蓋をかぶせて.
「お前な、急に術を唱えるな! 当たるところだったろ!」
「あれは周一さんの判断が遅いせいでしょ。当たらなかったからいいじゃないですか」
「……おれごと壺に入れる気だったくせに」
「あはは。いいですねそれ。周一さんが手元にあったら楽しいだろうなあ」
楽しくない。的場の明るい声を聞きながら、名取は苛立ちを抑えるように溜息をついた。
空はやけに澄んでいた。雲は遠く、風もない。空気が湿り気を増しているが梅雨には早い、そんな時期だった。
蔵で調べ物をしていた休日に、突然押しかけた的場に山奥まで連れてこられたのだ。そこで始まった妖捕り物をようやく終え、ひと息つけたのが今だった。
山道を降りた先に、ぽつんと立つ古びたバス停。ふたりはどちらからともなく、その日陰に腰を下ろした。
「……近い」
「狭いから仕方ないよ」
悪びれもせず言い切る的場に、名取はムッとして顔をしかめる。確かに日陰は狭い。でも、わざわざ隣にぴったり座る理由にはならない。
それでも文句を言う気力がなく、黙って前を向いた。昨夜あまり眠れていなかったこともあって、頭の芯が重たかった。
初夏の空気はじっとしているだけでも汗をにじませる。古びた木のベンチは小さくきしみ、乾いた熱が太ももからじわじわ染みてくるようだった。
ふと、的場の肩が触れた。
熱いような、そうでもないような、曖昧な体温。
的場は壺を手にしていた。先ほど妖を封じ込めた、焦げ茶色の陶磁器。淡々とした視線――ただ、それだけじゃない感情がはらんだ眼差しを、どこかで見たような気がする。
記憶の糸を手繰るように整った横顔を見つめていたが、やがて視界の輪郭がゆるくぼやけていく。
「眠い?」
思ったよりも近い声に、名取はふるりと震えた。いつの間に壺をしまったのか、的場の手元には何もない。眠気に抗おうとする様子をどこか興味深げに覗いている。
気になって返事をしようとしたが、どうしても瞼が重い。
「ん……」
目を閉じたのは、ほんの数秒だけのつもりだった。
□
どこかで遠く、鳥の鳴く声がした。ふと目を覚ます。
日はまだ高いはずなのに、名取の肩にはうっすらと影が落ちていた。
頬に触れていた、なにか温かいものがそっと遠ざかる――的場の肩だった。寄りかかっていたらしい。無意識に、というには少し都合が良すぎる距離だった気もする。
自分の手も的場の腕に触れていたようだ。名取は緩慢に体を起こし、目をこすった。
「悪い、寝てた……」
まだ頭の奥が霞んでいるようだった。指に残る的場の熱が、妙にやさしく滲んでいる。
寝起きのぼんやりとした意識のまま、名取はちいさく笑う。
「……ぬるいな」
的場が目を丸くしてこちらを見た。
「何が?」
散漫とした思考のまま、思ったことがそのまま口をついて出た。
「いつもはお前の方が熱いのに」
その一言で、的場の目がわずかに細められる。
唇の端がゆるく持ち上がり、表情に微かな熱が差した、気がした。
「…………へえ」
それだけ言って、的場はすっと身を乗り出す。名取の視界に黒い髪がかかり、鼻先をくすぐった。見下ろされるように目が合って――そのまま躊躇いもなく唇が塞がれる。
「え――」
触れた瞬間、名取の呼吸がかすかに揺れた。
深くも、浅くもない。けれど逃げられない。触れている温度よりも、流れ込んでくる熱の方が重かった。
「んっ……、ン」
的場の呼吸が、名取の奥底を焦がしていく。
顎に添えられた指がそっと角度を変えて。唇の合間をなぞりあげる舌の感触と、的場の汗のにおいに背筋がぞくりと震える。頬がじりじりと熱を帯びていくのが分かる。息を吸うたびに、体の内側に火種が溜まっていくようだった。
やがて唇が離れると、的場は見下ろした体勢のまま口角を上げた。
「いつもって、いつのことです?」
まるで無邪気な悪戯の後みたいな声音だった。けれど、その呼吸はどこか浅い。
名取はとっさに目をそらして頬に手を当てた。熱が引かない。こんな状態でまともに言い返せるわけがない。
「……お、お前なあ! いきなり何するんだよ!」
「これより凄いことをしたくせに」
おれに触られて思い出したんでしょう、と的場は笑いながら手を伸ばした。口調はいつもの軽さを保っていたが、隠しきれない衝動が目の奥に滲む。
名取は思わず立ち上がった。ベンチが悲鳴のような軋みを上げる。驚いた的場の指先はブレたが、それでもわずかに首筋をかすめていった。
ほんの一瞬、それだけで心臓がドッと跳ねる。
――先月の夜も、あの手は迷いなく伸びてきた。
強引じゃなかったのに、拒めなかった。言葉もないまま交わし合った、埋み火のような熱だけが名取の中に残っている。
それを思い出した瞬間、胸の奥がざわついて耳のあたりまでカッと熱くなる。
あの夜のことはなかったことにしたかった。
的場は何度か言いかけてはやめるような顔をしていたけれど、結局何も言わずにやり過ごしている。
ただでさえ、束の間の曖昧な関係だ。
それに形なんて与えてしまえば、この男と切っても切れない仲になってしまうのではないか――名取には、それが何よりこわかった。
ただ思い出した。それだけのことだ。それでいい。たとえその熱が、確かに己の内側を焼いたとしても。
名取はベンチを離れ、数歩だけバス停の外へ出る。
風が頬を撫でていく。赤くなった顔を冷ましたかった。少しでも距離を取れば、気持ちも落ち着くはず――そう思っていたのに。
背中に刺さる視線をどうしても振り払えなかった。
「…………お前は、やっぱり熱いよ」
口に出してから、しまったと思った。
冷ますはずだった感情が、逆にぶわりと吹き上がる。
突き放したかったはずの言葉に拗ねたような響きが滲んでいたなんて、聡い的場が気付かないはずがない。
案の定、一拍置いて笑い声が上がった。
さっきまで壺を見ていたときの静けさはもうどこにもない。今はただ、名取の背中を面白がるように、それでもどこか真っ直ぐな眼差しで見ているのだろう。
追ってはこない。しかし、それが引いたわけではないことくらい名取には分かっていた。
息を整えて、そっと目を伏せる。
的場の瞳の奥にある感情は、まだ知らなくてもいい――名取はそう思うことにした。
風がゆるやかに吹きはじめている。
けれど名取の指先には、あのとき触れた熱が静かに貼りついたままだった。