最後の初恋 1 ——どうか私が、あなたの最後の恋人でありますように。
二〇二五年、一月。東京。
「今日は午後から、東京でも雪が降る可能性が高くなっております。帰宅時間の公共交通機関の乱れにご注意ください」
テレビから聞こえてきたその音声に、月島基は朝食のおにぎりを口に運ぶのをそっとやめ、画面へと視線を移した。
いつから交通機関が麻痺しそうかという予測表には、関東、午後の位置に赤いバツが付いている。だがここ数年、東京で電車が止まるほどの大雪が降ったことなど一度もなかった。せいぜいみぞれに毛の生えたようなもんである。
「……あんな程度の雪で、なぁ」
電車が止まるなんてあり得ないだろ、というのが月島の見立てであった。大体ニュースというのは、大袈裟に注意を呼びかけるものだ。台風も雪も、そりゃ確かに、事前に備えておくに越したことはないから。
けれど実際東京の雪は、いつだって、「ああこんなもんか」という言葉を月島から引き出した。雪だるまさえ作れないほどの、たった一センチ、うっすらとアスファルトを覆う程度のものだ。月島にいわせれば、あれは雪であって、雪ではない。雪というのはもっと、こんこんと、終わりなど来ないのでないかと思うほど降り続けて、昼夜を問わずの雪かきを行ってなんとか生活できるような、そんな過酷さの象徴である。
ではなぜ月島がそんなことを思うのかといえば、ひとつは、彼の出身が新潟の佐渡島であることが挙げられる。日本海の厳しい冬を知って育った彼には、東京の雪は生温い。
そうしてもうひとつの理由を挙げるとすると、それは彼の持つ、ある秘密に迫ることになる。実はいまを令和のサラリーマンとして生きる月島には、なぜか旧日本軍で軍人として生きた、もうひとつの記憶があった。思春期の頃から夢に見るようになったそれを、月島は、きっと前世の自分の記憶だろうと思っている。なぜなら夢に見た記憶と、調べた史実とが一致していたからだ。
前世の彼が所属していた部隊は北海道を防衛する第七師団、二十七聯隊。夏はそれなりに暑く、冬は寒さと豪雪厳しい旭川の地で、彼は長らく軍人として生きていた。そんな「本物の雪国」というものを知っているからこそ、彼は就職のために東京に越してきてからというもの、つい「北から目線」でものを見てしまう癖が抜けなかったのだ。
けれど月島にとって、銀世界の思い出がまるっきりすべて酷いものだったかというと、実はそうでもない。その銀世界にはいつも、燦々と輝く太陽のような人がいたから。
「あ、まずい。ぼうっとしてた」
つい積雪のニュースに気を取られて、気づけばいつもなら家を出ている時間になっていた。月島は慌てておにぎりを口に押し込み、さっと歯を磨いて、アウトドアブランドのダウンを着込む。
そうして駅まで走っていると、冬の太平洋側特有の、ツンと冷たく乾燥した空気が肺を満たした。
やっぱり、大雪予報なんて嘘に違いない。
と、思っていたんだが……。月島はオフィスの窓から外を眺めつつ、ため息をついた。
どんよりした鈍色の空からは、大量の雪が吹き荒んでいる。今朝見た天気予報の通り、午後になってから、東京では激しく雪が降りはじめた。月島が東京に来てから、こんな降りようはいままで見たことがない。初めての経験に、会社の皆も戸惑ったように窓の外を見ていた。
一時間前、まだ雪が降りはじめたばかりのころに、月島は部下たちを早々に帰宅させた。だが現在社には、まだ幾人か社員が残っている。
月島もそのひとりだった。そうして月島の課でいうと、係長である月島と、課長のふたりだった。
「あー、課長」
「どうした、月島」
「あの、あとは私がやっておきますので」
「いや、そういうわけには……」
と課長はいうが、彼にはまだ幼い子どもと、妻が家で待っていることを知っている。さっき見たネットニュースによると、在来線が動かなくなるのも時間の問題のようだった。
