俺だけの太陽でいてくれ月島誕生日2024
Xで公開済みのお話です!
下士卒どもが集う、ごちゃごちゃ混沌とした雰囲気の呑みの場でも、彼という人がひとり飛び込むだけでパリッと空気が張り詰めた。だがそれは、決して緊張感が漂うというわけではなくて、あくまでも洗練された空気に満ちるといったほうが正しかった。
「鯉登少尉殿がご参加になるなんて、珍しいですよね」
隣に腰掛ける上等兵の言葉に、俺は静かに頷く。
普段はあまり下士卒たちと交わらない鯉登少尉殿が、今日はどういう風の吹き回しか「皆と親睦を深めたい」と言って宴会に姿を現した。すると密かに鯉登少尉殿を慕っている下士卒たちは、大喜びで彼を取り囲む。いまも彼の周りには多数の者が集まって、酌をし、会話して、彼の機嫌を取ろうと努めていた。
その様子をじっと見つめていると、隣の上等兵がふたたび話しかけてくる。
「月島軍曹殿……お言葉ですが、眉間に濃い皺が」
「そうか?」
猪口を傾ける。感情を顔に出さないようにと思っていても、酒がかき消す理性によってそれは叶わなかった。ぐりぐりと眉間を自分の指で揉み込むと、隣の上等兵は情けない表情で笑う。
「すみません、面白い話ができなくて」
「いや違うんだ、別にそういうわけではなくて……」
隣の上等兵に申し訳ない気持ちになりながらも、俺はなお会話の合間に鯉登少尉殿をちらちらと見ることをやめられなかった。
——距離が近くないか? 二等卒、あんなにそばに寄って酌をする必要はないだろう。少尉殿も少尉殿で、あんなに気安く二等卒の身体に触れるべきではない。隊の風紀が乱れる。かと思えば、呼びかけてきた一等卒に笑いかけている。普段はツンと澄ました顔で、他者を簡単には寄せつけない雰囲気にもかかわらず、酒が入れば頬を赤らめ、誰にでも愛嬌を振りまいて……。
じめじめと身体にまとわりつく、大雨の前の湿気った空気みたいな感情が下から這い上がってくる。真夏の太陽みたいなあの人を見つめるたびに、それとは真反対の、この暗く湿気った想いを抱くようになったのはいつからだっただろう。
もう二度と何かに心を動かされるようなことはないと思っていたのに。いつだってまっすぐなあの人は、大切な人を失い、嘘に翻弄されて空っぽになっていたこの身を、この心を純粋な愛で満たして、もう一度揺さぶった。こんな人生でも、もう一度生きてみようと思えたのは紛れもなく彼のおかげだ。彼の愛と、彼が振りまく柔らかな光のおかげだった。だがそれは彼自身が持って生まれてきた素晴らしい資質であって、俺ひとりのために使われるものではない。彼の持つ光は、これからもっと多くの人を照らしていくことになるだろう。
それでもたったひとり、自分だけが鯉登少尉殿の特別な存在であると、俺は心のどこかで疑うことなく信じていたんだ。いまこのときまでは。
「茂部上等兵、酒を追加してくれるか」
「はい」
隣に座る上等兵は素直に席を立つ。ああまったくこんな夜は、呑まずにはやっていられない。そんなことを思いながら手酌で酒を呷っていると、ふと鯉登少尉殿に耳打ちする者が現れた。——この無礼者が。心の中で悪態をつく。だが本当の無礼者が自分自身であるということを、俺はとうに自覚していた。俺は、そう世界でたったひとり俺だけは、その美しく着こなされた軍衣の下の、艶やかな糖蜜色の素肌を知っている。「初めてだ」と囁いた彼の羞恥と期待の入り混じった眼差しは一生忘れられなかった。
上等兵の持ってきた追加の酒を呷り、しばし彼と歓談していたそのときだ。ふと見やった先の卓で鯉登少尉殿が立ち上がり、外套を身に纏いはじめた。薩摩生まれの彼が酒に弱くないことは知っていたが、けれど外套に袖を通す彼はフラフラと、まっすぐに立つことができていない。
