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    Tsutako_Iijima

    @Tsutako_Iijima

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    Tsutako_Iijima

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    なかなか書き終わらないので、途中までですが公開します…
    幸次郎の事故死をきっかけに弟の存在を知った尾形は、勇作に請われ花沢家の資産を共同管理することに。連休を利用して館山の花沢家を訪れると、忘れていた両親の記憶がよみがえります……

    館山の異母兄弟<第一章>
     先月、会ったことのない父親が事故死した。別荘から戻る途中の峠道で、運転していた車はガードレールを突き破り大破したという。その情報の出所は、一通の内容証明郵便だった。
     年始の繁忙期の代休で、その日はたまたま休みを取っていた。雪がちらつく寒い日で、どこへも出かける気になれずに、部屋で母親が大切にしていた画集を眺めていると、インターフォンが鳴った。
    「こんにちはー、郵便局でーす。尾形百之助さんに内容証明郵便のお届けです」
    人生で初めて受け取る内容証明郵便だった。名前くらいは聞いた事があった、訴訟とか揉め事があった時に使われるとか。何か変な事件にでも巻き込まれたのかと思ったが、差出人は弁護士と異母弟を名乗る“花沢勇作”とあった。
     内容証明郵便というのは開封前に、どんな内容が書かれた手紙なのか概要がわかる。概要を理解したうえで受け取るか受け取らないか判断できる仕組みだ。その概要で俺は父親の死を知った。
     俺の母親は、俺を出産する前に父親である“花沢幸次郎”と離婚した。離婚の詳しい事情は分からないが、親権は母親が持ち母親と暮らしてきた。ただし、子として認知されていて、大学卒業まで弁護士を通じて十分な金銭的な援助も受たので恩は感じている。俺も父親を無視してきたわけではない。母親が急な病に倒れ、亡くなった葬式の後と、大学卒業の時、弁護士を通じて面会を申し出たが会うことは叶わなかった。
    その代わりに、水墨画の絵葉書に一句の和歌が添えられて帰ってきた。

     かささぎの 渡せる橋におく霜の
     白きを見れば夜ぞ更けにける

    水墨画と和歌の意味は理解できなかったが、気軽に会えない立場の人物だという察しはついた。俺はその絵葉書を、どこかにしまい失くしてしまった。
     内容証明郵便には父親の死の知らせと、遺産相続について相談したいので一度会えないだろうか、と書かれていた。館山に住んでいるという異母弟、花沢勇作という聞きなれない名前を思わず声に出してみた。
    「は な ざ わ ゆ う さ く」
    この手紙が届くまで、父親が館山に居を構えていたことはおろか、異母弟が居たことすら知らなかった。どんな人物なのだろう。母親が亡くなり親戚ともあまり交流のない今、急に兄弟と言われて何とも不思議な気持ちになった。



     二月の下旬、俺は弁護士事務所へ向かった。もちろん、初めて会う異母弟と遺産相続について話し合うためだ。担当弁護士だという菊田さんは、たしか俺が父親から支援を受けていた時の担当だ。書類のやり取りをしたので名前は覚えていた。おそらく、花沢家のお抱え弁護士と言ったところなのだろう。
     弁護士事務所はガラス張りの外観のしゃれたビルにあった。一階の受付から内線電話で到着を知らせると、エレベーターで菊田さんが迎えにおりてきた。
    「やあ、わざわざ来てもらってありがとう。百之助君だね?ずいぶんと大人っぽくなった」
    ああ、この人は……確か、母親の葬式の時に葬儀場で見かけた。数人で来ていて、叔父さんと何かもめていたのを覚えている。後で叔父さんに何だったのか聞いても、話をはぐらかされたが、父親関係の弁護士だったのか。
    「勇作君も到着しているから、さっそく顔合わせと遺産の話を進めてもいいかな?」
    「……よろしくお願いします」
    ぼそりとあいさつした後に乗り込むエレベーターが、まるで未知の異世界へと俺を運ぶ機械のように感じた。

