君の神様になりたい その夜、奉行所勤めであるおそ松は少し忙しかった。
以前から不審者の目撃情報が上がっていたのだが、巡回中に当の不審者が目の前に現れたためである。
その男は色のついた眼鏡と杖を持ち、商店の前に積み上がった樽と樽の間でもぞもぞと動いていた。
「おい」
おそ松が声をかけると、男はあからさまに跳ね上がって驚いた。
「おお! びっくりしたなあ!」
「それはこっちが言いてえよ。一体なんだってこんなところに蹲ってんだ、あんたは」
「いやー、まあ、用事があってな」
「用事? 泥棒かい?」
男が立ち上がり、ふっ、と髪をかきあげる仕草を見せた。だが坊主なので一本も風になびくことはない。
「そう、それは、探し物さ……」
「そうか。じゃあ続きは牢屋の中で聞こうかね」
「ああああああああなんでええええ!」
男の襟首をひっつかみ、ずるずると引きずると叫び声が夜道に響いた。住人たちが出てくると面倒だと、おそ松は男の口に猿轡をかませる。
「モゴモゴモゴモゴモゴ!」
「はいはい、続きは牢で聞くからな」
そうして牢屋にぶち込んだ不審者は、格子をつかみながら必死に自分は怪しい者ではないと訴えた。
「違うんだ! オレは単に、探し物をしていただけなんだ!」
「それさっきも言ってたね〜」
「本当なんだ! 信じてくれ! あんた、龍を見たことはないか⁉︎」
「龍ぅ?」
突拍子もないことを言う不審者だ。「オレは龍を探しているんだ。噂だけでも聞いたことはないか?」
「龍って…… あの龍か? 空を飛ぶ? 絵巻物語の中に出てくる?」
「そう、その龍だ。だがオレが言っているのは現実に存在する龍だぞ! 聞いたことはないだろうか?」
いよいよ頭のおかしい御仁かと疑ったのだが、男は真剣な顔つきだ。
「お前さん、そのー、なんだ、葉っぱでも食ってんのかい」
「失礼な! だがそういう反応をするということは、ここいらには出ないってことなんだな」
男が肩を落として落胆した。どうやら酔狂で言っているのではないらしい。
そういえば、とおそ松は思い出した。
報告があったのだ。宿や茶屋で龍のことを聞き回っている男がいる、と。それがどうやら目の前の男のようだ。
「お前さん、この町に来てからあちこちでその龍について聞いているらしいな」
「おお、そいつは間違いなくオレだ。町や村に着いたら情報収集が基本だろ?」
「そうか。そいつを聞いて、お前さんを出してやるわけにはいかなくなった」
「えっ⁉︎ なんでだ⁉」
おそ松は牢屋の鍵束を指で回しながら、男を見下ろした。
「吹聴してもらっちゃ困る話だからだよ。お前さん、なんで龍のことを知っている?」
「ということは、この町じゃ御伽話じゃないってことだな?」
男の顔から表情が消えた。浮かべていた笑みも焦りも引っ込んで、ただおそ松をじっと、色のついた眼鏡の向こうから見つめてくる。
「同心さん、名前はなんていうんだい」
「ひとにものを尋ねる時は、自分からが基本だろぉ?」
「フッ、オレかい? 名乗る名前なんてねえさ、ただオレを知った人間はみんなこう呼ぶ。龍を探して三千里、風を斬るのはオレの仕事、人呼んで、グラサン風来坊、とな」
刀を奪われたくせに、その男は牢屋の窓から月明かりを浴びて自信満々にふんぞり返ってみせた。
グラサン風来坊。それが、この町にやってきた風変わりな男の呼び名だった。
*
牢屋の硬い床で、グラサン風来坊ことカラ松は目を覚ました。
「よく寝たな」
野宿生活も長いカラ松にとって、屋根の上で眠れるだけで僥倖だ。元気に身を起こし、いつおまんまが来るかとそわそわ足を動かした。
「元気だなあ、お前さん」
そこへ顔を出したのは、昨夜カラ松を捕まえたおそ松だった。おう、とカラ松は片手を上げる。
「いい朝だな! 飯はまだか?」
「図々しい野郎だ。出てこい、俺の部屋で食わせてやるよ」
