FAKE LOVE 猫に「ご飯だよ」と告げる瞬間が、一番安らぐ。
思い思いに過ごしていた猫たちが足元に寄ってくるのを見ると、自然と唇が上を向く。兄弟といる時とは違う高揚感が紫松を包むのだ。
海帝廟の階段の隅に腰を下ろし、猫たちが持ってきた餌に夢中になっているのを眺める。そういえば、今日は昼飯を食べていない。猫たちのご飯は忘れないくせに、と頭の中で二番目の兄が言った。妄想の中でさえうるさい男だ。
昨夜、床を共にしていたせいだろうか。今日はやたらと藍松のことを思い出す。
仕事があったわけではなかったが、なんとなくお互いにそんな気分だった。夕飯時、やたらと目が合ったのがその証拠だ。ナイフとフォークで切った肉を口に運びながらこちらを見る藍松の瞳の奥には、隠しきれない情欲の炎が燃えていた。
鉄板の上で焼け、滴る肉汁が紫松の腹の奥を刺激したのも嘘ではない。本当になんとなく、そんな気分だったのだ。
だから藍松の部屋に引きずり込まれても文句は言わなかった。営みは性急で、だけど深夜まで続いた。
いつもより長いセックスと夜明けまでの寄り添い合いのせいで、まだ肌の上に藍松がいる気がしてしまう。失敗したな、とぼんやり紫松は考えた。
上の空でいるうちに猫たちは食事を終えていた。左足ににゃあと擦り寄るあたたかいぬくもりに紫松は我に返る。
「ホエホエ。今日も来ていたダスか」
正面から声がかかった。
大犯大の頭、デカパンだ。紫松は彼の顔を知っているが、ここでは互いの正体を暗黙の了解とし、猫とただ触れ合うだけに留めている。
「こんにちは……」
「ホエホエ。挨拶がきちんとできるのは良いことダスな」
彼はゆっくりとこちらに歩いてきた。腹いっぱいになった猫たちがまた自由に過ごしているのを見ながら、サングラスの向こうの目を細めている。
この男も、先日狙われた。抗争はどんどん激化している。淡く、甘い気分に浸りすぎていた紫松は顔を引き締めた。
「ホエ、どうしたダスか。夢から覚めたような顔をして」
デカパンは、紫松の空気を敏感に察した。
一瞬動揺したが、サングラスをかけた男に表情を読まれるのは慣れている。
「…… 少し、現実を思い出しただけで」
「それはいかんダスな。夢を見る時は思い切り見るものダス。同じ夢は二度と見られないかもしれないダスからなぁ」
「でも、夢を見たままじゃいられないでしょ」
「そうダスか? 夢は覚えていることはできるダスよ」
「こんな世界で……」
紫松が舌打ちをすると、デカパンが足元に来た猫を抱き上げた。ふくよかな胸に抱かれた猫が気持ちよさそうにあくびをする。
「ホエホエ。チミには迷いがありそうダスなぁ」
彼は、組織のボスとは思えない優しい手つきで猫を撫でている。
紫松はしばらく黙っていた。太陽が、背の高いビルの向こうで輝くのを目に入れて、まぶしさに瞼を閉じる。
「これは独り言だけど」
そう前置きした。
「形にできないものを形にしようとするのって、そんなに大事?」
「抽象的ダスな」
「独り言だってば。たとえば、愛は目に見えないから、指輪って形にしたい人間がいるとして、それを受け取ってしまったら愛として成立してしまうよね。どうしてそこまでしたいのかわからない時、どうしたらいいかなって……」
藍松が、ここのところ執拗に紫松に指輪を渡したがる。
そのことは晴天の霹靂と言えなくもなかった。
自分たちの関係は、名前をつけられるものではないと思っていたからだ。曖昧に身体を重ねて離れるだけの、利害の一致した関係とすら考えていた。
それに名前をつけようと思ったら避けられない問題に突き当たる。すなわち感情があるかないかだ。
紫松はあると言いたくなかった。
だが藍松はあると言いたい側なのだと悟った時、これまでのセックスが脳裏をよぎり鳥肌が立った。背中を駆け上がる快感に、その場でトイレに駆け込み射精したくらいだ。
無機質だと考えていたセックスに感情があった。肌を滑った指に、舌に、身体を貫いた欲望に意味があったなら、思い出の中のふれあいにすら急に温度が生じてしまい、脳内で快感が倍以上になった記憶の中のセックスが紫松をダイレクトに刺激した。
それからずっと、どんなにひどく扱われても、ぬるま湯のような感覚が消えない。
だからこそ嫌だった。
その指輪を受け取って、自分にだって『ある』と言うのが。
ふむ、とデカパンは立ち上がった。
「これはワスの独り言ダス」
帽子を深く被り直し、小さくウィンクを投げてくる。
「受け取りたいものを受け取れないのがつらいなら、一度自分を誤魔化してみるといいダスな」
「どういうこと?」
「独り言ダス。たとえば、自分も指輪を持ってみる、とか」
紫松は目を見開いた。
「お返しってこと?」
「返さなくてもいいダス。持っているだけ。いつでも応えられるし、指輪を買った事実だけは残るダス。その時点で一方的にぶつけられているわけではないと、自分を誤魔化せるダス」
デカパンが踵を返した。そろそろ時間なのだ。
「ま、独り言ダスからな」
もう一度言い置いて、デカパンは鼻歌まじりに海帝廟を出て行った。残された紫松は、自分の左手の薬指を見る。
「おれも、指輪を……?」
愛を形にして。
だが決して渡しはしない。
藍松は不安定な世界に確かな安定を手に入れようとしていて。
紫松は不安定な世界で崩れる可能性のある地盤を持ちたくない。
指輪で縛りたい人間と縛りたくない人間の平行線はつらいばかりだ。だが、持っているだけなら――――。
風が吹いて、紫松の髪をなぶった。
もうすぐ陽が落ちる。
*
昨日とは逆に、今度は藍松を自分の部屋に引き入れた。
「い、いちま」
なにかを言いかけた唇を奪う。藍松の背中を扉に思い切り押しつけながら舌を絡めていると、彼は嬉しそうに目を細めた。
「積極的なんだな、今夜は」
「…… たくさん、したい」
そう言いながら両手を絡める。指の間に指を入れて、まるで恋人がするようにてのひら同士をキスさせた。
覚えろ、覚えろ、これが藍松の指だ。
過たずサイズを覚えて、心の安寧を手に入れろ。
そんなものは気休めに過ぎないことを頭のどこかでは知っていて、だが気づかないふりをすることにした。
壊れないために。
応えないために。
「あ、ん……ッ、」
なにも知らない藍松が与え始めた刺激を、喉を反らすことで受け入れた。
名前をつけたくない夜が、また始まる。