【ミザカイミザ】タイトル未定人は願いを語るとき、誰に受け取ってほしいのだろうか。
さしずめそれは、ため息の如く自然と出てしまった泥にも似て、もしくは、恋焦がれた末の灰なのかもしれない。それを知るのは、いつになろうか。
月の輪郭に、オレは抱かれていた。嫋やかに、冷たく、寂しい。
孤独ではない気はした。だがそれを保証するものは、誰一人として居ない。
眼を覚まさなければ───漠然とした、朝起きるように自然と夢の微睡の中で掴む意識のように、手を、どうにか。
天城カイトは、そうしたかった。
だが、彼の腕は上がらない。まるで己の体ではないような、鋼鉄の檻に魂が詰め込まれたかのように。指を象る感覚も、腕を持ち上げようとする筋肉の軋む熱も無い。
ましてや、己が今見ている瞼の裏は、果てない闇の先なのか、それとも遠い遠い記憶の先なのか。
自分自身という境界を示すものを、カイトは掴めなかった。ああ、ならばこの意識も、オレであるのかさえ分からない。
しかし、それは大事なことなのだろうか。
もしかしたら、これはオレの夢のひとつなのかもしれない。天城カイトがどこかで見た記憶の海辺を歩むように、その砂浜の砂は白くはないだろうけれど。
嘗て読んだ本だったか、記憶の岸辺は生命の座礁する墓場とも辿ったことがある。
母なる海に沿うように、我々は、ここにて夢を終えるのだと。
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「兄さん、身体の具合はどう……?」
少年の小さな声が、医療ベッドに横たわる人物へとかけられる。彼が起きているのを知っていて声を掛けているが、体に障らぬようにするその気遣いは、少年――ハルトの育まれた優しさから生まれた音だ。
その幼き眼の先には、唯一の兄であり、嘗ては自分の為に奔走してくれていた大好きな家族の、天城カイトが居た。
春先の日差しに溶け込む滅菌済みの白く爛れたシーツに寝かされている青年の肌はひどく、青白い。端正な顔は、以前に増して頬が少しやつれている気がする。
無理もない。彼は――天城カイトは、月の地で一度、死んだ。
死んだと思われていた、が正しいのだろうか。
三つの世界の未来を巻き込んだ戦いの末に、天城カイトは人々の希望を繋いで、息絶えた。そう、間違いなく、ハルトや父親のDr.フェイカーでさえも、目の当たりにしていた。
今でも瞼を閉じれば、あの時委ねられた言葉と共に、受け止めきれない悲しさが心を支配するくらいに。しかし、どういうことか彼は、帰還を果たしたのだ。
ヌメロンコード。
願いの光、アストラルにより多くの命は地球へと戻り、世界の均衡も保たれたが、天城カイトは月において同じ銀河眼使いであるミザエルとの死闘の果て、月へ赴く時に負傷したことにより、人の身を滅ぼした。
本来ならばあの地で永久に眠っていただろう。だが、長い長い眠りの底から、次に天城カイトの意識が捉えたのは、今いるこの病室の白い壁と、家族の顔。
あの地で果てたことを、後悔しているわけでもない。同時に、地球へ戻り、再び生を齎された事実が嬉しくないわけでもないが、不可解で摩訶不思議な事実に困惑しているといった方が正しいのだろう。
緩やかに開けたはずの瞼がひどく重い。暗闇に慣れてしまった視界には、世界の光と病室の無機質な白が痛む。
ハルトに心配を掛けまいとカイトは口を開こうとしたが、あれだけ昔は饒舌だった舌も乾いてしまったらしい。かすかに動かされた唇の間からは、溜め込まれた二酸化炭素が、空気を濁しただけだった。
カイトの様子を見てか、それとも彼の表情を見て察したのか、ハルトは緊張した表情を緩ませ、「大丈夫だよ、そのまま寝てていいからね」とカイトにかけらたシーツを直して椅子に戻る。
凍傷、壊死、過酷な環境下においての組織損傷。それまでの身体の酷使における心機能の低下と、視力の著しい低下。
ありとあらゆる代償が天城カイトを蝕んでいたが、確かにこの心の臓は鼓動を燃やしている。
こうしてこの地に居ることだけでも奇跡に近いと、トロンがフェイカーと共に見舞いと診察に来た際に零していたのを聞いた気もするが、あの時は夢の最中でもあったような気がして、おぼろげにしか覚えていない。
身体を起こそうにしても、そこまで体力も回復していなければ、あらゆる筋組織に伝達が行き届いていないかのように、下半身がびくともしないのだ。