そう言ったおそ松に通されたのは、広く立派な一室だった。きょろきょろと天井から畳までを見回しているカラ松の前に鮭を使った豪華な朝食が並べられる。
「おいおい、お前さんまさか、同心かと思っていたが御奉行様かい?」
「ま、そういうこった」
白米をかきこみながらおそ松が頷く。
「御奉行様自らが夜中に町に行って同心ごっこか。酔狂なんだなあ」
「柄じゃねえんでね。自分で駆けずり回ってた方が性に合うってだけだ」
なるほど、とカラ松は味噌汁を啜った。しばらく無言で焼かれた鮭をつついていたが、やがておそ松が口を開いた。
「お前さん、龍を探していると言ったな。昨夜は時間が遅くて詳しくは聞けなかったが、一体どこでその存在を知ったんだ?」
この朝食は、事情を聞くための席でもあるらしい。また牢屋にぶち込まれてはかなわないので、正直に答えることにした。
「そうだな……。オレが、生まれてから最初に見たものが龍なんだ」
「どういうこった」
「オレは、一年前まで目が見えていなかった。だがある夜、オレは空を飛ぶ龍を見たんだ」
おそ松が怪訝な顔になり、首を傾げた。
「オレは生まれつき目が弱かったんだ。ほとんど見えなかった目は赤ん坊の内に完全に光を失った。瞳を開くと怖いって言われてな、それからはこのグラサンをかけるようになった。杖をついて、それでも侍になれるんじゃねえかと思って剣の修行なんかをして暮らしていたんだが、一年前に住んでた村が焼けたんだ」
「そいつぁ災難だったな」
「オレには詳しいことはわからねえ。なにせ目が見えてねえからな、熱に気づいたのはもうすっかり炎が村を舐め尽くしてからだ。両親に逃がされて、村のみんなが燃えていく臭いを嗅ぎながら逃げ惑っていたら、だ。突然視界が開けたんだ」
突如として、カラ松の瞳は視力を取り戻した。
そこで見たものは夜の闇と炎の中、こちらを見下ろす龍だった。すぐにその姿はかき消えてしまったが、カラ松の網膜には真っ黒な二対の瞳と白い顔、紫の毛が生えた白い肢体が焼きついた。
「そこにな、ひとりの男が立っていたんだ」
真っ白な装束を纏った男だった。カラ松を見下ろしていた龍は目の前の男の身体に一度巻きついた後に消えたのだった。
カラ松は呆然と男を見つめた。人間を、人間の形としてはっきり捉えたのもこれが初めてだった。
「その男に、いまのはなんだと尋ねると、龍だよ、と答えた。だからオレはその龍をずっと探している」
「いや待て待て。話がすっ飛んだぞ」
おそ松が手でカラ松を制した。
「なんでいまの話で龍を探すことになるんだよ」
「その男は、この村を燃やしたのはオレだよ、と言ったんだ」
その言葉を聞いて、は、とカラ松は短く息を吐いた。呼吸の仕方を忘れてしまったようだった。
すぐ隣で家が燃えている。茅葺屋根と木でできた家はよく燃えた。がらがらと柱が崩れている音を聞きながら、カラ松はじっと目の前の男を見つめた。
「お、お前さんが、火を……?」
「そう」
静かに男はつぶやいた。
「哀れなもんだね。生まれ育った村はこれで終わりだ。お前以外は誰も生きちゃいない」
そう言って男は踵を返した。事態を飲み込めないカラ松はその後ろ姿を見つめることしかできなかった。
事実、村で生きていたのはカラ松だけだった。両親も、友も、知り合いもすべて焼け死んだ。村で無事な家は一軒もなかった。家も田畑も炭になり、カラ松の故郷は崩壊したのだ。
理由はわからない。だが村は確かに焼かれ、カラ松の目は治り、そして龍を連れた男がいたのだ。
夜の黒も炎の赤も初めて見る色だった。それからカラ松はいままで知ることのできなかった景色をたくさん見たが、脳裏にはずっとあの男と龍が居座っていた。
だから、旅に出たのだ。
「オレは龍を探している。正確に言えば、龍を連れたその男を探しているんだ」
「……お前さんは」
おそ松は口を噤んだ。言葉を探しているらしく、しばらく黙って瞳の虹彩を左右に動かす。カラ松は構わずに続けた。
