地獄で茶飲み話でもしようか自分を見下ろす、沢山の取り囲む人の顔があった。
窓から差す光は暖かい色を帯びて、どこか物寂しげで。思い思いの感情をこめて自分を見下ろす人々の顔を照らしてた。
誰もが目に一杯の涙を溜めて、「よく頑張ったねぇ」と褒めてくれる。
「大震災を生き抜き、太平洋戦争をくぐり抜けてきた。父さんの生き方は私たちの誇りです」
「長い間、頑張って……本当にありがとうございます」
甲高い電子音がゆっくりと生命の終わりを告げる。
ああ、こんな最期を迎えられることが出来るなんて、あの頃は想像もつかなかった。
「これだけ命を残すことが出来たんだ。地獄なんて行けないよ、父さん」
「子供が8人に孫が18人、玄孫が6人。充分だよねぇ」
「じいじの口癖は『どうせ、俺は地獄に行く』だったけど」
若い声が苦笑交じりに口にするのを受けて、回りの何人かはくすりと笑いを忍ばせる。
――いや、待て。
俺は地獄に落ちたいんだよ。落ちて、俺が奪ってしまった兄弟たちの命の償いをしたいのだし、そうであるべきなんだ。
――あと、それと。
だが、口にしたかった言葉は声にはならず、細い呼吸となって空へと消えた。
視界が狭まる。光は消え、音も静まり闇の中へと引き込まれる。最後に見た光景はベッドへと横たわった俺へと皆が息を詰めて見守る光景を、何処か他人事のように天井から見下ろすものだった。
その光景さえも徐々に霞んでいき、次の瞬間、周囲は真っ黒な闇に覆われていた。
寒くもなく熱くもなく。地を薄い靄がたなびいていく。
――あの世か? それとも地獄か?
足を一歩踏みだすと、自然ともう一歩が出る。そのまま宛のないままに歩き出して、微かな音も聞き洩らさないようにと神経を研ぎ澄ます。
ここが地獄なら亡者や鬼がいる筈だった。だのに、何の気配もしない事に豪胆が自慢だった俺の神経が不安に駆られる。
『宇髄? 宇髄天元か?』
自分を呼ぶ声に、改めて己の姿を見下ろすと、若い頃の姿だと気付く。左目も左手も健在で、確かめる様に無い筈だった手の平を開いたり閉じたりを繰り返した。
そうして、声のする方へ急いで目線をやると、暗闇の中、ぽっかりと洞窟の出入り口のように光りが輪になって表れたのを見て、俺は考える事もなく声のする方へと走り出していた。
闇は忽然と消え、目の前にはどこか懐かしい風景、ススキの原に竹で出来た囲いが見え、囲いの中には小さな庭と小屋とも呼べるような小さな庵があった。
遠くにあるは青く霞みがかった幾つもの山脈。
それら郷愁に駆られる風景を背に立っていた男に、俺は見覚えがあった。
うねりのある癖の強い黒い髪の毛を、頭頂部で一つにまとめ、長い前髪から覗く瞳は青みがかり、重たそうな目蓋が半分覆っていた。服は白地に黒の縦じま模様の着物で、丈が膝の上までしかなかった。
記憶の中にある男の姿とは随分と違う。
自分が知っている「鬼」は病的な白い肌に、禍々しい金に若草の瞳。背をいつも丸めたままで下からねめつける様に見上げ、引きつるような笑いを貼り付かせていた。
対して、目の前に立つ男は随分と穏やかな表情で、この風景に溶け込んでいる。手にしているのは枯れ枝、おそらく炉端の焚き付けにするのだろう。
「だが、確かにあの男だし、痣もそのまんまだ」
一歩、足を踏み出すと男も一歩、後ずさった。俺の名を呼んだことを後悔しているのだろう、眉を寄せては唇を軽く噛んでいる。
「なぁ、お前なんだろう? 妓夫太郎」
俺の声に、相手の男――妓夫太郎の肩が震えた。
「……良く、覚えていたなぁ。俺の名前」
やっぱりだ。俺はおかしくなって軽く吹き出してしまった。
「お前が言ったんじゃねぇか。死ぬ時ぐるぐる巡らせろってな」
「そりゃあ、そうだけどよぉ」
妓夫太郎は眉を寄せたまま、こてん、と首を傾げた。
「じゃあ、お前、死んだのか?」
「ああ、無事にな」
「おっ死ぬのに、無事も有事もねぇもんだが……」
少しの間、考え込んでいる風だったが、やがて溜息を一つ零すと俺へと背を向けて庵へ向かって足を向ける。
