いずれ土井利になる話3 その夜は雨だった。夕刻から降り出した雨が次第に激しくなり、しまいには雷雨となった。ひどい湿気が寝苦しく、土井は早々に寝ることを諦めて、水でも一口もらおうと廊下に出た。締め切った雨戸を少しばかり開けて覗くと、雨と一緒に新鮮な空気が入ってきて、少しホッとする。
「――利吉くん?」
ふと視線をやった先、曲がり角の柱の陰に、小さな身体が縮こまっているのが見えた。さだめしこの邸の一人息子だろうと思って声をかけると、びくりと小さな肩が震える。どうしたの、と続けようとする土井の頬を、鋭い光が舐めた。遅れて雷鳴がとどろいて、遅まきながら土井は「これか」と判断がついたのだった。
恐らく利吉はいつものように、悪夢からの守り人として土井のもとを訪れたのだろう。しかし、ひどくなる一方の雷鳴にすっかり怯えて、途中で足が萎えてしまったのだろう。土井は素早く雨戸を立てきって利吉に歩み寄るとその横へ膝を突き、己のところへ来るよう誘った。しかし利吉の反応は芳しくない。どうやら、普段寝入っている(と利吉は思い込んでいる)土井のもとへ来る分にはよいが、こうして起きている内に、しかも自分のことが理由で招き入れられるのは矜持が許さないらしい。ならば、と土井は一芝居打つことにした。
稲妻が再び駆ける、その時期を見計らって土井はわざと情けない声を上げてうずくまる。利吉はもう雷の音よりも土井の様子に驚いたようで、目を白黒させている。
「大丈夫ですか?」
気遣う声はわずかに震えていた。こんな時でもこの子どもは土井を優先させるのだ――正心、という言葉が不意に脳裏を過った。
正しい、ひととしてあるべき心。
この心が、私にはあるだろうか。まだ、このからっぽの胸の中にも残っているのだろうか。
利吉と過ごすたびに、土井はいつもそんなことを考える。自分では意識したつもりはなくとも、心の奥底ではいつも利吉を通して己を測っている。そうして利吉にあって己にはないものを思い知らされて、一人ひっそりと溜息をつくのだ。
けれども。
「実は、雷が怖いんだ」
「半助さんが?」
「そうだよ。だから、君がそばにいてくれると嬉しい」
――伝蔵の声がよみがえる。『あんたはからっぽなんかじゃない。あんたを求める手はちゃんとここにあるんだ。』
利吉の目は疑うように土井を覗き込む。かと思えばひらめいて、今度はじっと耳を澄ませているようだ。探しているのは雷の萌しだろう。ごろごろと鳴る空に、形のよい眉がどんどん下がっていくのを見て、土井は駄目押しをする。
「嫌かな?」
ずるい言い回しだった。駄目か、と問われれば幾らでも理由は用意できるが、嫌かと尋ねられるとそうはいかない。大人になるというのはずるくなるということなのだなあ、と土井は内心苦笑する。
それでも今夜、この子どもが心穏やかに眠れるのであればそれでいいような気がした。
「……嫌じゃありません」
利吉は果たして頷いて、く、と顔を上げた。そうして差し出された手を、土井は面食らいながらもなんとか取り下げられる前に掴むことができた。握りしめれば、同じだけ握り返してくる。子どもの手がこんなにもあたたかく、優しく、力強いものだったなんて。
土井は立ち上がり、歩き始める。利吉に見えぬよう、隠れて様子を窺っていた伝蔵に会釈をして。
「どうぞ」
乱れていた布団を手早く直し、枕を譲る。利吉は少し戸惑ったように土井を見たが、折しもとどろいた雷鳴に背を押されるようにして布団の上に横たわった。土井も続いて布団に入る。いつもの夜、いつものぬくもり。いつもと違うのは利吉も土井も起きているということだ。寝転んで向き合えば目が合い、目が合えば沈黙が気になる。
「ええと、利吉くん」
「はい」
「……その、」
耐えきれずに声をかけたはいいものの、話の穂先をどこへ向けてよいものやらわからない。土井は言いよどんだ挙げ句、当たり障りのない話題を出すことにした。
「ここにお世話になってしばらく経つけど、君のお父上とお母上は素晴らしい人たちだね」
「はい。自慢の両親です。」
利吉はごく当然というふうに頷く。
「せっかくの家族水入らずの野遊山を邪魔してしまった私に、ここまでよくしてくださるとは……君もそうだね」
本当に申し訳なかった、と何度目かの詫びを述べると、利吉は飽きもせずに頬をぷくっと膨らませて不満を訴える。
「……本当に、久しぶりのことだったんです」
土井は自分の身分をはっきりと明かしていない代わりに、山田家の事情も知らされてはいない。けれども、利吉がああまであの野遊山にこだわっているというのは気になった。
「本当はお父上に甘えたかったんだろう」