     通された会議室、ガラス窓に降ろされたブラインドから差し込む光で、柔らかそうな髪が茶色く煌めいていて、琥珀のようだと思った。俺と菊田さんの存在に気が付くと、立ち上がって出迎える。白いシャツにベージュのカーディガンを着た背の高い、優しげな眼もとの青年が異母弟、花沢勇作だという。
    「はじめまして、お会いできてとてもうれしいです。弟の勇作です。今日はお越しいただいてありがとうございます」
    初めて対面した印象は、“やっぱり、似ていないな”だった。頭半分ほど背が高く、姿勢良く立つその姿は厚みのある身体つきをさらに引き立たせた。すっと通った鼻筋に、長い睫を湛える優しげな瞳、意志の強そうな唇、どの部分を切り取っても完成された彫刻の様だった。俺は少し自嘲気味に笑って、投げやりな声色で名前を名乗った。
    「尾形……百之助です」
    「ずっと、ずっとお会いしたいと思っていました」
    そう言いう異母弟の目は少し潤んでいて、薄く隈が浮いていた。そうか、こいつも家族を失ったばかりだった。母親が死んだ後に、ふと時間が止まったような喪失感と孤独を感じたことを思い出した。
     俺たちは同じテーブルに向かい合って座ると、菊田さんから遺産についての説明をうける。俺には相続権はないという。花沢家は代々、資産は一人が受け継ぎ運用、管理することによってその経済力を維持してきたため、遺言により相続権を持つのは異母弟だけになるそうだ。遺産を期待していなかったと言えば嘘になるが、遺産が貰えなくて困るような生活もしていない。まあ、会ったこともない父親の遺産なんてそんなものだろう。
    「遺言により遺産は大部分を勇作君が受け継ぐこととなる。しかし、遺言書に名前が無くても遺産を貰う権利があるんだ。遺留分と言って遺言の内容に左右されずに相続できる権利でね、資産をすべて算出してみないと金額を出すことはできないが、それでも相当まとまった額にはなると思う。この遺言について、君は良く思わないかもしれないが、花沢家代々のしきたりだ、お父さん一人だけの意志ではないことを理解して欲しい。」
    「そうですか……」
    「今日来てもらったのは、遺留分の説明だけではないんだ。花沢家の資産について、勇作君はお兄さんである君と共同管理をしたいというんだが……どうだろうか?」
    資産の共同管理とは何をするのだろうか。思わぬ提案に俺は異母弟に目をやった。不安そうな面持ちで俺を見ていたその眼差しは、先程の精悍な印象とは真逆で、弱々しく、まるで迷子になった小さな子供の様だった。
    「……共同管理ですか」
    「ぜひ、お願いしたいのです。私は去年大学を卒業したばかりで、何かと世間に疎い事も多く、兄様が居てくだされば心強いのです。きっと父上も喜んでくださると思います」
    異母弟は父親を“父上”、俺を“兄様”と呼ぶ、浮世離れしていて世間ずれしていない、所謂、箱入り息子のようだった。
    「しかし、今日初めて会ったばかりですよ?そんな相手に資産の共同管理を持ちかけるなんて、素人の俺から見ても良い方法だとは思えません。俺がどんな人間なのかも知らないわけでしょう?逆に俺が騙される可能性だってあるわけですよね?俺だって花沢さんのことを何も知らないのですから」
    「兄様が不信感をお持ちになるのは理解できます。少しでも私のことを信用していただきたくて、菊田さんに立ち会っていただいたのです。でも!私は会ってすぐにわかりました、兄様が信用できる方だと。ずっと私が想像していた通りの方だったのですから」
    「そうは言っても、いきなり共同管理者だなんて、変な噂を立てられるだけでしょう。ぽっと出てきた異母兄に騙されて資産を奪われようとしていると、そう世間は思いますよ。そんな噂を立てられて平気でいられるほど、俺は面の皮が厚くはありません」
    俺たちのやり取りを聞いていた菊田さんが割って入る。
    「百之助君の心配はもっともなことだが、その辺は気にしなくても大丈夫だよ。花沢家というのは代々、当主の権限は絶対だ。だから、勇作君が決めたことに異を唱える者はいないんだよ。まして、陰で噂を立てるなどありえないことだ」
    「……そうですか、ではお話だけ聞かせてください。しかし、噂話も許されないなんて、花沢家というのはずいぶんと怖い家なんですね。それに引き換え、新しいご当主は世間知らずでお人好しが過ぎるようだ。素人二人が知恵を絞ったところで、資産の共同管理なんてできるとは思えない。菊田さんにはよくよく相談に乗ってもらわないといけないようですね」
    「どうぞ、お任せを。私も花沢家とはずいぶんと長いお付き合いですから、何でもご相談ください」
    そう言って、菊田さんは芝居がかった仕草で深々と頭を下げた。
    「では!兄様、ご了承いただけるのですね?菊田さん、兄様に資料をお渡ししてご説明をお願いします」
    俺は話を聞くだけ聞いてみるつもりで言ったのだが、いつのまにか共同管理を了承したことになっていたようだ。菊田さんがテーブルを埋め尽くす程に資料を広げ、花沢家の資産状況や今後の管理方針について長々と説明を受けた。

     菊田さんの説明が二時間を経過したところで、いったん休憩をはさむ。弁護士事務所の事務員さんがお茶とカステラを運んできてくれた。説明も当初は理解しようと懸命に追っていたが、次第に追いつけなくなり、最後はただの念仏のように聞いていた。それでも、聞きなれない言葉に脳が疲れ切っていた。運ばれてきた甘いカステラが、とろけるようにおいしく感じる。
    「兄様、共同管理をお受けいただいてありがとうございます。ずっと一人で心細い思いをしていたのです。兄様を探し出せて本当によかった。もし今日、来ていただけなかったら途方に暮れるところでした」
    あまりにもキラキラした目で感謝を伝えてくるので、俺は頬張っていたカステラを慌てて飲み込んだ。喉につかえてお茶で無理やり流し込む。思いのほかお茶が熱くて咽そうになったが、何とか耐えて平静を装う。
    「俺が力になれることは何もないと思いますが、花沢さんに協力しますよ」
    「あの、できれば“花沢”ではなく“勇作”とお呼びいただけないでしょうか?」
    「え?あー、そうか。なんだか少し慣れなくて……」
    異母兄弟が名前を呼び合う場合、苗字と下の名前どちらが自然なのだろうか。
    「ぜひ、そうしていただけないでしょうか?弟の我儘を叶えると思って、お願いします」
    「じゃあ、そうさせてもらいます……勇作さん」
    「うれしいです!兄様」
    やはり、家族を亡くして寂しいのだろうか。一度も会ったことのなかった異母兄との出会いにこれほどまで喜ぶのは。俺も、唯一の家族だと思っていた母親を亡くし、親戚ともずいぶんと疎遠であるから、その孤独感は理解できる。薄く隈の浮いた、はかなげな笑顔を向けられると、甘えさせてやりたいような気持ちがわいてくる。弟とは、兄弟とはこういうものなのだろうか。



