目が覚めた瞬間、やられた、と思った。
見事な夜景が視界いっぱいに広がっている。寝室に設えられた大きな窓を埋め尽くす大都市の電飾が、まるで星空のようだ。ベッドに横になりながら美しい夜景を堪能できる、そういう贅沢な趣向なのだろう。しかし残念ながら、呑気に感動できるような状況ではない。
なんだこれ、とか、ここは何処、とかいうよりも先にやられたと思ったのは、自分をこういう事態に巻き込む人間など一人しかいないからだった。
「起きたか」
その男はソファにゆったりと腰掛けて、この部屋には些か似つかわしくない赤いパッケージの煙草を燻らせていた。吸っていいんですか、と嫌味ったらしく言いかけてやめた。室内は隠しようもない煙の香りが染み込んでいる。何台か置かれた空気洗浄機は奮闘してるようだが、あまり役目を果たしているとは思えなかった。
「何してるんです、社長」
「大事な社員を休ませてやろうと思ってな、福利厚生とやらの一環だ」
「意識のない社員を拉致っておいて福利厚生とか冗談でも笑えませんよ~」
「拉致、は聞こえが悪いだろうが、無防備に他人の車に乗り込んでくるお前もどうかしてるぞ」
「嫌だな~、その前時代的な価値観はいい加減にアップデートしてくださいねぇ?」
晴信はむっと眉を寄せるが間違ったことは言っていない。前後不覚となっている相手を自分の良いようにするのは、たとえどんな状況であっても許されてはいけないのだ。
「本当に可愛げがないな、お前は」
「そう言うわりに、僕には随分と甘いことで」
また眉を寄せた。図星、ということだ。
伊東が寝かされていたのはキングサイズのベッドだった。一人で寝るには広すぎる。間接照明の薄明かりに浮かび上がる室内を見回す。ベッドを置いても全く圧迫感がなく、高い天井と大きな窓おかげで開放的でさえあった。晴信の腰掛けるソファは一人がけで、そこからも夜景を楽しめるようになっている。小さめのサイドテーブルにはクリスタルの灰皿が置かれていた。寝室としての部屋がここだというだけで、まだ続きに部屋があるようだった。
所謂、スイートルームというやつだ。おまけに高級に入る部類のホテルで、一泊がいくらかなんて考えない方が良い。シックな内装は上質な雰囲気を演出しているが、意識のない人間を連れ込む場所としてはセンスがない、のひと言につきる。
「まあでも、貴方のそういうところは何故か憎めないんですよねぇ」
「……どういう意味だ」
心底わからない、という顔で訝しげに首を傾けているのはいっそ可愛らしくさえあった。
「ともかく」
深い溜め息と共に煙草を吹かす。きらびやかな夜景が紫煙の向こうに霞んだ。
「今夜は休め。残っていた仕事はどうにかした」
「それはど~も。……貴方が出てくると色々と上手く行きすぎて逆にあとのフォローが大変なんですけど」
「何か言ったか」
「いーえ、何も?」
そこはかとない不安に今すぐスマートフォンやパソコンを確認したかったが、今更どうこうしても仕方ないだろうと諦めることにした。
体を起こしてベッドの端に寄った。吸うか、と差し出されたタバコを今は辞退した。寝心地の良いベッドでいくらか寝たおかげか、頭はそこそこすっきりとしている。ジャケットは脱がされネクタイも解かれていた。晴信にされたのだろうか。手首には腕時計がつけっぱなしで、時刻は意識が曖昧になる前……旧本社ビルの正面玄関をフラつきながら出たところで晴信に出くわしてから、一時間ほどが経過していた。時間としてはまだ宵の口だ。
あまり会社に寝泊まりしているとまた晴信に小言を言われる、と近くのビジネスホテルへ行こうとしていたところだった。昨日は夜間のロケに付き合っており仮眠さえ取れていなかった。眠気で倒れそうになった伊東を支えた彼が珍しく慌て、救急車、というような事を言った気がするので「眠いだけです」と言って意識を手放した。気を失うというよりは寝落ちだった。夢見心地に晴信の赤いスポーツカーに乗り込んだ記憶はある。
ビジネスホテルよりは良いか、と大きな窓の向こうの夜景を眺めた。
「メシにするか、それとも先に風呂か?」
「……あ、良かった〜俺にする? とか言わなくて」
「なんだそれ、言うわけないだろうが」
「言われても選びませんけどね? お腹空いたんでご飯でお願いしま〜す」
