それは、人でもなければまだ妖でさえなかった。
川の底に沈んだ泥のように澱んでいて、物を見聞きすることはできるものの何かをなす手足はなかった。やがて自我が芽生えたものの力は弱かった。小鳥にさえつつかれ怪我をする有様で、額にはかろうじてツノのような突起があるものの悪事を働くどころかその日を過ごすだけでやっとだった。
陽の光を嫌い、昼間はいつも物陰の更に奥に身を潜めていた。夜になって外へ出たとしても、月明かりさえ避けて物陰から物陰へ怯えるように身を縮めて動いた。
その日は、どこかの家の軒下にいた。上は何やら騒がしかったのだが、陽の光や動物などから身を守れればそれで良い。大勢の人間達の気配と軋む床の音に時々びっくりとながらも、体を丸めて隠れていた。
「誰かおるがか」
だというのに、その人は己を見つけ出した。
まるで天から声が降ってきたようだった。身をかがめ、昼間でも真っ暗なそこに目を凝らしている。暗闇から見れば黒く大きな影が陽の光を背負って現れたようにも見えた。
「先生、どういたがじゃ?」
「わからん、犬か猫か、いや、たぬきか?……子どものようやが」
放っておけと言われてもなおも覗き込んでくる。もっとよく見ようとしてか、服が汚れるのも気にせず膝をつく。青白い顔がぼんやりと暗闇の向こうに浮かんだ。
薄闇の瞳がきらりと光り、己の姿を射抜いた。怖くなって逃げようとしたが、体が竦んでうまく動かない。小鳥につつかれた時の痛みを思い出した。鳥より大きな人間などに捕まったら、もっとずっと痛いことになるに違いない。
くぁ、と悲鳴のように啼いた。助けて欲しい、見逃して欲しいと言ったつもりだった。
それを、彼はどうやら腹の音と聞き違えたらしい。
「腹が減っちゅうんか? ……以蔵!」
「なんじゃあ、先生?」
「儂の握り飯が残っちゅうやろう」
もったいないとかどうとか喚いているようだった。ややあって、遠くにそっと握り飯が置かれた。その時はまだ握り飯などという名前を知らず、だが良い匂いのするものだとは感じた。悪い物では無い気がしたのでおそるおそる近づいた。己の体と比べると半分ほどもの大きさだった。じっと様子を窺ってみるが危なくはなさそうで、良い匂いに誘われるように小さな口で端を食んでみた。
あまりの美味しさに目が輝いた。米の甘味とほどよい塩気が口いっぱいに広がる。気がついたら夢中になって握り飯にかぶりついていた。
「おお、えい食べっぷりじゃあ、きっと大きゅうなるぜよ」
見上げると、軒下を覗き込んだその人の顔があった。切れの長い瞳を緩ませて、嬉しそうにしている。
(……かみさまだ)
そういう存在のことも言葉さえ知らなかったというのに、自然と頭の中に浮かんだ。
握り飯を平らげると再び軒下の奥へと引っ込んだ。その人はもう覗き込んでいなかった。上からは人間達の威勢の良い声が再びはじまった。その中に、一際響く冷たく澄んだかみさまの声があった。
やがて体が成長し、いつの間にか人間よりも大柄になった。力も勝手に育ち、岩でもなんでも砕ける怪力を身につけた。かと言ってひとつの所に留まることはせず、いまだにあちこちを彷徨っていた。夜目がきくのと昼間に動くと目立つのとで、夜を選んでひっそりと動いた。
世は乱れているらしい。人に会わぬようにと気をつけていても、人より良い耳は勝手に噂話を聞きつける。異国が攻めてくるとか幕府がどうとか難しい言葉はよくわからなかったが、人々の不安には敏感だ。得たいの知れないものへの恐怖がそこかしこに満ちている。
いつの間にか、都と呼ばれる場所にたどり着いていた。都であるからなのか、夜になってもどうにも騒がしい町だった。大きくなった体は隠すのに難儀するというのに、四六時中誰かが動き回っていて隠れる場所に乏しい。大きさはともかくとして、見た目は人間と変わらないので姿を見られたところでそれほど問題はない。しかし治安の乱れた都においてはそうでないようで、何度か面倒な輩に絡まれた。だいたいは難癖をつけられて襲われるのだが、そのたびに難なく撃退した。別に人間と争いたいわけではないので喧嘩事は何かと面倒だった。早々に、この都からも離れた方が良さそうだ。
