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    キャリコ

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    キャリコ

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    ブライテスト・ダークネス①
    含む要素:過去捏造/いじめ/

    あの事故の日から、兄はすっかり変わってしまった。かけっこが速くて、友達がいっぱいいた兄。学校から帰るなりランドセルを玄関に置いたまま遊びに行って、どろんこになって帰ってくる。私は虫が苦手だったから、兄が取ってきたセミやら芋虫やらにいつも泣かされていたっけ。
     リカちゃんが交通事故に遭ってからだった。警察に連れられて家に帰ってきたときの焦燥した顔は忘れられない。その日から、人と目を合わせることが稀になった。家族とすらも。暴力的にもなった。クラスメイトに怪我をさせたとかで、母が学校へ呼ばれる。
     「あの子と仲良くするのやめなよ」「え」「お兄さんがさぁ…」そんな兄を持って、地元の中学校で友達ができるわけがなかった。
     今の時刻は朝の10時。いつもより早起きした。何か食べられるものを探しに階下へ降りると、お経が聞こえてきた。母が石に向かって拝んでいる。母が今入っている宗教の名前は忘れた。お経を唱える声が外まで聞こえないか不安だった。気づかれると「一緒に拝め」と言われるので、見つからないように息をひそめてすり抜けて、台所からポテチを一袋取って自室に戻った。
     すると、隣の兄の部屋から独り言が聞こえてくる。ドンドンドン、と壁を叩くような音。私は舌打ちをして兄の部屋のドアを開ける。
    「うっせぇんだよ!」
     ふと壁を見ると、また穴が増えていた。兄の部屋はぼろぼろなのだ。
    「…里香ちゃんが……」
    「家壊すなって言ってんだろ!キチガイじゃねぇのか」
     リカ、という名前を聞いた瞬間かっと頭に血が上ってしまって、私は兄の顔をひっぱたいた。やり返してもこない。いつも、自分が被害者ですみたいな顔して見上げてくるのが、癪に触る。むしろこちらが被害者なのだといいたい。こいつのせいで、家族はめちゃくちゃなのだ。

    「ついて来ないでよ!」
    「心配で…」
     一応、目覚めたら学校には行くことにしている。保健室登校なので。この時間に、本来は学校に言っているはずの年齢の二人が歩いているのは目立つ。すれ違う主婦がじろじろ見てくる気がする。私は制服だが、兄は着のみ着のままだ。学校に行く気もないくせに、どうしてついてくるんだ。
    「一緒に居られるの見られたくないんだよ!」
     どん、と兄の胸を押すと、コンクリートの道路に盛大に尻もちをついた。さすがに痛そうで、う、と良心が痛んだが、私は踵を返して走り出した。

     しばらく走ったが、赤の信号に阻まれて立ち止まる。私はカバンを脇にどさりと置くと、はぁ、はぁ、と膝に手を置いて呼吸を整えた。そう、その状態で私が自発的に動けるわけがなかったのだ。
     ドンッと押された感覚。手とか足ではない、もっと大きな力で身体全体を押された。昼間の4車線はひっきりなしに車が走っていて、私の体はトラックの前に投げ出された。
    「―――!!」
     お兄ちゃんが飛び込んできて、私の身体を掴む。私は目を閉じた。耳が潰れそうな轟音。一瞬のちにあたたかな体温を感じて、私はおそるおそるもう一度目を開けた。生きてる。兄さんと私の身体は、黒いアスファルトの上に横たわっていた。日の降り注ぐ夏の昼、道の表面は鉄板のように熱かったのを覚えている。私たちを避けようとハンドルを切ったトラックは、電柱にぶつかって動きを止めていた。横になった私たちのすぐ横を、車がフルスピードでどんどん走り去っていく。何が起きたか分からず、朦朧とした頭で、もともと居た歩道の方を見る。どんどん過ぎていくタイヤの隙間から、にたりと笑う大きな口が見えた。歯が剥き出しで、頭が無く、皮膚なんてほとんどないのに、なぜか笑っていると分かる。
    「ば、化け物…!」
    「…!? 里香ちゃんが、見えるの…?」
     それまで、「里香ちゃん」を私は信じていなかった。物を壊すのだって、お兄ちゃんがやっているものだと。独り言を繰り返す兄は気が狂ってしまったのだと。私は、壁一枚隔てた部屋で、ずっとあの化け物のそばで暮らしていたのだ。
    「あ~~~あ、しっぱいぃいいいぃぃいぃい」
    「こんどこそ~~、あてよう~~」
    「ゆ~~た、ゆ~たどこ」 
     兄が、ぎゅ、と私を抱きしめる。その背中に縋りながらがくがく震えて、私は、スカートが湿っていくのにすら気づいていなかった。


