One More Time 朝、目を開けるとディーンの寝顔が見えた。ゆうべは一緒に眠ったんだっけ。ベッドに横たわったまま、数度まばたきを繰り返した。見慣れない部屋だ。寝返りを打って周りをもっとよく観察してみる。泊まったモーテルはこんなインテリアだったっけ。到着は夜遅くで暗かったし、そのままベッドになだれ込んでシャワーも浴びずに眠ったからあまり見ていなかった。
ディーンはまだ寝ていたけど、まぶたの下の眼球がせわしなく動いて、覚醒の兆しを見せていた。そのうちにふさふさのまつ毛がまたたいて、綺麗なヘーゼルグリーンが姿を現した。
「おはよう、サム」
僕の視線に気づいて、ディーンは幸せそうにほほえんだ。これほど可愛らしい表情をする兄貴を、僕は見たことがなかった。昨夜の行為はそんなによかったんだろうか。気持ちのいいセックスをすると兄貴は上機嫌になった。
僕はほめられたようで嬉しくなって、兄貴の顔中についばむようなキスを送った。
「朝から情熱的で結構だけど、そろそろ着替えないと。今日は月曜だ」
「月曜?」
「どうしちゃったんだよ? ブルーマンデーってやつか?」
ディーンはくすくすと笑いながら僕の肩を押し返して、バスルームに向かった。相当機嫌がいいらしい。むき出しの背中を名残惜しく見送り、そのあいだにコーヒーでも入れて朝食の準備をしようと、僕はようやくベッドから起き上がった。
改めて部屋の中を見回してみると、キッチン設備も冷蔵庫もないことに気がついた。このモーテルははずれだなとため息をついて、ダイナーかドーナツショップでコーヒーと食べるものを買ってこようと考えていた。
服を着てジャケットを羽織り、外へと続くドアを開けたところで、はたと動きを止める。部屋の外に、まだ部屋が続いている。起きたばかりで寝ぼけているんだろうか。ドアを閉めてもう一度開けてみても、なにも変わらなかった。
ゆうべはモーテルに泊まったんじゃなかったのか。じゃあここはホテル? それともだれかの家? そもそもいまいる町の名前は? どんな事件の調査をしていたっけ?
部屋の中をぐるぐると歩き回っているうちに、ディーンが戻ってきた。いつまでも部屋にとどまっている僕を見て、不思議そうな顔をしている。下着と淡いブルーのワイシャツ姿で現れたディーンは、壁のフックにかけたハンガーからひと揃いのスーツを取って手早く身につけると、混乱する僕を置きざりにして部屋を出ようとしていた。
「朝食は? 食べていくだろ?」
ディーンにはここがどこだかわかっているらしい。僕はなにも思い出せなかった。ゆうべバーで飲み過ぎて記憶をなくしたんだろうか。いつにない失態に不安をかきたてられながら、ディーンのあとに続いて部屋を出た。
そとはキッチンとひとつづきになったリビングルームのようだった。この場所には見覚えがある。でも、にわかには信じられなかった。記憶が正しければ、ここはディーン・スミスの家だ。
ディーンは僕にトーストを焼いてくれ、自分はたっぷりの野菜でグリーンスムージーを作って飲んだ。僕たちはプリウスに乗って、ディーンの運転で会社に向かった。ガレージからあの特徴的な流線型を描く銀色のボディが現れたとき、僕はただ唖然とするしかなかった。車載ラジオからはNPRのモーニング・エディションが流れ、車は通勤ラッシュで混み合う道路を音もなく走った。
僕は今回もサンドーバー社のテックサポート部で働いているらしかった。言われてみれば、先週まで実際に働いていたような気さえする。制服に着替えて、覚えのある席まで歩いていくと、やはりサム・ウェッソンのネームプレートが掲げられていた。
また天使たちがなにか企んでいるんだろうか。なにかの弾みで僕だけ記憶が戻ったのか。解決の糸口が見えはしないかと、ボビーに電話してみたけど繋がらなかった。これが天使たちのしわざなら、どうにかかれらを見つけ出して話を聞くべきなんだろう。