     初対面から十日ばかり経ったとき、勇作から連絡があった。来週、都内へ出る用事があるので、一緒に昼食はどうかという。俺は、弁護士事務所で見た少し頼りない笑顔を思い出すと、どうしても断ることなどできなかった。
     待ち合わせ場所に現れた勇作は、人懐こい笑顔で俺にまた会えてうれしいと言う。俺は人見知りという訳ではないが、自分から交友関係を広げるのは得意ではない。愛想がいいとか、人懐こいなどどいった言葉はお世辞であっても言われたことはなかった。そう考えると、勇作と俺は性格の面でも全く似ていないのだと感じた。
     目についた手近な店に入ると、案内された席で勇作は俺に見晴らしのいい窓側の席を勧めた。窓の外には木の芽時の少し霞んだ青空が広がっていた。
    「勇作さんはエスコートも完璧ですね。さぞ女の子にモテるでしょう?」
    「いいえ、そんなことはありません。私は、祖父母や両親とばかり過ごしてきたので、友人どころか知り合いすら碌に居ないのです……実のところを言うと、兄様と一緒にこうして外で食事をすることすら、とても緊張しているくらいで」
    勇作は印象通り、どこまでも箱入り息子のようだった。シャツのボタンをきっちしりめて、紺色のセーターを着た姿は、清潔感と爽やかさはあれど、若者らしさとお洒落さという点は皆無だった。
    「そうはいっても、さすがに学生時代は友達と遊んだりしたでしょう?大学も自宅から?」
    「いいえ、大学は四谷にある父の知人宅から通っていたのですが、門限がありましたし、研究室も忙しかったので、遊ぶ時間がなかったのです。それに週末は必ず館山に帰るようにきつく言われていたもので……」
    「それは、あまり愉快な学生時代とは言えないですね。友達と朝まで安い酒を飲んで、二日酔いの苦しさを初めて知るのが学生の通過儀礼ですよ」
    「苦しい通過儀礼は遠慮したいですが、是非、兄様とお酒を飲んでみたいです。学生時代はずっと実験室で、機械とオイルばかりを眺めていたんです。兄様にお話しできるような楽しい武勇伝があればよかったな」
    「まあ、バカな遊びをすることばかりが若者の醍醐味という訳ではありませんが、たまには見聞を広げてみるのも悪くないでしょう。俺でよければお付き合いしますよ」
    「うれしいです!実は兄様をお誘いするのも、すごく勇気を出したのです。そう言ってもらえると、勇気を出した甲斐がありました」
    そう言われてみれば、勇作から初めて届いたメールは時候の挨拶から始まっていた。電話の着信も、掛ける時間を決めていたかのように金曜日の午後八時ちょうどだった。
    「俺相手に、そんなに緊張したり気を使う必要はないですよ。砕けた気軽な付き合いの方が、俺としても楽でいいんですけどね」
    「そうですか?ご期待通りにできるよう努力します。スマホも最近使い始めたばかりで、メールをするのって楽しいですね!メールに写真を付けるやり方を覚えたので、次は写真を付けてメールを送りますね。兄様に館山の海を見てもらいたいんです」
    世間知らずのお坊ちゃんが、自由と遺産を手に入れて見聞を広げたがるのはいいが、俺としては危なっかしさばかりが目についてしまう。兄として、いや、いくらかでも世の中を知っている社会人としてやはり、遺産のことについて釘を刺しておくべきだろう。
    「勇作さん、前回お会いした時にも言いましたが、やはり良く知らない相手に遺産の共同管理を持ちかけるのは、いささか軽率だと思いますよ。あなたは、花沢家の資産を守って行かなくてはいけないのでしょう?それならば、もう少し慎重にならなくては。一人での資産管理が不安ならば、資産運用コンサルタントにお願いした方が確実です。俺が一緒にいたところで何の役にも立たないし、資産が減って行くのを指をくわえて眺めているだけですよ」
    勇作は、唇をキュッと噛んで少し俯いた。降って湧いた兄の存在に浮かれて、花沢家の当主としてするべきことを見失っているのだろう。俺のお説教で少し目を覚ましてくれればいい。
    「兄様は、私と共同管理者になるのはお嫌ですか?決してご迷惑はおかけしません。こんな風にお会いして、相談に乗ってくださるだけでもいいのです」
    「ただの話し相手が欲しいなら、何も共同管理者でなくても、いつでも相手になります。花沢家の資産を守るという役目を忘れてはいけませんよ」
    「私は……私達の代で花沢家の資産を全て消費してしまってもいいと思っています。花沢家は代々独自の家訓を基に財産を築いてきましたが、私にはそれを受け継ぐ器は備わっていません。会社を経営し、人心を掌握することなどとても無理です。それに……私にはものの風流が解りません。祖父母や両親たちは、そう言ったものを特に重んじていました。花沢家の資産の大半は、美術品や工芸品などです。兄様が了承して下さればですが、それらの資産は美術館や博物館などに寄贈しようと思っています。……私は野暮ったく凡庸な人間ですから、資産を増やすことなどは到底無理な話です。手元に残った資産を兄様と分け合ってつつましく暮らしていければそれでよいと思っているのです」
    「……そうですか、勇作さんなりの考えがあってのことなんですね。あなたがそうしたいと言うなら、俺は反対しませんよ」
    俺が思っているほど、花沢勇作という人間は見聞が狭いわけでも、世間知らずのお坊ちゃんでもなさそうだった。自分のプランがあって、俺を共同管理者に指名するのであれば、もうこれ以上何も言う事もないだろう。ただ、俺にできることを協力するのみだ。

     昼食を食べ終え、喫煙所で煙草を吸って席に戻ると、勇作はデザートの皿をスマホで写真に収めていた。最近使い始めた機能がよほどうれしいのか、何枚も同じアングルで撮っている。写真を撮ることに夢中になり過ぎて、アイスクリームが皿の上で水たまりを作り始めていた。
    「アイスクリーム、全部溶けるぞ」
    「あ、ほんとうですね!」
    溶けたアイスクリームをうまそうに食べる勇作は、デザートを食べ終えた後も何かと話題を振って、その場を長引かせようとしているようだった。嬉しそうにおしゃべりする勇作を突き放すのもかわいそうで、店を変えておしゃべりに付き合った。
     俺は三杯目のコーヒーを飲み終えたところで切り出した。
    「勇作さん、そろそろ夕方になりますよ。お話はまた次の機会にしませんか?」
    勇作はこの後、館山にある家まで帰らなくてはいけない。都内から高速バスで二時間かかる道のりだ。勇作は少し身を固くした後、視線をあてどなく彷徨わせた。息を吸い込み、つばを飲み込んだ後で、意を決したように口を開いた。
    「実は、兄様にお願いがあって……あの、私と一緒に館山の家に住んでいただけませんか?こんなお願い、ご迷惑なのはわかっています。でも、やはり一人は心細くて、兄様は私にとってただ一人の家族ですから、一緒にいて下さったらどんなにいいかと……」
    「それがなかなか言い出せなくて、こんな時間になってわけですか?」
    「……はい、申し訳ありません」
    俺はいつもの癖で、額に落ちた一束の髪を後ろに撫でつけると、思わず笑ってしまった。幼いころに勇作と出会い、一緒に育っていたとしたらどんな兄弟になっていただろうか。おそらく甘え上手な弟と、甘やかし過ぎる兄だったかもしれない。
    「俺も家族を亡くしていますから、勇作さんが心細く感じる気持ちもわかります。一緒に住む話は、少し考えさせてください。仕事のこともありますし……」
    「そう、ですよね。お仕事されているんですから無理ですよね……突然、自分勝手なことを言い出してすみませんでした」
    思い切って口にした言葉に自分でさえも驚いたといった風で、勇作は困った顔で俯いた。俺はその申し出を即座に拒否することはできなかった。
    「今度、館山へ遊びに行ってもいいですか?きれいな海が見られるんですよね?」
    「はい!もちろんです。ぜひ、ぜひ遊びに来てください!」
    勇作の無邪気な笑顔に押し切られ、月末に館山を訪ねる約束をした。あまりの喜び様に、店の前で別れるのが少しかわいそうな気がして、俺は高速バスターミナルまで勇作を送って行った。ターミナルに着くころ、温かかった風はすっかり冷え込んでいた。帰りが夕方になったら使おうと思ってバッグに押し込んでいたマフラーを勇作に巻いてやる。そんなことで大げさに喜ぶ姿は、飛び跳ねてじゃれつく子犬のようだった。
    「兄様、一緒に写真を撮ってもいいですか?自撮りというらしいです」
    勇作は少しかがんで俺と目線の高さを合わせ、不器用にスマホを掲げて写真を撮った。
    「勇作さん、家に帰り着いたらメールをくださいね」
    俺は柄にもなく、弟を心配する兄になっていた。
    「はい!必ずメールをします」
    高速バスに乗り込んだ勇作は、隣席の客に気を使いながら小さく手を振っていた。満面の笑みで大きく口を動かしている。その口の動きで“あにさま”と俺に呼び掛けているのがわかった。その後も、お互いの姿が見えなくなるまで勇作は車窓からずっと手を振っていた。
    「弟か……」
    俺は思わず独り言を漏らした。
     午後八時前に勇作からメールが届いた。やはり少し改まった文章で、無事に帰り着いた、今日はとても楽しかったと書かれていた。そして何よりも俺の館山訪問を心待ちにしていると。それに二枚の写真が添付されていた。一枚は昼に一緒に食べたデザート、少しボケていて逆光気味だったし、やっぱりアイスクリームは溶けていた。二枚目はバスターミナルで二人で撮った写真だった。上下逆さまになった二人の顔は上半分しか写っていなかったが、勇作が満足そうな笑顔で写っていることは十分にわかった。
    「……ドへたくそだな」
    俺はへたくそな写真を、何度も見返した。