    「お祓いに行きましょう。教祖さまに合ってもらえることになったから」
     その「教団」の総本山は、●●県の山奥にあった。妹までもが「里香ちゃん」の存在を認めたのだ。母は、兄と私をその「教団」まで連れて行った。坊主頭の男が私たちを迎えにきて、寺の中に案内した。
     白装束を着て、滝の中をくぐる。濡れたまま板の間まで連れてこられ、しめ縄と札で周りを囲まれる。その間じゅう、兄の顔に表情は無かった。それでも、これでなんとかなるならしたいと、思う気持ちはあったかもしれない。
    「私に頼れば、大丈夫ですからね」
     派手な袈裟で身を包み、静かな笑みをたたえた男が正面に座る。座ったままゆっくりお辞儀した兄の毛先から、水が滴る。教祖がお経を唱える中で、それはどろりとした雰囲気をまとって現れた。あの日見たのと同じ…あれが里香ちゃん?私は、兄の部屋で何度か遊んだ彼女の面影を思い出していた。アイスを半分こにして、大きい方をくれた。綺麗なお花のシールをくれた。
     母はまだ気づいていないみたいだ。教祖も…うそだ、だってこんなに、押しつぶされそうなのに。真っ青な顔をして母の腕に縋る私を、母は「怖くないわよ」と撫でた。
    「つまんなぁいいい」
     リカちゃんは最初は兄の頬を撫でたり、縄で囲まれた中をうろうろしていたが、退屈してきたのか、縄を爪先でぷつりと切って、外に出て板の間を這った。
    「ひっ!?結界が、…どうして…!?」
     リカちゃんは手首から先と顔しか出ていない。指を虫の足みたいに使って板の間を走り回ったり、祭壇をつついて回ったりするので、姿は見えずとも音が鳴る。ギシギシカタカタ部屋じゅうが軋む音に、母は私を抱きかかえるようにして庇った。
    「は、祓いたまえ、はらいたまえ…!」
    「ううぅぅううるさぁあああああいいいい」
     部屋の音に驚いた教祖の呪文はもはや叫び声に近くなっていた。リカちゃんは仏壇で遊んでいた手を止め、わめく男のほうへぬるりと近寄った。小首を傾けて、男の顔を覗き込む。血走った目が至近距離でこちらを見つめているのに、男は気づいてしまった。
    「う、うわぁああああああああ!!」
    「教祖様!!」
     とたんに廊下に出て逃げていく男。すかさず母がおいかけると、男は廊下の突き当りでうずくまってガタガタ震えている。
    「あの、……」
     母が手を差し伸べると、男はその手を払って、床に手をついて謝った。
    「お帰りください…私の力では、『アレ』はとても…。お助けできず、申し訳ない…本当に……」
    「……」
    「ひっ…!来るな、来ないでくれ…!!」
     顔を上げた教祖は、私たちの背後に何かを見て、また怯えだす。母と私がおそるおそる振り返ると、部屋から出た私たちの様子を見に来たのか、兄が心配そうな顔をしてこちらに歩いてきているところだった。
    「どうしたの?」
     ぺたぺたと裸足で歩いてくる。目を見開いた母が、「ばけもの」と静かに呟いたのが聞こえた。

     誰にも見送られずに下山する。ふもとにはタクシーが来ているはずということだった。山道をとぼとぼと歩く兄の頭は俯いていて、乾きかけた髪がパサついていた。母は寺を出てから一度も兄の方を見ていない。母の指がカタカタと震えている。
    「だ、大丈夫よ、探せば、だれか助けてくれるひとが」
    「母さん、僕、高校に入ったら家を出るよ」
    「ゆ、うた……」
     兄の言葉を聞いたときの母の顔は、寂しさよりも安堵の方がさきに来ていた。

    ***

    「ふう…」
     引っ越し業者が帰ったあと、荷を開ける作業に疲れて乙骨は買ったばかりのベッドマットの上に仰向けに寝転がった。無機質な天井に白い蛍光灯。慣れない匂い。ここが新しい家になるなんて信じられない気分だ。ごろり、と横になる。つやつやとしたフローリングには段ボール以外乗っていないせいか、広く感じる。まだカーテンをかけていない窓から昼の日差しが差し込んで、乙骨は眩しさに目を細めた。
    「ごはん食べようかな」
     事前に買ってきていたコンビニ弁当の袋に手を伸ばす。お弁当と、お茶と、ケーキが入っていた。乙骨は壁に立てかけられてあったちゃぶ台を横に倒すと、ティッシュで軽く拭いて、袋の中身を机上に並べた。ケーキのパッケージをまず開けて向かい側に置き、プラスチックのフォークを添えてやる。
    「里香ちゃん、いる?これ里香ちゃんの分だよ」
    「もう、こんなときだけいないんだから」
    「でも嬉しいな、話し声、誰にも聞かれないもんね」
    「これからよろしくね」
    「いただきます」
     傍目から見ると、部屋で独り言を呟いているだけにしか見えないだろうが、ある種の解放感に、乙骨の顔は晴れやかだった。