「龍の話をすれば大抵の人間はなんだそれはと不思議がる。秘密のような反応をしたのはあんたが初めてなんだよ、御奉行様。なにか知っているなら教えてくれ」
「復讐のためか?」
箸を置いたおそ松がこちらを睨みつけてきた。
「村を焼かれて、復讐をするために龍を連れた男を探しているのか?」
「そう聞こえたか?」
「そりゃそうだろ。村を焼いたと自分で言っていた男を探しているんだろ? 独りにさせられた仇討ちをしようとしていると考えるのが普通じゃねえか」
「フッ、凡夫の考えることだな」
「はあ?」
率直な愚弄はおそ松を怒らせたようだった。眉と瞳を吊り上げたおそ松に、カラ松は噛んでいた白米を最後まで飲み込んでから立ち上がった。
「違う! オレの目はきっと、その男に治してもらったんだ」
光を得たと同時に龍を見た。カラ松は、あの龍が自身の目を治してくれたのだと確信している。
「オレが生まれて初めて見たのは、龍と男なんだ。だったら目の前にいるそいつがオレの目を治してくれたのだと考えるのが自然じゃないか?」
「医者にもできないことをそいつがやったと?」
「そうだ。龍なんて生き物は実在しないだろ? 盲いていたって知っている。龍なんてものは架空の生き物だ。だけど男はそれを連れていた。だったら医者にもできないことをやれる可能性だってある」
「仇かもしれないとしてもか?」
「村を焼いたのがあの男だと信じているわけじゃない。あの男が言っていただけだ。もしそれが事実ならどうしてそんなことをしたのか知りたい。でもそれ以上にオレは、あの龍に魅せられてしまったのさ。もう一度見たい。あの男に会いたい。それだけだが、理由にはならないのかい?」
「俺には……全然わからねえな。村を滅ぼされて、天涯孤独になった身で」
おそ松が戸惑っているのがわかる。カラ松は見えるようになるまでは声だけで相手の感情を測っていたのだ。感覚ですべてを見通そうとする癖は、視力を取り戻しても変わらない。
「他に縋るものがない」
そう言うと、おそ松ははっとした様子で目を瞠った。
「故郷もねえ。家族もねえ。手に入れたのはこの視力ひとつ。次に生きようと思ったら、手がかりとも言える男と龍を探すのは至極真っ当な理屈じゃねえか、なあ、御奉行様?」
なぜ村は焼かれたのか。
なぜあの男は目の前にいたのか。
村を焼いたという言葉が真実ならば、なぜカラ松だけが生き残ったのか。
それを知りたくて、旅をしてきた。
「教えてくれ、御奉行様。あんたの方は、なにを知っているんだ?」
カラ松は座布団からどき、床にあぐらをかいて頭を下げた。額を畳に擦りつけるカラ松をおそ松が見つめている気配がある。坊主頭のてっぺんにちくちくと視線を感じた。
やがておそ松は「わかった」と言った。
「頭を上げな」
再び視界に収めたおそ松は、瞳を細めて真剣な表情になっていた。そこにはもう不審者への警戒はなく、カラ松の存在をわずかに内側に入れてくれたらしい親愛の情が垣間見えた。
「とは言っても、俺も全部を知っているわけじゃねえが……知ってることは教える。とりあえず飯を食ってここにいな」
そう言って中断していた食事を再開させたおそ松に合わせ、カラ松は元気におかわりをしたのだった。
*
昼過ぎになって、部屋に来客があった。
おそ松に連れられて襖を越えてきたのはひとりの男で、名をチョロ松といった。おそ松の下で働く腹心の同心だということだった。
「おそ松から聞いたよ。僕もわけあって、龍を連れた男を探しているんだ」
「ほぉ……」
「そっちの事情は聞いた。でも悪いけどこちらの理由は言えない。ただ龍と男を傷つけようとしているわけではないことは信じてほしい」
「ふむ。まあいいだろう」
いざとなれば剣を振るえばいいと判断して、カラ松は頷いた。チョロ松は生真面目に頷き、早速だけど、と身を乗り出した。
「カラ松。お前さんの見た龍は、おそらくは陰陽師が使役する式神だ」
「陰陽師?」
突拍子もないといえばない話に、カラ松はグラサンの中の目を丸くする。