    <第二章>
     三月最後の週末、俺は高速バスに乗って館山を訪れた。駅前で高速バスを降りると、勇作に到着の連絡を入れる。あらかじめ教えてもらっていた住所を、乗り込んだタクシーで告げると、ああ、あの花沢さんね、と言われた。タクシーは海沿いののどかな道を進み、車窓から見える海岸線は穏やかだった。十五分ほどで到着したのは、海を見渡せる立地に立つ大きな邸宅。想像を上回る大きさに俺は驚いて、受取った釣銭をタクシーの座席にぶちまけた。
     俺の電話を受けてから、ずっと門前で待っていたのだろう。海風で鼻先を赤くした勇作が出迎えてくれた。
    「おまちしてました!お迎えに行けずに申し訳ありません。お疲れではないですか?」
    「いや、バスの中ではずっと寝ていたから」
    勇作に案内されて門をくぐると、広々とした庭の先に海が見え、大きな屋敷が佇んでいた。この大きな屋敷に、勇作は住み込みの家政婦と二人で住んでいるという。この広さが、余計に家族を亡くした寂しさを掻き立てているのかもしれない。
     案内された広々とした玄関ホールには、先々代の花沢家当主であった祖母の肖像画が大きく飾られていた。勇作は祖母に顔立ちがよく似ていた。
    「勇作さんは、お祖母さん似なんですね、目鼻立ちがそっくりだ」
    「ええ、そうよく言われます。母も花沢の血筋で祖母とよく似ていたのです」
    「じゃあ、その整った顔立ちは花沢家の伝統なんですね」
    「兄様は、父上によく似てらっしゃいます。本当に、そっくりです……」
    そう言えば、俺は父親の顔もよく知らないままであったことを思い出した。
    「あらあら、ご到着されたのですね!」
    玄関ホールで話していると、住み込みの家政婦さんが出てきた。小柄な女性で、勇作の胸の高さにも届かないほどだ。
    「兄様、こちらは住み込みでお世話をいただいている小野田シマさんです。おシマさんは父上が子供の頃からここで働いて下さっているんですよ」
    「うふふ、ずっと住み着いている妖怪みたいなお婆さんですよ。ようこそいらっしゃいました、まずはお茶でもいかがですか?お疲れになられたでしょう」
    そう言ってリビングへと案内してくれるおシマさんは、七十代くらいだろうか、小さな垂れ目で笑う優しそうな雰囲気だった。亡くなった夫も花沢家で運転手として働いていたという。
     案内されたリビングは、大きな窓から先程の立派な庭と、その先に広がる海が見える。耳を澄ませば波の音が聞こえてきそうな景色だ。見える景色も素晴らしいが、部屋に飾られた絵画や調度品もまるで美術館のようだった。壁際に二つ並んで飾られた蓋つきの壺。古伊万里とかいう奴だろうか、絵付けが全面に細かく施されていて、思わず近寄って繊細な手仕事に目を凝らしてしまう。
    「兄様は焼き物にご興味がありますか?奥の部屋や蔵にももっとたくさんありますよ、ご覧になりますか?」
    「いいや、手書きでこれほどの絵柄はすごいなと思っただけです。うっかり壊してしまわないか、そちらの方が気にかかるくらいです」
    「そうですか、私と一緒ですね。こんな大きな壺に何を入れるんだろうとか、蓋は必要なんだろうかとか……その程度の感想しか持てません」
    「ははっ、普通はそんなもんですよ」
    屋敷中に美術品が飾られていても、肝心の家主が興味がないのではしようがない。勇作の言う、しかるべき場所へ寄贈するという案はもっともなことなのかもしれない。
    「おや、楽しそうですね。お茶が入りましたよ、こちらにお座りになってください」
    おシマさんがお茶とお菓子を持ってきてくれた。お茶を差し出してくれる、皺の寄った小さな手が、ずっと昔に亡くなった祖母を思い出させた。
    「お兄様に初めてお会いした日から、坊ちゃまは、ずっとお兄様のお話ばかりされるんですよ。お兄様が館山に来られると決まってから、坊ちゃまはずっと楽しみに待っていらして。カレンダーに印をつけられて、それからお兄様にお庭から海を眺めていただきたいって……」
    「お!おシマさん!恥ずかしいので、そういう事は秘密にしてください」
    身振り手振りで説明するおシマさんの手を取って、勇作は必死に口止めをしようとしていた。そんな二人の空気感は、傍から見れば仲の良い祖母と孫のようだった。
    「そういえば、ご両親のお葬式は勇作さん一人で取り仕切ったんですか?大変だったのではないですか?大きな家ですから、なおさら弔問客も多かったでしょう」
    「いいえ、殆どのことはおシマさんや菊田さんが取り計らってくれましたから。私は霊前にただ座っていただけです」
    屋敷の広さに対し住んでいる人が少ないからか、なんとなくひんやりとした屋敷の中にはまだ葬式の線香の匂いが染みついているように思えた。