これはまずい、と俺も立ち上がる。少尉殿に駆け寄る俺の頭からは、もうすっかり隣に座っていた上等兵のことなど抜け落ちていた。だが俺が少尉殿に声をかけるより先に、先ほど少尉殿に耳打ちしていた一等卒が彼の身体に触れる。その身を支えるように腰に回された腕を、俺は眉間に皺を寄せて見やった。
「少尉殿、だいぶ酔っておられるようですね」
「ん、大丈夫だ」
「私が送っていきますので」
そうのたまった一等卒に向けて「その必要はない」と、俺は一等卒の腕からやんわりと鯉登少尉殿を引き離した。そうして自分の腕で、その背中をしっかり支える。
「少尉殿は俺が送っていく」
「おお、月島ァ」なんて呑気にへらへら笑う鯉登少尉殿は、その瞬間ふっとこちらに体重をかけた。
「軍曹殿、ですが……」
目の前の一等卒が狼狽えるのは、「それは若手の役目である」という軍隊特有の上下関係からか、それとも別の意味からか。いずれにせよ、俺は苛立ちを隠すために鉄の仮面を被って、努めて冷静な声を出した。
「お前は少尉殿の家がわからんだろう。酔っているのに長く歩かせてしまうのは危ないから、な?」
かくして俺と鯉登少尉殿は敬礼する一等卒に見送られて、薄暗い夜道を歩きはじめた。もし自分たちが酔っていなければ説明がつかないほど不自然に身を寄せ合いながら、それはまるで、男ふたりなのに情人同士であるかのような近さだった。
「……いいなぁ」
「何がですか」
「月島の、くだけた話し方だ」
とつとつと、若干舌足らずに喋る様はなんだか幼児みたいだ。いつもの気品はどこへやら。
「私もあんなふうに『その必要はない。お前は少尉殿の家がわからんだろう』とか言われてみたい」
え、そのこもったような妙な喋り方は俺のモノマネか? 全然似てないな……と内心嘆息しつつ、しかし否定して文句を言われたいわけでもないので、俺は大人しく「そうですか」と返した。
「なあ月島ぁん、敬語抜きで喋ってみてくれ」
「冗談言わんでください。考えただけで頭が痛くなります」
そのときよろけた少尉殿の身体を、ぐっと力を込めて支える。
「今日もな、兵卒たちは皆『軍曹殿、軍曹殿』と言ってたぞ。頼りになるし、弱いものいじめはしないし、尊敬できるって。月島は人望が厚いなぁ」
「そんなことないですよ。いつも兵卒どもを叱っているのを見てるでしょう」
「でも、理不尽に叱っているわけではない。よく叱られているやつも、さっき月島軍曹殿が好きだと笑っていたぞ。……お前はな、自分が思ってるよりずっと優しい」
「優しいなんて、誰にも言われたことありませんよ」
あなた以外には——そう思ったところで、俺たちはとうとう少尉殿の家の前に着いてしまった。
「さて、着きましたよ」
「うん。わざわざ、あいがと」
まだ酔いの醒めないとろんとした目で彼が微笑むと、腹の奥底から湧いた熱がじんわりと身体を温めていく。
「ほら、ひとりで入れないんですか?」
なんとか少尉殿の背中を押して玄関まで運んでいってやる最中、彼がふと「布団まで運んでくれ」なんて言い出すから、俺の体温は一層上がってしまった。理性をほとんど失いかけた頭が、不埒な考えでいっぱいになってしまう。
玄関に座らせた彼の軍靴に手をかけ、続いて軍足まで脱がせてやりながら呟いた。
「今日は」
帰りますよ、と言いかけたところで、じっとりと据わった目つきの彼と視線がかち合った。
「……なんですか」
「くせっ毛で、色白で」
「は?」
「小柄な、島一番の美人」
褐色の足指が、ゆっくりと自らの身体に触れる。大きくて骨張った形も、闇に溶けるような肌の色も、何もかも、「彼女」とは違っていた。そうして足指が弄ぶように下腹に触れても、俺はただ息を呑み、黙って彼を見つめていた。
「いままでどんな気持ちで、私と」
「誰から聞いたんですか」