「そうだよ。馴染みがないかもしれないけどね。権力者は方角や縁起を気にするもんなんだ。占い、風水、面妖な力。なんでも使ってなんでもする」
チョロ松が懐から地図を取り出し、畳に広げた。この町の地図だよ、と前置きし、中心にある大きな屋敷を扇子で指差す。
「ここは、この町一番の呉服問屋、吉田屋だ。表向きはな。でもまあいろんな商売に手を出して金を蓄えてる。金が掘れると聞けば人を遣って金を掘り、女郎屋だって営んでるって話だ」
「吉田屋……」
「この吉田屋が、内で陰陽師を飼ってるって話なんだよ」
扇子でとんと屋敷を叩いて、チョロ松はぎゅっと眉を寄せた。
「それは、なにが問題なんだ?」
カラ松は首を傾げた。その問いに、チョロ松ではなくおそ松が答える。
「独り占めってのがな……。ここはそれこそ、金儲けのためならなんでもする。吉凶を占うだけならいいかもしれねえが、もっと悪いことをしているかもしれねえ」
「もっと悪いこと?」
「そうだ。人殺し、人身売買、それ以上のことを。疑惑はあるが、尻尾がつかめねえんだよ、だから俺たちも迂闊には手を出せない」
「カラ松。お前の言葉を鵜呑みにするなら、お前の村には陰陽師が来て、式神の龍を使って村を焼いたことになる」
チョロ松に言われて、カラ松は数秒遅れてはっとした。おそ松が頷く。
「お前の村になにか襲われるようなことがあった。心当たりはねえのか?」
「……オレには、さっぱり……」
両親は毎日働きに行っていたが、目の使えないカラ松にはろくな仕事は回ってこなかった。村がなにで生計を立てていたか、自給自足できていたのかすら知らないのだ。
首を振ったカラ松に、さしてチョロ松は落胆した様子もなかった。
「そうか。でももし、お前の村を襲ったのが吉田家の陰陽師だとしたら、お前が探している人物がこの屋敷の関係者かもしれないってことになるだろ」
「そうだな」
「そこでだ! どうだ。お前さん、屋敷に忍び込んでみないか?」
ばん、とチョロ松が畳にてのひらを押しつけた。その瞳はきらきらと輝き、鼻息を荒くしてカラ松を見ている。
「もちろんこちらからも支援はする。僕はね、いざとなったら使い捨てることができる駒を持ってあの屋敷を調べたいんだ!」
「チョロ松ぶっちゃけすぎ~」
興奮して本音を隠さないチョロ松におそ松が呆れた。もう少し建前ってものを、と説教を始めようとするおそ松を、カラ松は手で制した。
「いいだろう」
カラ松はかけていたグラサンを指で押し上げた。チョロ松とカラ松には、さぞ美しく意志の強い瞳が見えたことだろう。
「このグラサン風来坊、その役目、あ、引き受けようじゃあねえか!」
「なんで歌舞伎風?」
「ほんとに? いやー、助かるなあ! 死んでもね、僕とおそ松でもみ消してあげるから大丈夫だよ!」
「勝手に~?」
チョロ松の不穏な言葉など気にする必要はなかった。これでカラ松は、あの夜の龍に、あの男に一歩近づくのだ。そのためならば、カラ松の方だって手段は選ばない。
――――そう、思っていた。
「ひいいいいい高い狭い暗い」
天井の梁にしがみついて、カラ松は弱音を吐いた。その尻がぴしゃりと鞭で叩かれる。
「ギッ!」
「ほら、声を出さない!」
鞭を振るった当の本人であるトト子がそう囁いてきた。
「自分から行くって言ったんだから、今更弱音はなしだよ」
隣の梁にへばりついていたチョロ松が忍び装束の下から言う。
あの日から数日明けた深夜、カラ松は忍び姿のチョロ松と、そしてくの一のトト子と共に吉田家の屋敷に忍び込んでいた。
この数日で気配を消す、高いところに登るなどの簡単な訓練は受けたが、実践となると話は別だ。屋敷の者たちに見つからないよう隠れながら内部を探索するのは思った以上に心臓に悪かった。
「しっかし、広い屋敷だな」
チョロ松が言うと、トト子が頷いた。
「屋敷内部の地図を作るだけで精一杯かもしれないわね」