幾度目かの人間との争いの末、いつものように数人を一度に伸した。見た目だけで勝ち目がないのはわかっているだろうに、人間というのは酒が入って集団になり、おまけに刀という武器を身につけると気が大きくなるらしい。
地面に転がる人間を邪魔そうに飛び越えて、いよいよこの町から去ろうとした時だった。
「お主、強いのぅ」
一人の男に声をかけられた。誰かが物陰からこちらを窺っているのはわかっていた。危害を加えるつもりはないようだったので放っておいただけだ。
小河某と名乗ったその男は、数人の男達が伏しているところをひょいひょいと渡って近づいてきた。見上げる程の己の体をしげしげと眺めている。不思議と、他の人間と同じような不安や恐怖を感じられなかった。己のことが怖くないのだろうか。
「何処の出身だね」
「……わからん」
「見たところ、浪士ではなさそうだが」
かと言って農民でも、もちろん町人でもない。ぼろ布をまとったただの無宿者であることだけは一目瞭然である。
「なんにせよ行く宛はないのだろう。それなら少し、儂らを手伝ってくれないか」
「てつだう」
「なに、お主にはきっと簡単なことだ」
見られていた分、男のことをじっくりと見た。身なりは、地面に転がった男達と比べると格段に良い。己に対する恐怖心はまるで感じられないのに、かと言って腕に自信があるわけではなさそうだ。刀は差していたが抜いたところで変わらないだろう。
「報酬はたくさんやる。住む場所と、何なら女も用意してやるが、どうだ?」
「白か握り飯は食ゆっか」
「握り飯? ……ああ、いくらでも食べさせてやる。なんだ、薩摩の出か。そりゃあいい、だが言葉は直しておかんとな」
目立ってはいけないから、と男は独り言のように言った。
男には新兵衛という名をつけられた。名前は特にないというとたいそう不思議がられ、それでは呼びにくいからと名字まで与えられた。新しい国の為にどうこうといって新という字を付けたと言ったが、難しいことは良くわからなかった。
名前と共に刀も与えられた。素手よりもこちらの方が確か、なのだそうだが。確かに、己は……新兵衛と名付けられたものは、人と争う度に迎え撃ってきたが命を奪ったことはなかった。
男はその刀で、人間の命を奪うことを新兵衛に望んだ。
考える間もなく頷いた新兵衛に、男はいくらか面食らったようだ。たいした度胸だと褒められ、ならば早速と人の顔が描かれた紙切れを差し出した。
「島田という男が伏見にいる、まずはそれを片付けてくれ」
幾人かつける、と言われたが必要には思わなかった。人間のひとりくらいならばどうにかなる。刀など扱ったことはないが、いざとなれば自分の怪力は人の首程度ならばねじ切れるだろう。
そう言うと男は驚いたが、やがておおいに笑った。「頼もしい」と言って大袈裟に肩を叩き、前金と称していくらかの金子を握らされた。金子だけでは腹の足しにならないので、伏見へと向かう途中で茶屋に寄り握り飯を食った。
いざ殺そうとするとうまく行かず、結局は幾日か掛かってようやく仕留めた。その間、ひたすら闇に紛れ相手方の動向を探っていた。暗闇に慣れている新兵衛だからこそできる技だ。微かなにおいを辿り、或いは囁かれる噂話を拾って。そうやって丹念にあとを追い、ようやく息の根を止めるにはひと月を要した。新兵衛にとっては瞬きのような刹那であったが、人にとっては長い時間だっただろう。その間、新兵衛の力量を信じて待っていた男もまた一角の人物であったに違いない。
ある日、男は仰々しく「会わせたい人がいる」と言って新兵衛をさる料亭に呼んだ。料亭という場には慣れていない。うまい飯は食わせてくれるが、妙に騒がしくて落ち着かない。女のにおいもどことなく不快だ。やけに濃くて甘ったるいにおいを掻き分けるようにして、奥まった部屋へと案内された。
それほど広くない座敷には一人の男が静かに待っていた。暗闇を射抜いた陽の光と、甘辛い握り飯の味が甦った。
「…………………………」
静かに坐したその人は閉じていた瞼をゆっくりと開けた。淡墨の眼が新兵衛の巨躯を見て、すうっと細められた。
「ああ、彼が」
涼やかな声音が微かに緩んだくちびるから零れた。青白い顔立ちは暗がりから仰いだ時よりもいくらか厳しく、そして眩く見えた。
促されるままに対面で座った。作法も何も知らなかったので、大きな体を強ばらせながらただ縮こまっていた。