いつもまっすぐな瞳が、狼狽えるように逸らされる。ぐりぐりと下腹を刺激していた足先から、すっと力が抜けていった。
「佐渡の出だという兵卒が、『島の皆が知っている有名な話だ』と言っていた」
「そんな酔っ払いの戯言、信じるんですか?」
「戯言か? 真剣な目をしていたぞ?」
「……だとしたら、俺がかつて死刑囚だったと皆に教えたかったのでは」
少尉殿は、俺がかつて父親を殺し、死刑囚であったことは知っている。だがなぜ父親を殺したかという経緯までは話したことがなかった。
「その話はしていなかった。あいつはただ純粋に、『月島軍曹は故郷でとびきりの美人といい仲だった』という話がしたかったのだろう。実際その話題で、私がいた卓はそれはもう盛り上がっていた」
なぜか人は酔うと、他人の恋の話がやたら面白く思えてきて、それだけで酒が呑めたりするものだ。俺だって心当たりはあった。だが自分の噂話が、勝手に他人の酒の肴になっているのは単純に気分が良くない。そのうえいま目の前にいるこの人が、先ほどから俺を責めるような視線を寄越してくるからなおさらだ。
「……で、」
「はい」
「好みなんだろう、くせっ毛で、色白で、小柄な美人が」
俺はおもむろに、少尉殿のもうひとつの軍靴に手をかけた。
「……かつて、そういう人を好きだったのは事実です」
その言葉に黙り込む鯉登少尉の軍靴を脱がし、軍足まで脱がしてしまう。そうして剥き出しになった足の甲を、俺はゆっくりと持ち上げた。
「でも」
「手を離せ」
鯉登少尉はぐっと脚に力を込めて、俺の手から足を引き抜こうとする。だが俺は、決してその手を離さなかった。
「私はお前の好みになれない」
「それがなにか問題で?」
「……だって」と、彼が整った顔を歪ませた瞬間を狙って、俺は彼の足指に舌を這わせた。身体はびくりと震え、「なにをする!」と怒声が響いても、俺は気にも留めず母趾に吸いつく。そうして親指と人差し指の股に舌を割り入れたそのとき、身体の柔らかな彼がぐっと身を乗り出し、俺の頭を足から引き剥がすように押さえつけた。
「いい加減にしろ!」
「しません」
「どうして……?」
その瞳に困惑の色が乗ったのを見つめながら、俺は少尉殿が考えていることの核心へと迫っていく。一歩ずつ、慎重に。そうして最後には、少々意地の悪い手口かもしれないが、彼の口から言わせてやる。
「私は少尉殿の身体を、それこそ『足を舐めても良い』と思うくらいに、美しいと思っているからです。サラサラとした御髪も、健康的な褐色の肌も、この骨張った足の先まで」
ぐっと息を呑む気配がする。ああ初心で、なんて可愛らしいお人なんだろう。
「なぜだかわかりますか? あなたが、私の理想にわざわざ合わせる必要はないんです」
「それって」
「ほら、今度は少尉殿の番です。なぜ私の理想になりたいのか、あなたの想いを教えてください」
酔いからか、それとも別の理由からか紅潮した頬が、狂おしいほど愛らしい。俺はじっと彼を見つめて、核心に迫る言葉を聞くまで一歩も引かないつもりだった。
——だって、こんなことって。まさか彼と、同じ気持ちかもしれないだなんて。そんな僥倖があってたまるか。
「私は……その、月島のことが」
だが我慢ならずに次の言葉を聞く前に、俺は彼の唇を奪ってしまった。そうして舌を重ね合わせる合間に「好きです」と小さく囁けば、彼は「ふふん」と笑って自らの舌を俺の口内へと潜り込ませる。
「まったく、せっかちなやつめ」
唇が離れたのち、彼は笑ってそう告げた。それから「月島、私もお前のことが大好きだ」と屈託ない愛の言葉を聞かせてくれたのだった。
惚れた人こそが俺の好みだ、なんていうのは、都合のいい言葉だろうか? けれど元々持っていた自分を覆されてしまうくらい、彼という人が眩いのだから、致し方のないことだろう。
「ずっと、俺だけの太陽でいてくれ」