足はぶらりと端から投げ出したまま、再びベッドに倒れ込んだ。渋い顔をした晴信がルームサービスの手配をしに隣の部屋へと消えていった。遠くで響く低い声音をぼんやりと聞きながら、食事が届くまでのもう少しの間だけでもと目を閉じた。
夕食を済ませたあたりから何やらそわそわとしているな、と気にはなっている。どうしたのかと尋ねてみるべきか、自分から言い出すのを待つべきかと広いキッチンで後片付けをしながら服部はリビングの氏真を見守っていた。
何度もスマートフォンを見つめてはやめるのを繰り返し、時々腕時計で時間を確認している。同じブランドのものを自分も持っているのは、この家に住むようになったその日に氏真から贈られたからだ。仕事の時は外していることが多いが、鞄には常に忍ばせている。それはあの人も同じで、寝る時と入浴する時以外は文字通り肌身離さずつけている。
時間を確認するばかりでなく、物思いに腕時計に触れ始めたのを見て仕方なく声をかけた。
「氏真様、食後にハーブティーはいかがですか」
手元にはすでに用意をしている。返事を聞く前にトレイに乗せて、リビングまで運んだ。スマートフォンの横にそっと置く。こんな時間にカフェインなど摂ってはいけないので、ノンカフェインでリラックス効果のあるブレンドティーを選んだ。
「すまぬ、武雄……」
「伊東先生は今夜も帰らないようですね」
それとなく隣に腰を下ろした。特注のソファは広々として、大柄な男二人でも悠々と座れる。
ティーカップに伸ばされた手がびくりと震えた。一瞬のことで、何事もなかったかのようにハンドルを摘んだ。今朝、服部が手入れをしたばかりの爪が丸く光っている。
丁寧な所作でひとくちを含む。ふとつかれた溜め息は安堵というよりは物憂げだった。
「……先ほどから、既読がつかぬ」
「お忙しくされているのでしょう」
「晴信とおるのだろうか」
さあ、と惚けたように首を傾げてみせた。服部も確信はないが、そうなのだろうなと予想している。本当に忙しくしているか仮眠の最中という可能性もある。ただなんとなく、勘というべきかきっとそうなのだろうなと思う。お互いのスケジュールはアプリで共有している。それと照らし合わせると、少なくとも既読さえつけられないような予定が入っている時間ではないのだ。
氏真も同じように思うらしく、浮かない顔でティーカップを眺めている。
「……武雄」
「はい」
「甲子太郎は晴信のことを……好、」
「それはありえません」
「ありえぬか」
「ありえません」
そうか、とほっと息をつく。けれど顔は曇らせたまま、こうして話をしている間にも何度もスマートフォンを見やっている。せめて既読だけでもつけてやってほしい。
ありえないと断言したものの、晴信がどうかはわからない。やけに伊東を目にかけるのは実力のあるマネージャーとして評価しているからなのか、もっと別の理由があるのだろうか。
晴信は氏真が所属する大手芸能事務所の社長だ。容姿端麗で若い頃は自らも芸能活動をしており、俳優やモデルとして活躍していた。父親から会社を引き継ぐ為に(御家騒動ともいうべき一悶着の末に)芸能界を引退し、数年前に代表取締役社長として就任した。経営者としての手腕を振るい、今では先代よりも事業を拡大させている。まだ若く経験も浅いながら、業界内ではすでに重鎮ともいうべき存在感を放っていた。ちなみに、氏真とはマネジメント契約を結ぶ前より家族間で交流のある相手である。
そんな男を前にして、マネージャーである前に一社員であるにも関わらず氏真の為に良く働き、時には対立も辞さない伊東をどうも好ましく……いや、一目置いているのは確かだった。優秀な社員である伊東を重宝するのは当然として、しかし最近はどうもそればかりではない親密さを感じるのは勘の良い服部だけではないのだった。
(まったく、氏真様を不安にさせてどうするのですか)
相手のことはともかく、伊東については何の疑いもない。彼が生涯を捧げると決めた相手は氏真だ。それ以外に懸想することは絶対にあり得ないと断言できる。氏真とてわかっているのに不安になるのは、晴信という存在の大きさのせいだ。
物憂げな溜め息をついている。生涯の推しがそんな風に物思いに耽っている――それも自分のせいで――と知ったら、少しは自重してくれるだろうか。