「茶ぁくらい出してやるよ。旧知のよしみでなぁ」
「そうか、悪いな」
そう答えると、妓夫太郎はくるりと顔だけこちらに向けると、呆れる様に、吐き捨てるように言う。
「ホント、そういうトコだよ、お前は」
何がだ? 聞きたいと思ったが、その前に妓夫太郎は縁側を指差し、そこで座って待っていろと言ったきり庵の奥へと入って行ってしまったので、口にする機会を逸してしまった。
小さく傾きかけた濡れ縁へ腰を掛けて辺りの風景を眺めていると、ほどなくして茶は運ばれてきた。
「茶なんて初めて出すから、味の方は保証しねぇぞ」
「気にしねぇよ。こちとら、ずっと喉が渇いてんだ。味は二の次だ」
笑うながら受け取る俺に、露骨に嫌な顔をしながらも妓夫太郎は出した茶を引っ込めようとはしなかった。
「……末期の水は貰わなかったのか?」
「あぁ、そんな風習は今の世界にはねぇのよ。点滴って言ってな? 血管の中に直接水やら栄養やら流し込んで終わりよ」
「えらい怖いことしてんだなぁ、そっちの世界では……でも、そうか……お前は死んでいるんだなぁ」
「99歳の大往生だ」
俺の言いざまに、妓夫太郎の肩が面白げに揺れた。
「そんなトコにまで恵まれてんのかよ。羨ましいなぁ」
「おうよ。なにせ、俺は祭の神だからな」
「こっちじゃあ、もっと時間が経ってるんだがなぁ」
俺は暖かい湯気の立つ、香りのよい茶を濡れ縁へと置くと、少々身を乗り出した。
「こっち、というここは」
「地獄だあ」
間髪を入れずに答える妓夫太郎に気持ち良いものを感じながらも、さっきから頭の中で繰り返される疑問を口にした。
「俺の知っている地獄とは、随分と印象が違うんだな」
「そりゃあ、多分、オメーの所為だなぁ」
言いながら妓夫太郎も俺と同じように濡れ縁へと腰を下ろすと、片膝を立ててはるか遠くを見やる。
「いつもは薄暗闇の物寂しい場所なんだぁ、ここは。時間の観念はあるが昼夜の区別はねぇ。それがお前が現われた途端に日が差してきやがった」
「俺の感覚では違う。こっちが明るいから出向いた」
「ここは地獄だからなぁ。俺らの常識なんざ通じないんだろ」
「それにしても、長閑な」
「妹と来た時は、まぁそこそこ地獄らしかったぜぇ。体を休める場所も何もねぇ荒れた大地に、時折、吹き出す炎で体を焼かれるんだ」
「妹? あの堕姫って女か」
「梅な。堕姫って呼ぶんじゃねぇよ」
剣呑な光が妓夫太郎の瞳に宿るのを、どこか懐かしく思うのは俺がおかしいからだろうか?
「――梅はなぁ。どんなことでも耐えてみせるって俺に付いてきたんだけどよぉ。さすがに火には昔の嫌なこと思い出すんだろうな。焼かれてはよみがえりを繰り返しながら、もう嫌だと泣きじゃくっていたなぁ」
やっぱりあの時、突き放してやれば、明るい方へと向かわせてやりゃ良かったんだと自嘲めいた笑いが口の端に浮かんだのを俺は見た。
「……そうして痛みを繰り返して繰り返して、記憶を失くした梅は真珠のような白玉になっちまった」
何処から取り出したのか、妓夫太郎の手の平の上には鈍く輝く、真珠としか言えないような玉石があった。
「なぁ、宇髄……さん」
「さん!?」
突然の敬称に声が裏返る。
「アンタがここ来たのは間違いだ。きっと、正しい道がある筈……そうだろ?」
「……どうして、そう思う」
思わず声が沈むが、自分ではどうにも出来なかった。苛々とした感情が生まれる。
「だって、アンタ、鬼狩りじゃねぇか。それも柱だ。きっと幾百人、いや、幾千人の人間を助けてきたんだろぉ? そんんな奴が地獄へと来ることなんざねぇだろ」
――貴方は立派だ、自分の責務以上の事を成し遂げた。
――過去の事は仕方がない。それが里の教えだったのだろ? 親からの絶対的な命令だったのだろ? 仕方ない。
――罪の意識があるのなら、他の兄弟の命を継いで生きていくことこそが供養になるんじゃないかねぇ。
幾度となく耳にした、自分を慰めるための言葉が胸の中に蘇って、音が鳴るほどに歯ぎしりをした。
「どうしてそうだと言い切れるんだ!」
