抗う者達④ 狂気山脈五千メートル──ショゴス乗越。
雪混じりの爆風が一行の歩みを遮らんばかりに吹き荒れる。
今にも滑落を招きそうな勢いに抗いながら、足下を警戒して前に進むのはなかなかに至難だ。たった一歩を押し出すだけでも大変な労力を要するというのに、霧散していきそうな集中力をかき集めて身の安全を確保しなければならない。余計に体力が削がれ、疲弊していく。
ショゴス乗越が狂気山脈第一の難所と言われていたのはそのためだった。
加えて四人は同時に志海を捜さなければならない。なおさら過酷な状況にさらされていた。
「……」
そんな中、穂高がふいに足を止め、息を呑む。
「梓ちゃん、どうかしたー!?」
えべたんが後ろから風にかき消されないよう大声で話しかけながら、前方を覗き込もうとした。穂高はそれを、腕を水平にして遮る。
「前に出ちゃ駄目!」
「もしかしてクレヴァスか!」
思い至った八木山が言う。穂高はうなずいた。
彼女の前は雪景色の稜線が広がるのみ。しかし穂高はその下に隠された裂け目を見逃さなかった。
ヒドゥン・クレヴァスだ。
今回は荷物を極力減らしてきているので梯子もなく、飛び越えるか大きく迂回するしかない。ロスする時間を考えると、できれば飛び越えたいところだ。
雪をアイスアックスで崩し、おおよその幅を推測する。
「ギリギリ跳べそうかしらね!」
穂高が言う。
「跳んだ先にまたクレヴァスあったらウケるよね!」
笑うえべたん。
「笑えないから!」
八木山は眉間にシワを寄せる。
「なら私が行って確かめよう!」
「出た! 跳躍の鬼!」
えべたんがからかえば、杉山は胸を張って自信を見せつけた。
「任せろ!」
そう言ってロープを腰のハーネスに繋ぎ、八木山に束を渡す。
八木山は束を解きながらクレヴァスから離れると、アイスピッケルを雪に埋めて支点を取り、ビレイの準備をした。
「いつでもいいぞ!!」
「よし、では跳ぶぞ!!」
叫ぶや否や軽々と跳び越え、裂け目の向こう側へと渡る杉山。自慢するだけあり、とても模範的な跳躍だった。すぐに周囲を慎重に調べてクレヴァスなどの危険の有無を確認する。
「大丈夫だ!! 安心して全力で跳べ!!」
「じゃ、次えべたん行きまーす!!」
今度はえべたんが、杉山が外したロープを手繰り寄せて自分のハーネスベルトに繋ぎ、跳んだ。
それから続いて穂高、最後に支点を杉山に取り直してもらって八木山が跳び越え、この場のクレヴァスを無事渡りきったのだった。
「他にも警戒しなければならない危険はたくさんあるが、ヒドゥン・クレヴァスというヤツは見えない分、本当に恐ろしいからな!」
険しい顔で八木山が言った。
「落ちたことあるのか!」
杉山が問うと八木山は肩をすくめる。
「俺じゃなくて、七浦がな! 幸いロープを繋いでいたから事なきを得たが! あれは見てるこっちも本当に生きた心地がしなかったな!」
その時の恐怖を思い出し、八木山は青い顔でため息をつく。
「そうか、確かにそれは恐ろしいだろうな!」
杉山は柔らかく苦笑いを浮かべた。狂気山脈で命を落としたばかりの八木山の親友の話ゆえ、悼んだのだ。
八木山はそんな杉山に微笑んで見せ、言った。
「とにかく、引き続き警戒して進むとしよう!」
八木山の言葉を受け、穂高が再び先頭に立って歩き出す。
それに続きながら、八木山は内心苦笑した。
つい思い出して口にしてしまったが、今は志海だ。七浦のことを嘆くのはそのあとでも遅くはないだろう。
日本に帰ったら、別れを告げると決めている。八木山は頭を切り替えた。
「杉山君、そこの斜面気を付けてね!」
穂高が先頭を歩く杉山に注意を促す。すぐ脇が急斜面になっており、もし足を滑らせ落ちてしまったらひとたまりもない。
「あぁ、分かって、い……ッ!?」
しかし言った傍から杉山は足を滑らせてしまった。
「徹心!!」
えべたんと八木山の声が重なる。
「ぐっ!」
幸い杉山は近くにあった氷の出っ張りを掴むことができ、滑落を回避した。
「あ、危な……」
ふうと杉山は胸を撫で下ろした。八木山達も肩を落としてまで深く息をつく。
