抗う者達③ 徹心の言う通り、このタイミングで倒れたのは不幸中の幸いと言えよう。
八木山は自分が思っている以上に焦っているのだと自覚した。このままさらに標高を上げていたら、強制下山の憂き目に遭っていた可能性が大きい。
だから、序盤で気付けたのは幸いなのだ。
「薬効いてきた?」
八木山が双眼鏡で見える範囲を捜索していると、穂高が声をかけてきた。手には温かいコーヒーが入ったカップを持っており、それを差し出される。
「あぁ、頭痛はだいぶ治まってきたよ。ありがとう」
カップを受け取り、少量をすする。熱と蜂蜜の甘さが冷えた体に染み渡り、八木山はほっと息をついた。
「ちゃんと呼吸してる? 捜索に夢中になって浅くなってない?」
八木山は苦笑いを浮かべた。
「ちゃんと意識してやってる。大丈夫だ」
高山病は脳の酸素不足で起こる。横になって休むと呼吸が浅くなることがあるので、軽く動きながら意識的に酸素を取り込むようにしていた方が改善が早い。
「貴方は慎重派だと思っていたけれど、そういうわけでもないのね」
穂高が冗談めいて言う。八木山は苦笑した。
「それを言われると立つ瀬がないな。自分でも少し驚いてる」
そう言って肩をすくめる。穂高は小さく笑った。
「明日は少し遅めに出発しましょう。そして速度を落として進んで、予定通り五千メートル付近でキャンプね」
「分かった」
穂高の提案に異論はなかった。明日一日で六千メートルまで上がるのはさすがに強行軍すぎると八木山も考えていた。
そもそも目的は登山ではなく、志海を捜すことなのだ。
いる可能性の高いと思われる六千から七千メートル辺りにだいたいの目星は付けているものの、あくまで予測の範囲。そこまで至る道中も手を抜くわけにはいかない。
「ねー、食欲あるー? そろそろ晩御飯にしないー?」
杉山と共に近くを探索しに出ていたえべたんが戻ってきたらしく、二人に声をかけた。
「そうだな。少し早いが食事にしようか」
「今日はもう気温は上がらなそうだな」
翌日の昼頃。
食後の緑茶をすすりながら杉山が言った。天候は極低温である。寒さで体が強張り、節々がぎしぎし鳴りそうだった。
「どうする? 進む?」
穂高が八木山の顔をうかがい見て問う。
「俺としては進んでしまいたいところだが」
「あともう少しでキャンプ地でしょ。八木山サンが大丈夫なら行っちゃわない?」
えべたんが言った。
「俺はもう大丈夫だ。なら行くか」
よし、と杉山の合図で片付けを開始する。できるだけ体を動かして温めるようにいそいそと動き、出発の準備を整えた。
「じゃぁ、今日はえべたんが頑張ります」
張り切ったえべたんは意欲的に進む。
「ただ進むだけじゃなくて、志海も捜すんだぞ」
八木山が声をかけると、えべたんは分かってると背中を向けたまま手を上げて応えた。
昨日の高山病のこともあり、今日の一行は歩みを落とした。時折双眼鏡を覗いて辺りを、そして来た道を振り返り、眼下を眺める。
青い姿が見えないか。せめて形跡だけでも見つからないか。
本来の目的を達成するため、できる限りの努力する。
──その最中に、突然。
ラーク、と穂高の警告が飛んだ。
「!」
三人が一斉に頭上を見る。
落石だ。
「えべたん!」
八木山が叫ぶ。石はえべたんへ向かって転げ落ちてきていた。
咄嗟に回避行動に移るえべたん。
その唇が、小さくヤバと悪態をついた。
足がもつれたのだ。
極低温下が仇となり、冷えた体が思うように動かなかった。
石を確認するために再び見上げるえべたんの顔に、いびつな影が指す。
目前だった。
「えべ!」
しかし次の瞬間、杉山の手が伸びてえべたんの襟首をつかみ、引き倒した。
「ッ!」
間一髪、眼前を圧が通り過ぎる。
「……」
しばらく斜面を下っていく石を沈黙で見送り──
「助かったしー!」
命拾いしたえべたんは雪の上で脱力して広がった。
「徹心さんきゅー!」
「いや、間に合ってよかったわ……」
杉山も膝に手をついて安堵の息をつく。
「梓ちゃんもありがとー」
例を言うえべたん。
「あずあずが気付かなければ直撃していたところだ」
と杉山。穂高は首を振った。
「いいえ、当然のことをしたまでよ。えべたんは足とかくじいてない?」
「うん、平気」
「なら、良かった」
「無理しないで様子見れば良かったかなぁ?」
起き上がりながらえべたんが言う。
「この寒さはやっぱり結構体にクるよね」
「だがこの程度を警戒していてはキリがないような気もするな」
と八木山。
「まぁ、確かに強風とか吹雪とかよりは全然マシだけど」
背中の雪を手で払いつつ、返すえべたん。届かないところは穂高が落としてやった。
「山の天気は変わりやすいと言うし、特にこの山では何が起こるか分からない。あまり気にしすぎても身動き取れないと思うがな」
杉山が言った。
「パターン化せずにその都度考えるとしよう。もうすぐキャンプ地だ。とにかく今日は進んでしまおう」
「そうね、八木山君の言う通りだと思うわ」
八木山の言葉に穂高もうなずく。
「隊長、了解デアリマース」
おどけて敬礼するえべたん。はぁ? と八木山は素っ頓狂な声を上げた。
「やめろよ。俺が隊長とかどんな冗談だよ」
「いや、お前が隊長だろ、どう考えてみても」
呆れた口調で返す杉山。
「言い出しっぺだしね」
穂高も賛同する。八木山は険しい顔で考え込み、やがてうなだれた。
「そ、そうかー……そうなるかぁ……俺、そんなガラじゃないんだがなぁ」
「すっげー今さらな話」
えべたんは苦笑した。
「待ってたんですよ」
「待ってたんです」
「おかしいですか? はは、おかしいですよね。僕もそう思います。……でもね」
「待ってたんですよ」
「さぁ、僕と同じように▽●○★◎◇◆&*#%△▽●◇◆□▲◎○」
山とひとつになりましょう?