「……チョロ松は忍びもしているんだな……」
同心、忍びのふたつの顔を持っているのかと感心すると、トト子が首を横に振った。
「この愚かなシコ松は、女の着替えや風呂を覗くためと私の私物を盗むために忍びの技術を身につけたのよ」
「そう聞くと全然凄くないな……」
「ふたりとも、静かに……!」
都合の悪い話を、指を唇の前に立てることでチョロ松が遮った。見ると、蝋燭を持った男が廊下をひたひたと歩いている。
「身なりが整っててちょっと気になるわね……。私、追ってくる」
その男を追い、トト子がさっと身を翻した。音もなく男の後を追うトト子の身軽さは、ここ数日で技術を教え込まれたカラ松から見れば神業のように見えた。
「トト子ちゃんひとりじゃ心配だな……。カラ松、お前は見取り図を作ってて」
すると、チョロ松が紙と筆を押しつけてトト子の後を追っていってしまった。おいひとりで心配なのはオレの方じゃないのかとカラ松は梁の上で呆然とする。
「嘘だろ……」
梁の上を器用に歩くことなどできないので、芋虫のように這いずりながらカラ松は天井を移動し、ひとけのない場所で廊下に降りた。暗く、月明かりも届かない場所だったがカラ松には関係のないことだ。
空気の移動がおかしな場所がある。下に降りたのはそれが気になったせいだ。
「なにかあるな」
見取り図に道を書き込みながら、慎重にカラ松は移動した。確かに吉田屋の屋敷は広く、造りが複雑だった。廊下の曲がりくねり方、部屋の配置を一見で把握しきるのは不可能だろう。それほど隠したいものがあるのか、というのがカラ松の感想だった。
かすかに産毛を刺激する風の流れに沿って歩く。こういう時は目を閉じた方が感覚が冴えるものだ。そのためにグラサンをかけている。
壁に手をついてカラ松は歩いた。慎重に、音を立てないように静かに、だ。
時折誰かの話し声が聞こえる。耳を澄ましても他愛ない話ばかりでチョロ松たちに報告する必要がないように思えた。
だが、その中で、ひとつ。
『そろそろ食事を持って行く時間だ』
『そうか。今日はお前か』
という会話があった。ひたりと足を止め、障子の横に身を隠し、続きを聞こうとした。
その時だ。
「曲者だ――――ッ!」
そんな叫びが屋敷に響き渡った。ご丁寧に半鐘まで鳴らされ、カラ松が聞き耳を立てようとした部屋からも誰かが飛び出してきた。
まずい、とカラ松はとっさに逃げようとしたが、足音があちこちから近づいてきて逃げ場所がない。かくなる上は戦うかと腰に差した杖を握ろうとした時だった。
「こっち」
ぐい、と手首をつかまれ、暗い廊下を引きずられた。かち、という音が聞こえたかと思うと突きあたりだったはずの壁が横にずず、と開く。
「な……」
カラ松の手首をつかんだ人間は、その壁の中に入り、カラ松のことも引き入れた。壁はすぐに閉じて、真っ暗闇の中を引っ張られる。
目はすぐに慣れた。カラ松とそうは変わらない背格好の男が前を歩いている。誰何をしようかと思ったが、ここで手を離されても困るので黙ってついていった。
やがて廊下は途切れ、薄く蝋燭の明かりが灯った部屋に出た。そこは座敷牢と呼ばれるべき場所だった。カラ松がおそ松に入れられた牢よりは少し広く、畳も敷いてあった。
「お前……」
カラ松の戸惑いを含んだ呼びかけに、目の前の男が振り向いた。
蝋燭の小さな明かりで男の顔が映し出される。
「お、お前、お前!」
信じがたいものを見た衝撃で、カラ松の呼吸は乱れた。心臓が早鐘をうち、ぶわっと全身から汗が噴き出る。
「お前、お前さんは、あの夜の……!」
「お前じゃない」
息せき切って詰め寄ろうとしたカラ松を、男は腕を振り上げて止めた。
「一松だ。この曲者野郎」
これはなんの因果だろうか。
それとも、運命なのか。
一松と名乗った男の顔は間違いなく、カラ松が追い求めていたそのひとのものだった。
一松は座敷牢に入り、そのまま畳の上に正座した。膝の上に丁寧に両手を置き、まぶたを伏せる。
