翳の王「駄目だ、伏黒!!俺が行く!」
反射を繰り返す光にぼやけ始めた虎杖の視線の先に、蹲った伏黒のシルエットがあった。
演壇上からの強烈なスポットとあるはずのない光源からの凄まじい光の乱反射、網膜に灼き付く不快な白が氾濫する。
「くそ…」
微かな禍々しい呪力の流動のみが僅かに光の迸る床から感じられる。
凄まじい速さで光の壁の中を移動する呪力を、同じく呪力で追うが虎杖の反射神経をもってしても未だに捉えられずにいる。
ヒカリアレ
狂騒的な、けたたましい笑い声とともに溢れた白い悪意はいまや世界を塗りつぶし、影という影を駆逐していた。
くそ。
なにか手はないか。
こんな時いつも冷静且つ的確な戦略を叩き出す伏黒の術式が無力化されてしまった。
全方向からの光の氾濫で、完全に影が失われ、ここに辿り着くまで活躍した渾も光に灼かれるように消えた。伏黒の影法術は完全に封じられたのだ。
バリエーションに富み、応用もきく伏黒の術式が使えないとなると戦略の幅はぐっと狭まる。
耳障りな笑い声があちこちから聞こえる。呪力が少しずつ分散しているのか、気配の移動測度はさらに速さを増している。
呪力の残す軌跡のような残穢を追うだけでせいいっぱいだ。
その時、光の鎌が見えぬスピード、見えぬ鋭さで伏黒の上腕部を一閃、二閃と切り裂いた。
遠目にも血が噴き出したのがわかった。
目も眩むような白い世界に伏黒の鮮血。
花が開くように飛び散る。
「ふ…しぐろ!!!」
怒り、焦燥、恐怖、様々な感情が濁流のように押し寄せ、虎杖を混乱させようとした。
どうしたらいい、伏黒。
「うるせぇ…聞こえてる、静かにしろ」
膝をつき項垂れた、しかしいつもどおり不遜な声色が虎杖を嗜めた。
その声の、あまりの落ち着きと静謐に虎杖は息を飲む。
悪意のみで構成された皚々たる世界を、まるで従えているような威圧がじわりと伏黒から染み出しているようだった。
強い気配。
虎杖は目を瞠った。
すげぇ。
拍動が期待と楽しさに満ちた鼓を打ち始める。
なんだこれ。
何かが起こる前触れのような。
膝をつき。
血を流し。
頭を垂れ。
世界に絶望する男の形で、伏黒が低く、しかし、存外優しい声音で言った。
「やるぞ、虎杖。集中してろ」
いつのまにか組まれていた手印。
伏黒の中で、濃密に、緻密に、繊細に練られていく呪力、その速さは神速。
知らずその集中力に釣られて虎杖の五感も鋭敏になった。
空気の震え、磁場の反転、本来なら可聴域外の低い周波数の鳴動。
伏黒の、術式に愛された指が複雑な印を数個凄まじい速さで結んだ。
そしてその唇が、笑みの形に割れて、ひらいた。
「拡張術式…神寄せ・式、鵺の儀」
夜が。
残酷な夜が愚かしい光を侵掠する。
「わ…」
伏黒の横顔が、白い闇の中ゆっくりと仰いていく。
深く長い調息。
吐息からも、呪力が洩れる。
溜息が出るほど美しい伏黒の呪力が、伏黒の輪郭を満たしていく。
虎杖は身震いした。
虎杖の目の前で、伏黒の背中をやぶるように巨大な翼が構築されていく。
肩羽。
小雨覆。
小翼羽。
雨覆。
正確なタイムラプスのように翼が広がっていく。
つばさという生き物が進化する過程を見せられているかの様だった。
息をするのを忘れるほど魅了されていくのに、それに比例するように集中が高まっていくのが虎杖は不思議だった。
白い悪意を暈してくすませる、伏黒の洩れ溢れた呪力のせいだとすぐに知れた。
