白萩の君へ「白萩の君へ」
流れる黒髪。父上の羽織の陰からじっと、こちらを見つめていた金と碧の瞳。
俺は、あの瞬間――初めての恋に落ちた。
嫋やかな風情は、秋風に揺れる尾花のよう。艶やかな髪に見え隠れする白い頬は、叢雲にそっと身を隠すお月様のようだった。
その子の名は、伊黒小芭内。
「小芭内ーッ!おめでとう!起きているか!?君の誕生日だ!!」
俺は大量の芋羊羹を携えて、小芭内宅の玄関を引き開けた。
九月半ば。朝は、少し冷えるようになった。朝つゆが玄関先の竜胆に輝いている。
「爽やかな朝だ!小芭内!」
勝手知ったる幼馴染の家。居間、書斎。最後にガラリと寝所の襖を開けると、布団の上に小芭内が身を起こしていた。まだ、目が覚めきらないのだろう。白い頬はなお白く、ぐったりと額に手を当てている。
「元気だな、杏寿郎…昨晩の夜警任務は休みだったのかね?」
「うむ、ごく一般的な鬼が1体!俺が駆けつけた時には、隊士の手で始末されていた。俺の仕事は報告書を上げたくらいだったな!…よもや!君の方は何か大変な事件でもあったのか!?」
そんな問題じゃないだろう、と小芭内は布団を上げる。
「夜警任務の時は緊張しっぱなしで、体に堪える」
鍛え磨かれた背中の線は硬質で、しかし、それが故にどこか脆さも感じさせた。ああ、あの細やかだった君が、どれほどの努力でここに至ったことか!
「うむ。俺はどこでも一瞬で寝られるからな!君より少し楽をしているやもしれぬ」
「それで良かろうよ。俺が、緊張しすぎるんだ」
優しい小芭内の微笑みに、俺は思わず満面の笑みを返した。
少し整えてくるから、縁側で待っていてくれと、君が俺の肩に触れて寝所を出る。さらりと滑り落ちる黒髪が、初めて会ったあの晩を思い起こさせた。
芋羊羹と共に縁側に出る。縁側の傍には、白と紅の萩の木が植っていて、朝風にかすかに揺らいでいた。
「待たせたな」
小芭内が、俺の傍らに野点の茶盆を置く。
「ほう!萩模様か。秋の七草だ」
軽く頷いて、小芭内は茶碗に湯を差し、茶を点て始めた。爽やかな抹茶の香りに鼻をひくつかせながら、俺はその様子を覗き込む。
「…そう俺の手元ばかり見るな。庭の萩でも見ておれ」
小芭内が困ったように目尻を赤らめる。スラリと襟を正す手先は、あの頃のまま、嫋やかに美しい。
「君の茶を点てる所作を見ると、母上を思い出すな!」
俺は、茶碗を受け取って笑った。
「ああ…手ほどきしてくれたのは、瑠火殿だったな」
「母上は、ずいぶん楽しそうだったぞ。茶花から茶碗から茶菓子まで、君は綺麗、綺麗と目を見張るから…」
俺に茶の手ほどきをする時の母上は、花を見なさい、茶碗を見なさい、お菓子に手をつけるのはまだですよ、と、そればかりであったが。やはり幼いながらに風流を解する小芭内の方が教え甲斐もあったのだろう。
「俺は父上と木刀を振るってばかりだったからな!」
ふふ、と小芭内が微笑む。
「杏寿郎は力強い子供だったな。俺に、木刀の握り方から教えてくれた」
あの頃、小芭内は箸より重いものを持ったことはなく、細く小さな手は木刀を持て余していた。
「君、あの時は確か、俺を女子と勘違いしていたな」
小芭内がちくりと俺を睨める。
そうだ。俺は当初、なぜ小芭内がそれほど無理をして鍛錬に加わりたがるのか、さっぱり理解できず――女子の君がなぜ、などと大声で尋ねてしまったのも、今では笑い話だ。
「あれは効いたぞ。あの一言で、俺は、男の子なら木刀ぐらい振るえねばと思い込んだ」
水の一門は意外と男らしさにこだわるから、後の修行のことを考えれば、悪くはない思い込みだったのだろう、うむ。
陽も高くなりかけてきた。秋空はどこまでも深く、青く。あの頃の俺たちのような子供の笑い声が、遠くに響いている。
「――そして、君は強くなった!鬼を斬り、柱まで上り詰めるほどに!」
俺は、君に正面から向き直った。
「血反吐を吐くほど鍛錬したのだろう。敬意を表する」
清楚な白萩の如き君に、温かな紅萩が如き友情を。俺が差し出した手を、ぐっと君が握り返す。
君の刀の鍔のように風雅な、南天の紅い実が零れる秋の庭先にて。蛇柱たる君を賀ぐ。
了