狂気の沙汰も金次第(らくがき)渋谷の街はもう日付が変わろうというのに不気味なほど明るい。裏腹に九井の気は晴れない。
結成から半年が立った今も関東卍會の動きは鈍い。関東事変で散り散りになったメンバーを引き戻すのにも時間がかかっている。元『天竺』からは三途春千代を加えた。出所間近の武藤泰宏は三途と親しい。武藤も労せず手に入れることができるかもしれない。
仲間集めの候補で一番に上がったのは元東京卍會のメンバーだった。実力は申し分ない上に、『マイキー』のこともよく知っている。ただ元東京卍會の面子を引き入れることは、総長である佐野万次郎から固く禁止されている。
それに九井の条件も難易度を上げる要因になっている。組織を巨大にするために、喧嘩が強いだけではなく人脈を持つことも重要視している。メンバーの年齢も上がるといずれ子供同士の喧嘩というわけにはいかなくなる。
そして、何より『マイキー』に火をつける男が欲しい。
関東卍會のスピード感がない原因はそれだ、こればかりは九井の金の力でもどうにもならない。金の力も万能ではない、それは嫌というほど知っていた。
だが関東卍會を創設してなお、佐野万次郎は今も何かを引きずっている、というのが九井の見立てだ。
その『何か』が、九井には見えない。
ただその『何か』がないと始まらない、ということだけはわかっている。
市場と同じだ。凪のようでは金を投入することも引き上げることもできない。
停滞を吹っ飛ばす戦争でも始まればいいのに、と九井は流れていく窓の外の景色を眺めていた。
その目が、歩道を歩く一人の男を捉えた。
「……おい」
窓の外を見つめたまま、九井は低く唸るように呟く。
「えっ……は、何スか!?」
運転手は尻を叩かれたようにびくっと肩を震わせる。
「止めろ」
「あ、ハイッ」
車は路肩に停まった狭い隙間に、一度も切り返すことなく収まった。さえない男だがさすがに元プロドライバーだ。
「お前は先に帰ってろ」
九井は運転手がドアを開けるのを待たずに外に飛び出し、そのまま駆けだした。早くしないと見失う。
「…………」
だが、九井は案外早くその後ろ姿に追いついた。
バーや飲み屋が軒を連ねる通りで、酔っ払いのように浮ついた足取りだった。
男はベストを着たその背中に長髪が垂れかかっている。右耳にはピアスが見えた。間違いない。
「三途」
背後から九井は声をかけた。
すると男は振り返る。長髪がふわりと舞った。
「ああ……九井か」
その顔は間違いなく関東卍會の一員三途春千代だった。
振り返った三途は九井の姿を認めると穏やかな笑みを浮かべる。
それに九井は激しい違和感を感じた。
こんな風に笑う男だったか?
いや、違う。
そもそもこんな顔だったのか、九井は知らないのだ。
「……今日はマスクしてねぇんだな」
九井が言うと、三途はにやっと笑う。
「ダセェから捨てちまった」
それに、九井は驚いた。
三途は眠る時ですらマスクを手放すことがなかった。理由は知らないが、命の次くらいに大事にしていた、ということは知っている。
だからこそあっさり手放すとは考えられない。
それに三途の瞳は熱に浮ついている。
こいつ、何かやりやがったな、九井はそう直感した。
きな臭いにおいがする。それは血の匂いにも似ている。
だが好機かもしれない。こいつに目を付けていて正解だった。
九井の相場師としての血が騒いだ。
***
九井は目についたバーへ三途を連れて入った。
不思議と三途は九井の後を素直に着いてきた。関東卍會の集会ですらそれほど親しく話したことはない。
九井は店を閉めかけていた店主を脅し、暗がりにある奥の席を陣取った。
「頼めよ、奢ってやる」
九井がメニューを差し出すと、三途はそれも見ずにジンジャエール、と言う。
「下戸なんだ、オレ」
フラフラしていたと思えば酒も飲んでなかったのか。
九井は、ああそう、とだけ言ってバーボンのロックを頼んだ。
しばらくすると店主は二人の異様な雰囲気に慄きつつ、グラスをテーブルに置いた。そしてそそくさとカウンターの奥へ引っ込んでしまった。
席の真上にある照明が二人を照らす。三途の長いまつげが頬に影を落とした。
男にしては綺麗な顔立ちだ。ただその口元に大きな傷がある。