「課長もご存知の通り、私は独り身です。もし電車が止まっても、最悪なんとかなります。ですが課長が帰れなくなったら、お子さんと奥様は困りますよね?」
そのとき課長の表情が、ほっと和らいだのがわかった。ああ、これでよかったんだ、と月島は己を納得させる。
——善行は積むべきだ。だってもし真っ当に生きていれば、いつの日か、運命が彼に引き合わせてくれるかもしれないから。
「すまない、月島。本当にありがとう。あとは任せて大丈夫か?」
「ええ、大丈夫です」
「家からバックアップするから、何かあったら連絡くれ」
「はい、ありがとうございます。お気をつけて」
バタバタと鞄に荷物を詰めて走り去った課長の背中を見送り、月島はもう一度ため息をついた。いま手をつけているこの作業が終われば、俺も帰ろう。
そう思ってから、二時間が経過し、ようやく帰宅の目処がついた。月島は急いでリュックにノートパソコンやスマホを詰め、会社をあとにする。まだ電車が動いているという情報も、社屋を出る前にネットで調べていた。だから大丈夫だ、積もった雪を踏みしめるように歩き、駅を目指せば、暖かな電車に乗って家へ帰れる——月島と同じような期待を抱いた人々が、改札前に押し寄せるように滞留しているのを見た瞬間、月島は全てを悟った。
電車、止まったのか。ああ、あと一歩遅かった……。
「どうにかならないんですか⁉︎」と必死に訴えかける乗客に対して、駅員が申し訳なさそうに謝罪する光景に、頭がくらくらしてくる。きっと帰れないのはこの駅員たちも同じだ。責めたって、なにも解決しない。けれどそれがわかっていても、なにかに怒りをぶつけなければ、目の前のこの人も立っていられないのかもしれない。そしてその気持ちも、月島には少なからず理解できた。
だがそのとき、駅員のアナウンスが響き渡る。拡声器特有の、キンと冷たい音だった。
「このまま雪が降り続けた場合、本日中の運転再開見込みはございません」
スマホを見る。ニュースの限り、この雪は明日未明まで降り続けるそうだ。
——仕方がない、月島はようやく頭を切り替えた。駅周辺のビジネスホテルはなんだったか、思い出そうとする。アパだったか、ドーミーだったか……いやとにかく検索して、急いで予約を取るべきだ、と思ったそのときだった。
トン、と肩口に何かが触れる。なんだと眉間に皺を寄せ、訝しげに右側を向き終える前に、透き通った声が鼓膜を揺らした。
「月島、か……?」
目が合った瞬間、まるで幻を見ているようだった。
「っ、鯉登、閣下……⁉︎」
見間違うはずはない。なぜならずっと、彼を、鈍色の世界で輝く彼だけを探して生きてきたのだから。
「わかるのか、私のことが? わかるんだな?」
「はい、わかります! ……忘れたことなんて、なかった」
勝手に熱くなる目頭をどうしてくれようか、と思っていたそのときだった。ガシッと手を掴まれて、そのまま雑踏から逃げるように彼は走り出す。
「は、え? ちょっと!」
「いいからついてこい、急がないと後悔することになる! お前、この街のビジネスホテルの現状を知らないのか⁉︎」
ビジネスホテルの、現状? 首を傾げながら駅の外に出て、雪の積もった地面を駆けようとして、ふたりしてハッとその足を止めた。
「ダメだな、この靴で走ったら」
「頭打って、最悪死にますね」
「ペンギン歩きだ」
よちよちと、革靴を履いた大人ふたりが雪景色の中を歩いていく。先を歩く彼の背中を見ながら、ああ、これは雪が見せている幻覚なのかもしれないと、一瞬そんな気持ちになった。マッチ売りの少女みたいな、火が消えたら、冷たい夜空に溶けてなくなってしまうような幻——
「月島ぁ! 寒いな‼︎」
「なにいってるんですか。旭川はこんなもんじゃなかったでしょう!」
「うん、ふふ。確かにそうだな」
楽しげな笑い声に、こちらも釣られて笑ってしまう。ロングコートがよく似合う、脚の長いシルエット。丸い後頭部を、サラサラした濡羽色の髪が覆う。昔もよく、彼のこんな後ろ姿を眺めていた。
「月島、はぐれるなよ!」