「いや、すまない! 驚かせた!」
一歩間違ったら死んでいたかもしれない状況だった。杉山は申し訳なさそうに謝る。
「落ちなくて良かったじゃん! ドンマイドンマイ! 何かあるたびにいちいちくよくよしてても仕方ないって!」
えべたんが明るく返す。杉山は笑った。
「そうだな! 前向きに捉えた方が建設的か!」
「そーゆーこと! 大変な登山なんだし、気持ちくらいもう少し大きく構えてた方が精神衛生状態いいと思うよ!」
「おぉ、頼もしいこと言うな」
八木山の小さな呟きを聞き逃さなかったえべたん。
「馬鹿にすんなし!!」
ぷんすこ怒って言い返した。
「……」
斜面を這い上がった杉山は足元を見下ろした。雪にアイゼンの突起が横滑りした溝が刻まれている。
「足元、もう少し気を付けた方がいいぞ! 思ったより滑りやすいかもしれん!」
少し考えてから警告をした。了承の意を込めて三人がうなずく。
──何者かに足を払われたような感覚があったのは気のせいだろうか……
「今回一番の難所かもしれない場所がもうすぐだな!」
杉山が声を張る。
四人は足を止めて前方を見据えた。
遠目から見ても大きい氷の壁がそびえ立っていた。
前回はなかった。
現在の位置から登るだけなら一ピッチで充分だろう。
しかし──
「跳躍の鬼でもこれは無理だな!」
杉山を見ながら苦笑いを浮かべて八木山が言う。杉山は腕を組んで唸った。
大きな裂け目が道を隔てていた。もはや渓谷と言ってもいい。人がジャンプして壁に取り付ける幅ではない。
「迂回するしかないかしら!」
穂高が問う。しかしえべたんが亀裂の中を指差した。
「あそこまで降りれれば、反対側に取り付けるんじゃない!?」
目を向けてみれば、裂け目は下に行くにつれて狭まっており、断層が擦れそうなほど近い箇所もある。こちらも高さは一ピッチほどか。
「この爆風の中を懸垂下降か……」
八木山はごくりと喉を鳴らした。
びょうびょうと啼くほどの強い風が谷の間にも吹き荒れている。もみくちゃにされるのは明らかだ。
「でも迂回するとなると、一日じゃ厳しいんじゃないの!?」
えべたんの言う通り、裂け目は乗越を分断して遥か遠くまで続いていた。これを迂回するには、一度登山ルートから外れて斜面を下り、大きく回り込まなければならない。かなりの時間ロスになりそうだった。
「私が降りてみよう!」
杉山が言い出した。
「徹心……」
八木山は不安を隠さず杉山をうかがい見る。
「徹心、強気ー!」
えべたんが感心する。
「待って! そんな危険を冒さなくても二日、三日のロスなら問題ないわ!」
穂高が慌てて引き留めた。だが杉山は笑う。
「大丈夫だ! 試しに降りてみるだけだ! 本当に危険なら途中でやめる!」
「……」
穂高は八木山を見た。その眼差しが止めてほしいと訴えていたが。
「頼めるか、徹心!」
八木山は意を決した表情で託す。
「任せろ!」
自信満々の顔でうなずき返す杉山。視界の隅で穂高がため息をついたのが見えたが、八木山は苦笑いを浮かべてごまかすしかなかった。
「じゃぁ、懸垂下降の準備するね!」
言うが早いか下降用の荷を解き始めるえべたん。すぐに杉山も加わり、ハーネス周りの装備を整える。
ロープは谷へ垂らした傍から大きく風に流されたが、杉山のやる気を削ぐことはなかった。
「では行ってくる」
ロープの強度を今一度確認し、杉山は八木山達を安心させるように口角をあげる。そうしている間も爆風が杉山の体を煽るが、足を左右に広げ、腰を落として重心を下げて耐えている彼はびくともしない。とても頼もしく見えた。
風の合間を見計らい。
「よっと」
一歩足を壁面へと下げる。アイゼンを氷の取っ掛かりに噛み合わせ、ロープ頼りに体を降下させ、もう片方のアイゼンをまた別の取っ掛かりに預ける。
それを繰り返して少しずつ下へ下へと降りていく。
支点となる降り口から離れれば離れるほど風への抵抗が弱まり、爆風は容赦なく杉山を翻弄した。しかし自重をうまく駆使しながらアイゼンを氷に食い込ませて踏ん張りつつ進んでいけば、思いの外、彼は危なげなく目標地点まで無事たどり着いたのだった。
