拳と拳「拳と拳」
九月半ばの空は高い。俺は、伊黒に飛ばした爽籟を見送って、まだ暑さの残る陽光に眼をすがめた。今日は、あいつの…誕生日?らしい。甘露寺が一月も前からキャァキャァと大騒ぎしてて、俺はそんな西洋かぶれの祭りなどどうでもいいと思っていたんだが。…そういうものがある、ってなると、気になるのが人情なんだよなァ。
やがて、爽籟がごく簡単な手紙を持って戻ってきた。伊黒と俺のやりとりは、いつもそんなんだ。俺は字が書けないから、爽籟が覚えて喋れる程度のことを吹き込んで飛ばし、伊黒は俺が読める程度の手紙を寄越す。この時も“午後に来い”。それだけだった。
午後早く、俺は気にいりの甘味処で手土産を物色していた。といっても、伊黒は食べねェからなァ。結局俺の腹に収まるんだが、それでも相手の特別な日に手渡す品を選ぶのは、ほのかに心が浮き立つ気がした。
いつもは、餡子を効率よく食える簡素なおはぎ一択。だが、今日は、見た目も気ィ使った練り切りにした。菊の花型に、白い皮がかぶさっている。
「“着せ綿”、“着せ綿”…」
あいつなら、その意味を知っているのだろう。甘味処の女将から教わった菓子の名を口の中で繰り返しながら、俺は伊黒邸に走る。
門から庭に足を踏み入れると、着流し姿の伊黒が萩の枝を切り取っていた。
「“着せ綿”!」
俺は開口一番、覚えたての言葉を吐き出し、包みを突き出した。
「今日は特別に“着せ綿”だァ。お前の誕生日なんだろォ」
ポカンとしていた伊黒が、ふ、と笑みを浮かべた。床の間の花瓶に萩の枝を生け、ぐっと腰を伸ばす。
「重陽の節句に菊に綿を被せる“着せ綿”…か。どうせ、お前の腹に収まるものだろうがね」
茶盆に新しい湯を用意し、伊黒が、どかりと俺の横に胡座をかいた。鉄瓶から気楽に茶を注ぐ。
「…なァ、お前、ホントに茶の湯とかやんのかァ?煉獄が言ってたけどよ」
「ああ。そっちの方が良かったか?」
伊黒が、なんだか名前もわからん容れ物に手を伸ばした。
「いいって!俺は、普通にコレで」
お堅い茶の湯なんか出されたら、菓子が不味くならァな、と、俺は心にもない乱暴な口ぶりで茶を啜った。
伊黒は不思議な奴だ。甘露寺、宇髄、煉獄。聞く人ごとに伊黒の印象は微妙に違う。“優しくて素敵な王子様”なんて、甘露寺の寝言じゃねぇかと思うし、宇髄はなんか俺の知らねェ伊黒を知ってそうな顔で笑うばっかだし。煉獄のいう、上品で清らかとかもよくわからねェ。
俺の知ってる伊黒は、とにかく稽古の相性が良くて、本気で打ち合えて、最高に気の合う馬鹿話して笑い合う。それだけだ。
「珍しいな。お前が“誕生日”を祝おうなんて」
伊黒が、くすりと笑って茶を含む。一発、面白い返しでもひねって茶を吹かせてやろうかと思ったが、それにはあまりに俺の基礎知識が少なすぎた。
「あー…なんか甘露寺が騒いでたから気になってよォ。なんだ?西洋の祭りなんだろォ?」
「ん、祭りというか、個人単位の祝いだな。西洋では、個々の生まれた日にちなんで、一緒に飯を食ったり、贈り物を渡したり、占いをしたりするんだそうだ」
「占いィ?」
伊黒が、きゅるんと大きな瞳を瞬いて、上目遣いに笑う。たぶん、俺しか知らない顔。こいつが悪戯を仕掛ける時の顔だ。
「占ってみようか。俺は乙女座で、お前は…ほら射手座だ」
少女雑誌の頁をめくって見せる。なんだか麗々しい挿絵を指さされると、こそばゆくて、俺はウヘェと肩をすくめた。
「なになに…“乙女座の貴女。射手座の彼との相性は”」
ン?
「几帳面で分析的な乙女座の貴女。自由奔放で直感的な射手座の彼にはイライラしちゃうこともあるかもしれません。でも大丈夫!この出会いは、お互いを大きく成長させる機会です。どちらも高みを求める者同士、お互いの違いを理解し、良さを認め合えば最強の二人になれちゃいます♡キャぴん♡」
最後の“キャぴん”って何だ。思わず茶を吹き出した俺を、伊黒は満足げに笑って眺めている。
「アホがァ…恋愛占いじゃねぇか」
「そうかね。“高みを求める者同士”“最強の二人”。俺たちにぴったりだろう」
…確かに、そうかもなァ。やっべ、笑いが止まらねぇ。
伊黒は澄ました顔で次の頁をめくる。
「そんな射手座の彼に、また会えるおまじないは――…」
俺は笑い涙を拭き、グッと拳を握って伊黒の前に突き出した。
「おまじないなんか要らねェ。また生き残って、明日の晩、いつもの古寺に稽古に来い!」
伊黒が、二色の瞳に笑みを浮かべて、俺の拳に拳を突き当てた。
――俺たちの間に、特別な約束なんか要らねェ。ただ、俺だけに見せるその笑顔があればいい。俺には、それが一番大事なことだ。
だから、誕生日の晩くらいは甘露寺に譲ってやらァ。なァ?伊黒。
了