彼女が、舞台袖から俺の腕をひいて歩く。
その横顔に明らかな緊張を感じとり、そわりと心配になる。
しかし心配になったからと言って、今の俺に出来ることは少ない。
なぜなら――
「《あの、オレ何処へ連れていかれるんですか?……まさか、逮捕?!》」
「違うよ! あなたはもう解放されたでしょう?!」
今、彼女と一緒に歩いている男は『俺』ではなく、先程までとある事件の犯人にさせられかけた青少年だからだ。
1月7日、夜公演。
そのスケジュールの中にある空白の5分には、毎年関係者の間にある種の緊張が走っていた。
【3つの鍵】
廊下を進む間じゅう、ふたりはずっとこんな調子だった。
誤解も甚だしい言動をしている《彼》を彼女がなだめすかしている、という図は端から見ると奇妙に映りそうな気がしていたが、どうもそういう気がしたは俺だけらしい。
彼女から見た《彼》はひどく可愛らしいそうなのだが――実際、初演の後に寄せられた感想には『かわいい』が多く、正直複雑な思いをしたのだけれど――今この瞬間だけは、そんなやりとりも命取りだった。
俺が楽屋で着替えて舞台袖に立つまでの、およそ5分。
その間で脳内の端っこで背を丸めて座っている俺を見つけて連れ出さなければならない。
彼女に与えられた役割はそんな、責任重大なものだった。
「さ、入って」
「《うわあ?!》」
鍵を使わずに楽屋の扉を開け、背中から押された。ばたんと戸が閉まる音がする。
ちょっと彼女にしては強引かもしれないが、場合が場合なので黙っておいた。というかまだ口は《彼》に乗っ取られている。
恐らくここまでで1分半。さあ、次は。
「ごめんね蒼星くん。えいっ!」
「《わあっ!!》」
半ば突進されるようにして彼女が俺の胴へと腕を回した。
もしも擬音が聞こえたならば、ここは『どしーん』辺りだろうか。
そんなことを呑気に考えていると、とんとん、と肩を叩かれる。
思った通り、《彼》がいた。
『《交代なんでしょう?》』
『うん、そう決めていたからね』
明日のお昼にまた会おうね。
うん、と無邪気に笑う《ダドリー》へと微笑みかけて目を閉じる。
もう、腕は自分の意思で動くようになっていた。
キャストの誕生日は夜公演の後に、スペシャル・レビューショウを行う。
その施策を始めるにあたり、俺の憑依(と皆は呼ぶが、別に俺の意識がなくなっているわけではない)には対策が要るという話題になった。
普段の稽古や公演の際にもなかなか役が抜けきらないことのある俺が、果たして今の役を脱いで、かつ全く違う役を次々と出来るのか? ということだ。
後者は曲数を絞ることを対策としたものの、問題は前者だった。
多少役が残っていてもレビューをやりきれる演目にしようということになっていたのだが、結果はこれだった。
ダドリーは憑依した結果カンパニーの建物を出ていった全科のある役(俺もあとで聞いて驚いた)だというのに、と小言モードに入りかけた俺を制したのは、彼女だった。
曰く『何か、きっかけを作ればいいんじゃないかな』と。
知った体温。柔らかな感触。
それから、過去に俺が渡した香水の香り。
意思を持った腕が、彼女をもっと近くへと引き寄せる。
「ただいま」
「おかえりなさい、蒼星くん……あの」
「わかってる」
この時点で3分。
あと1分後には楽屋を出なくてはならない。
腕をほどけば、彼女が急いで何かを取り出した。
「ブルースターのブローチ、ここにつけるからね」
「うん、ありがとう」
俺に宛がわれたイメージフラワー、その花言葉は『信じあう心』。
この作戦はお互いを信頼しているからこそ出来るものだった。
扉に手をかけて微笑む彼女の肩を引き寄せ、髪へと口づける。
「いってきます」
ふわり、香ったそれに心が高鳴るのを感じながら残りの1分を使いきった。
ここからは、俺の時間だ。
「いってらっしゃい!」
――行こう。
脳内にいる《彼》が、得意げに微笑んだ気がした。