ラヴァーズ・パラドックス(仮)「いすみん、ドッペルゲンガーって知ってる?」
「はあ?」
補習のプリントから目を逸らした四葉が言った。オレ、四葉、和泉の三人しかいない教室は静かで、呆れた声がいやに響く。さっさと終わらせて帰りたいんだけど。視線を和泉に向ければ、目を伏せてため息をついた。
「四葉さん、またその話ですか。それよりも手を動かしてください」
「だってそーちゃんが……」
「何、お前の相方と何かあったの?」
問題文を読みながら尋ねると視界に四葉の顔が割り込んでくる。思わず身を引いて椅子から落ちそうになった。軽い気持ちで聞くんじゃなかった。
「うわ、びっくりした!」
「いすみん聞いてくれんの⁉ 実はさー」
「まだ聞くって言ってないだろ! 先にプリント終わらせろよ!」
「……亥清さんのせいですからね」
「なんでオレ⁉」
「そーちゃんが昨日帰ってきた時に……」
オレの話を聞く気もなければ、口を挟む余裕もないらしい。仕方なく耳を傾けてやることにした。和泉も同じらしく、シャーペンを机に置くのが視界の端に映る。
「帰ってきた時?」
「寮の前で俺のこと見たんだって。でも昨日は俺の方が帰るの遅かったし、スケジュールはそーちゃんも知ってたはずだしさ」
「ええ、MEZZO″が揃わない仕事は珍しいですしね」
「なのに俺がいるって変じゃん?」
「そうかもだけど、人違いじゃないの?」
オレが言うと二人とも首を横に振った。なんだよ、和泉まで。口を噤んで頬杖をつく。四葉は宙を見ながら話を続けた。
「絶対俺で間違いないって言うんだもん。俺を見間違えるはずないって」
「七瀬さんが言うならともかく、逢坂さんですしね……酔っているわけでもなさそうでしたし」
「で、ドッペルゲンガーかもってこと?」
「そう!」
「なんでそうなるんだよ」
「だってそれしかねえじゃん! 俺がもう一人いるって考えたら超こええし……」
「ないない。そんなのいないから」
真面目に聞こうとして損した。もう一度プリントと教科書に目を落とすと遮るように四葉が手のひらを振る。マジで邪魔。手首を掴んで押さえつけるとでかい悲鳴があがった。
「うわぁ! いすみん何すんだよ!」
「もう話は終わっただろ! 続き!」
「そうですよ。終わらないと帰れないんですから」
「……でもわかんねえし……」
背もたれに身体を預けて四葉は天井を見上げた。確かに問題は難しいけど。いや、ドッペルゲンガーのことかも。まあ、オレは関係ないしどうでもいいか。
「わからないことを減らすのが勉強なんですよ」
「物理なんか勉強して何がわかんだよ。運動方程式なんて絶対将来使わないじゃん」
「でもやんなきゃ帰れないのは変わんないだろ」
「そうだけどさー……いおりん、ちょっと見して」
「またですか。わからないところは教えますから、自力で解いてください。公式はこれです」
和泉に教科書を差し出されて四葉は顔を背ける。その先にあるオレのプリントに目を向けた。嫌な予感がする。
「えー! いすみん!」
「オレも見せないからな! 自分でやれよ」
両腕でプリントを隠すと、薄情者! って悲痛な叫びが響く。教えてやるだけ十分優しいと思うけど。四葉だけ放って帰るわけにもいかないし、結局協力する羽目になるんだろうな。もう和泉もオレも慣れっこだし。
「勉強なんか大っ嫌いだ!」
「いいからさっさとわかるところだけでも書いてください」
「教科書読めば埋められるとこもあるだろ」
こことか、って指さしてやればしぶしぶペンを握って書き始める。それを応援するように外から大きな掛け声が聞こえてきた。今日練習してるのはサッカー部か、陸上部だったかな。こんなに暑いのに大変だなあ、なんて他人事のように思う。せめてあいつらが帰るまでには終わらせたい。
「……もうわかんねえ!」
「はあ、ここはこの公式を使って……」
でも、多分無理だろうな。目標は昇降口が施錠されるまでにした方が良さそうだ。
ため息をついて四葉のプリントを覗き込む。八割がた空欄のそれを見て、しょんぼりと肩を落とす四葉も見て、和泉と一緒に小さく笑った。
結局帰るのは日が暮れてからになってしまった。きっとばあちゃんが心配してる。街灯に照らされた道を走って、明かりの漏れる玄関を勢い良く開けた。
「ただいま!」
「おかえり、悠」
玄関の扉を開けると頭上から声が降ってくる。いつもの穏やかなばあちゃんの声じゃなくて、どこか弾んだ低い男の声だ。
「なんでうちに虎於がいんの⁉」
はっと見上げると虎於が腰に手を当てて立っている。楽しそうに目を細めて、豪快な笑い声を上げてから腕を組んだ。
「たまたまお邪魔してたんだ。今日は補習だったんだろ? 遅かったな」
「四葉に教えてたら時間かかっただけ。……来るなら言ってくれればよかったのに」
「急な話だったからな。腹減ってるだろ、今日の夕飯は肉じゃがだぞ」
「マジ⁉ 手洗ってくる!」
靴を脱いで洗面所へ向かうと、今度は背後からでっかい笑い声が聞こえる。こんなに機嫌良さそうなのは少し珍しい。何か良いことあったのかな。
首を傾げながら手を洗って、湯はりをするため浴室に入る。スイッチを押すのはいつもオレの役目。帰った時に押すと、ご飯食べた後すぐにばあちゃんが入れるから。
その前に栓をしようと湯船の蓋に手をかける。蓋? おかしいな、いつもは開けっ放しなのに。
「あれ?」
蓋を開ければ、そこには適温のお湯が入っていた。湯船の七割くらい、いつも入れる量だ。なんでだろう。ばあちゃんがもう入れたのかな。
「あらぁ、はるちゃんおかえり」
「ばあちゃん!」
がらっと浴室の扉が開いて、聞き慣れた優しい声が聞こえた。振り返るともうパジャマに着替えたばあちゃんがいる。もう寝るの? それとも体調悪いとか……?
