Go little arrowいらっしゃいませ。ありがとうこざいました。
こちら温めますか?お箸は何膳おつけしましょう?レジ袋はご入用でしょうか?
入れ代わり立ち代わりする客をベルトコンベアで捌く様な流れ作業。
昨今はレジすら非接触型が提唱され始め益々作業が脳死化していくなと暁人は感じた。
暇な時間は、店頭に並ぶ商品の数が減っていれば補充して、商品の在庫状況をチェックし、在庫が怪しければ店長に確認して注文。
レジ横のホットスナック類も出方を見て、油の臭いに辟易しながら揚げて
何もすることがなくても、取り敢えずはきちんと働いていますという顔をしてモップをかけたりして、ようよう時間を潰す。
「お疲れ様。上がっていいよ。」
「お疲れ様です。お先に失礼します。」
そうして漸くバイトから解放されても、暁人の足はなかなか自宅のアパートに向かいたがらない。
妹が待っているのに。そう思うと、ずんっと腹の底が重くなる。
妹を厭っている訳では無い。麻里の事は大切に思っている。
ただ、母が亡くなってからというもの、なんとも言えない気まずさの様なものが2人の間を漂っていて、その空気が暁人を苛むのだ。
恐らく、それは2人の死に対しての向き合い方の違いに起因している。
妹の麻里は悲しみを分かち合いたい。2人で乗り越えたいとそう思っているのだ。
暁人はというと、なるべく目を逸らしたいと思っている。
悲しんでいたら足が止まってしまうから。止まったら二度と進めない気がして。
その違いが、麻里に対する罪悪感を生んで妙な空気を醸成しているのだ。
罪悪感は日毎に増して、今や何となく妹を避けてしまう。
麻里も暁人が避けていることを薄々感じ始めていて、時折苛立ちと悲しみに満ちた目を暁人に向けることがあった。
深く重い溜息が暁人から漏れる。このままではいけない。わかっている。
だが、どうすればいいのだろう。共に悲しみに暮れてしまえば、麻里は恐らく立ち直れるだろうが――妹は何だかんだ暁人より強いから――自分は無理な気がする。
底なしの暗闇に堕ちたまま這い上がれない気がするのだ。
自分だけが堕ちていく――
深淵がぽっかり大きな口を開けて暁人を待ち構えている。
重力に逆らえぬまま、手足を広げて、ゆっくりと沈んでいくのだ。
コールタールのように、ねっとりと重く暁人の四肢を絡めとって、引きずり込むそれは、悲しみと不安の底なし沼。
そんな所に堕ちたくない。
ふらりと倦怠感に塗れた足が、目指した先は東京タワーだった。
何故だかは分からない。特に東京タワーが好きだという訳でもなかった。
東京という魔都の象徴だったからかもしれない。
観光名所と言えど、平日の夜10時過ぎともなると人影も疎らだ。
ベンチに座って、足元からライトアップされた幾何学模様で構成された赤い塔をぼんやりと見上げる。その外観は素直に美しいと思えた。
「ライトアップされた東京タワーって幻想的だよね。」
唐突に話しかけられて驚いた暁人が声の方を見遣ると、いかにも大きな商談帰りといった出で立ちのサラリーマンが立っていた。
皺ひとつないシャツに、ぴんと張った仕立ての良いシャークスキンのネイビーのスーツにウィンザーノットのネクタイは緑と白のストライプ。短い頭髪を嫌味の無い程度に遊ばせた、清潔感の溢れる四十絡みのビジネスマンだ。
「そ、そうですね…?」
困惑する暁人を見下ろしにこりと笑う彼の顔は整っていてハンサムと言っても差し支えない。
「隣いいかな?」
赤の他人の通りすがり。やけに馴れ馴れしい。空いてるベンチは他にもある。警戒するなという方が無理な話だった。
「どうぞ」とは応えたが、暁人は身を守るように体を小さくしてベンチの端の方へ寄った。
その暁人のあからさまな警戒行動を見てビジネスマンは朗らかに笑った。
「そりゃ、そうだよね。怪しいよ。君の反応は正しい。」
「はぁ…」
暁人の行動に対して理解を示しつつ、それでも隣に腰かけるのを彼は止めなかった。
怪しいと思っている相手に暁人から話しかける筈も無く、横目でビジネスマンの動向を窺う。
