抗う者達⑤ 響き渡る杉山の声。
「ッ!!!」
急激に頭が回り始めた。
支点は? ビレイは? 上手く効いてくれるか?
ビレイが成功すれば腰周りを中心に体に衝撃が来る。
刹那の間にそれらを考え、そして祈った。祈るしかなかった。
えべたん、頼むぞ!
「南無三!!」
舌を噛まないように歯を喰いしばり、来るであろう衝撃に備る。
直後。
「グッ!」
ぐん、と勢いよく腰周りが浮くような衝撃を受け、それに引っ張られるようにして上体と足にしなるような力がかかった。中間支点から振り子のように振られて壁面に右半身が叩きつけられたが、ビレイの衝撃に比べたら些事だ。
そのまま氷の表面に擦られながら、ロープの伸縮性によってバウンドする。そうして何度か弾んだのち、八木山の体は空中で停止した。
ビレイが無事成功したのだった。
「はははっ……はーーーー、」
何故だか笑いが込み上げてきた。脱力して深く息を吐く。肝が冷えた。助かったのだと自覚できたとたん、全身からぶわりと汗が湧く。それから心臓が早鐘のように強く打っていることに気付き、息苦しくなった。
助かった──
「八木山ぁ!! 大丈夫かー!?」
下から心配する杉山の叫びが聞こえ、八木山は我に返った。アイスアックスを手にした片方を振って無事だと答える。それから体勢を立て直し、改めて下をうかがい見れば。
「ふっ」
えべたんが目を見開いて硬直しているのが遠目にも見えて、思わず吹き出してしまった。彼女がかぶっている猫耳ニット帽のせいもあり、まるで総毛を逆立てている猫のように見えたのだ。……ビレイヤーの精神的負荷を思えば、やむを得ない反応ではあるのだが。
クライマーが転落した場合、ビレイヤーはその命を背負うことになる。クライマーが助かるか否かは、全て自分のビレイにかかっているのだ。
加えて実のところ、えべたんは本格的な未踏地登山は狂気山脈が初めてだったという。それであれだけ登れるその天才的な才能には脱帽だが、さすがに人生初のビレイは恐怖でしかなかっただろう。
「……」
笑って悪かったな、と思い直した。だが正直な話、気持ちが救われた。落下の恐怖を体感したのは当事者である八木山も同じだった。それが薄れたのだから。過酷な登山には付きものの危険ではあるが、実際に見舞われるとこれほど恐ろしいものはない。
再度登るぞと合図を送れば、はっと我に返って深呼吸をするのが見えた。それから気を引き締めた顔になってうなずく。杉山がえべたんの代わりに手を振って合図を返した。
怯んでいる暇はないのだ。恐怖を振り払いたければ、登るしかない。一番安全なのは、この垂直登攀を終わらせることなのだから。
「登ったーーー!!」
全員が登りきったのを見届け、えべたんが両腕を振り上げ吼える。
「一時はどうなることかと思ったが、乗り越えたな!」
と杉山。
「生きた心地がしなかったよ……」
八木山は苦笑した。
「八木山君、怪我は!?」
打ち付けられた右半身と、衝撃を受けた腰周りの心配をする穂高。場合によってはこのまま引き返さなければならない。
だが八木山は手を振った。
「いや、大丈夫! 大したことはない! 落下も3mくらいだしな!」
「一応確認だけさせて!」
穂高はそう言って触診をする。そして骨や筋肉に何も異常がないことを確認すると、やっと胸を撫で下ろした。
「はー、超ヤバかったー! まじパねぇって!」
自分が受けた衝撃を身振り手振りで訴えるえべたん。
「ありがとな、えべたん!」
「ま、えべたんにかかればヨユーだけどね!」
「YouTubeにアップすれば閲覧数が凄いことになってたかもしれんな!」
と杉山。
しかし八木山からすればたまったもんではない。死にかけの姿を全世界にさらされるなんて真っ平御免だった。
「やめろやめろ!」
「確かに! 登録数増えるじゃん! 惜しいことしたし!」
しかし構わずえべたんも残念がる。……もっとも本気で言っているわけではないし、それを八木山も分かっているが。
「さて、どうする!? ここでいったんビバークしてしまうか!?」
杉山が尋ねる。
「えー、行こうよー! もうすぐそこじゃん!」
えべたんの言う通り、キャンプ予定地はもう目と鼻の先だった。
「この暴風下でビバークするより、進んでしまった方がいいだろうな!」