「ほとぼりが冷めたら帰れよ。そのままでいるとおれの食事係が来るかもしれないから、どっかに隠れるか、おれと一緒に牢の中に入って隅っこで小さくなってろ。明かりが少ないから気づかれない」
「お前さんそれは……オレを匿ってくれるってことなのか?」
「まあね。曲者だそうだけど、おれには関係ない」
「オレがお前を斬るとは考えないのか?」
「好きにしたらいい」
一松が瞳を開き、カラ松の腰にある杖を見た。
「それ、仕込み刀だろ。斬りたいなら斬ればいい。おれはお前の仇みたいなもんだから」
その言葉に、カラ松の背中が燃えるように熱くなった。血が沸騰する感覚が興奮なのか怒りなのかもわからない。
「お前、じゃあ、やっぱりあの夜の……!」
覚えている。
覚えてくれて、いる。
「……ああ」
ゆっくりと一松が頷いた。
「ほんの一年前のことだ。忘れたりしないよ」
「一松と言ったか」
カラ松は座敷牢の扉を開け、中に入って一松の隣に詰め寄った。そこでふと気づく。
「あれ……」
「なに?」
「なんでこの扉、開くんだ?」
どう見ても牢屋の扉には鍵がかかっていない。廊下からここへカラ松を連れてきたのも間違いなく一松だ。ということは、一松は閉じ込められているのではなく閉じこもっているのだろうか。
「ああ、それ。ここの鍵、中から開けるの簡単なんだよね。でも鍵を付け替えられても面倒だろ。だから黙ってる、っていうか騙してる」
「それって……自分から入ってるってことか?」
「まあ、そうとも言うね」
なんでもないことのように一松は頷いた。カラ松は言葉を失い、好き好んで暗闇の中に住む一松の心情を慮ろうとした。
「なぜ……」
だがそんな一言しか発することができない。一松はカラ松の戸惑いを察して、少し困ったような顔になった。
「お前は、なにをしに来たの」
おれを殺しに?
そう続けられ、カラ松はぐっと刀を握った。鞘から刃を抜きたいかどうかは手が決める。
けれどカラ松の右手は動かなかった。
「……殺したいわけじゃない」
だから、そう結論づける。
「あの龍と、お前を、探していた」
「なんのために?」
一松からは静かな問いかけが続く。知りたいことも聞きたいこともたくさんあるのに、カラ松からはなにも発することができないのがもどかしい。
一年だ。光を取り戻してからの生きる目的を目の前にしているのに、自身がどうしたいのか、ここに来てわからなくなっていた。
「龍を……見たくて」
「どうして」
「お前さんに会ったら……なにかを得られるような気がしていた。なにかが変わるような、そんな気がして……」
おそ松にはあんなにも真っ直ぐに言えたのに、口ごもってしまう。
どれも理由ではないような気がした。それなのに、どれもが理由であるような気もした。自分でも把握できない感情をうまく言語化できなくて、カラ松は両手を無意味に動かしてしまう。
「一松、オレは……」
「――――屋敷が静かになった」
ふと、一松はカラ松から目を逸らしてそうつぶやいた。与えられた時間を切られたような感覚に、カラ松は慌てた。
「見つかる前に、もう帰りな」
「だけど……!」
「お前ではない者が見つかったなら、それはお前の仲間じゃないの?」
はっと息を呑んだ。曲者だ、という言葉は、とりもなおさずトト子かチョロ松が見つかったということだ。
一松の手が伸びてきた。カラ松の襟首を掴んだかと思うと、見かけによらない強さで座敷牢から追い出される。
床に転がったカラ松を、一松は冷たい瞳で見下ろしていた。
「また、また、来る!」
緩慢な動作で後退りをしながら、カラ松は未練がましくそう言った。
一松の表情はもう見えない。だがかろうじて蝋燭に照らされた唇が、言葉を紡がずにこう言った。
「龍は、もういない」
揺らいだ炎がふと消えた。
一歩も進めなくなったカラ松は、暗闇の中で立ち尽くし、やがて逃げ帰るしかできなくなったのだった。