温度に細心の注意を払って運ばれてきた料理は、どれも出来たての美味しさを保っていた。グリーンサラダは瑞々しく手作りらしいドレッシングがよく合っていた。濃厚なクリームソースの絡んだパスタを丁寧に掬って頬張る。トリュフの風味ゆたかなポテトを摘まみつつ、シャンパンを満たしたグラスを傾けた。ハーフボトルを手に酌をするのは当然のように社長の晴信だ。翌日のことも考えて一杯だけにした。
「福利厚生、とは言ったがな」
「何か問題でも?」
「いいや?」
心なしか額に青筋が立って見える。自分でそうと言ったのだから最後まで全うして貰わないといけない。
贅沢な料理に舌鼓を打ったあとは、ゆったりと入浴して体を温める。そうして、柔らかく清潔なベッドで心地良く眠るのだ。
明日が三時起きでなければ、どれだけ至福なひとときだろうか。
バスタブを満たす湯は良い香りがしていた。晴信に用意させた湯はいつにも増して心地がよかった。「入れてやろうか」などという冗談を聞かなければもっと良かった。
「はー……生き返るってこういうことを言うんだよねぇ」
あたたまった体をベッドに投げた。程よく温まった体からは湯と同じように甘ったるい花の匂いがしていた。
(いいなぁ、ここ……今度は氏真様と服部君と一緒に来よう)
夜景が綺麗で食事も美味く、浴室も申し分ない素晴らしいホテルだ。こんな状況でなければ最高のひとときである。
遠くからシャワーの音を聞こえる気がする。自分と入れ違いで晴信が風呂に入っているのだ。あの良いにおいの浴槽にも浸かっているのだろう。ボディーソープもシャンプーも備え付けのものを使っていて、自分と同じ花に似せたにおいをさせてくる彼を想像して何故かおかしくなった。他の誰かに気付かれたのならきっと誤解を招くのに違いない。
ベッドに潜り柔らかなシーツに身を沈める。少しの仮眠で眠気が収まることはなく、食事と入浴のおかげでリラックスした体は心地良く眠りに入ろうとしていた。
(……そういえばスマホ、確認、してない)
誰かから大事な連絡が入っていないだろうか。仕事をしないようにと、パソコンも含めてすべて鞄にしまわれたままだ。緊急の案件なら電話がかかってくると思うのだが、何も音が鳴らないのでそういう事態には陥っていないはずだ。
けれど、せめて私用のスマートフォンくらいは手元に置いておきたい。氏真や服部から何かメッセージが来ているかもしれなかった。
わかっていて、眠気に勝てなかった。いつ寝入ったのかわからないほどに呆気なく、自然と、伊東は眠りについていた。
「甲子太郎」
浴室から戻ると彼はベッドの中で安らかな寝息を立てていた。憎たらしいほどに安堵しきった顔は、自分に対する警戒心がまるでないことを物語っている。
……いや、いくらなんでも無防備がすぎる。信頼されていると思えば悪い気はしないが、ようするに彼は自分のことなど気にも留めていないのだ。
「たいした奴だよ、お前は」
ここまで自分に靡かない人間がいるとは思わなかった。似たような奴では終生のライバルと認めた長尾景虎がそうなのかもしれないが、アレはアレでまた別だ。というかこんな時に奴の顔など思い出したくないので頭の端から追い払った。
俳優などをしていた時は言わずもがな。引退した身となっても勝手に相手から寄ってくることばかりだった。容姿は当然ながら、大手芸能事務所の社長という肩書きや社会的な地位に目が眩んでいることも多い。恋愛、あるいは性愛の対象というだけでなく、媚びへつらう為に近づいてくる人間も多かった。それこそ、幼い時からずっとだ。
良くも悪くも言葉の通り、自分に振り向かなかった相手などいない。自信過剰と言われようが事実なのだから仕方がない。
自らあれこれと世話を焼き目をかけてやり、分かりやすいまでに粉をかけて。おまけにさっさと手を出したいところを、相手の意思なんてものを尊重して我慢までしている。いや、拒む相手に無体をするほど粗野ではないが、その気にさせる程度の手練手管は持ち合わせている……つもりだ。いつもは相手が勝手に寄ってくる為、自分からどうこうする事がまず無いので手こずっているのは確かだが。
そもそも自分にまったく興味がない相手、というのが新鮮だった。心にあるのは常にたった一人であり、心を許しているのはそれを含めた二人だけ。周囲の人間は彼らとそれ以外という、はっきりとした振り分けをしているのだ。実の親や兄弟ですらそれ以外のカテゴリーなのだから恐れ入る。