八木山もえべたんに賛成した。
「八木山君とえべたんが大丈夫なら異論はないわ!」
穂高が言う。
「んじゃ、しゅっぱーつ!」
気持ちを切り替えて意気揚々と歩き出すえべたん。
──その足がふいに止まる。
「ヤバ」
「どうした、えべ……」
杉山も気付いた。
「う……」
八木山も、
「な、に……これ……」
そして穂高も目にしてしまった。
視界を埋め尽くす、異様な光景を。
禍々しい、それはまるで蜃気楼だった。
ゆらりゆらりとたゆたうように存在したあと、間もなく消えた。
「……」
逆さに映し出された、街と言えばいいか。だがその造形を言葉で正しく説明するのは難しい。ひどく歪でありながら、決まった方向性の下に作られた建築群だった。
現代の技術では到底創り上げることのできない、奇妙な都市だ。
幾何学法則を歪ませた石造の群れ。円筒形や立体、円錐や四角錐を組み合わせた塔、五角形の星形を積み上げたようなテーブル上の建物……まるで正気を失った悪夢である。それが視界一面に、遥か彼方まで広がっていたのだった。
いったい何を見せられたのか。しかもこの狂気山脈で、何故。
「いや、ビビったしー!」
と言いつつも、えべたんは大して衝撃は受けなかった。自分が知らないだけで、世界の何処かにはそういう街も存在するのかもしれないという認識だった。ただ、自分のセンスにはそぐわないし、キモいとは思った。
「驚いたな……」
杉山も、異質な光景が視界いっぱいに広がったことに一瞬怯んだものの、恐れをなすほどではなかった。オバケでなければ大丈夫だ。ただ、気色悪いなとは思ったし、造形に悪意を感じて気持ちが臨戦態勢になった。
「ふー……」
八木山はゆるく細く息を吐く。彼は少しダメージを負った。人類の技術では造れないと気付いたからだ。人間は理解できないものを恐れる傾向がある。見せられた幻はそこをダイレクトに刺激してきた。世界にはオーパーツなんて概念が既に存在するが、それがリアルな質感を伴って視界を埋め尽くすとなると、もはや恐怖でしかなかった。
しかもその意匠が禍々しくひたすら邪悪なのだ。とにかく気持ちが悪かった。
さすが狂気山脈だ。転落の恐怖すら上書きしてしまった。相変わらず見せつけてくるものが違う……ここが狂気山脈であるという事実が、返って彼の正気を保たせた。
そして穂高は。
「今のは、何……」
世界をまたにかける医師ゆえに、全く見たこともない文明に絶句していた。
異質すぎて頭が追い付かない。体がかすかに震えているのは寒さのせいではないだろう。我を忘れるほどではなかったが、それでも大きく衝撃を受けていた。恐怖に呑まれないよう、拳を握りしめて耐えた。
「大丈夫か、梓さん!」
八木山が気遣う。考えてみれば彼女が狂気山脈の非現実的な洗礼を受けたのは今回が初めてではないか。悪夢やブロッケン現象など比べるべくもない山の圧倒的な悪意を目の当たりにし、怯んでしまうのも当然だ。
穂高は息を呑み、それから目を閉じて深呼吸をした。腹の底にわだかまる凝り固まった恐れを吐き出すように、長く、ゆっくりと。
そして開かれた目には、覚悟を決めた力が宿っていた。
「……えぇ、ありがとう、大丈夫よ!」
「そうか!」
気丈な声が返ってきたので、八木山はほっと息をつく。
「とにかくキャンプ地に行こう! 私達には休息が必要だ!」
杉山が提案する。皆、賛成だった。
どんな山であろうとも、端から順風満帆な登山ができるなど微塵も思っていない。
挑む相手が狂気山脈ならなおさらである。
しかし、それにしたってアクシデントの多い行程だと辟易せざるをえなかった。
前回の狂気山脈登山と比べても明らかに多い。……それとも前回が恵まれていただけなのだろうか。
「……」
八木山は寝袋の中で寝返りを打った。眠れないのはいつものことだが、それに輪をかけて眠れなかった。原因はもちろん転落の恐怖と、垂直登攀直後に見せられた幻にある。
──何故、氷が欠けたのか。改めて考えれば考えるほど背筋が粟立つ。
あまりに不自然だった。
八木山とてそれなりに山を登ってきたアルピニストだ。闇雲にアイスアックスを引っかけていたわけではない。特にあの一打は確実に大丈夫だと踏んで打った。
それなのに。……まるで、何者かが意図的に崩したかのよう。