あとは、新兵衛にとっては夢か幻のようなひと時だった。
何を話していたのかは難しくてよく覚えていない。だがその人の語るモノは眩しく美しかった。青白い頬をいくらか赤らめて、時折と拳を握って弁を奮った。その意味のほとんどを理解できないままに、彼の熱が体の芯まで染み渡っていく。
(おいが生まれたんな、こんしに会う為やったんか)
そう錯覚するほどに、彼の事しか見えなくなっていた。
自然と汗が滲んだ。人を殺した時でさえ感じなかった震えが全身を襲った。彼の言葉を聞くたびに、研ぎ澄まされた刃のような冷たさと、溢れんばかりの情熱とに翻弄されて眩暈さえ覚えた。
ひとしきり語ったあと、二人きり残された座敷でしばらく無言で見つめ合っていた。
先に口を開いたのは彼だった。
「ところで田中君、君とは何処かで会った事のあるような気がするのだが」
「いいえ、お初にお目にかかります」
その日のうちに、新兵衛は武市瑞山と名乗るかみさまと義理を結んだ。
それからは武市の元で人斬りとして腕を振るうことになった。慣れてしまえば人の命を奪う事は容易く、いつの間にか新兵衛の名は他の人斬り達と共に京の夜を震え上がらせていた。
「おまんはよう働くのう」
気怠げな気配がずるりと闇夜から這い出た。足元をふらつかせたのは酔っ払っているせいだ。
「遊びもせんと真面目やの」
「……」
あまり話をしたくなくて顔を背けた。岡田以蔵は人間の中ではなかなか剣を使う奴だが、あまり信用のおける男ではなかった。近頃は武市の元へもあまり寄り付かなくなっている。
それでも彼の手が必要だと呼びつけるのだが、こうして酒を飲んではくだを巻いてくる。腕は確かであろうと、新兵衛からすれば欲に溺れて己の力に慢心する小人だ。
「おまん、武市に惚れちゅうやろ」
下卑た笑いに顔を顰めた。不遜な呼び捨てといい、許される事ならこの場で斬り捨ててやりたい。
武市さえ許しをくれれば今すぐにでも、いつでも誰であっても殺してやる。
「やき、そがぁに必死になるがよ」
「……黙れ」
大刀の鍔が勝手に鳴った。血を吸ったあとの刀はやけに騒がしい。更なる血と肉を欲して新兵衛の手元でかちかちと訴えてくる。
これは、新兵衛が人でない事を知っている。人でない力、人より強い力をもってすればもっと血肉を吸えるだろうと常に期待に震えている。昼夜問わず新兵衛を唆そうとするのは煩わしいが、その分いざという時の切れ味は良い。
ならば食らわしてやろうか。減らず口ばかりの憎たらしい顔を裂き、だらしなく女ばかりを求める腕を落とす。酒に浸された臓腑を抉り、定まらぬ足を薙ぐ。闇夜にまぎれてしまえば下手人などいくらでも誤魔化しがきく。新兵衛ならば、何の跡も残さずしすます。
「……そういやぁ、」
鯉口をきろうとしたのを遮られた。
「昔、武市が飯をやったこんまいのがおったの。豊後かもっと南のあたりやったか……武市んやつ、あん後もしばらくは気にしちょったわ。ありゃあなんじゃ、犬か猫やったかの」
「……知らん」
「おまんの国の近くやろう」
知らんのか、と呂律の怪しい口調で笑った。酔いが更にまわってきたのか真っ直ぐ歩こうとしてできないでいる。
酔っ払いの言いがかりだ。馬鹿馬鹿しくなって刀から手を離した。まだ諦めきれないそれは鞘の中で唸っている。勝手に飛び出さないようにと紐で括った。
刀を見せて欲しい、と武市から呼ばれたのは程なくのことだった。
近頃の京の町は一段と不安にさざめいている。新兵衛にとっては心地よい空気であるが、他でもない武市は難しい顔をする事が多くなった。
(困っておいでなら、いくらでもおいに命じてくだされば良いものを)
次は誰を殺せばいいのか。相手が誰であろうと新兵衛の剣は鈍らない。執念深く確実に、相手を仕留めてみせる。武市を邪魔するもの、頭を悩ませるものは例えそれが何であろうと屠ってみせる。身分が高くとも、かつての同志であったとしても。
武市が直接殺せと命じることはない。彼の、あるいは彼が臨席する会合などの話を聞くうちに自ずと察するのだ。
美しい声を奏でるくちびるから、穢らわしい血のにおいなどさせはしない。
「……紐が、」
武市の腕に抱かれたそれは珍しく大人しくしていた。やけに重たそうに膝に乗せて、赤い紐で戒められた拵えをなぞる。
