わりに青い光が室内を満たしていく。
床に散らばる花々がぼうっと輝く。そうして紡がれる微かな声にアバンは椅子から立ち上がってヒュンケルへと手を伸ばす。
「ヒュ、ヒュンケル! 後生ですから早く、この部屋から出て行って! ポップも」
しかし、体力がないからか、アバンの体は膝から崩れて床へと倒れこむ。
「アバン!」
「近づかないでください!」
厳しい声にヒュンケルの差し伸べられた手が止まる。そうして、ヒュンケルの耳に届いたのは花々の密やかな声だった。
『好き』
『好き、ヒュンケル』
声と共に花の香りはのぼりたち、まるで花畑の中心に立っているかのよう。
「おいおい、これって……いや、先生がこの野郎好きなのは当たり前だろ? だって、弟子なんだからよ」
『愛しています。ヒュンケル』
「アバン」
花の声にヒュンケルは驚き、床に倒れ伏したアバンを見ると、顔を真っ赤にして両手で耳をふさいでいる。
『恋をしているんです。ヒュンケル』
『貴方の傍にいると心は沸き立ち、いなくなると沈み込んでしまう』
『キスをすれば、どんな反応が返ってくるかと夢想して、触れられない体温に自分を掻き抱いて』
「聞かないでください! ヒュンケル! ポップ!」
「アバン」
ヒュンケルの声が震える。
なんて破廉恥なことを考えている人間だと蔑まされているのだと思うと、今すぐ姿を消してしまいたいと強く思った。
手足が痛む。棘のついたツルは今やアバンのありとあらゆる所から生え、その体へと巻き付いて赤い花を咲かす。
――ならば、私の所へとくるか?
頭の中の声が響き、アバンは大いにうなずいた。
「アバン」
もう一度、ヒュンケルは名を呼び手を差し伸べたが、それは見えない壁に阻まれた。途端、床には光の文字で見たことのない魔法陣が現れる。
「ポップ!」
「い、いや、これは……古代魔法によるもんだ。オレには解けねぇよ!」
すざましい圧力に圧し阻まれ、ヒュンケルとポップは一瞬、怯むと、魔法陣から金色の光が立ち上ってアバンを押し包み、次の瞬間には消えてしまった。
夜の帳が落ち始めた部屋の中にはアバンの姿はない。床を埋め尽くすほどの花々もなく、ただ、機械義肢作りのための道具と机、それに簡易ベッドがそこにあるだけだ。
「ポップ」
「おう、魔法陣に書かれた地名だけは読み取れたぜ。ギルドメイン山脈だ」
「そこがアバンが移動した場所か」
「多分」
大魔導士の言葉を聞いて塔から飛び降りようとするヒュンケルを、慌ててポップが止めた。
「おいおい、どこへ行こうって言うんだよ!」
「決まっているだろう! ギルドメイン山脈だ」
「お前、どんだけそこか広いか知らねぇのかよ! いきなり行っても何処から探していいか迷うだけだぞ!?」
「では、どうやって」
「お前なぁ、忘れてんのか? オレがアバン先生に目印を付けていることを」
ポップの言葉にようやくヒュンケルは動きを止めた。
「ルラムーン草を混ぜ込んだクリームだ。だが、これには条件がある。感知範囲に限りがあるってことだ」
「だが、それでアバンは異空間から現実へと戻ってきた」
「異空間とか、距離があってないもんだっつーの。兎に角、ここは落ち着いてフローラ様に相談だ。でなけりゃ、オレはお前の力にゃならないぜ」
「だが、それは……ここであったことを話さなければならないのでは」
ここであったとこ――花々たちがアバンの心の中を暴いた事実。
「……先生の反応からして、事実なんだろうぜ、先生がお前に惚れているとか。どうして先生の体から花が咲いて、その花が先生の心中を暴露したのかは分からねーけど。あの花が先生の生命力を奪っていたのは明らかだ」
花にまみれたアバンが助けを乞うように中空を見つめ、うなずいた瞬間に魔法陣が現れた。明らかにヒュンケルたちから逃げるように。
「オレはアバンを苦しめたのだろうか?」
そして、フローラ様をも巻き込んでしまったのか。
「さあね。でも、ここで聞いた花の言葉にはさ、嬉しいって感情しか感じなかったぜ」
ただ、好きでいる。
相手の事を思って華やぎ、優しい気持ちに包まれて一日を過ごす。恋する初めに体験するようなわくわく感と切なさと、そんな感情を味わうことができた喜びに声は弾んでいた。
「むかーしな。多分、アバン先生たちが結婚して三年くらいしてかな? なかなか子供が出来ないってんで、おちゃらけながら聞いたんだよ、先生も子供欲しいでしょうって。でも、そうしたら先生首を振って『私とフローラ様はそのような関係ではないから』って言ったんだ。何でもフローラ様とは共同経営者のような関係ですからって」
そして不躾ながらも夜のことを聞くと、それもありません、と。
「何でも、魔王軍侵攻の際に命を落とした前の旦那に心残りがあるってんで、アバン先生もそれを分かって手は出さなかったっていうんだよ。だから、子供が生まれるとかないんですよって笑っていた」
いつしか心の傷が癒えて、私と夫婦として歩んでいくことを決心したときこそ、名実ともに夫婦になりましょうと話をして決めたのだと言う。
「それでいいのかってアバン先生に言ったらよ。私はいいんですって、それほど自分に子供とか興味がありませんし、夜の営みも同じですって。普段から浮世離れしてるけど、そこまでかって驚いたらさ、先生、私はそこだけ欠けているんですって他人事みたいなこと言いだしたんだよ。好きって感情は分かるけど、そこから生じる性欲とか独占欲とか分からないって……ああ、そういえば、その時、だから花が咲かないんだなって小さな声で呟いていたな」
「花が、咲かない?」
「そ、一体、何のことだか分からなくて聞き返したんだけどよ、先生、意味深な笑い方して昔の話ですって」
「昔の、話」
「そういうことも含めてフローラ様に相談しようぜ。フローラ様なら、俺らが知らないアバン先生の捜索のヒントを持っているかもしれねーしよ」
ポップの言うことにヒュンケルはうなずくと、テーブルの上にあった箱――新しい機械義肢を手に取ると周りを見渡した。
アバンのいなくなった部屋は、ただ物悲しく、花の香りだけが残っていた。