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ふわりと初夏の風が吹く。青海の節のファーガスは、まだ幾分涼しい。伴侶たるディミトリが自分の故郷は避暑地だと言っていた意味を理解すると、ベレトは足元の如雨露に手を伸ばす。
「先生。すまない、待たせたな」
王城の廊下から中庭を繋ぐガラス戸を引きながらディミトリがやって来た。ベレトは彼に「大丈夫。ちょうど花の世話をしていたから」と笑いかけると、ディミトリはまたすまなそうに謝ってくる。そんな彼を半ば無視して、ベレトは東屋に用意してあったテーブルへと彼を連れて行こうととその手を引いた時だった。
「……? どうかしたか?」
「いや…先生、その髪……」
「あっ…ちょっと整える時間がなくてな…。暑苦しいだろう?」
ディミトリに背を向けたベレトの変化にいち早く気づく伴侶に、慌てて襟足に手を伸ばす。ディミトリとはもう三節近く会っていないせいか、少しの外見の変化を彼は見落とさない。現にベレトの長く伸びた襟足に気づいた彼が、それに触れるのにベレトは慌てて返事をする。しかしディミトリは「そうではなくて…」と前置きをする。
「すごく雰囲気が変わるのだな。お前の髪色は神秘的だから、襟足が長いとなんだか見惚れてしまう」
するり、ディミトリの武人特有の硬い手がベレトの襟足を撫でる。指通りよく絡む薄緑色の髪は珍しく、そういえばベレトは女神の加護を受けたからこの色に変わったのを思い出す。少しだけ伸びた襟足を弄ぶように触れると、不意に「ぁ…」と甘い声が漏れた。
「っ…、せんせ」
「くすぐったい…」
いつの間にか首筋にまで触れてしまっていたのだろう。ベレトは顔を赤らめるとディミトリの手から逃れる。もう公に伴侶として国に公言をしたのに、いつまでも付き合いたての恋人の様な可愛らしい反応をする二人はある意味この国の名物と化していた。(しかし本人達は知らない)
ディミトリはすまないも謝るも、ベレトは顔を赤らめたまま、ディミトリを見やると「嘘…」と呟く。その言葉に疑問符が浮く。
「本当は…、切れなかった……切りたくなかったんだ。前に君が、綺麗な髪だと褒めてくれたから」
思い出すのはベレトに最後に会った日だろうか。同じ寝台で眠り、ベレトより早く目覚めたディミトリが彼を腕の中に抱きながら、朝日に照らされたベレトを見て思ったのだ。きらきらと輝きを放つ髪に触れながら「先生の髪は、本当に綺麗だな…」と寝ぼけながら言っていた様な気もする。そんな事をベレトに聞かれていたなんて…、彼もまだ夢の中にいたと思ったのにとディミトリは顔を赤く染める。
「聞こえていたのか…。すまない、あまりにも綺麗で見惚れていたから…」
お互いに顔を赤らめて、顔を向き合わせるも何だか恥ずかしい。赤毛の兄貴分がいたら絶対に茶化されていただろう。ディミトリは恥ずかしそうに視線を逸らすベレトをちらりと一瞥するも、やはりいつもと少しだけ違う雰囲気にどぎまぎしてしまう。そして気づくのは、ベレトがディミトリの為にその髪を伸ばしているという事実だ。
「なあ、先生」
「なに…─────っ、ふ、んぅ……」
「俺の為に、この髪を切らないでいてくれたのか…?」
すり、襟足を撫でてディミトリが甘い声でベレトに問い掛ける。無防備な首筋を撫でられ、ベレトは慌てて口を手で抑える。傭兵時代は鎧や外套などの装備をしていた為か、大司教となった今は首元が幾分無防備な服装になっている。ベレトはディミトリの手を掴まえると「そこ、あまり触るな……。くすぐったいから…」と訴える。しかし熱の籠もった瞳で射抜かれ、言葉が続かない。
「っ、ぁ……でぃみとり…?」
「は……、せんせいがいけないんだぞ…。久しぶりに会う度に綺麗になっていくのだから……」
顎を掬われ、唇を攫われる。軽く口づけるなんて優しいレベルではない、獲物を前にした捕食者の如く唇を重ねられる。性急に伸びてきたディミトリの舌に絡まれ、粘膜同士が触れ合うとベレトの身体がよろける。それをディミトリが片腕で抑えると、余裕のない顔でそう吐き捨てられる。ぎゅっと腕の中に閉じ込められれば、ベレトは破顔した。
「…ディミトリだって」
「え?」
「ディミトリだって、久しぶりに会う度にかっこよくなってる…。この前も、謁見に来ていた令嬢が溶けた顔で君を見ていた」
そう語るベレトに、ディミトリは顔を赤くするも「それとこれとは話がまた違う…!」と流れを戻す。ベレトを再び腕の中に閉じ込めると、夏の暑さのせいなのか照れ隠しで感じる暑さなのかがわからなくなってきた。それはベレトも同じなのか腕の中で「あつい…」と愚痴るのに、ディミトリは腕の力を緩める。
「…夏だから汗で首にくっつくし…。やはり切ろうかな…」
「せせせせんせい、勿体無いから早まらないでくれ…! はっ…、そうだ! 髪紐で結んでみると良いかもしれないぞ」
ディミトリが慌ててベレトを止めると、流石の剣幕に目を瞬かせる。しかしそれはすぐにふわりとした笑みに変わると「…そうだな。そうしてみようかな」と言うのに、胸がきゅんと苦しくなる。ベレトの笑顔は士官学校の頃から好きだったが、想いを通じ合わせた今見せられると格別だ。ディミトリはベレトに会う度にどきどきで死ぬのではないのだろうかと自問自答を繰り広げていると、「ディミトリ」と呼ばれる。
「そろそろお茶にしよう。大修道院で菓子も焼いてきたから」
「そ、そうだな…。そもそも先生に会いがてら、休憩をしてこいとドゥドゥーに執務室を追い出されたのだった」
東屋に用意してあったティーセットは夏用に冷茶だった。ガラス製のポットを見つめると、涼し気な雰囲気を醸し出している。ディミトリは大人しく椅子に座ると、茶の用意をするベレトを盗み見る。やはり久しぶりに会う度に、ベレトは綺麗になっている…────伴侶の贔屓目と言われても構わない程だ。ほぅ…、思わず感嘆の息を吐くと流石のベレトも「ディミトリに視線だけで殺されそう」なんて物騒な事を口にする。
「せ、せんせい…。それはいくら何でも酷いのではないか…?」
「え? あ、そういう物騒な意味じゃなくて…うーんと……恥ずかしくてだな…。お前の目は真っ直ぐだから見つめられると照れてしまう」
あと単純に顔が良い…────というベレトの呟きはディミトリに届いていなかったが、隠すように冷茶をディミトリの目の前に出す。焼いてきた菓子を見ながら、もうちょっとさっぱりしたものにすれば良かったと思うと冷茶のカップ近くに置いてあったディミトリの手が震えている。ベレトは慌ててディミトリを呼ぶと、彼は胸に手を当てていた。
「もう…、先生が愛おし過ぎて胸が痛い……」
「えっ……待ってくれ。お前は本当に大袈裟なんだから」
爽やかな風が頬を撫でるも、久しぶりの逢瀬に中庭にはベレトの笑い声が響く。そんな可愛い顔をして、今夜覚えておけよとディミトリは思いながら熱を覚ますかのように冷茶を一気に煽った。
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