「何アレちょーきしょいんですけど」
朝、顔を合わせるや否や、えべたんが開口一番吐き捨てた。
「……」
杉山は何も返さない。青い顔をしてテントの入り口に座り込んでいる。
彼だけではなく、八木山も、穂高も同じように黙ったままだ。
地の底から汚物を引きずりながら這い出てくるような、この世のものとは思えないおぞましい叫びが、起きてなおはっきりと耳に残っている。
八木山は険しい顔をしてため息をついた。
声だけではない。今回初めて声と重なるようにして伝わってきた意思に、背筋が凍る思いがした。
──“アレ”は、自分達を手招き、取り込もうとしているのだ。
明確に、自分達を目標と定めて。
その悪しき手を伸ばさんとしている。
志海と同じ末路をたどらせようとしている。
……本当に志海はもう、取り込まれたあとなのだろうか?
「キックするどころじゃなかったし」
えべたんが言う。
「私も殴ろうと思ったが、体が動かなかった」
と杉山。
「行動が制約されるのは夢の典型的な特徴のひとつね。もっとも私は恐怖で動こうとも思えなかったけれど」
そう言って穂高は体をぶるりと震わせた。
「崩れていく体も恐ろしかったけれど、何よりあの声、あれはいったいなんなのかしら……」
「それに、山と一つになるってどういうことなんだろうな?」
杉山が疑問を口にする。
「栄養にされる、とか?」
えべたんが返す。
「まぁ、自然の摂理と言えばそうだが」
腑に落ちない顔をする杉山。
そこで穂高が核心めいた疑問を呈した。
「そもそも、誰が私達を誘っているの?」
「山じゃないの?」
えべたんは首をかしげる。
「どう考えても志海サンじゃないっしょ」
「山が、意思を持って登山者を捕食しようとしているというの?」
問い返す穂高。普通に考えれば山そのものが意思を持った生き物などということはありえない。
「……」
しかし八木山は狂気山脈について、ある一つの仮説を立てていた。
今こそそれを打ち明けるべきかと彼は考える。だが、内容が内容であるゆえに、やはりためらいもあった。三人にいたずらに恐怖を植え付けることになりかねないからだ。
──山が、一つの巨大な生き物かもしれない、なんて。
本来なら荒唐無稽と軽くあしらわれそうな話だが、今の三人にはもう既に充分すぎるほど信憑性のある仮説だろう。実際に八木山はその仮説にたどり着いた時、恐怖で我を失いそうになった。
そんな馬鹿なと、否定したかった。そんな作り話のようなことがあるかと、笑い飛ばしたかった。
しかしできなかった。否定する理由を考えれば考えるほど、仮説を証明する要素を思い出してしまう。
既に自分達は非現実的な、おぞましい出来事に遭遇してしまっている。それらは夢や幻などではない。実際にこの目で見て、体験した。まぎれもなく事実であった。ならば、山一つが生き物であったとしても、もはやおかしくはないではないか。
本当に山が原因なのか、さらに何者かの影があるのか、そこまでは分からないが、とにかく人間の理解を越えた存在が暗躍していることは間違いないだろう。
それを今、知らせるべきか否か。山が生き物であったとして、果たしてその情報は今の三人に必要なのかどうか……
「八木山サンはどう思う?」
「ん? そうだな」
えべたんに話を降られ、八木山は考える仕草をする。
「……いずれにせよ、ヤバい何かが俺達を殺そうとしているということには変わりないだろう」
時期尚早と判断し、伏せることにした。
「それはそうだが」
投げ槍とも取れる答えに不満そうな顔をする杉山。だが八木山は言った。
「こんな異状な出来事が起こる山なんだ、俺達がいくら考えたって答えなんか出ないと思うけどな。それとも神や悪魔の仕業とでも言おうか?」
「あながち間違ってなかったりして」
えべたんが笑う。八木山は肩をすくめた。
そう、あながち間違ってはいないだろう──
「そんな中、志海を捜さなければならないんだな……」
杉山が言う。
「改めて考えると、恐れ知らずな話ね」
穂高もため息をついた。
「そんで、見つけたら連れて帰らなきゃならないし」
とえべたん。
「我ながらよくやると思うよ」
八木山は苦笑した。
そう、彼は仮説があったからこそ、なおさら志海を捜しに狂気山脈へ戻らねばと強く決意したのだった。
もし志海が生きて一人こんな山に取り残されているのだと考えたら、休まるものも全く休まらない。
「お前達はここで引き返すか?」
不安に取り憑かれた三人に問う。この先一人で挑むのは自殺行為に等しいが、だからといって帰るという選択肢もない八木山に、無理強いをする気はなかった。
しかし。
「まさか。ここで諦めるとか絶対ないし」
えべたんがそう言い、
「分かってて来ている。私も三郎が気掛かりだしな」
と杉山も即答し、
「貴方を一人で残すわけにはいかない」
穂高も告げる。
「……皆」
八木山は込み上げる感情にぐっと歯を食い縛った。
「ありがとう」
震える声で伝え、頭を下げる。初めてのやり取りではない。病院で再登山が決まった時にも、彼は感激と申し訳なさと共に感謝した。
だが、絶対的な恐怖を前にしながら、それでも引き続き付き合ってもらえる事実に、八木山は改めて有り難いことだと痛感したのだった。