確証があったわけではない。鎌をかけただけだった。けれども利吉は素直にこくりと頷いて、土井の想像が正しいことを知らせた。
「でも、――父上は、いつもとてもお忙しい方だから」
ぽつり、と呟く声に、静かに相槌を打つ。否定するのでなく、説教するのでもない。ただただ利吉の言葉を促すためのそれに、呟きはいつしか雨粒のようにその唇からいくつも零れ落ちた。母と自分はいつもこの家で父のことを待っていること。母は気丈に笑ってみせるけれど、どこかさみしそうに見えること。そんな母を支えたいのに、結局は気づいたら甘やかされてしまっていること。
「母上にはぜ~んぶ、見透かされているんです」
「君のお母上は鋭いからなあ。たまに、背中に目があるんじゃないかって思うよ」
「この間、かまぼこを残そうとして見とがめられてましたもんね」
「……あの時の君の冷たい目、忘れてないぞ」
土井の軽口に利吉はくすくすと笑う。そのうちに笑い疲れたように溜息をついて、こんなことを言った。
「――でも今は父上がいらっしゃるから」
その口角は笑いのなごりに上がっている。けれども天井を見上げる目は子どもとは思えぬほど遠く、もの悲しいもので、続く言葉がなんとなく予想された土井は思わず身を起こす。
「ぼくはいらないんじゃないか、って」
「そんなことはない!」
強い口調で短く言い切る。それでも利吉の視線は揺るがない。
――違う、揺るがないのではない。目尻に浮かんだ涙をこぼさないように必死なのだ。
「父上のことは大好きです。尊敬しています。早く帰ってきてって、本当にいつも思ってるんです。なのに、ぼくにはわからない言葉を使って母上と話しているのを見ると、なんだかむしょうに悲しくなるんです」
利吉の心を裏切って伝った涙が、その形のよい耳朶を通って枕を濡らす。それに合わせたように利吉は切なる思いを吐露する。
「父上には母上がいるし、母上には父上がいます。そうしたら、ぼくはどうしたらいいんでしょう?」
聞いているだけでたまらなくなった土井は利吉をむりやりに抱き起こし、ひしと抱きしめる。
「君がいなくちゃ駄目なんだ」
絞り出すような声になったのは、感情を抑えないと土井のほうが泣き出してしまいそうだったからだ。
「君がいなくちゃ、駄目なんだ。お父上も、お母上も」
ゆっくり区切りながら、一つ一つの言葉に思いをこめて伝える。同時に小さな背を優しくたたく。次第にその背が震えて、土井の肩が濡れる。土井は繰り返す。
――君が必要なんだ。君がいなけりゃ駄目だったんだ。
君がいなければ、今頃私は。
「――世話をかけてしまったようで、申し訳なかった」
「いいえ。こちらこそ出過ぎた真似をしました」
泣き疲れてすっかり寝入ってしまった身体を渡すと、ずっと様子を窺っていたらしい伝蔵は苦く笑って、腕の中の利吉を見た。その視線には我が子に対する限りないいつくしみが感じられる。奥方もこの場に姿こそ現さないものの、同じく利吉のことを心配して近くで待っている気配がしていた。
「まったく。雷が苦手だってのに無理をして……本当に、あんたによく懐いてるらしい」
呆れたように呟く声もどこかやわらかで、土井は自分の言葉が正しかったことを改めて理解する。
「あんたがいなけりゃ、こうやって利吉の本音を聞けなかったかもしれん。……礼を言うよ」
伝蔵が会釈をして踵を返す。その背中を見送って、土井は布団へと戻った。利吉がいなくなった褥はどうにもよそよそしく、妙に静かだ。
無造作に寝転がり、目を閉じる。そうして、愛情がほしいのだと言って泣いた子どもの顔を思い出した。自分はひとりぼっちなのだと切々と訴えたその表情を見ながら、土井は確かに奇妙な既視感を覚えていた。
とぷん、と墨に落ちたように闇が広がっていく。土井の空想の中で、土井の前で泣く子どもはもはや利吉の姿をしていない。
――父上、母上。
ぼろぼろになって泣く子どもは、いつかの土井であった。土井は冷ややかな目でそれを見下ろす。大人になって、諦めを身につけてしまった土井にはもはや自分を慰めることができなかった。
(――半助さん)
やわらかな声が背後から聞こえたかと思うと、幼い土井のもとに小さな光が駆け寄る。
(ここにいたんですね)
声につられて幼い土井が面を上げる。茫洋としていた瞳が、次第に光を取り戻していくのが見えた。
(さあ、また本を読んでください)
傍観者としてそれらを見ていた大人の土井は、不意に己の手に触れたぬくもりにびくりと身を震わせた。
幼い土井の手を引いた利吉が、大人の土井に手を差し伸べている。
(一緒に行きましょう)
そうして、手を引かれるがままに土井は歩き始める。
行く手にはただ光が広がっている。