当のビジネスマンは『幻想的』と評した東京タワーを見上げている。
口元は緩く弧を描いていて、景観を楽しんでいることが見て取れた。
「何か心配事かい?」
東京タワーから目を逸らさぬままビジネスマンが口を開いた。
「え?」
「いや、何か思い詰めたような感じだったから。」
東京タワーから視線を暁人に向けて、彼が微笑む。「思わず声をかけてしまった」と。
そのたった一言に、じわりと目の縁が潤むのが分かった。
相次ぐ両親の死に対する不安と悲しみ。それを誰かと分かち合うこともなく平気なフリをして目を逸らし続けていたが、感情そのものを無視することは出来ない。
それは喉元まで――溺れそうになるくらいまで蓄積されていた事に暁人は初めて気が付いた。
「よし。なにか美味しいものを食べに行こう。」
出し抜けの提案に暁人が目を白黒させて応えあぐねていると「さぁ」と一足先に立ち上がっていたビジネスマンに促されて立たされる。
「好き嫌いはあるかな?」
「そんな、初対面の方とお食事なんて出来ません。」
いいからいいからと彼は追い立てるように暁人の背中を押して歩き始める。
「腹が満たされれば気分も多少良くなるさ。」
「当然、私の奢りだから安心して」そう笑う彼の顔には善意の色しかないように見えて、結局、暁人は彼と食事を共にした。
彼が選んだ場所はスペインバル。居酒屋よりは静かで、ビストロよりは敷居が低い。暁人を、連れてくるには絶妙なチョイスと言えよう。
暁人の第一印象通り、彼は遣手の営業マンだった様で話術に長けていて、さり気なく暁人の身の上話を引き出されてしまった。
彼はただ「大変だったね」と労う様に微笑みはしたが、多くの人が垣間見せる憐憫や、人の不幸に対する悪意のない好奇心の類は見せなかった。
それがひたすら、暁人には心地の良いものに思えた。
そんな出会い方の妙も手伝って、彼とは頻繁に会うようになっていた。
――こんなことは良くない。
暁人だって、そんな事は痛いほど感じていた。
彼との時間は心地がいい。彼は暁人を否定しない。暁人の欲しい言葉だけをくれる。
暁人の胸にぽっかりと空いた穴。それは埋まらないけれど、忘れされてくれる。
いつか絶対後悔する。取り返しのつかない事になる。そんな予感を抱えながらも会うのを止められなかった。
そしてある日、とうとう彼は5万円を差し出して暁人に「抱かせて欲しい」と言ってきた。
思った通りの展開になってしまった事に、暁人は苦笑いを浮かべるしか無かった。
彼の事は人間的には好きだった。しかし、そういった対象としては全く見ていなかった。
それでも、彼の目的には薄々勘付いてはいた。暁人としても所謂「パパ活」をしている意識があったからだ。
優しい微笑みの裏から「我々は共犯者だぞ」という暁人の罪悪感に訴えかける圧力は暁人に否やを許さなかった。
――あぁ、バチが当たった。
暁人はそう思って。こくりと一つ頷くしか無かった。
彼の後をついて、重い足取りでホテル街に入る。
ケバケバしい蛍光ピンクや紫の立て看板。客引きに同伴出勤と思しきギャバ嬢と客。ギラギラと目に痛いライティング。普段の暁人には程遠い世界だった。
ビジネスマンの足取りは淀みがない。もしかしたら、こういう事は慣れっこで贔屓にしているホテルがあるのかもしれない。
つくづく、己の愚かしさに臍を噛む。
身から出た錆。これっきりだ。犬に噛まれたと思って忘れよう。
そして、彼とは二度と会わない。自分に言い聞かせるが、嫌で嫌で堪らなかった。
一番奥まった所にあるホテルで彼の足が止まった。
そこは、他のラブホに比べれば配色に品があって、築年数も新しめのように見えた。
彼の腕が暁人の腰を抱いて、中に入るよう促す。とんでもない嫌悪感に冷や汗がどっと浮かんで、足に根が張ったかのように動かなくなった。
そんな暁人を、彼は幼子を叱るように窘める。
「ここまで来てそれはないよね?」
子供じゃないんだからと。