暖かいのに清冽。
ひんやりと冷たく、艶冶な薫り。
伏黒の髪の色、伏黒の影の色した巨大な翼が、さいごの風切り羽を伸ばし終わった。
ばき、と伏黒の左目元をごく薄い骨のようなものが覆い始めている。
「そっか!…鵺か!」
幾度も光の刃が伏黒を切り裂こうと挑んでいたが伏黒の呪力はことごとくそれを跳ね返す。
まるで無尽蔵であるかのように湧き、おりあげられる呪力が、回りの空気を歪ませ、静圧していた。
伏黒恵という名の異形が、ゆっくりと立ち上がった。
背筋を伸ばした綺麗な立ち姿は伏黒そのままに、身長を遥かに凌ぐ巨大な漆黒の翼は強く羽搏き、不浄の光を揺るがす。
イクゾ、イタドリ
頭の中に直接話しかけられて伏黒をみれば、
少し顎をあげ、左の広角をあげて、笑っていた。
ハラウゾ
夜の翼が何度か強く羽ばたく。
ふわり、と伏黒の決して軽くはない体が持ち上がり、舞い上がる土煙のように呪力が踊り、小さな稲妻が走った。
その黒い純正の呪力を厭うように光の壁から耳障りな絶叫が響く。
二度、三度。
呪力は濃く満ち、固形を成し、光を駆逐し始めていた。
影の申し子が翼をもってその場を支配する。
光の中からかろうじて人形をとどめた肉塊が姿を表した。
ずぶ。
人形の肉塊は巨大な十字架を背負い、うなだれて現れた。
足をひきずり、うめき声をもらしながら、伏黒の作り出す闇に足をとられながらよろよろと歩く。
嗄れた声ならぬ声が絞り出された。
Eli, Eli, Lema Sabachthani
光が強く呪霊に集約していく。
伏黒が徐に自分の胸元に手を当てた。
ずるりと引き出されたのは、呪具、夜半の迅雷。流された呪力を最適化された切れ味、刀身へと自動変換する、伏黒のお気に入りの刀型呪具だ。
伏黒が握り込めばそれは大抵打刀の形状を取るが、今は刀身のない柄と鍔だけの意匠だ。
ヤレ
イタドリ
自らの胸から取り出した夜半の迅雷を伏黒は虎杖に投げた。
「かっけぇな!ふしぐろ!」
トップスピードで駆け出して、逆手で刀をうけとり思うさま呪力を流し込んだ。ぱり、と呪力が雷電のように弾け、みるみる刀身の形を作り出す。形を成しつつある夜半の迅雷に虎杖は体重をのせていく。
自然と虎杖の唇に笑みが浮かんだ。
伏黒の匂いが濃い。
伏黒の影の匂いだ。
いい匂い。そして素直だ。
なんの抵抗もなく虎杖の呪力を受け入れていく。
「いい子だね、力貸してな?」
悠然と、翼ある影の王が見守る中。
斬。
薙ぎ切の一太刀が、光を裂いた。
虎杖の豪快な呪力を受けて、大太刀の如く伸びた刀身が呪霊と、光の牢獄を破った。
幾百、幾千の悲鳴、そして断末魔。
「すげーな伏黒!!それなに??合体?!」
伏黒はにこ、と笑うとゆるい羽搏きをやめ、その場に舞い降りた。
一件のあばら屋。
崩れかけたその農家の奥に小さな祭壇がある。
仏壇の形をした祈りの座、崇拝の聖母がえがかれた掛け軸。
「あとで詳しく教えてよ、ふしぐろ」
ナニヲ?
「その姿のことと、今日の呪霊のこと」
破れた天井から木洩れる光が、黒い天使を目まぐるしく照らしていく。
「伏黒、綺麗だね」
バカカ。
伏黒は不貞腐れたように言い、そしてその翼で恋人を抱き寄せた。
「本当に綺麗。さすが俺の恋人」
翳の王がとうとう噴き出した。
その頬を捕まえて強引に口付けると、その舌が呪力を纏わせた。
その呪力がこんなにかぐわしいのは。
虎杖は、異形になってすら強く美しい恋人に嘆息した。