「紐が括られているのだな」
「無駄に抜く事はありませんので」
「……そうか」
ほっそりとした指が優しく鞘を撫でた。ひとかどの剣客であるはずなのに、この頃の彼は出会った頃よりも随分と痩せて……いや、やつれてしまっていた。体の線は細くなるばかりだ。肌の色には影が差し、薄いくちびるは乾いていて時折ため息が溢れる。闇より深い黒髪が額から落ちて薄墨の瞳にかかる。それほど広くない仮住まいの一室に身を置いた彼は、眩い陽の光よりも妙なる月明かりを思わせた。
「しかし少し……手入れが必要ではないか。良い刀工を知っている、預けてみよう。代わりの刀はすぐに届けさせる」
「は、有難うございます」
小河某に習った通りに手をついて深々と頭を垂れる。青々とした畳に己の赤毛がふさりと弧を描いた。
次は自分か。
わざわざ言われる必要はない。清らかな彼から泥を吐かせてはいけない。
ゆるく結んだくちびるは青ざめて色を失っている。何を気に病んでいるのか、これではどちらがこれから死にゆくものかわからない。
(そげん気にしやんな)
武市が望むならどんな命でも捧げてみせる。それが自分の命であっても変わらない。
貴方が望むように、望むだけのものを。新兵衛が武市の為にできる事といば人斬りくらいのものなのだから。
それに、
(おいはこげん事ではけしまん)
夜半過ぎに目が覚めた。何かがいる。息をひそめてこちらを伺っているのがわかる。
「……誰だ」
誰何の答えを聞く前に、武市は戸を開けて庭に降りた。不用心なと己でも思うのだが誰かの気配を感じていてもそれが悪いものだとは思えなかった。
京の仮住まいとしたここの庭はそれほど広くないがよく手入れをされていた。月明かりがさあさあと降り注いでいる。
いまや、最も命を狙われる身となった。近く土佐に帰ることになっているが、それまでの短い間さえも危うい。仮に帰ることができたとしても無事では済まないだろう。二度と、京に戻ることはないのかもしれない。それだけの事をしてきたという自覚はあり、さりとて悔いる気持ちもない。間違ったことをしたとは思っていない……彼の事を除けば。
濃く長く伸びた木々の影からずるりと這い出たものがあった。聳え立つような巨躯。何度見ても惚れ惚れする見事な肉のつき方で、その大きさからは想像もつかない程の俊敏さで数多の人の命を奪ってきた。否、武市が奪わせてきた。
「田中君……――」
最期には自ら己の命を奪い、果てた。立派な最期だったと聞いている。武市が謀った事と知ってか知らずか、腹を割き喉を突いた手には何も迷いがなかった、と。
「おいはあん程度ではけしまん」
不器用に纏められていた髪はおろされていた。獣のような力強さの赤毛が月に照らされている。長く垂らした髪の合間に伸びるモノを見とめて思わず息を飲んだ。
角だ。額の両端に赤毛をかき分けるようにして、二本の角が顔を覗かせている。口を開く度に見える歯がいつもより鋭く見えた。
「君は、いったい」
「さあ、わかりもはん。人でなか事は確かじゃ」
「私を、恨んで出たのでは無いのか」
「恨む……ないごて」
ゆっくりと首を振った。見応えのある美しい肉体がやけに青く見えるのは、月のせいばかりではないようだ。
「おいは……武市先生、あたん為なら命など惜しゅうなか。獲れち言われたや自分の命でも獲ってきまっ」
引き寄せられるように近づいていた。これは、もう自分の知る田中新兵衛という人間ではない。常に傍らに言葉少なく控え、武市がそうと言う前にすべてを悟り、しすましてしまうような。他人だけに留まらず、自分の命さえも、あっさりと。忠実なる人斬り……武市にとっては義理を交わした男でもあった。
目の前にいるのはもはや武市の知る新兵衛ではない。いや確かに彼ではあるのだろうが、どこの誰とも分からぬ上に人でない何かであるのだ。気付いていながら傍に寄るのを止められなかった。敵意も悪意も感じられなかった。人ではないと言いながら、見上げた顔はいつになく穏やかで武市の傍に控えていた時と何も変わらなかった。
月明かりにぼんやりと浮かぶ金の双眸は、どういうわけか見覚えがあった。
「……君は」
「じゃっどん、今は先生が危ういお立場であると風の便りで聞きました。なのでこうして、お迎えにあがった次第にて」
「迎え?」