歩けはするだろうが、追い付いていないのだろう。食事をするにも経口摂取はまだ難しく、点滴の管が何本も繋がれたままでは、説得力もない。
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ようやく身体を起こすまで回復したカイトが、初めて外の景色を目の当たりにした時、もはや春の花々は散ろうとしていた。
季節は一つをめぐり終え、初夏を告げる青々しい葉が木々に揺らいでいる。空の青さも、風の通りも晴れやかだ。
幾許か感覚のリハビリを兼ねて、嘗て使っていたデッキを弄ったり、手指を動かしてみてはいるが、どうにも言うことを聞いてくれないようだ。
指の関節を曲げようにも少ししか動かず、握り締めるなど到底難しかった。
食事の際にもいまだ家族の手助けがないと上手くいかず、オレはこんなだったろうかと、夜眠れない時に過る悩みに押しつぶされそうで。
どうした、天城カイトはこうも弱かったか、と。瞼の向こうで誰かが揶揄った気がしたけれど、その声の主を思い出すことはできなかった。
懐かしいのに、顔が浮かばない。近しいはずなのに、わからない。
お前は、誰だったか。
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そして親族以外との面会が解禁されたころには、遊馬や彼の家族、友人なども増え天城カイトの病室はより一層賑やかに、五月蠅いほどにまで明るくなった。
最初はまくしたてるような遊馬の怒涛な質問責めに、呆れを通して変わらぬその姿に安堵と、彼を諫める小鳥の姿。
後ろからあからさまに面倒くさそうな態度をしつつも、人情を捨てきれない男、凌牙の制服姿。
日常が在るとは、これほどまでに幸福なことなのかと再認識するには十分すぎた。
だが、どうしてだろうか。この場を取り巻く空気に、違和感がないと言い切れなかった。
嘗てはバリアン七皇として、我々人類の敵として立ちはだかっていた彼らが人間として生を受け、この地に居ることに対してではない。
それはヌメロンコードとアストラルによってもたらされた奇跡だ。現にこうして、カイトもこの地球へ再び生きることができるのもそのおかげであるのだから。
では、また別の何があるというのだろうか。
カイトが記憶をたどるように、瞬きをして再び視線を彼らへ向ける。
そうだ。何かが、足りない。
カイトが問おうと口を開きかけたとたん、それまで見守る側に徹していた凌牙が遊馬の頭を軽く小突く。
「そろそろ日が暮れんぞ、今日は帰っとけ」
「ちぇ~!しゃーねーな、カイト、ハルトまたな!」
不服そうではあったが彼なりに気遣っていたのだろう、その朗らかな顔には未だに遠慮が見え隠れしていたのも、カイトは気づいていた。
片手を上げて、ああ、と返せば満足そうに彼は駆け出していった。今度来たときは、病院は走るなと付け加えるのを忘れないでおこう。
どうしようもねえなと傍らで零す凌牙には、やはりどこか楽しげで、つきものがおちたような柔らかな色が佇んでいる。
仕方ない。彼もバリアンとして、そしてバリアン達や世界を担うものとしての、役割と、戦いを駆け抜けたのだ。
カーテンの隙間から夕陽の色が病室に浸透する。
夜の帳の色が混ざり、かすかな肌寒ささえも覚えるこの時間に、時として世界は揺るがされる。
「凌牙、どうした。お前も帰る時間では……」
「―――なあ、カイト」
その声は、唐突に。先ほどまであった柔らかさなどなく。
だがどうしてか、切り出した凌牙の瞳には、躊躇いにも似たよどみがある。
一変した空気の中で、ふざけるほどカイトも愚かではない。凌牙が切り出すのを受け入れる応えの代わりに、視線を合わせた。
少しの時間の後、重く開かれた言葉の意味を理解するのに、少しばかり、困惑した。
「ミザエルを知らねえか。―――アイツだけだ、未だに、帰って来ねえのは」
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[ミザエルの帰還]
あの時の戦いを思い返してみても、どうしてか思い出せるのはミザエルの声ばかりで、顔は朧げであった。
銀河眼の時空竜の咆哮も、月面から望む地球の美しさも、宇宙の孤独にも似た柔らかな暗闇も。
全て今感じたことのように思い返せるというのに、どうしてか、彼の顔や瞳の色を思い返せない。
歯がゆかった。
悔しさにも似た、焦燥が常に付きまとい、喉の奥に張り付くようで、掻き毟りたくなる苛立ちにも近い。