同僚はみんなよそよそしかった。前回の続きだとすれば、突然暴れ出して会社を辞めたはずの男が素知らぬ顔で戻ってきたのだから怖がるのも無理はない。かえって好都合だった。僕がなにをしていようと誰もなにも言わないので、僕は好きなだけディーンを見張ることができた。ディーンのそばにいれば、ザカリアにしろそのほかの天使にしろ、なんらかの接触があるはずと思ったからだ。
「今日はずっと僕についてまわるつもりか?」
昼になるといよいよディーンがそう尋ねてきた。
「僕のことつけてるだろ」
「そんなことしてないよ」
記憶を失っていても勘のよさは変わらないらしい。ディーンはベーコン抜きのほとんどサラダみたいなサンドイッチを口に運びながら、なんとも形容しがたい表情を浮かべていた。
午後はもっと慎重に行動しなければ。ふと顔を上げると、見知った姿が目に入った。空調の効いたカフェテリアでは、トレンチコートを着た男は異様に目についた。見失ってしまう前にと僕は慌てて立ち上がり、あとを追いかけた。
「キャス!」
名を呼ぶと、相手は立ち止まった。
「なにが起こってるんだ? また天使たちのしわざ?」
「天界とは関係ない」
キャスは表情ひとつ変えることなく、平坦な口調で事実を告げた。
「それじゃあこれは夢や幻覚のようなもの? ジンやハーブと関係がある?」
「いや、どうやら現実のようだ。サンドーバーは実在の会社で、ディーンはもとの記憶を失っている」
「どうしてそんなことに——」
僕は考えを巡らせた。なにか原因があるはずだ。天使たちのせいでないのなら、ふたたび記憶が書き換えられた理由はなんだ?
「そうだ、ボビーはどうしてる? 電話がつながらなかったんだ」
「ボブ・スミスはディーンの父親だ。廃品投棄場の経営者から成功して、いまはカリフォルニアで中古車販売業を営んでいる」
「まさか」
どうやら前回とは状況が違うらしい。僕ら兄弟の記憶が上書きされるだけでなく、ほかにも影響がおよんでいる。僕にかまうことなく、キャスは言葉を続けた。
「サム、ディーンになにか言わなかったか」
「なにかって……」
青い目が、じっとこちらを観察している。
「なんらかの力がはたらいて、ディーンの願望を実現しているように見える」
僕は内心の動揺を隠すように、視線をそらした。ディーンがさきほどから不安そうにこちらの様子をうかがっている。僕はほほえみながら軽く手をあげて、心配ないというジェスチャーをした。
「キャス、これは現実だって言ってたよね?」
「そうだが。このまま放っておくつもりか」
天使の問いかけに、僕は背を向けたまま答えた。
「それも悪くないと思う。いまのディーンにはきちんとした仕事も、社会的地位もある。この先ずっと、なんの心配もなく暮らしていける。いまの僕には世界よりも、ディーンの幸せほうが大事だ。パートナーのサム・ウェッソンとしての人生もそんなに悪くないよ」
テーブルに戻ると、ディーンはほっとした様子だった。サンドイッチを食べ終え、食後のブラックティーを飲んでいる。
「知り合いか?」
「うん、ちょっとね」
ついさっきまで立っていた場所に目をやると、キャスはすでに姿を消していた。
なにがこの現象を引き起こしているのかはわからないけれど、ディーンがこの世界を望んだ理由には心当たりがある。でも、ほんとうにそんなことなんだろうか。
つい先日だ。僕らにしてみれば、喧嘩というほどでもない、いつものたわいもない言い争いだった。ディーンは朝から僕の神経を逆撫でし、僕は兄貴に対して不満が募っていた。まず、朝寝ているところをラジオの爆音で叩き起こされた。それから朝食を買いに行ってやったのに、僕がパイを忘れたことについて一日中延々と文句を垂れた。聞き込みに出かけているあいだに、なぜか僕が使っているほうのベッドでスナックをつまみ、シーツに食べこぼしのシミをつくった。さらには調査中の事件に対する見解で意見が食い違い、自分のことは棚に上げて、僕の過去の失策を持ち出し批判をはじめたところで、いらだちは最高潮に達した。
僕はため息混じりに言った。ディーン・スミスだったらそんなことは言わないのに、と。
「じゃあお前は兄貴である俺より、あの上流気取りの腑抜け野郎のほうが好きなのかよ」