杉山が手を振ると、八木山が胸を撫で下ろして深く息を吐く。
続いたのは八木山だ。下で杉山が重りとなり、暴風によるロープの揺れ幅を抑えていたため、難なく降下できた。
「……今、山が動いたら挟まれて終わりだな」
眉をひそめて八木山が言う。両側の壁は二人を囲むように目前にあり、圧迫感が不安を誘う。
足下にいる杉山がため息をついた。
「貴様はすぐそういうことを言う」
「聞こえたか。すまん」
狭い空間では風が上部より和らいでおり、呟きが通るようだ。
「いいから早く支点を打て」
「分かった分かった」
杉山に急かされ、八木山は登る側の壁面に垂直登攀のための支点を打つ。杉山もセルフビレイを行い、取り付き直した。
えべたんが降りてきたところで八木山も移り、穂高も到着する。
「さて、今度は垂直登攀だ」
八木山が言った。
「私が登るわ」
と穂高。
「では私がビレイヤーを務めよう」
「……お前、頑張るなぁ」
若干、杉山の意欲に気圧される八木山。杉山は笑った。
「任せろ!」
親指を立てる。
「まじウケるんですけど」
えべたんが笑い、八木山は呆れたように肩をすくめた。
「じゃ、行くわね。杉山くん、お願いね」
「あぁ。あずあずも気を付けて行くんだぞ」
「任せて」
そう言って親指を立てる穂高。
「!」
杉山は一瞬驚いた顔をした。すぐに笑みを返してサムズアップを返す。それを見届け、穂高は登り始めた。
「徹心に付き合ってあげて、梓ちゃん優しい~」
「少し意外だったな……」
途中から再び暴風の洗礼を受けたが、穂高は無事一ピッチを登りきった。背後を振り返れば、対岸の向こうにたどってきた稜線が見える。
残りは一ピッチだ。
登攀用のロープを固定して、八木山達に手を振る。そして穂高は彼等が合流するのを風に耐えながら待った。
「次は俺が登ろう!」
八木山が言った。
「大丈夫……!?」
穂高が心配そうな顔をする。八木山は苦笑した。
「言い出した俺が他人任せにしているわけにはいかないからな!」
何せ再登山を企画したのは自分なのである。危険な垂直登攀から逃げるわけにはいかない。
「そこは任せろだろ!」
すかさず杉山が指摘した。彼はついでにサムズアップも期待したかった。穂高はやってくれたというのに、八木山といったらなんとノリの悪いと不満を垂れる。
「やれやれ」
八木山は肩をすくめた。
「分かったよ、任せろ!」
ハイ、と投げやりに立てられる親指。
「よし、えべたん、あとで〆るぞ!」
「おっけー!」
「なんでだよ!」
……などと戯れ事を交えながら八木山が登攀の準備をする。ビレイヤーはえべたんだ。
「……」
八木山は登る先を見上げた。高さ自体は大したことはない。風も想定内。あと一ピッチ登れば今回の登山最大の難関はほぼ突破したと言っていいだろう。
よし、と小さくうなずき、八木山は垂直登攀を開始した。
アイスアックスを突き立て、アイゼンを噛ませて壁面を進む。
暴力的な風が八木山の体を浮かせてさらおうとするが、そのたびに体幹を駆使し、体勢を変えて耐えた。七浦を追う内に蓄積されていった膨大な登山経験が、八木山を上へ上へとどんどん押し上げる。
大丈夫だ、行ける。問題はない。
だが油断も禁物だ。
慌てるな、慌てるな。一つ一つ確実に、上へ。
自分は死ににきたのではない。生きるために再びこの狂気山脈へと来たのだ。
志海三郎。必ず見つけるぞ。
そのためには、まずこの難所を越える。
上がる。登る。一歩ずつ、一歩ずつ。
そら、もう少しだ。
あと少しで縁にたどり着く。
八木山は進む。
アイスアックスを振り上げ突き立てて、アイゼンで
氷を踏みしめ、体を持ち上げ、そして──
「!!」
ガラリ、と。
アックスの先の氷が欠けて崩れ落ちた。
直後に一際強く風が吹く。
煽られて完全に体勢を崩した八木山はそのまま、なすすべもなく宙へと投げ出された。
「っ──!」
世界の音が、消える。
己の呼吸も止まったようだった。
浮遊感に包まれた体が重力に引っ張られて落ちる。その体感は非常に緩やかだ。
そう、落ちる。八木山は呆然としながらそれを認識し
「ヤギ──────────ッ!!!!!」