そんなことをする暇よりも、先に行くことを進める方が、何よりも先決であった。
月に何があるというのかなど、誰にもわからない。
きっと行ったとしても、今度こそ奇跡など起こらないかもしれない。
天城カイトは、二度死ぬ恐れもある。
だが、それがどうした。
騒々しいくらいに賑やかで、訪れた平穏の中に足りないピースが、確実にあるのだ。
オレがオレであるように、銀河眼使いとして居たように、共に銀河眼が在ったからこそ決闘者で居れたように。
オレが一人では、お前が真の銀河眼使いだと誇れないだろうが
そうやって投げつけてやる筈の、ミザエルが居ない。
そう。寂しいのだ、あれ程に魂を揺さぶった戦いを経た相手が居ないことも。
銀河眼同士が惹かれ合うように、魂をぶつけ合った相手が居ないことも。
「まだ、お前の話を聞いていない―――」
約束にも満たないあの言葉を、今持っているのは誰だろうか。
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ラボの中に散らばる資料の山が崩れようとも、気にしている暇などなかった。
既に夜を何度巡っただろうか。
カイトは度重なる仕事の隙間を縫っては、再び月へと赴く研究を進めていた。
何のためにとか、無謀なことをとか、再び生きて帰還できる保証などないではないかと、合う人々に諭されたが、どうでもよかった。
いいや。もう既に覚悟をしていることに対して、天城カイトを知るものにとってはそれは無意味だと、理解されていた。
最早何日寝ていないのかも、朧気であった。
時折無理やり寝かしつかせようとオービタルが邪魔をしてきた気がするが、ラボの入り口を封鎖してからはさすがにあきらめたようだ。
「――っ、」
眩暈にふらつきを覚え、額に手を当てる。
深呼吸を経て、まだやれると、展望台を兼ねたラボの天井を見上げた刹那、宙が煌めいた気がした。
始めは疲れによる錯覚かとおもった。しかし、流星などこの時期には現れるはずがない。
カイトが目を細め、それを視線で追えば星の輝きにしては、煌々と煌めく金色の星。
尾を引いて流れゆく先は、地平線の交わる海辺の向こう。
気が付けばラボを飛び出し、駆け出していた。
身体を突き動かしている衝動が、足を前へ運んでいる。息などとっくに限界だ。
しかし、追わなければならないと。
今見失えば、永遠に会えない気までしたのだ。
海岸沿いの、夜の空と紺碧の海が交わる地平線の果て。
波が弾ける際には、煌びやかな星の輝きが散りばめられている。
不思議な光景に、海に流れ星が落ちた錯覚さえ覚えた。
カイトが引き寄せられるように、間際まで歩めば、誰かが最果てを眺めていることに気が付いた。
夜空の深さにも負けない金色の髪。
気高ささえも感じる佇まいと、横顔から覗くどこか寂しそうな色の青年。
カイトは彼を見つけた途端、声も上げることを忘れ、彼の腕を必死につかんだ。
振り向きざまに捉えた顔は、カイトに今度こそ彼の顔を映し出した。
宙の青さにも似た、銀河の眼。嘗て見たドラゴンのようでいて、しかし、彼にだけある柔らかな瞳。
「―――ミザエル……!」
彼の名を、呼んだ。
「……カイト?」
不思議そうに紡ぎだされるその声色に、思わず笑ってしまいそうだった。
そう問いかけたいのはこちらの方だと、怒鳴れたらどれほどよかっただろうか。
しかし、カイトの姿を目に入れるなり、信じられないとでも言いたげに、彼の両肩を掴んだと思えば、泣き出しそうな顔でもう一度ミザエルは声を震わせる。
「カイト……カイトなのだな……」
「、ああ。ミザエ―――」
声は最後まで紡げなかった。カイトの返答は、海に飛び込む音に揉み消されてしまった。
咄嗟にミザエルに抱きしめられた衝撃を受け止めきれず、カイトはバランスを崩し二人共々なだれ込んだのだ。
バシャンと飛沫と同時に海水の冷たさを浴びる。カイトが思わず文句の一つでも言おうとしたが、ミザエルが自分を抱きしめる腕の力に、何も出なかった。
彼の顔は肩に埋められうかがうことができない。だが、それを受け入れることはできる。
上半身を支えるために海底へつけていた片手を、ミザエルの背に回し、少しばかり撫でてやれば。
とうとうこらえていたものが堰を切ったかのように、嗚咽交じりの呼吸が、耳元で零れだす。
大丈夫だと教えるように背を叩く。何度も呼ばれ、それに何度も答えてやる。
カイトは、ミザエルを見つけたのだ。