久しぶりに吠えた。腹の底から怒りが湧き上がって視界が赤く染まる。
「俺の手が鬼以外の血で汚れていないと、どうして言い切れる! 俺は忍びだ。主君の命と里の掟だけは破ってはならないと、物心がついた頃から叩きこまれ感情を殺して、人を殺すことに何の躊躇もなく手を下せるように生きてきた!」
忍びになる為の儀式――人の感情を一切捨て去る試練、9人が最後の一人になるまで命のやり取りをすることに、何ら疑問を持たなかった。
「だが、次々と倒れる男女が俺を指して言うんだ! 兄、だと!」
やはり兄さんが強い。自分では勝つことは無理だと最初から分かっていた。この戦いから逃げれば「裏切り者」もしくは「抜け忍」として処分される。ならば、兄に倒された方が良いと決めていた、と。
「そこでようやく俺は、兄弟同士で戦いあっていた事実に気付いたんだ」
目の前が突然暗くなり、とうの昔に霞んでいた記憶が鮮やかに蘇る。
血だまりの中に倒れる物言わぬ体。首を刎ねられ手足を切り刻まれ、ハラワタを草むらへと撒き散らし、半身を火薬玉で吹き飛ばされた――兄弟たち。
やがて、生き残った最後の弟が立ちはだかる。何の感情も浮かべない瞳をした弟だった。
もう、戦う気力は残されていない筈だった。
なのに、父の生き写しのような――個よりも全を取る弟の言動に俺の中の何かが動いた。
「一瞬の空白の後、俺は最後の弟が血を吹き出して地面へ沈むのを茫然と見ていたんだ。まるでゆっくりと……活動写真のように」
そうして、最後の遺言を耳にする。
『おめでとう、兄さん。兄さんがこれからの里の忍びを導く標となるんだ。人の感情は捨てろ。主君と里の為に命を賭けるんだ――ありがとう』
「淡々と語っていたくせに、最後のありがとうの言葉だけ悲しい感情に溢れさせやがっていて、それでいて忍びの頸木から解放された喜びも滲ませていた」
人間らしさを否定する里の在り方に反発しながら、俺は里を抜け出して、新しい、鬼狩りという居場所を見つけた。
やがて任務を重ね、任務の報酬で得た金が貯まった所で墓を買った。墓には9人――俺を含めた兄弟たちの名前を刻んだ。
「墓の前で誓ったんだ。全ての事を終わらせたら、地獄に落ちる。そこでお前達を殺めた罪滅ばしをするから、それまで待ってくれ、と」
一気に吐き捨て肩で息をしていると、目の前の男が困ったように首を傾げ、ついにはがりがりと髪の毛の中に指を滑らせて掻き回し始めた。
俺も嫁以外には――子にも語っていない過去の話を、目の前の敵だった男に吐き出してしまった事実に落ち着かなくなる。すでに冷めてしまった茶の残りを一気に煽って、話の接ぎ穂を探していると、妓夫太郎が「嫁、三人いるんだよな?」と話し掛けてきた。
「お、おお」
「子はいるのか?」
「8人だ」
「孫はいるのか?」
「18人、ついでいうと玄孫が6人だ」
妓夫太郎は目を丸くすると、くくく、と笑いながら肩を揺らした。
「それだけの命を繋ぎゃあ、罪も相殺されると思わねぇかぁ」
「――死ぬ間際、孫にもそう言われた」
「死んでから7日おき、49日までに罪の裁可が問われる――ことは知ってるか?」
「一応、常識的に」
「お前の家族たちは嘆願するぜぇ。どうぞ、おじいちゃんの罪を許して下さいってな。32人分――いや、嫁も存命しているなら35人か」
ふと、お前達はどうなんだと口にしそうになるが――そうだ、この男は妹と2人きり、鬼となって地獄に落ちたんだ。
2人を見送った炭次郎からは、互いに思いあう強い気持ちと孤独感の匂いがしたという、きっと二人以外に身内はいないだろうということだった。
「ここでの時間の流れは世俗と比べたら速いからな。一両日中にお前には明るい方へと導く光が届く筈だぜぇ――そこで頼みがあるんだがなぁ」
言うと妓夫太郎は手の平に白玉を乗せて、俺へと差し出す。
「これを――梅を光の世界に連れてやってくれねぇかなぁ。もう、記憶も何もない、罪もない。真白の魂だけの状態だぁ」
それで、お前はどうする?
再び薄闇色の世界の中で、地獄の業火に焼かれながら罪滅ばしに足掻くだけの日々か?