最近は少なくとも、まったく興味のない相手から多少は意味のある相手にはなった、と思う。それにしたって彼らという存在には遠く及ばないのだが。
「だからといって少しは警戒しろ。……というか、自覚を持てよ」
さっきまで呑気にシャンパンを注がせていた相手が、自分にどういう感情を持っているのか。まったく気付いていないはずはなく、かといって自分は興味がないので何の支障もないと恐らくは本気で思っている。
あるいは、そんな自分を前にして晴信が何かすることはないだろうと、高を括っている。それを信頼というにはあまりにもお粗末だった。
勿体ないと思いつつ、夜景を分厚いスクリーンカーテンの向こうへやる。部屋の照明をある程度落とした。ベッドサイドの仄かな明かりが艶めいた肌を浮かび上がらせる。不規則な生活の中でも保たれている柔肌に目が眩む思いがした。
彼のそばに腰を下ろす。多少ベッドが軋んだ程度では目を覚さない。覗き込んだ寝顔は年不相応に可愛らしく、静かに胸元が上下していた。
「甲子太郎……」
そっと指先で、華奢な頬に触れた。そのまま滑らせて、普段は不遜な笑みばかりを浮かべるくちびるを親指でなぞった。肉の薄いくちびるは保湿され潤んでいて、薄さに反して柔らかかった。触れたい、と湧き上がる欲をどうにか飲み込んだ。
はかったように、薄く開いたくちびるから寝息とともにその名が紡がれた。
「……氏真様……」
どうやら寝言のようだ。そういう寝言は何度か聞いたことがある。どんな時でも自分の信念を、心に決めた人の為に尽くすと決めた覚悟を持ち続けている。彼の矜持のあらわれだった。
溜め息をついて指を離した。体を起こして、伊東の隣に少し間隔をあけて横になった。確か、三時に起きると言っていたので備え付けの時計にアラームを設定してやる。
目を閉じていると時々寝息が聞こえてくる。それがどことなく甘ったるいように思えて、気にしないふりをするのに苦労をした。
そんな艶めかしい吐息をついて、いったいどんな夢に耽っているのだろう。
アラーム音と共に目を覚ました。自分では設定した覚えがない。晴信がしてくれたのだと、珍しく感謝の気持ちが芽生えた。ちら、と横を見ると喧しい音に鬱陶しそうに顔を顰めて寝返りを打っている。
起こさないようにと静かにベッドを抜け出した。スクリーンカーテンを少しあげると、深夜の為か夜の輝きは落ち着いているように見えた。
「……とりあえずタクシーで事務所に行って、車を取って……」
小声でこれからの段取りを確認する。早朝の収録には十分に間に合う時間で焦ることはない。ぼやきながらも身支度を調えた。朝食は途中でどうにかすることにして、フロントのコンシェルジュに時間を指定してタクシーの手配を頼んだ。
部屋には小さなバーカウンターがある。昨夜のシャンパンはおそらくウェルカムドリンクで、それとは別にそこそこの銘柄のウイスキーやらブランデー、焼酎などが並んでいる。コーヒーメーカーも置かれていて、カプセルをセットしてから顔を洗いに行った。髪と肌を軽く整えて戻ってくる頃にはコーヒーの香りがあたりに満ちていた。
リビングとしての部屋には長いソファと一人がけのものがローテーブルを囲んでいる。少しぬるくなったコーヒーを口に含み、無造作に放られていた鞄を取ってソファに体を沈めた。まずは私用のスマートフォンから確認すると、氏真からのメッセージが一件、服部からは二件とその他の通知が目に入った。
「……やらかしたかな?」
少しばかり不安になる。彼らももう起きているはずだ。しばらく迷ってからひとまずは返信をしなかった非礼を詫びた。氏真の方はすぐに既読がつき、しかし返信がなかった。
気にかけつつも仕事の確認をする。晴信がやっておいたと宣った分の確認と、それに伴う変更や新しい案件の確認、今日の自分と氏真、他の担当のスケジュールの確認。今のところは問題がないことにほっとして、コーヒーに口をつけた。
「朝からご苦労だな」
いつの間にか起きてきた晴信が、億劫そうな足取りでやってきた。バーカウンターからミネラルウォーターのボトルを取り、ソファに腰を下ろした。水で喉を潤してから煙草を取り出す。火はつけずに手元で遊ばせた。