九井はそう品定めしつつも、悪い気はしなかった。
かつて隣にいた乾青宗の顔にも火傷の跡があっただ。それは美しさを損なうどころかかえって引き立たせた。
傷跡を見ると彼と同じ顔をした女を思い出さずに済む、ということもある。
「で?こんな時間にあんなとこで何してたんだ、お前」
黙ったままの三途に九井は切り出した。
「さぁ、何となく……ぼーっとしてたらここまで来ちまった」
三途はぼんやりとした口調で喋る。
こいつ、薬でもやってんのか、と九井は思ったが問い詰めるつもりはない。
それに、三途には他に聞きたいこともある。
三途は東卍時代、佐野の下にいた。にもかかわらず武藤と天竺へ下ったくらいだ。何か確執があってもおかしくはない。
三途が何かを企てているのであれば黙って見過ごすことはできない。
今、出来上がったばかりの関東卍會に対するリスクは少しでも潰して置きたい。
九井にとってそれは、佐野やチームに対する忠誠心ではなかった。わが身の安全のためだ。
これまで、黒龍、天竺と過去に属したチームは全て崩壊した。もう放り出されるのはご免だ。
「……ここだけの話、お前マイキーと仲悪ィのか」
九井が尋ねると、三途は長いまつげを瞬いた。
ぼんやりしていた瞳がゆっくりと九井に焦点を合わせる。
「何だよそれ」
その顔に、九井は猫のような瞳を向けた。
「ずいぶんとマイキーについて嗅ぎまわってるみてぇだが」
「…………」
「……シラを切っても無駄だぜ」
九井はポケットからスマホを取り出すと、ファイルを開いて三途の顔に突き付けた。
これはつい先週、九井が三途の携帯から手に入れたものだ。
「今どき、データの抜き取りなんて機械さえあれば小学生でもできる」
「……オレの携帯から抜いたのか」
三途はスマホの画面に映し出された内容を無感動に見つめた。その瞳が次に九井に移る。
九井は三途の目を見てよどみなく話した。
「マイキーの写真、毎日撮ってある。これ、盗撮だよな?」
「…………」
「それにあいつの動向も時間までメモってる、食った飯までな。何に使うつもりだった?」
九井はグラスを押しのけ、小さなテーブルに体を乗り出した。
三途は天竺にいた。天竺を潰した『マイキー』を恨んでいても何の不思議もない。スパイには適任だ。
しかし、三途はスパイの疑惑を突き付けられても動じることはなかった。眉一つ動かさない。
女みてぇな顔の癖に意外に肝が太い、と九井は思う。
どう出るか、九井は動きをじっと見守った。
「……別に、何にも使わねぇよ」
三途は静かに口を開いた。
「はぁ?」
「……本当に誰にも見せるつもりはなかったのによぉ……」
三途は悲し気に目を伏せた。九井はかっとなり椅子を蹴って立ち上がった。
「てめぇ!もうちょっとマシな言い訳はねぇのかよ」
九井のこめかみに青筋が浮く。
三途は九井の怒声におびえるどころかぽかんとしている。長いまつげを瞬かせた。
「言い訳?言い訳なんかねぇ、これがオレの忠誠心だ」
「忠誠心?何……言ってやがる」
「オレの『王』がいつも完璧かどうか確かめてるだけだ」
九井が理解できずにうろたえると、三途は座ったまま見上げた。
傷口のある口元だげがゆっくりと動いた。
「そう、隊長を殺したのもオレの忠誠心だ」
「隊長……?」
「ああ、マイキーを裏切った馬鹿な奴だ」
九井は黙った。隊長、そうだ、東卍で武藤は伍番隊隊長だった。
そして今日は武藤泰宏の出所日。
九井はちらりとカウンターの方を見た。店長はどこかへ怯えて隠れてしまったらしい。
さすがに聞かれるとまずい。
声をひそめて九井は三途に聞いた。
「……お前、武藤を殺したのか?」
九井はさすがに脱力したように椅子へ腰を下ろした。
グラスを口に運んだが酒の味がしない。目の前に今日、その手で人を殺した男が座っている。
三途は垂れかかった髪をかき上げた。
「アイツはマイキーを裏切って天竺へ下りた。だからオレが処刑した」
ふふ、と三途は声を立てずに笑う。
武藤が傷害罪で捕まってからからもう半年が経っている。実際のところ、九井も忘れかけていたくらいだ。
しかし三途は一日も憎しみを忘れることがなかった。
それどころか日に日に殺意を募らせていたのだろう。
恐るべき執念だった。それもひとえに佐野への忠誠心からだ。
忠誠心だって?