「断る」
「へ? う、宇髄――さん?」
「俺は運び屋じゃねぇんだ。気軽に使うんじゃねぇ」
「気軽になんか頼むかよ。やってくれと頼んでいるんだよ。なぁ、こんな小さい玉、懐に入れてくれたらいいだけの話じゃねぇか」
「お前は俺に光が差してくると言ったが、じゃあどうして今の妹――罪の消えた魂に光が差さねぇんだよ」
妓夫太郎の息を飲む。きっと、前々から気付いていた事実なのだろう。
「長い間、お前の元にいたんだろ? それは白玉になっても記憶を失くしても、お前の傍にいたいからじゃねぇのか!」
「う……ぐ、それは」
「それに、俺は迎えが来ようとここから動く気はない」
俺の言い放った言葉に、あんぐりと口を開ける妓夫太郎がおかしくて笑い出したくなる気持ちを抑えて、俺は腕を組んで胸を張った。
「馬鹿か、お前ぇ。誰が好き好んで地獄にいたがるっていうんだよぉ」
「目の前に。この色男がだよ」
それに、と俺は体を妓夫太郎へと寄せる。
「俺はさっきの話。罪が相殺された話とか納得してねーからな。兄弟達が出てきて口にしたんなら兎も角」
「……それを確かめるためにも、輪廻の輪の所へ行けっつってんだよ」
「ここにいても結果は出るだろ? 身を焼かれれば、俺には償わなきゃならない罪があるってことで、なけりゃ、そん時は大人しく黄泉路へと向かうぜ」
「……ひどく、いてぇぞ」
「お前が耐えられて、俺が耐えられない道理がない」
諦めたのだろう、ひどく長い溜息を落とした後、妓夫太郎は黙って遠くの山脈へと目を向け、そのまま黙り込んでしまった。
「……ああ、そうだ」
俺はあることを思い出して、ぽんと手を打つ。
「あのよ、俺、お前に言いたい事ひとつだけあったんだわ」
「俺にかぁ? そんな事に引っ掛かってここまで来たっていうのかぁ」
胡乱げな妓夫太郎の視線を受けて、俺は胸を張った。大分、奴の物言いにも慣れてきたな、と感じる。
「お前の唄、汚くなんかねーよ。寧ろ尖っていて綺麗だった」
「はぁ!?」
「何せ、殺さなきゃならねー相手だからな。自分を奮い立たす為にも罵ることは必要だった」
ぽかんとする相手に、「譜面だよ」というと、途端、妓夫太郎の顔が真っ赤になる。俺の言葉が何を指しているのか分かったのだろう。
「はぁ! 何言ってやがる。ホント、急な男だな」
「ホント、これだけは地獄に行ったら伝えようと思ってて。今日、願いが叶って良かった」
「俺は全っ然よくねぇ!」
赤くなった顔を見られたくないからだろう、妓夫太郎はぷいっとそっぽを向いてしまったが、髪の毛から覗く赤くなった耳で今は満足しておこう。
「鋭く早く、まるで太い弦で弾かれた曲のように力強い唄だった。その音を弾いて剣戟を繰り出せる瞬間が、今までで一番に興奮したし、充実していたと思う」
あれから何十年の時が流れ、関東大震災の時も太平洋戦争、大空襲の時もボロボロになりながら、心はあの戦いの曲の中――妓夫太郎との刃で切り結んだ瞬間へと立ち戻ってしまう。
「色々あったが、俺の忍びとして――戦士としての戦いはあれが最後だった。最後をお前と打ち合えて良かった。感謝してる」
いつの間にか周囲は暮れ、群青色の空には弱々しい光が瞬き始めた。
周囲は静かすぎるほどに無音だ。懐かしい山里の風景であるのに、虫の声一つとしてない。これが多分、ここが地獄だという唯一の証明みたいなものなんだろう。
不思議だ、と思う。
確かにこいつは――妓夫太郎は憎むべき鬼であり敵であった。心奪われるような曲を奏でようとも、根っこのところでは分かりあえないと思っていた。
――だのに。
今は、こうして無言のままに隣りあっても、一向に苦とは思わないし、ずっと付きあっててもいい。
それはきっと、妓夫太郎の兄としての本心を垣間見た事、その優しさと深さに俺の心が気持ちいいと感じているからだ。
――もっと、違う顔が見てみてぇな。
もし、今夜、俺に業火の火が降りかからなければ、すぐさま妓夫太郎は出て行けというだろうが、俺は出て行かないからな。
とくとくと少しだけ早く心臓の音は、恥ずかしさと嬉しさに満ちていて、もっと聞いていたいと思えたし、何なら別の音も聞いてみたいと思う。
――覚悟しろよ、妓夫太郎。
俺は第2の人生? たる地獄生活に希望を見出していた。