「昨日はど~も。仕事の方も問題ないみたいで安心しましたよ」
「俺がやって問題あるわけないだろうが」
「だから~、……いやまあ、もういいですけどね」
首を傾げる晴信には苦笑してやった。
彼は寝起きで下ろしたままの、淡い色合いの髪を鬱陶しそうにかきあげていた。煙草を咥えてみるが火はつけず、ジッポライターの蓋を無意味に開け閉めした。どういうわけか、少々機嫌が良くないようだ。
「……昨日」
仕事のものはすべて鞄に仕舞った。ルームウェアから着替えるまでの間、何気なく尋ねた。
「あのまま抱かれちゃうのかな~って思ったんですけど」
「起きていたのか」
「えっ、本当に何かしようとしたんです? 貴方がいつ戻ってきたのかわからないくらいには、すぐに寝落ちしましたけど」
「……お前」
良い性格だ、と顔を顰める。
かまをかけたつもりはなかった。要するに自分はホテルに連れ込まれたわけで、かと言って同意のない相手を好きにしていいはずがない。晴信もそのあたりは意外と真っ当なのだが、しかしもしかしたらそういう流れになるのかもしれないと、風呂に浸かりながら思わないではなかった。
何もなかったことに安堵していた。が、本当に何もなかったわけではなくどうやら未遂だったようだ。
「寝込みを襲う趣味はないんでな」
「へぇ……どうだか」
からかい混じりに笑いかけると、きつく睨み返された。
シャツのボタンは上まできっちりと留める。ネクタイを締め、靴下は下がらないようにガーターで留めた。オーダーメイドのスーツは体に良く馴染む。着崩したくないので、スラックスもサスペンダーで支える。ジャケットを羽織り、昨日と同じ装いでありながら皺や埃がひとつも付いていないことを鏡で入念に確かめた。
「では、僕はこれで。悪くない時間でしたよ?」
「そうかよ」
「また、はありませんけどね〜」
ひらひらと軽く手を振り、重たい鞄を携えて部屋を後にした。深夜のホテルはしんと静まり返っておりフロントに客の姿はなかった。だというのに、コンシェルジュはご苦労なことに出迎えてタクシーまで案内をして見送ってくれた。
ひとり、部屋に残された晴信はゆったりと一本を吸い終えた。ミネラルウォーターをあおり、ひっそりとため息をつく。
「……抱いておいたら良かったか」
意外にも、本当に据え膳だったのかもしれない。
まだ起きるには早い。今日の予定をなんとなく思い起こしながら、寝直すか、とベッドに引き返した。彼のぬくもりはすでになく、備え付けのボディーソープの花を模した香りが残るばかりだ。
車はいったんガレージに収めた。タクシーから車に乗り換えたあたりで氏真と服部との共有のトークルームには、到着時間をメッセージで送っている。服部から短く「わかりました」と返ってきただけである。
「え〜……氏真様、怒ってるのかな?」
完全なる既読スルーだ。服部個人へのトークルームでそれとなく聞いてみたものの、どういう感情なのかよくわからないスタンプが返ってきた。
悪いのはどうしたって自分の方だ。あろうことか、氏真からのメッセージを朝まで完全に放置してしまったのだから。怒られても拗ねられても当然で、どう謝ろうかと悩んだ。
手土産のひとつでも買ってくるべきだったか。こんな時間に用意できるものなんて限られているが無いよりはましだったかもしれない。いや、そんな物でどうこうしようという考えはあまりにも浅はかだ。
とりあえず、嘘だけはつかないでおこうと決めた。晴信と一晩ホテルで一緒にいたなどと言えば、服部までも怒り出しそうだが。
意を決して玄関のドアノブに手をかけた。鍵はかかっていない。おそるおそる開き、精一杯の虚勢を張っていつも通りの声を作った。
「……ただいま戻りま、……」
扉が開いて思わず息を呑んだ。広い玄関には、氏真が腕を組みじっと佇んでいた。あまりの迫力、肌が痺れるような威圧感に何も言えなくなった。背後で扉の閉まる音がやけに大きく響いた。
「……氏真様」
ようやく呟いた声は掠れてしまった。
間近で仰ぐ姿は伊東よりもひと回りも大柄に見える。長い手足に鍛えられた体躯、丁寧に梳かれた長い髪の合間から、鋭い眼光が体を射抜いた。