僅かな疑問に答えてくれる間は与えられなかった。鋭い瞳に全身が射貫かれる。四肢がうまく動かぬ、と気付いた直後、すでに武市の体は彼の腕に抱かれて眩い月夜を舞っていた。
「っ……田中君!?」
「あまり口を開くと、ヒトならば舌を噛みます」
自然と息を呑んだ。これ以上は喋るなと……余計なことを言ってくれるなと命じられているような気がした。
「貴方の為にできることはもう、これしかないのです」
白々とした月明かりの中、痛いほどの速さで風が頬を撫でていく。驚きと不安と、一抹の恐ろしさが相俟っているというのに不思議と落ち着いていられた。
安堵のあまりか眠気に似た目眩を感じた。が、目を閉じるわけにはいかない。意識を手放したらきっと、このまま何処か遠くへ連れて行かれてしまう。それは困る。今が大事な時期なのだ。自分の身などどうなっても構わないが、同志たちのことは守らねばならない。土佐が時代の波に呑まれぬように、せっかく築き上げた勤皇の志が潰えないように。その為ならこの体も命も差し出すことを厭わない。
それを彼も、わかってくれているのだとばかり思っていた。
離してくれ、と叫ぼうにも叶わなかった。吹き付ける突風で口も開けず、抗いたい気持ちに反して体は痺れたように動かなかった。
武市の体をすっぽりと覆うような大きな体が、力強く夜空を舞う。屋根から屋根へと飛び去り、やがて野山に至り山肌を覆い茂る木々の合間を縫うように走った。あまりの速さに人々の目には映らず、野山に住む獣達は驚き戦いて道を開けた。
あっという間に、京の町など遙か遠くになっていた。
「はじめてお会いした時、あなたの事はかみさまだと思いました。それ程に眩しく」
休む間もなく走ってゆく間に、ぽつりと新兵衛が零した。
「あなたしかいないと思いました、先生、あなたを失うわけにはいかんのです」
その為にはこうするしかないのだと繰り返した。武市に言い聞かせるようであり、自分自身でも確かめるように。
逃げるには良い場所があって、でもそこは、ただの人間であるモノが立ち入れる場所ではない。
「だからどうか、おいん嫁御になってたもんせ」
そうすればあなたを失わずに済む。
南国の地で出会った、小さな命の輝きを思い出した。暗闇の中で不安げに身を縮ませていた。腹が減っているのかと、持っていた握り飯の残りをやった。一生懸命に食んでいる姿が愛らしく、生きようと必死になっているのがわかって思わず微笑んだのだった。珍しい、と仲間に驚かれたのを覚えている。
新兵衛がよく口にしていた真白い握り飯を思い出す。手の込んだ酒肴よりも好んで食べていた。白い飯が珍しいのかと、彼の好物なのならいくらでもと用意させていた。
(……あれは、)
君か。
黒く大きな影が覆い被さって、月明かりが見えなくなる。くちびるに触れた獣じみた吐息は、口に含まされると何かの薬のように舌を痺れさせた。拒みたくとも人の力を越えたそれに抗うことはできず、己ではない何か、人ではない何かにゆっくりと体を侵されていく感触を受け入れるしかなかった。
なのに、恐ろしさよりも感じるのはあたたかさだった。抱き締める腕は優しく、武市を思うぬくもりに溢れている。そこに身を委ねてしまえば暖かく、何も考えられなくなるような心地よさがあった。
喉を焼く、痺れるような体液の味に酔い痴れる。知らぬ間に、自ら彼の背に手をまわして抱き寄せていた。
武市瑞山がある夜、忽然と姿を消したことで京も土佐も騒然となった。逃亡したのだとされ追っ手が差し向けられたが何も見つからなかった。何よりも、手がかりも逃亡の証拠も何もなかったのだ。荷物もなにひとつ持ち出さず、金さえもそのままで、ただ武市だけがいなくなっていた。同志達は武市が逃げることなどあり得ないと主張し、それは彼を捕らえる側の土佐藩のもの達でさえ同様だった。
どれだけ探しても姿形どころか痕跡さえ見つからない。まるで神隠しのようだと、いつからか囁かれるようになった。
やがて時勢の流転が勢いを増すと、捜索は打ち切られた。そのうちに彼を信じた者も、帰りを待っていた者もひとり、またひとりとこの世を去って行き、ついには誰も彼のことを知る者はいなくなった。
今は、僅かな書物にその名を留めるばかりである。傍らに常に付き従っていたという、人斬りの名と共に。