     おシマさんが用意してくれた昼食を三人で囲む。軽く十五人は座れる大きなダイニングテーブルの隅に、三人で肩を寄せ合うように座った。
    「両親が亡くなってから、一人で食事をするのは味気なくて、おシマさんに一緒に食卓に着いてもらっているんです。もう十分大人なのに、変ですよね」
    「こんなに大きいテーブルで、一人だったら誰でも味気ないと感じますよ。この家は何もかも大きいから、余計そう感じるのでしょう」
    「お兄様が来てくださって、一人増えただけでも何となくにぎやかになったように感じますね。お料理をするにも張り合いがあって楽しいですよ。お夕飯はお兄様のお好きなものにしましょうね、お魚はお好きですか?」
    勇作に、日帰りで行くと言ってあったはずだが、うまく伝わっていなかったのか。
    「ああ、俺は夕方にはお暇します。また日を改めてゆっくりお邪魔します」
    「あらぁ、そうですか、てっきりお泊り頂けるかと……」
    勇作とおシマさんは、並んでしょんぼりと肩を落としていた。こういった資産家というのは、気軽に遊びに来るような相手はないのだろうか。そう言えば勇作が、知り合いと呼べるような人も碌に居ないと言っていた事を思い出した。
    「勇作さんは、大学を卒業してからすぐに家業を継がれたんですか?いま、お仕事は?」
    「花沢家で経営している会社は、すべて父が見ていました。しかし両親が亡くなってからは、それぞれで社長を立ててもらって、私は代表権のない取締役に退きました。才能のない社長では、社員がかわいそうですから。それからは、毎日家の中にある美術品や工芸品の目録を作っています。ゆくゆく寄贈するにも売却するにも、どんなものを所有しているのかわからなくては話になりませんからね」
    「毎日目録作りですか、一見、悠々自適でうらやましいですが飽きそうですね。しかも、勇作さんは美術品に興味がないと来ている」
    「ふふふ、まさにその通りなんですよ。全然進んでいなくて、敷地には蔵が三つあるのですが、まだまだ開けてもいません。先週、父の書斎にあった古銭をようやく整理し終わったところです」
    「坊ちゃまも頑張ってはいらっしゃるんですよ。でも、量が膨大ですから、いつ終わるのか見当がつかないのです」
    「それは気が遠くなりそうな話ですな。俺も手伝いますよ、ただし壊れ物以外を担当させてくださいね」
    「それは助かります!私も壊れ物以外を担当したいので、じゃんけんして決めましょうね!負けませんよ」
    俺たちが冗談を言い合う様子を見て、おシマさんは優しく笑っていた。

     食後、庭へと誘われた。俺がやって来たら海を眺められる様にと勇作がベンチを置いたのだという。庭に植えられた木々や草花の奥に穏やかな海が広がっている。
    「ここからの景色を兄様にぜひ見てほしかったんです」
    「これは贅沢な眺めですね……」
    まだ海風は冷たかったが、二人並んでベンチに座り海を眺めながらとりとめのない話をしていると、いつのまにか勇作の質問攻めにあった。どんなお仕事をなさっているのですか?休日は何をして過ごされますか?食べ物は何がお好きですか?旅行はお好きですか?お車は運転なさいますか?本はお好きですか?映画は?スポーツは?小さい頃はどんな子供でしたか?俺は子供の頃よく母親が作ってくれたアンコウ鍋のこと、二人でよく行った小さな動物園のことを話した。俺の掴みもオチもない話を、楽しそうに聞いて笑っていた。
     俺は一服したくなって、ポケットから煙草を取り出して口に咥えた。
    「私も吸ってみてもいいですか?」
    煙草に憧れるのは中学生までかと思ったが、二十歳を過ぎたはずの弟には煙草を止められないだらしなさがかっこよく見えるらしい。真似してみたくてしょうがないといった様子だ。
    「未成年でもないし、いいでしょう。どうぞ」
    ぎこちない手つきで咥えた煙草の先にライターの火を近づけてやるが、巻紙が燻されるだけでなかなか火が着かない。
    「煙草ってのは、火をつける時には吸うもんなんですよ。軽く吸ってごらんなさい、そうすれば火が着くから」
    「はい!」
    軽く吸えと言ったのに、予想通り勇作は思い切り吸い込んで身を屈めて咽込んだ。
    「勇作さんに煙草は似合いませんよ。どうせ酒も飲まんのでしょう?」
    咽て赤い顔をした勇作は少し涙目になっている。
    「私だってお酒を飲んだことくらいあります。ですから煙草だって慣れれば吸えるようになります!」
    ムキになっているところがまだまだ子供らしい。
    「そうですか、では次に来たときは一緒に飲みましょうか。でも、煙草は止したほうが良さそうだ。俺はもう少し向こうで煙草を吸ってきます」
    まだ胸元を擦りながら咳払いしている勇作をその場に残して、煙草の煙が届かないように庭の奥へと移動した。海に突き出す庭の突端に咲いていた白い水仙が、海からの風で首を左右に振るように揺れていた。そうか、この屋敷は海に張り出す丘の上に建っているから、先端が崖になっているのか。俺はその崖下がどうなっているの見ようと、先端へと踏み出した。芝生が途切れガレ場の様になった部分に足を乗せると、途端に足元が崩れはじめた。まずい、滑り落ちる。俺は尻もちをついて何かにつかまろうと地面に手をついたが、手に当たるのは石ばかりだった。その時、俺の腕を誰かが掴んだ。振り返ると、先程まで赤い顔で咳き込んでいた勇作が、今度は嘘のように青ざめた顔で必死に俺の腕を引っ張っていた。
     尻もちをついて滑り落ちそうな俺を、腹ばいになって引っ張り上げる勇作。難を逃れ安堵したころ、二人の服は泥まみれになっていた。
    「先端は危険だとお話するのを忘れていました。私が子供の頃、そこから祖母が落ちて寝たきりになったのです。危ないですから、こちらへはあまり近づかないようになさってください」
    「勇作さんがいてくれて助かりました……」
    俺は今だ収まらない心臓の早鐘と冷や汗を飲み込んだ。
     勇作の祖母、先々代当主はこの崖から足を滑らせ転落したという。そのことに誰も気づかず発見された時には、潮が満ちて危うく流されかけていたという。転落時におった多数の外傷と脳挫傷によって寝たきりとなり、その後呆気なく亡くなったそうだ。
     二人が泥だらけの姿で屋敷に戻ると、おシマさんは漫画の様に飛び上がって驚いていた。崖から落ちそうになったという話を聞いて、今度は面白いほど慌てて怪我はないかとあちこち触って確かめてきた。さっきまで死を意識して青ざめた顔をしていたのに、なんだか急におかしくなって二人で顔を見合わせて笑いだすと、笑い事ではありませんとおシマさんに泣きながら怒られた。二人並んでお説教されている間、俺たちの手首をつかむ皺の寄った小さな手が、とても温かくて怒られているのに何故だか安心してしまった。
    「おシマさん、お説教は十分効きました!もう危ない事はしません。そろそろ兄様に何か着替えを出してあげてください。父上の使っていたものがあるはずです」