圧倒される、けれど恐ろしいとは思わなかった。背中に扉が当たる。まるで狩られる側のように追い詰められて、一瞬、抱き竦められる。額と額が触れたような気がした。ほんの刹那のことであまりよく分からないうちに離れていったのでどこをどう触れられたかは定かでない。離されたかと思うとそうではなく、深いため息と共に彼の形の良い額が己の肩に当てられた。行き場を失った両手は背後の扉に当てられ、逃げられなくなった。逃げるつもりなんてないけれど、彼の体に捕らえられていると思うと胸がざわめいた。
「……己の狭量が嫌になる」
遠くまでよく通る美しい声は涙を含んでいた。
「甲子太郎と武雄がよく私に尽くしてくれているのはわかっておる。こうして三人で営む暮らしを何よりも大事にしているのも……だからこそ、私よりも大切な者ができたのなら、あるいはいるのなら。たとえば其方達が伴侶を得たいと、子を成し己の家庭を築きたいと思うのなら私はそれを止めるべきではなく祝いたいと思うている。それが、私を支えてくれる其方達を報いることにもなるのだと」
つらそうに溜め息をついた。他でもない、氏真にそんな溜め息をつかせてしまったことを反省した。
「それなのに、其方と一晩連絡が取れなかっただけでこの有様だ。仕事ならばわかる。だが其方が誰かと……いや、晴信とおったのだろう?」
「そう、です」
そうか、と囁いた声はあまりにも切なかった。
「晴信と夜を共にしておるのかと思うと辛うてならなかった。自分が斯様に狭量だとは思わなかった。本当なら其方の幸せを願い、祝ってやらねばならぬというのに……其方が晴信を想うておるのなら、私は」
「いや、それはないです」
「ないか」
「ないですね」
氏真はようやく顔をあげた。悲しそうに瞳が揺れている。強張った頬に優しく触れて、引き締まった輪郭に指を沿わせた。
「申し訳ありません、貴方にそんな顔をさせるつもりなんてありませんでした。社長と一緒にいたのは確かですが、誓って何もありませんでしたよ」
まだ不安げな顔を見上げる。両頬を手でそっと包み込み、屈めてくれた額に己のそれを突き合わせた。
「僕が想う人は貴方以外にはいません、氏真様」
昔から何度も繰り返している誓いだ。彼が望むなら、必要なら何度でも言葉にする。どれだけ同じこと言葉を繰り返しても、自分の中に滾る氏真への気持ちは少しも伝えられないだろう。
どんなに伊東が、服部が彼を想っていることか。
(……ま、だからこそ今回は本当にやらかしちゃったな)
しばらくは晴信とちゃんと距離を置こうと反省した。もっとも、一晩共に過ごして何も起こらないのだから、そろそろ脈がないと思って欲しいものだが。
氏真は深く息をついた。上げられた顔はもういつもの凛々しさを取り戻していた。
「すまぬ、甲子太郎」
「どうして謝るんですか〜、昨日は本当に眠くて寝ちゃったんですよ。ちゃんとスマホだけでも確認するべきでした」
「ええ、本当にそうです」
二人の様子を黙って見守っていた服部が、重たい口調で頷いた。黒いマスクと鍔の広いキャップを身につけて顔を分かりにくくしている。仕事以外でも外出する時の基本的な格好だ。
「これに懲りたら、少しは仕事の量を考え直してください」
「うーん、そうしたいけどこればかりは……」
「あとは家にちゃんと帰ってくるように」
「……それは努力するよ〜」
実は結構怒ってる?と服部を窺うが、キャップとマスクのせいでよく分からなかった。
「そろそろ出ましょう、収録に遅れます」
「そうだね〜、二人とも朝ご飯は?」
「時間が早いのでな、武雄がおにぎりを作ってくれたのだ。甲子太郎の分もあるぞ」
「服部君のおにぎりって美味しいですよねぇ、ご飯がいっぱいで大きくて、具が詰まってて」
「貴方がまたエナジードリンクばかりだろうと思い、少しですがおかずも用意しています」
「あはは、バレてるな〜、ありがと服部君」
メイク道具などもあるので、三人分の大きなお弁当の包みは伊東が持つことにした。ほんのりとした包みの温かさには彼らの想いが込められていた。
現場にてメイクを終え、スタッフとの打ち合わせに臨む氏真を遠目に不意に尋ねた。
「……ところで晴信社長と一晩も一緒に、何処にいたのですか」
「え~と、……ホテル」
「ホテル」
「お台場にあるちょっと良いホテルだよ~、夜景が綺麗だったしご飯も美味しかったし、今度三人で一緒に行こ?」
「いえそれは、あまりにデリカシーがないかと」
「ないかな」
「ないですね」
え~、と伊東は不服そうに唸った。