「ばあちゃん、どうしたの⁉ 何かあった⁉」
「ああ、虎於くんが入らせてくれたのよ。夕ご飯も今日は自分が用意するからって言ってくれて」
「……え?」
「お湯もはってくれて、ご飯も作ってくれてねえ。悪いからいいわよって何回も言ったんだけれど、押し切られちゃって」
「虎於がやったの⁉」
信じられない。あの虎於が? お湯はりはまだしも、料理なんてからっきしなのに?
そんなはずない。嘘をついているに違いない。それなのに、ばあちゃんにその素振りはない。いつも以上にニコニコ嬉しそうに笑うばかりだ。それは虎於が色々やってくれたからなんじゃないかって結論に行きついてしまう。そもそもこんな嘘をつく理由もわからないし……。
「おい、手洗いは済んだか?」
良く通る声がオレの耳に届く。ばあちゃんも聞こえたようで、軽い足取りで居間に向かった。オレも蓋を元通りに閉めて後に続く。廊下には甘辛い肉じゃがの香りが漂っていた。さっきまでは気にも留めなかったのに、虎於が作ったかもしれないと思うと急にそわそわする。
「手を洗うだけなのに随分遅かったな。……ああ、風呂も出たのか。湯加減はどうだった?」
「とってもいいお湯だったわ。ありがとうねえ」
「そりゃよかった。二人とも座れ、飯が炊けてるぞ」
そう言って虎於は台所に消えていく。ばあちゃんは何の疑問もないようで、いつも通りの位置に置かれた座布団に座った。オレも定位置で胡坐をかく。肉じゃがの入った大皿と、冷やしトマトにキュウリの浅漬け。全然虎於らしくないラインナップだ。気取ったサラダでもあればどこかで買ってきたと納得できたのに。少し青いトマトと曲がったキュウリは、間違いなくうちの庭で採れたものだろう。
「……これ、ばあちゃんが作ったんじゃなくて?」
「違うわよ。ちゃんと虎於くんが……」
「信じられないか?」
にやり、と不敵な笑みを浮かべながら虎於は戻ってきた。両手でお茶碗とお椀が乗ったお盆を持っていて、あまりのミスマッチに吹き出しちゃった。トウマと巳波が見たらどんな反応をするだろう。思わずスマホで写真を撮った。
「うわ、何をするんだ」
「だって、こんな虎於超レアじゃん。グルチャに送ってやろっかな」
「やめろ!」
バン、と勢いよく置かれたお盆が音を立てる。大きな音につい目をぎゅっと瞑った。ちょっとからかうだけのつもりだったのに。こんなに怒るなんて思わなかった。……もちろんオレが悪いんだけど。
「……はるちゃん」
「わかってる。……虎於、ごめん」
恐る恐る目を開けて表情を窺うと、想像とはちょっと違っていた。眉間に皺を寄せてるんじゃなくて、眉尻を下げている。怒っているっていうより、悲しそうっていうか、不安そうな顔。
「虎於?」
「ああ、気にしてない。大声を出して悪かったな。ただ、他のやつには送るなよ」
「……うん。消しとく?」
「お前がそうしたいなら」
また意外な返事。てっきり撮られたのが嫌なんだと思ったのに。他の人に送らなければいいの? オレが持ってる分には、虎於は気にしないってこと? よくわからないなあ。
「じゃあ、とりあえずそのままにしておこうかな。ついでに料理の写真も撮っとこ」
「別にいいけど、珍しいものでもないだろ」
「激レアだよ」
虎於が作ってくれたんだから。ぱしゃっと一枚写真を撮って、すぐに画面を消した。
「さあ、いただきましょう? せっかくのお料理が冷めちゃうわ」
「うん。ご飯と味噌汁もありがと」
「はは、おかわりもあるからな」
渡された食器を受け取って左右に置く。三人分置かれたのを確認してばあちゃんが手を合わせる。オレと虎於も同じようにした。
「いただきます」
三人揃って言ってから、取り分け用の菜箸に手を伸ばす。それを横から虎於が掠め取って、ばあちゃんの取り皿を持った。じゃがいも、お肉、人参、玉ねぎ、しらたき。具材を一つずつ丁寧に盛り付けて、そっと優しくばあちゃんに返す。ありがとうねえ、って声がいつもより柔らかい。
「悠も」
右手を差し出してきたから、おずおずと虎於に小皿を渡した。いつもは進んで取り分けたりなんかしないのに。首を傾げて虎於の様子を眺める。ばあちゃんの分と同じように盛り付けたけど、じゃがいもとお肉がひとつずつ多かった。
「これで足りるか?」
「おかわりするから大丈夫。ありがと」
なんでもないように虎於は笑う。受け取った小皿は温かくて、いい匂いがより強く漂ってくる。虎於が自分の分をよそうのを待ってから、一口大に切ったじゃがいもを口に入れた。
いつもの味だ。ばあちゃんが作ってくれるのと同じ、ちょっと甘めなうちの肉じゃが。ゆっくり食べる夕飯の雰囲気も、料理の味も、全てがいつも通りだ。
ただ、そこに虎於がいるという一点だけが異質だった。