「え……まあ、うん……」
そんな質問が返ってくるとは思いもよらなかった。
実際、ディーン・スミスは健康にも気を遣っているし、どちらかといえば僕とは兄貴よりも気が合いそうだった。勤勉で、周囲からの期待を集め、またそれに見合う実力も向上心も持ち合わせている。もしも親兄弟を選べるのなら、僕はスミスのような人を選ぶ。
モーテルを飛び出していった兄貴は、数時間後になんと、撫でつけた髪にワイシャツ・ネクタイ・サスペンダーの三点セットという完璧な出立ちで戻ってきた。「そんなにスミスがいいなら、望みどおりにしてやる」 普段と違う兄貴の姿に、正直ムラムラした。でも兄貴は僕が思っていた以上に、僕に対して腹を立てていた。さんざん僕の劣情を煽り立てたあげく、無事に狩りを終えて兄貴をベッドに誘うと「そんな破廉恥なことはしない」と一蹴されるおまけが用意されていたのだ。
理由なんてほかに思いつかない。僕のあのひとことをディーンが気にしていたなんて、とても信じられなかった。
スミスとウェッソンは、良好な関係を築いていた。スミスはウェッソンを愛していただろうし、ウェッソンもひたむきな情熱でもって恋人を愛していた。ふたりの関係は、複雑にこじれて絡まりあった僕らの関係よりも、もっとずっとシンプルであたたかかった。
兄貴がディーン・スミスとしてサム・ウェッソンに愛される人生を望むのなら、僕はウェッソンとして生きる道を受け入れようと思った。恋人らしくふるまい、優しい言葉をかけ、たっぷりと愛情を注いだし、またそうした行為に充足感も覚えた。いずれも、兄貴に対してはさせてもらえなかったことだったからだ。
僕たちは甘く親密な日々を過ごした。変化が起きたのは、ディーンの家にある広いキッチンで、遅めの朝食を用意しているときだった。
子どものころ、僕らは親父の帰りを待ちながらふたりきりで多くの時間を過ごした。あるとき僕がテレビで見たふわふわのパンケーキが食べたいと言うと、兄貴は見様見まねで同じものを作ってくれた。大きなパンケーキをふたりで分けてほおばり、鼻の頭にクリームをつけたまま笑いあった。僕の人生には数少ない、たしかに幸せと呼べる瞬間のひとつだった。
「ねえ、そういえば昔さ——」
僕は言いかけて、口をつぐんだ。この思い出はもうディーンの中に存在しないのだと気づいて、突然突き放されたような気持ちになったのだ。僕を形成した幼少期の記憶たちが、兄貴が僕に向けてくれた愛情が、消えてしまったような気がした。
それだけじゃない。僕の兄、ディーン・ウィンチェスターを覚えている人間はもういない。だらしなくベッドに寝そべり、チーズのたっぷりかかったフライドポテトや油でギトギトのガーリックピザを、手や口元をベタベタにしながら食べる兄。僕が買ってきたばかりの歯磨き粉や整髪料を勝手に使って、清潔なパッケージを台無しにしていく兄。ノートパソコンで怪しげなウェブサイトを漁り、ブラウザクラッシャーにひっかかる兄。締め切った車の中でエクストラオニオンのベーコンチーズバーガーをむさぼり、カセットテープが擦り切れるほど繰り返し聞いた音楽を上機嫌で口ずさむ兄貴を、覚えている人間はもはや世界に僕ひとりしかいない。
それらすべてがディーンの欠点で、愛すべき美点だった。たとえ記憶を失おうとも人の根本は変わらない。犠牲をいとわず他人を助け、身を粉にして尽くし、僕のことも心から愛して守ってくれるだろう。でも僕はそんな兄貴を愛していたのだ。たとえそれが冷酷な世界から弱い自身を守るために身につけた一種の処世術であったとしても、愛さずにはいられなかった。
子どものころ僕がなおざりに渡したペンダントを、いつまでも誇らしげに首にぶら下げている兄貴。長時間の運転に文句も言わず、ようやくたどり着いたモーテルのぬるいシャワーで身を清め、硬いベッドに横たわり、瓶ビールを開けながら、ケーブルテレビのロードショーを観ることをひそかな楽しみにしている兄貴——。
「どうした?」