そうだ。この事態を招いたのは暁人自身に他ならない。全てを諦めて暁人が一歩踏み出そうとした時――
「おいおい。嫌がってる奴連れ込んでヤっちまおうってか?そりゃ、レイプってんだ。」
トレンチコートの鋭い眼光の無精髭。同じ四十絡みでも彼とは真逆の印象の男がホテル脇の路地でタバコをふかしていた。
草臥れた見た目ではあるが、不快感と怒りに彩られた顔は精悍だ。
フィルター付近まで吸ったタバコを地に落として火種を足で踏みしだく。
場違いにも暁人は「ポイ捨て良くない」と踏み潰されたフィルターと僅かに燃え残ったタバコの葉を見た。
「人聞きの悪い事を言わないでくれないか。私たちは合意の上だ。」
そうだよね?と彼が暁人の顔を覗き込む。
ポイ捨てに対する非難がましい気持ちが、暁人の心に冷静さを呼び戻した。
手渡されたまま無造作にズボンのポケットに突っ込んでいた5万円を突き返して「ごめんなさい」と頭を下げる。
「そんな、今更」と憤る彼に暁人は頭を下げる他なかったが、トレンチコートの男が「現行犯だな」と助け舟を出した。
「てめぇのやり口は分かってんだよ。」
じゃりっとアスファルトを踏んで男が2人に近寄って、暁人の腰を抱くビジネスマンの腕を捻りあげる。「痛い!」とビジネスマンが喚いた。
曰く、彼のビジネスマンは買春の常習犯で、しかもやり口が汚い。
心に問題を抱える少年や青年に近付いて、時間と労力を惜しまず巧みな話術で籠絡し関係を迫るのだという。そうして迫られた被害者達は不思議な事に何故か断れない。――時間をかけた刷り込み行為で断る事に罪悪感を覚えさせる。所謂洗脳である――
脛に傷があり――と思い込んでいる――無理強いされたわけでもない。男としての矜持もあって被害者は被害届を出さないし口を噤む。
「時間をかけて狙った獲物を釣り上げるのはさぞかし楽しいだろうなぁ。」
ビジネスマンの腕を捻り上げたまま、男が嫌悪感の滲んだ顔で「人が弱ってるとこにつけこんで、虫酸の走る野郎だぜ」と吐き捨てる。
「き、君に何の権利があって…!」と息巻くビジネスマンに「権利ならあるんだよ」と男がその鼻先に突き付けたのは桜の御紋が輝く警察手帳だった。
男はそのままスマホでどこかに連絡をして、暫くすると彼の仲間と思しき警察官が2名駆けつけて、ビジネスマンを連行して行った。
暁人も参考人として出頭しなければいけないとトレンチコートの男に言われて血の気が引く。
目に見えて顔色を悪くして、己のした事に打ちひしがれている様子の暁人を哀れに思ったのか、男がその背中をぽんぽんと優しく叩いた。
「なに。未遂だし、少し話を聞く程度で終わるだろうさ。」
彼の優しい声音に暁人の不安が少し和らぐ。
「自分の不甲斐なさに恥じ入る思いです…」
そして、再び去来した羞恥と惨めさに肩を落とした。
「お前に全く非がないとまでは言ってやれねぇが、あれがあの男の手口なんだ。弱ってるとこにつけこんで、上手いこと誑し込む。最終的には罪悪感で雁字搦めにして良いようにする。」
買春は結果に過ぎず、そこまでどう獲物を持っていくかの過程をこそ楽しんでいるのだと。
そう説明された流れは、確かにあのビジネスマンの手法であった。
擦れていなさそうな、実直な青年を狙うとも付け足されて暁人の顔が耳まで羞恥に染まった。
要は世間知らずと言われたも同義だ。
暁人が何を思ったか男には分かったらしく、その顔に苦笑いが浮かぶ。
「まぁ、世間知らずと言えばそれまでだがな。言い方を変えれば、育ちが良くて優しいって事だ。」
ご両親に愛されて育てられたんだな。
そう静かに漏らされた呟きは、なんのてらいもなく染み入るように暁人の心に入り込んだ。
ぽろりと暁人の目尻から一粒涙がこぼれたのを皮切りに次から次へとあふれでる。
彼のこの一言に比べたら、あのビジネスマンの言葉など虚飾に塗れた綺麗事でしか無かった。
グズグズとみっともなく鼻を啜って泣く暁人の頭を遠慮がちな手がポンポンと無でる。
その手は大きくて、何処までも優してくて暖かくて
ぽっかり穴の空いた胸が、小さく疼いた。