     おシマさんは一枚の着物と羽織を出してきてくれた。
    「きっとお兄様にはこのお着物がお似合いになりますよ。大島紬です。旦那様がお若い頃に仕立てられて、ずっとしまってあったのです」
    羽織ってみると、不思議と肌になじんだ。あまり血色の良くない顔立ちに会う着物の色なのだろう、紬という素朴な雰囲気がある中でも細かい織り目が控えめな光沢を生んでいる。
    「このお着物の生地をお選びなったのは、お母さまですよ……」
    おシマさんは静かに帯を締めながら小声で言った。そうか、父親が子供の頃からこの家で働いていると言ってたから、俺の母親のことを知っているのか。
    「おシマさんは、俺の母のこと知っているんですか?」
    「ええ、存じ上げております…………さあ、帯が結べましたよ。やはりよくお似合いです!」
    俺は父と母のことを聞くべきなのだろうか。今まで本人からも、周りの大人たちからも聞かされることのなかった、二人の事情を知るべきなのだろうか。
    「さあ、坊ちゃまにお見せしましょう。きっと喜んでくださいますよ」
    「着物なんて着慣れないので、戸惑いますね。転んでしまいそうだ」
    「いつもよりも幾分小股でお歩きになられると足元が絡みませんよ。お洋服が乾くまでですから、しばらくご辛抱ください」

     慣れない着物に右手右足が同時に出そうになる。あまりにもぎこちない歩き方をおシマさんに笑われながらリビングに戻ると、勇作も着替えを済ませて戻ってきていた。
    「ち、父上にそっくりです……お着物だからでしょうか、すごくそっくりです。そのお着物、とてもお似合いです。そうだ、兄様一緒に写真を撮りましょう!」
    「いいですよ、この間の写真は酷いものでしたからね。今度はちゃんと顔が写っている写真を撮りましょう」
    庭へ出て二人づつ並んで写真を撮る、勇作と俺、おシマさんと俺、勇作とおシマさん、かわるがわる並んで写真を撮った後、おシマさんを挟んでベンチに座り、俺が自撮りで写真を撮った。今日の写真は全部ちゃんと顔が写っている。
    「今度はちゃんと写っているでしょう?俺にもメールで送ってください」
    勇作は嬉しそうに撮れた写真をスマホの画面で確認している。ふと風が吹いて、どこからか早咲きの桜の花びらが飛んできた。季節外れの雪でも舞っているようで、空を仰ぐと暖かな太陽が見えて、ああ春なのだなと再確認する。ふわりと舞う花びらが、蝶が留まるように勇作のこめかみに落ちた。俺は指を伸ばしその花びらをつまみ、払おうとした。その瞬間、勇作の身体がびくりと跳ねた。
    「……ごめんな、さ、い……」
    先程まで笑顔で写真を見ていた勇作の手から、スマホが滑り落ちた。どういう訳か、身体をこわばらせ青い顔をして両手であまたを覆っている。脈絡のない謝罪の言葉を小さくつぶやいている。普段の優雅な雰囲気からかけ離れて落ち着きなく膝をゆすり、浅く速い呼吸で背中が上下している。
    「もうしわけありません、つぎはかならず、ごきたいにそえるよう……いいえ、はい、はい……ごめんなさい……」
    俺は勇作の足元にしゃがみ込み、落ちたスマホを拾って視線の先から覗き込んだ。勇作の見開かれた目はあてどなく動き回り、どこかに出口を探そうと必死になっているようだった。
    「……どうした?大丈夫か?」
    勇作が俺の目を見て何度か瞬きしたのを確認すると、揺さぶっていた膝に手を添えて少し擦ってやった。
    「あの……眩暈がしたのです」
    嘘が下手だ。膝をさする俺の手に、重ねられた勇作の手は先程崖で俺を助けてくれたあの手とは別人の様に冷たかった。おシマさんも何も言わず勇作の隣に座り、巻いていたストールを肩に掛けてやって、背中に手を添えていた。
    「そうか、部屋に入って少し休もうか?」
    勇作がうなずく拍子に、一粒の涙が落ちた。こぼれだした涙と感情は押さえようがないらしく、膝の上で重ねられた俺たちの手にも降ってきた。さっきの言葉が誰に向けられたものなのか、俺には知る術もないが、両親という後ろ盾を失って一人で名家の伝統を守ることは並大抵のことではない。勇作の毎日は、遺品を整理して海の眺めているだけかのように言っていたが、俺には話していない面倒ごとも抱えているのだろう。やはり共同管理者になって正解だったかもしれない。あの時断っていたら、今ここで勇作は一人で泣いていたのだ。
    「勇作さんは十分頑張ってますよ、不安もあるでしょうけれど俺も付いています」
    「兄様……」
    勇作は倒れ込むように俺に抱きついて、子供の様に泣き縋った。太陽に照らされて、茶色く透ける柔らかそうな髪を撫でると、先程の花びらが風でまたどこかへ飛んで行った。勇作のため込んだ不安や悲しみを受け止める相手になれたことに、俺はうれしさを感じていた。こいつを一人で泣かせてはいけないと、俺の本能がそう訴えているようだった。