「はぐれませんよ」
「もうすぐだ、もうちょっと」
そうして普通なら五分とかからないような道を、長い時間かけてたどり着いた先には、一軒のビジネスホテルがあった。
「着いたぁ」
「はぁ、これで一安心ですね」と返したら、鯉登閣下——改めて、鯉登音之進に訝しげな視線を送られた。
「お前、本当に知らんのか」
「なにをですか」
ズンズンとフロントカウンターへ向かった彼の背中を追いかける。
「すみません、今日の予約って……」
「確認いたします」
しばしの待ち時間に、彼はため息をつきながら教えてくれた。
「最近増えてるだろ、外国人観光客」
「ええ、確かに」
「その影響で、この辺のホテルは価格が上がっているにもかかわらず、いつも満室だ。しかも突然雪が降ろうが、ある程度の日数滞在する外国人観光客にはあまり影響がない」
「なるほど。それって、つまり……」
そのとき、フロントの女性が声をかけてくる。
「宿泊は、おふたり様ですよね?」
「ええ、そうです」
月島は、思わず息を呑む。なぜならフロントの女性が、心なしか、あまりいい表情をしていないように見えたからだ。
「実は、本日ご宿泊可能なお部屋はひとつしか残っておりません」
「……そうですか」
ふたりは顔を見合わせて、うーんと唸った。しかし、女性の言葉が続く。
「ですが、こちらの一室はダブルベッドのお部屋になっておりますので、おふたりで寝ることも可能です。しかしもしお部屋やベッドを分けたい場合には、申し訳ございませんが、ご対応できかねます」
ふたりはもう一度、顔を見合わせた。
「ダブルベッドだって」
「ええ」
「どう思う?」
艶々した黒い瞳が、まっすぐにこちらを見据える。ああ、この感じ、懐かしいなぁ。この目はいつだって「月島、本音で語れ」と、こちらにそう訴えかけてきた。
「俺は別に気になりません、ダブルでも」
「だよな。うん、わかった」
そうして鯉登は「その部屋を押さえてください」と受付の女性に返したのだった。
部屋に大きな荷物を置いてから、近くのコンビニへ向かって食事や替えの下着を調達し、ふたたび部屋へと戻ってきた。
そうしてサラダを口に運ぶ鯉登へ、月島は質問を投げかけていく。知りたいことは山ほどあった。
「今世のお名前は?」
「鯉登音之進。月島は違うのか?」
「いえ、俺も月島基です」
「そうか。じゃあ月島と呼びかけたのも、あながち間違いじゃなかったんだなぁ」
「さっきはありがとうございました。声かけてもらわなかったら、俺、今日きっと寒空の下で宿無しでした」
「まあ、声をかけたのはたまたまだ。たまたま『あれってもしかして、月島じゃないか?』と気づいてしまって。で、お前に気づく前から、ホテルの予約を早々に取らないとまずいだろうなと思っていたから」
「なんであんなに人がたくさんいる中で、俺に気づけたんですか」
単純にすごいなぁと思って、そう尋ねたのだ。すると鯉登はなんともいえない顔をして、「お前のほうこそ」と小さく呟いた。
「私が声をかけたら、なに泣きそうな顔してたんだ」
「え? 俺泣いてませんよ」
「いや、なんか泣きそうだった」
「そんな、からかわないでくださいよ」
しばしの沈黙が、ふたりの間に流れた。
「……ずっと、この世界のどこかで月島も生きてるんじゃないかって。気づいたら、人混みを探す癖ができてた」
かつての自分が、大日本帝国の軍人だった頃。鯉登は月島の上官だった。軍人一家に生まれた彼は、いまでいうところの、いわゆる「キャリア組」で、下っ端兵とは生まれも育ちも違う世界を生きていた。
お互いに、どれほど迷惑をかけ合っただろう。お互いに、どれだけ相手の存在に助けられただろう。私たちは、そういう戦友であった。それと同時に——
「俺も同じですよ。人混みに行けば、いつもあなたを探してた」
「ふ、今日は気づかなかったくせに」
「あのときはだいぶ焦ってたんで」
「もっと視野を広く持て!」
「無茶いわないでくださいよ」