急に沈黙した僕を、ディーンは心配そうに覗き込んできた。話し方や仕草が変わっても、表情だけは変わらない。
「好きな人がいたんだ」
「婚約者のことか?」
「ううん、そうじゃない」
ディーンはただ黙って、僕の言葉を静かに待っていた。僕を見つめるヘーゼルグリーンの瞳は澄んでいて、見ているだけで吸い込まれそうな心地がした。
僕はディーンのすべらかな頬に手を添えて、言葉をつむいだ。
「いい年して子供みたいな悪戯するし、僕のものを勝手に使うし、体に悪いものばっかり食べて、食べ方が汚いし、食い意地張ってるし、いつも意見が合わなくて喧嘩ばかりで、それに僕よりチビだしムカつくけど、そんな兄貴が好きだったんだ……」
ディーンはなにも言わなかった。顔には奇妙な表情が浮かんでいた。しばらくすると、ディーンはおもむろに口を開いた。
「俺はチビじゃない」
いま、なんて言っただろうか。
「ディーン?」
「なんだよ」
ディーンは眉間にしわを寄せ、気に障ったと言わんばかりの顔をした。
「記憶が戻ったんだ!」
骨がきしむほどぎゅうぎゅうと、力いっぱいディーンを抱きしめた。嬉しくて、嬉しくて、子どもみたいに声を上げてわんわん泣いた。
いきなり僕が泣き出したので、ディーンはぎょっとしていた。やがてそれとなく状況を理解すると、おとなしく腕の中に収まったまま、僕が落ち着くまで頭や背中をさすってくれていた。
しばらくすると、ディーンが言った。
「なあ、なにか食べよう。腹ペコで死にそうだ」
作りかけだったパンケーキを焼いて、ふたりで食べた。兄貴は熱々の生地の上に、冷蔵庫の奥から見つけてきた大きな冷凍フライドチキンを温めて乗せ、さらに低糖質のバニラアイスをトッピングして大量のメイプルシロップをかけていた。フォークを口に運ぶたびに、甘い蜜が白い皿の上にぼたぼたとこぼれ落ちる。一度にたくさん口に入れようとするからだ。そんなに焦らなくたって、パンケーキは消えたりしないのに。何度言ったって兄貴の癖は治らなかった。もうそういうものだと受け入れてあきらめるか、辛抱強く言葉をかけ続けるしかない。
腹ごしらえを終えて、僕らは事の顛末を話し合った。
「願いを叶えるお守りをもらった」
「はあ?」
兄貴の言葉に、僕は耳を疑った。はじめはからかわれているのかと思ったけど、兄貴は大真面目に、胸ポケットからキーホルダーのようなものを取り出した。大ぶりなチェーンの先に、角を削った丸みのある石がついている。
「傑作だろ」
そう言うと、兄貴はそれを乱雑にテーブルの上に放った。
「その話、信じた?」
「いいや。相手もギフトショップで買った安モノだって言ってて信じちゃいなかった。でも現にこうなってるわけだし、効果はあったのかもな」
LEDライトの照明を受けて怪しく光る固体は、一見すると色のついたガラス玉のようにも見えた。
ここでひとつ疑問が湧く。兄貴はほんとうにディーン・スミスになることを望んだのか? 今回の出来事が不思議な力を持つパワーストーンの効能だったとして、その一因は兄貴の秘めたる願望にあるのか?
「兄貴はスミスになりたかったの?」
「当然だろ。こんなでかい家に住んでるんだぞ。車はダサいけど」
その夜、僕たちは寝室にある大きくて寝心地のいいベッドで抱きしめあって眠った。兄貴はベッドがひとつしかないことに文句を言っていたけど、僕が腰に腕を回すとようやく観念したようでそれきりおとなしくなった。サム・ウィンチェスターとして眠りにつくのは何日ぶりだろう。この数日分の心労がどっと押し寄せてくるような気がした。
目を覚ますとモーテルの部屋にいた。壁が薄いのか、隣室からテレビの音が聞こえてくる。兄貴は僕の腕の中ですやすやと寝息を立てている。身じろぎをすると、ベッドが軋んだ音を立てた。兄貴はよく眠っている。僕は目の前にある丸い頭に手を添えて、短く刈り込まれた髪の感触をしばらく楽しんだ。つむじに顔を埋めて深く息を吸う。汗と安っぽいシャンプーの匂いがする。
僕は安堵の息をつくと、もう一度目を閉じて、心地よい睡魔の誘惑に身を委ねることにした。
End.