     本当は日帰りの予定で夕方には館山を立つつもりでいたが、先程の勇作の様子を見て一泊して行くことにした。思い切り泣いて少し落ち着いたころ。情けないことろを見せたと恐縮し小さくなっていた勇作に、今夜は一泊して明日の夕方に帰ろうと思うと告げた時の安心した表情が忘れられない。
     夕食を終えて今夜泊まる客間に通され、父親が使っていた服を夜着としておシマさんが出してきてくれた。
    「坊ちゃまに優しいお兄様が出てきて私も安心です。私も、もうこの歳でございますから、坊ちゃまのお側にあと何年いられるかわかりません。お兄様がいてくだされば、私の心配事も消えます」
    「いくら異母兄弟とはいえ、今までは見ず知らずだったのです。そんな俺をこんな豪邸に呼び寄せて、気軽に泊まらせるなんて少し不用心ではないですか?高価な調度品を盗まれるかもしれないし、勇作さんを騙すことだってあるかもしれませんよ」
    勇作とおシマさんはなぜここまで俺を無条件で信用するのだろうか。この部屋の飾り棚に置かれた小さな香炉を懐に入れてしまわないと何故断言できるのだろう。
    「いいえ。私はお兄様のお母さまが、こちらのお屋敷に嫁がれて来たころを存じております。お母さまが花沢家におられたのは一年半くらいでしたが、とてもお優しい聡明な方でした。そんな方の息子さんですから、坊ちゃまを騙したり傷つけたりなんてなさらないとわかるんです」
    「……そんなもんですかね」
    俺の納得いかない顔に、おシマさんは優しく微笑みかえす。
    「ええ、人というのはそんな単純なものだったりするのですよ。では、お先に休ませていただきますね、おやすみなさいませ」
    俺の母親はこの屋敷で一年半も暮らしていたのか。どこかに母親の痕跡を探す様にこの屋敷の情景を思い出した。さっき着せてもらったあの着物が仕立てられたのは、その一年半の間だろうか。俺が今まで知らなかった、その頃の話をいつかおシマさんに聞きたいと思った。

     翌日、書斎にある収蔵品整理を手伝った。書斎は天井高の大きな窓から望む海と、白い大理石の床が素晴らしいコントラストを作っていたが、何故だか青白く冷たい印象がした。蔵書類を窓からの紫外線から守るために、長く張り出した軒のせいだろうか。
    「なんだか、すごく寒々しく感じる部屋ですね」
    「床が大理石でできているからでしょうか、私もこの部屋はあまり好きではありません」
    スリッパを履いていても底冷えするような、こちらの体温を奪おうという意思を持った冷たさを大理石の床から感じた。
    「……でも、唯一好きなのはここにある床の模様です。人の顔に見えませんか?」
    白い大理石に黒いマーブル模様が入り、たしかに人間の顔に見える。点が三つあれば人間はそれを顔だと本能的に認識するらしい。確かその現象に何か名前が付いていたような気がする。
    「ああ、確かに顔に見えますね」
    「子供の頃からこの模様が大好きで、父上が不在の時にこっそり書斎に忍び込んで眺めていたんです。角度や時間によって表情が変わるように思うんです」
    「子供って言うのは、こういう模様やシミが顔に見えるのをお化けだとか幽霊だとか言って怖がるものなんじゃないんですか?」
    「そうかもしれませんね。でも、私はこの顔がすごく好きなんです……」
    じっと見ていると左上を見て、何か言いだしそうに少し口を開けている表情にも見えてきた。
    「じっと見てると確かに顔に見えるし、何か話しだしそうですね」
    誰もが子供の頃にいるという人格を持つ架空の友人、イマジナリーフレンドは勇作の場合、床のマーブル模様と言う事なのか。
     俺たちはそれぞれに手分けして目録作りの作業を進める。勇作は戸棚から懐中時計のコレクションを取り出し、白い手袋をはめて一つ一つ検めている。手元に置いたパソコンに何か入力しては、カメラで写真を撮っていた。
     俺は扉付きの書架に収められたイタリア語で書かれた稀覯本を整理する。素手で触れないように気を付けながら、ずらりと並んだ本のタイトルを背表紙から読み取り収められている棚の位置と共にメモしてゆく。稀覯本はとても古く棄損しやすい、扱いを誤ると価値が下がってしまう。そのメモを基に、太陽が沈んで紫外線が少なくなった時間帯に勇作が目録を作るそうだ。俺は少し手伝っただけで、目録作りの面倒を思い知った。
     約三百年前の本ですなんて言われて、一気に肩ひじ張ってしまった俺は一息つきたくなって書架の扉を閉め、少し書斎を見て回ることにした。ふと壁に目をやると、洋風な書斎のインテリアになじまない一枚の水墨画が掛けられている。その水墨画は父親から送られていたあの絵葉書と同じだった。そして俺は、その水墨画のことを初めて思い出した。

     確かあれは、俺が小学校に入学する少し前だったと思う。母親に連れられて画廊へと行った。小学校入学に合わせて練習していた漢字の名前を書きたくて、芳名帳に枠線からはみ出すほど大きな文字で氏名を書いた。すると、隣で見ていた知らない男性に話しかけられた。
    『とても元気で上手な字を書くね。枠にとらわれずに活き活きとしていて、とても良い字だ。きっともっと上手になるよ』
    俺は褒められた事が嬉しくなって、入学式用に練習していた自己紹介も披露した。俺と目線を合わせるようにしゃがみ込んだ男性は、頷きながらそれを聞き終わると大袈裟に拍手してくれた。そして一緒に絵を見て回らないかと誘われた。母親をちらりを仰ぎ見ると行っておいでと言われ、男性に手を握られて画廊に飾られた絵を見て回った。一通り説明を聞きながら見て回った後、画廊のソファに並んで座り少し話をした。
    『百之助君はどの絵が一番好きかな?』
    そう問われ、俺は確かにこの水墨画を指さした。山峡に建つ小さな東屋を背景に二匹の鶴が並んで飛んでいる絵だった。
    『この絵は白と黒だけど、これは霧ですか?雪ですか?』
    『とても利発でよい子だね、君はどちらだと思うかね?』
    俺は山峡にある滝の水しぶきが霧になったのか、それとも昨晩の雪が綿に様に斜面に積もっているのかと想像していた。
    『鶴が飛んでいるので雪だと思います。……鶴が飛んでくるのは冬です!』
    いつか薄氷の張る湖に飛来した鶴を見に行ったことを思い出した。
    『本当に聡い子供だ。いいかね、鶴と言うのは夫婦の象徴でもあるんだよ。共に千年を生きる夫婦の象徴だ。君は七夕の物語を知っているかな?カササギという鳥は織姫と彦星を合わせてくれる鳥だ。二人を隔てる天の川に橋をかけてくれるのはこの鳥なんだ。覚えておきなさい』
    そう言って男性は何度も俺の頭を撫でた。俺もすごくいい気分で、きっと小学校の入学式でする自己紹介は上手くできるに違いないと思っていた。