そもそも、佐野はメンバーに忠誠心など強制しない。求めてさえいない。
そんな単語が口から出たこともない。
「…………」
三途は平然とグラスにストローをさし、ジンジャーエールを啜った。
イカれてる、そう一蹴するのは簡単だ。
だがこいつは、『マイキー』の起爆剤になるかもしれない。
利用価値がある、そう思った瞬間九井はすさまじい勢いで思考する。
言葉をよく吟味し、三途に語りかけた。
「……分かったよ、三途。オレもマイキーを大事にしたいと思ってる」
三途は伏せた瞳を九井に向けた。
「あいつが関東卍會を日本一のチームにしたいっていうのなら、いくらでも金を作るつもりだ」
九井の言葉に偽りはない。しかし順序が逆だ。佐野万次郎は九井から見て金のなる木だ。
彼のカリスマは人間を惹きつける。人が集まるところには、金も集まる。
三途に正直に話したところで意味のない話だ、三途の興味は別にある。
「……オレは金を動かすのは得意だが、人の心を動かすのはうまくねぇ」
「…………」
「だから、お前がその忠誠心とやらでマイキーを支えろ。お前がずっと見てきたんだろ」
そう言うと三途ははっとしたようだった。その瞳は濡れている。
「九井……」
名前を呼ぶその声は、喜びに震えていた。
「…………」
九井はようやく理解できた。
三途が武藤を殺した後、何故渋谷をうろついていたのか。
三途は誰かに褒めて欲しかっただけだ、その忠誠心を。
もちろん佐野のねぎらいは三途を有頂天にさせるだろう。だが、殺しを好まない佐野がよく思うはずがない。
それは三途自身もよくわかっている。
理想と現実の板ばさみになり、三途は身の置き所を失った。
九井は三途の顔を見た。
こいつは狂気の足場に、つま先で立っている。
道具としてはあまりに危うい、だが『使える』。
「三途、いいか」
九井は告げた。
三途は素直にうなずいた。どうやら九井を佐野に対する忠誠の賛同者として認めたようだ。
狂気に巻き込まれるのは歓迎できないが、もう賭けるしかない。
「……マイキーの思考を先読みしろ、あいつが欲しいという前に与えてやれ、腹を立てているなら殴られてやれ、退屈は絶対にさせるな」
「……ああ、わかった」
三途は自信に満ちた様子で答える。
できないはずがない。佐野の全てをこの半年間べったり観察してたような男だ。
「お前の言う通り完璧な『王』として扱え」
王、と聞くと三途は瞳を輝かせた。
「……金ならいくらでも出してやる」
さすがに金のなる木を育てるためだ、とは言わなかった。将来にリターンが見込めるなら、先行投資することに何の迷いもない。失敗すれば三途を損切りするだけだ。
面白くなってきた。
九井はぺろりと自分の唇を舐めた。アドレナリンが脳内に満ちるのを感じる。
『マイキー』を東卍のトップたらしめたのは、彼のカリスマだけではない。
その背中を信じ、羨望のまなざしを向けるメンバーがいたからだ。彼らがいたからこそ、『マイキー』は無敵であり続けた。
だからこそ、今、佐野を追い立てる強烈な信者が必要だ。
そう、三途のようにイカれてるくらいのヤツが丁度いい。
「……九井、お前は何でそこまでしてくれんだ?」
三途は半ばうっとりしたように九井を見つめた。
金のためだ、思わず出そうになった言葉を飲み込んだ。
九井は心を見透かされないように、適当な言葉を拾って組み立てた。
「……オレは、もうボスを失いたくないだけだ」
口から出てきたセリフに、九井は自分で驚いた。
黒龍の柴大寿も、天竺の黒川イザナも失った。好きで彼らに従ったわけではない。
それに金庫番として扱われただけだ。だが役割が与えられことも事実だ。
ああそうだ、オレだって居場所が欲しい、こんなことが自分の本音とは。
とりわけ乾を手放した今、なおさら強く思うのかもしれない。指標でも何でも構わない、ただ一つ信じて疑うものが欲しいのだ。
「そうか」
三途は九井の心中など知らず、無邪気に笑う。笑うと案外可愛い顔でもあった。
「…………」
九井は黙ったままそれを眺めた。
やっぱり傷のある顔は、嫌いじゃねぇな。
『狂気の沙汰も金次第』完