Famous Last Word『――――――。』
眩い光に溶けるように佇む背中。肩越しに首だけ振り返った誰かが何かを言っている。
耳を欹てても一音も拾えずに、ああきっと大事な事だったなずなのにと焦燥感が押し寄せる。
逆光で顔が見えない。それでも、彼は微笑んでいたとそう思った。
ぶわりと息すらままならぬ程の突風が、砂を巻いて吹き抜けた。
周りの群衆がわぁとか、きゃあとか短い悲鳴を上げて立ち止まる。
それも刹那の事で、人の流れは直ぐと日常の営みに戻っていく。
日本一有名なスクランブル交差点を行き交う雑踏の間を縫う様に歩く。
何かに追われるように脇目も振らずにあくせくと足早に人々は過ぎ去っていく。
通り過ぎる人々の顔を見るとはなしに確認しながら男は違う違うと胸の内で呟いた。
何を或いは、誰を探しているのか、それすら判然としないまま。
何か途轍もなく大切なものを失ったという喪失感と、それはここに居た(有った)という朧げな記憶のみを頼りに
時間が許せばこの交差点に来てしまう。
アスファルトに照り返された日差しが熱い。シャツの袖をまくり、額に滲んだ汗を拭った。
視線を上げると、前方から頭髪の片側を刈り上げたエキセントリックな見た目の女とポニーテールの女子高生が談笑しながら歩いてくる。
「お父さん最近リハビリ頑張ってて、この間、遂に手を開ける様になったの!」
「そう。一時はどうなる事かと思ったけど、最近は精力的みたいね。安心した。」
「うん。お母さんいなくなっちゃって寂しいけどいつまでも塞ぎ込んでもいられないからって――」
すれ違い様に拾った会話。何か覚えがあるなと思った。
しかし、彼女たちとは面識はない。ならば気の所為なのだろう。
不自然にならない程度に、少しだけ振り返って2人の背中を見送る。
やはり、どこかで見た気がした。
繁華街を抜けて、大通りを逸れると飲み屋街へ足を向けた。ネズミの迷路の様な隘路を通って自販機の前で立ち止まる。
缶コーヒーを買おうと銘柄を物色していると、その自販機にあり得ないものがついていることに気づいた。
狸の尻尾だ。
「おい。」
低く顰めた声をかけると、ボフンと音をたて、煙を上げながら自販機が首に注連縄を巻いた狸の姿に変わった。
クフクフ鼻をならし、キュイキュイと喉の音でか細く鳴く。
『アレま。見つかってもた。』
「こんなとこで何やってる。あぶねぇぞ。巣に帰れ。」
男にとって妖怪を見ることはそう珍しいことではなかった。
とは言っても、都会の喧騒の中では滅多にお目にかかれるものでは当然ない。
恐らく、この狸は仲間とはぐれてしまった個体だろう。
『子分ども連れて東京まで物見遊山や〜てきたんはえぇけど、人ぎょうさんおるわ、広いわではぐれてしもてな。ワイ腰いわしてしもてるから、あんま動かれへんし、どないしよ思てたとこなんよ。』
鳴き声の後ろから被さるように意識に流れ込む人語は関西弁のようだった。
然して困っている様子には見えないが、見た目の緊張感のなさ故かもしれない。
二つ足で立つのが厭わしくなったのか、顔を擦りながらちょこんと地べたに座り込み、男を見上げる姿は動物好きならば心動かされるだろうし、なんならはぐれてしまった子分とやらを助ける手伝いもしたかもしれない。
しかし、生憎と男は動物好きではなかったので、手伝いを申し出る代わりに北を指差した。
「こういう時は大抵高台を目指すもんだ。北に行ってみろ。木が生い茂った丘に神社がある。子分たちも目指してるかもな。」
男がそう言うと狸は折り目正しくお辞儀をして、お礼と称してお守りを寄越してきた。断る理由もないので受け取る。
曰く、『失せ物が見つかる』のだそうだ。ならば、自分で持っておくべきではないのだろうか?
そう思い、返そうとしたが兎に角持っておけと押し切られた。
「あー……なんだ。もし見かけたら、神社に行くよう言っといてやるよ。」
『そら、ご親切に!おおきに!』
何やらしてやられた様な気もするが、元来、狐狸妖怪は狡賢く人を化かすものだ。
お礼という概念を解するだけ、この狸はマトモ。男はそう思うことにした。
そう大して美味くもない無糖の缶コーヒを堤防の土手に腰をかけながらちびちび飲む。
学校帰りと思しき女子学生三人がゆったりとした足取りで歩いている。
「麻里進路どうすんの?」
「一応、進学で考えてる。奨学金貰える目処もついたし。」
「両親、出してくんないの?」
「そういうわけじゃないけど…」
「親と仲悪いってわけじゃないんだよね?」
「うん。凄く良くして貰ってるよ。学費も気にしなくて良いって言われるけど。でも、やっぱりどうしても申し訳ないって思っちゃうんだよね。」
サラリとボブヘアを靡かせて苦笑混じりに友人に受け答えする少女の顔。
眉尻を下げて優しく細められ緩く弧を描く目の形。持ち上がった口角。
――良く似ている。
そう思った。でも、誰に?思い出せない。
ザザザと草を揺らして、風が吹き抜ける。
砂埃に目を眇めて、刹那に過る残影。
眩い光に包まれ輪郭を失った背中、肩越しに振り返る彼の顔。
眉尻を下げて、優しく細められ緩く弧を描く瞼。そこから覗く榛色がキラキラと――
形の良い唇が笑っている。そして何かを言うのだ。
彼はなんと言っていた。
――ありがとう。
お前は誰だ?
シャツの胸ポケットに入れた狸に貰ったお守りが熱を持っている。火傷しそうな程に熱い。
慌てて取り出すと、掌を焼かれて思わず取り落とす。
燃え上がるお守りを見つめていたら、喉元で蟠っていた何かが、閊えが取れたかの様にすっとまろびでる。
「……暁人?」
発した名前は、そのまま風に攫われて誰にも拾われることなく空へと溶けていった。