    そうかあの絵葉書にあった水墨画と和歌の意味は、このことだったのか。

     かささぎの 渡せる橋におく霜の
     白きを見れば夜ぞ更けにける

     会うこともままならない二人、二人のために掛けられたカササギの橋はあれど、その橋には白い霜が降り、誰の足跡もついていない。そのまま夜は只更けてゆく。
     まるで精神世界では夫婦の関係が続いており、親子として対面しないのは敢えてのことだと言わんとしているようだ。
     書棚に飾られた写真立てには俺とよく似た一人の男性がひげを蓄えて写っている。そうだ、この人だ画廊で俺に鶴とカササギに話をしたのは。そして母親の葬儀の時に菊田さんの隣で帽子を目深にかぶって立っていたのもおそらくこの人だった。
     俺はてっきり自分たち親子は父親に捨てられたのだろうと思い込んでいたが、そうではなかったようだ。そういえば母親は最期まで俺に離婚の理由を話さなかった。俺から理由を尋ねればよかったな。おシマさんは理由を知っているだろうか。

    「その絵がお気に召しましたか?」
    俺がぼんやりと水墨画を眺めていると、懐中時計の整理が終わった勇作に声をかけられた。
    「ああ、いや見たことのある絵だなと思って」
    「その絵は父上の一番のお気に入りだったのです。よかったら兄様に差し上げます、お持ちになってください」
    「いや、いいですよ」
    俺が断りの言葉を言っているのに、勇作はさっそく水墨画を壁から取り外してしまった。
    「ずいぶんと長い間ご覧になられていましたね。父上が好きだった絵を兄様が持っていてくれたら、きっと喜ぶと思います」
    「俺の住んでる部屋は絵なんて飾るような趣のあることろではないですから」
    「では、この屋敷に兄様の部屋を作ってそこに飾るのはいかがでしょうか?この屋敷に兄様が戻られる場所があると思えば、少しは寂しさも和らぎます」
    そう言って、昨晩泊まった客間を俺の部屋としてしまった。壁に掛かっていた絵画と先程の水墨画を取り替えると、勇作は満足そうにうなずいた。
    「兄様のお部屋は、私の部屋の向かいです。これならいつでも近くにいる気がします。近いうちに必ずまた来てくださいますよね?」

     おシマさんは俺がうまいと褒めた茶菓子の枇杷ゼリーを手土産に用意してくれた。それを持って屋敷の玄関を出ると、ごく自然な仕草で勇作が手土産の紙袋を持ってくれた。その流れで、また自然な仕草で俺の手を握ってきた。少し大きくて暖かい手だが、迷子にならないようにと必死に親の手にすがる子供のようにも思えた。タクシーで屋敷を出て東京行きの高速バスに乗り込むまで、勇作はずっと俺の手を握っていた。大人になった兄弟が手をつないでいるのはなんか変だろうと思うが、勇作が凄く寂しそうにしているのでそのままにさせておいた。
    「兄様、館山はいかがでした?気に入ってくれましたか?」
    「ええ、いい所ですね。海がきれいで風が澄んでいる……」
    「私はあの家が嫌いです。それでもあの家から離れることはできません。……でも、あの家に兄様が戻られる部屋が出来ました。だから、もう少し頑張れると思います」
    俺はもし花沢家を継がなくてよかったら、どんなことをしてみたいか尋ねようとして、その言葉を飲み込んだ。あり得もしないたらればは、覚悟を決めて家を背負っている勇作にとって酷な質問だろう。ただ、曖昧な相槌を返すだけしかできなかった。
    「兄様、メールをしたらお返事をくれますか?」
    「ええ、もちろんしますよ」
    「もし、声が聞きたくなったら電話をしてもいいですか?」
    「ええ、かまいませんよ」
    「電話するなら都合のいい時間はいつでしょうか?」
    「勇作さんが掛けたいときに掛けてくればいいですよ。都合が悪ければかけなおしますから、好きな時に電話してきてください。俺も電話しますよ」
    「……嬉しいです」
    俺が乗った高速バスが出発する時、車窓を見上げ、胸もとで控えめに手を振る勇作は縋るような表情をしていた。出会ったばかりの弟がひどく頼りなく、幼く見えた。



     勇作は毎日の出来事をメールしてくるようになった。そのメールには必ず写真が添付されている。今日おシマさんが作ってくれた季節のおかず、庭に咲いた花、勇作とおシマさんの自撮り、目録作りで見つけた面白い柄の陶器、使い道のわからない骨董品など。相変わらず写真の腕前は残念で、ピントがずれていたり指が入り込んでいたり、肝心の被写体が見切れていたりする。目録作成で写真を撮っていたが、本当にこの腕前で大丈夫なのだろうか。そう心配になる程、へたくそな写真が面白くて届くたびに笑ってしまう。仕事終わりにスマホを確認して、勇作からのメールが届いていると、それを開くのが楽しみになっている俺がいた。短い返事と、今日の写真の出来栄えを百点満点で評価して送る。今のところ最高得点は六十点だ。
     勇作が電話をかけてくるのは、決まって大雨の夜か、風の強く吹いている夜。心細くなって声を聞きたかったのですと、か細い声で告げる。
    「お屋敷は海辺に建っているから、雨や風の音が特に大げさに聞こえるんですよ。大丈夫、何も怖い事なんてありません。布団に潜り込んで少し眠れば、すぐに朝が来て雨も風もやみますよ」
    「こんなことで心細いなんて言葉を口にするのは、情けない人間でしょうか。でも、こんなことを言えるのは兄様だけです。……これまでも、これからも」
    弱音や愚痴を言葉に出さず、平気でいられる人間なんているだろうか。勇作は花沢家の当主としてふるまう為にそれを我慢しているのだろう。まだ二十三歳だ、本当だったら弱音も愚痴も友達にでも話して発散してるはずだ。
    「ああ、そうだ。五月の連休ですが、まとまった長い休みが取れそうなんです。また館山にお邪魔してもいいですか?腰を据えて目録作りのお手伝いをしますよ。これでも一応は共同管理者ですからね、何か役に立たなくては」
    「本当ですか!?もちろん!もちろんです、とっても楽しみです。きっとおシマさんも喜びます!あと三週間後ですね、ワクワクしてきました」
    電話口の向こうで飛び上がって喜んでいるであろう勇作の姿が、容易に想像できた。目録作りの役に立つかはわからないが、話し相手くらいは務まるだろう。俺にとっても、訪問を心待ちにしてくれる相手は勇作くらいなのだ。
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