考えすぎだと思いはするが、否定しきれない自分もいた。場所が場所ゆえに。
今に始まったことではないが、何もかもがとにかく禍々しい。
そしてその感想に、登攀後の幻が拍車をかける。
何故、何をどうしたら、あんな邪悪な造形物が出来上がると言うのだろう。
命を脅かす類いの恐怖ではなく、理解を超越した恐怖だ。じわりじわりと精神を侵食してくる。これは地味に堪えた。
「ん?」
外で衣擦れのような音がした。誰かがファスナーを開けて個人テントから出たようだ。
トイレだろうと思い、意識の外へ放り出そうとしたが、その者はテントから出たあと、動く気配がない。
ここは標高六千メートル。比較的風の当たらない場所でキャンプを張っていても気温はそれなりに低く、理由なくたたずむにはあまり環境がよろしくない。翌日の行程のためにも体力回復に努め、なおかつ温存しなければならないはずなのだが。
「寝ないのか?」
八木山はテントの中から声をかけた。
「その言葉、そっくりそのまま返すぞ」
声の主は杉山だった。八木山は寝袋から抜け出し、灯りを手に外へ出た。
「どうかしたのか?」
「いや……眠れなくてな」
杉山は苦笑いを浮かべた。八木山は少し驚く。
「珍しいこともあるもんだな」
何せ杉山はよく寝る。前回のコージー錯乱騒動の時も、ギリギリまで寝ていたような男なのだ。
「さすがに今日はいろいろありすぎて寝付けん」
「……まぁ、確かにな」
八木山も同意する。まさに自分も同じ理由で不眠が促進していたのだから。
「狂気山脈の悪意を正面から受けた気分だ」
杉山が言う。
「覚悟はしていたが、これほどとはな」
「まさしく本領発揮というヤツだ」
肩をすくめる八木山。
そんな彼の顔を杉山がのぞき込んだ。
「大丈夫か」
心の底から気遣われていることに気付き、八木山は照れ臭くなって苦笑する。
「あぁ。肝が冷えたが、大丈夫だ」
それから思い出し、八木山もたずねる。
「お前も滑落しかかっただろう。大丈夫か?」
「……問題ない。大丈夫だ」
「……」
返答に少し間があった。
「何か思うことでもあったか?」
「いや……うん、そうだな……」
杉山が何かを言い淀む。
「?」
「あの滑落が狂気山脈の仕業だったのだとしたら、笑えないなと思ってな」
そして苦笑する杉山。
「!」
八木山は目を見開いた。杉山は自分と同じ疑念を抱いていたのだ。
「……俺の転落も、狂気山脈の仕業だったりしてな」
同じ言い方をして示唆する。
「っ、」
今度は杉山が驚いた顔をした。
「そうか」
眉間に皺を寄せて深く息を吐く。そして、
「……あくまでただの想像だ。そんな細かい直接的な干渉は今までなかったはずだ。考えすぎだと思う」
と、まるで自分に言い聞かせるかのように呟く。
「たぶん……そうなんだろう。気を付けるに越したことはないが」
八木山も意識の切り替えに乗った。これ以上の恐怖は危ない気がした。
だが体感の共有自体は悪くなかった。仲間との連帯感は心を奮い立たせてくれる。
「なぁ、徹心」
八木山は話題を変えるために改めて隣の男の名を呼んだ。
「なんだ」
「何故お前は格闘家になったんだ?」
「え」
杉山は目を丸くした。そんなことを訊かれるとは全く予想もしていなかったという顔だ。
だが八木山はずっと気になっていた。前回の狂気山脈登山から今日まで時間を共にして、確信したことがあるのだ。
杉山徹心という男は、あまりに優しすぎた。物騒な二つ名が似つかわしくないほどに。
とはいえ。
「答えたくないなら答えないでいい。センシティブな話だからな」
不躾な詮索になりかねない。無理を強いるつもりはなかった。
「……」
杉山はいったん黒い空を見上げた。その横顔からは諦念や自嘲が読み取れる。八木山は急かすことなく静かに待った。
「……そうだな、もう、話してもいいか」
「その前にテントに入れば? 体冷えるし」
えべたんの声がかかる。
「む」
「起こしたか、悪い」
八木山が謝るとえべたんは達観した顔で手を振る。
「元々寝てないし」
「お前もか」
苦笑いを浮かべる杉山。
「コーヒー入れるわ」
「梓さんもか」
八木山の言葉に穂高が困ったように笑う。
「んじゃ、梓ちゃんのテントに集合ってことで」
「どうぞ」
えべたんの一声に穂高はうなずき、自分のテントに三人を招き入れてコーヒーの準備を始めた。