「はぁ、仮にも前世の……曲がりなりにも、最期まで連れ添った相手だというのに、そんなんでいいのか」
からかうような彼の口調は、決してこちらを責めているものではなかった。月島は「すいません」と小さく謝る。
「ふふ、冗談だ」
「ええ、わかってますよ」
目配せして、このふたりの会話の雰囲気を懐かしむ。月島と鯉登はかつて、死の淵まで連れ添った恋人同士であり、人生の伴侶であった。
月島の中で燦然と輝く男は、いまもなお色褪せることなく、月島の前に座っている。上品な箸使いで葉物を口に運ぶ姿は、それがたとえコンビニのサラダだったとしても様になっていた。
ずっと会いたかった。そのひとことを、未だにうまく口にできないまま、なんとか世間話を紡いでいく。
「鯉登閣下は、なんのお仕事を?」
「閣下はやめてくれ」
「じゃあ、鯉登さんは」
「私は百貨店に勤めているんだ。いつもは新宿の店舗なんだが、今日は雪予報だったから、ヘルプでこちらの店舗へ」
「なるほど」
どうりでこの辺のホテル事情に詳しいわけだ、と月島は納得した。
「雪なのに、百貨店開いてるんですね」
「うん、すぐに閉めるわけにもいかなくて。パートとアルバイトを先に帰して、社員は残って……とやっていたら、電車が動かなくなってしまった」
「俺も同じです。課を代表して残っていたら、電車を逃しました」
「お互い貧乏くじだな」
「ええ、でも」
「ん?」と不思議そうにこちらを見てくる彼を、月島はまっすぐに見据えた。伝えるなら、いまだと思った。
「俺は今日会社に残って、よかったと思っています。だって、あなたにまた会えた」
鯉登は「うん」と小さく頷く。月島は言葉を付け足した。
「俺はずっと、あなたに会いたかったです」
すると鯉登は少しだけ口角の端を持ちあげて、へにゃりとした笑みを浮かべた。
食事を終えたふたりは、交代で風呂に入って、その後は各々仕事をしたりスマホを見たり、好きなように時間を過ごした。そうしてそろそろ寝ようかと、ふたりしてベッドに腰かけたときのことだ。鯉登との間に開いた人ひとり分のその距離を、月島は急にもどかしく、物悲しいもののように感じてしまった。
俺はその体温を、彼が与えてくれる愛を知ってしまっている。月島、と甘く切ない声で名前を呼んでくれた過去を覚えている。通じ合ったふたつの心は、北の大地の寒ささえ、かき消してくれた。
少なくとも、月島はそう思っていた。
「鯉登さん」と名前を呼びながら、自然に、自らの手を彼の指先に向かって伸ばしていく。その指先を絡めればまた、あの頃のふたりに戻れるような気がした——
びくついた彼の手が、まるで自分の手を払いのけるように動くまでは。月島は本気でそう思っていた。だが鯉登がさっと手を引き、まるで「信じられない」と語るような目でこちらを見つめてきたそのとき、月島は「自らが間違っていた」ことにようやく気づいたのだった。
「あ、えっと……驚かせてしまって、すみませんでした」
月島は、思わず彼から目を逸らす。とても彼の顔を見ていられる気分ではなかった。明確な拒絶のサインに、胸がヒリヒリと痛む。そして、傷つけた鯉登への罪悪感も募っていった。
「鯉登さん、本当にすみません」
「謝らなくてもいい。だが、月島……勘違いしないでほしいんだ」
「はい」
「今世では、私はお前とどうこうなるつもりはない。——私たちは、別々の道を歩もう」
そうして鯉登は「おやすみ」と告げると、月島に背を向け、ベッドの隅で布団をかぶってしまった。ひとり取り残された月島は、呆然としながらもなんとか部屋の電気を消し、自らもまた布団にくるまったのであった。決して自身の身体が鯉登には触れないように、ベッドの端から落っこちそうになりながら。
——どうか私が、あなたの最後の恋人でありますように。
夢の中で呟いたそのひとことは、儚くも雪空の下に散る。こちらに背を向けた脚の長いロングコートのシルエットは、とても月島の手の届かない遥か彼方へと溶けて消えてしまった。