    ***

     新しい高校では、乙骨の特異体質を知るものはいない。しばらくは毎日が穏やかに過ぎていった。
    「乙骨!パス!」
    「う、おっ、…と……」
     もともと身体を動かすのは苦手ではない。ボールを受け取ると、目の前のディフェンスをすりぬけて、シュート。リングに当たらずに入った。
    「乙骨うまくね!?」
    「すごいじゃん!意外すぎる」
     少し離れたコートでバレーをしていた女子達が、手を止めてその様子に見入る。その中にクラス一の美人が含まれていたことは、乙骨にとって不幸だったかもしれない。
    「試合見てたよ!バスケ上手いんだね!やってたの?」
    「あ、っと……」
    「部活入ったらいいじゃん!」
     休み時間に机を女子たちに囲まれて、乙骨は肩身の狭い思いをしていた。もごもごと適当に話をしているうちに、「今度遊びに行こうよ」「今日でもよくね」「カラオケにしよ」と話が発展していき、乙骨はつい、少し声を張ってしまった。
    「あ…と、僕、そういうのは、ちょっと」
     周囲がしん、と、静かになる。
    「なんで?」
    「か…、彼女が、いるので」
    「えー!?彼女!?」
    「どんな子どんな子」
    「どこの高校の子」
     答えられるわけがない。だって里香ちゃんは。
    「乙骨彼女いるって!!」
    「どんな子?」「なんて名前?」「どこの高校?」と質問攻めに合う。「写真見せて」なんて言われても、そんなのあるわけなかった。言葉が喉のあたりでつっかえて、うまく吐き出せない。
    「ほんとは彼女なんていねぇんじゃね?」こちらの様子を見ていたある男子が言った。
    「お前らと遊びたくないだけだって!」
    「こいつに彼女なんているわけねぇじゃん!」
    「友達だっていないんじゃね?」
    わはは、と隣で盛り上がる中、女子たちはじっとこちらを見ている。
    「メールもないし、写真もないしさ。ほんとに付き合ってるわけ?」
    「付き合ってる」
    「まさか二次元とかいわないよね、想像とか。あはは?」
    「リカちゃんは、いるよ…!!」
    思わず声を張ってしまった。教室がしんとする。
    「うそつき…」
    せせら笑うような呟きがはっきり聞こえたとき、まちがえた、ぜんぶ、と思った。

    ***

    『今日もリカちゃんは元気ですか?』
    『彼女いないって認めろよ、いい加減!』
    『リカちゃんとどこまでいったんですか~?』

    彼女なんていないと言って、ちょっと謝れば、また輪の中に入ることができたかもしれない。でも、リカちゃんがいないと言い切るのはどうしてもできなかった。

     ロッカーの中でずたずたにされている上履きを見て、乙骨はむしろほっとした。もし、また、中学の時のように殴る蹴るが始まってしまったら、いつ里香ちゃんが出てきてしまうか分からないのだ。もう、それ以外だったら何されてもいいので、そういった事態にはなりませんように、と祈る日々だった。
     それでも足取りは重かった。上履きをこうされているということは、教室に来るなということだ。来客のスリッパをひきずるように移動していると、保健室が目に入る。中にはいると、保健の先生はまだ来ていなかった。悪いと思いつつも、ベッドに横になる。消毒液の匂いがした。
    「大丈夫、僕には、里香ちゃんがいるから」
     ――里香ちゃんしかいないから。
     靄のかかったような思考に蓋をするように、乙骨は目を閉じた。

    ***

     どうやって家まで辿りついたのか覚えていない。しわくちゃの制服を着た乙骨は、ドアを閉めて鍵をかけるなり、学校の鞄をどさりと落とす。靴を脱ごうと屈んで、そのまま動けなくなってしまった。靴ひもを引っ張って、この後どうするんだっけと分からなくなり、土間の薄汚れたタイルだけを視界に入れたまま数十分。お腹がすいたと思い始めてやっと、靴が脱げて立ち上がることができた。ワンルームの台所は玄関と近い。カップラーメンにお湯を注ぐことくらいはできた。待ちすぎたのか箸で掴むと麺がぶつぶつと切れて、それでも、食事が温かいのはいいな、と思えた瞬間、堰切ったように涙が溢れてきた。
    「うっ、……」
     みんなの前で自慰をさせられた。女子もいたのに。裸に剥かれたら服を返してもらうまで外に逃げられず、言いなりになるしかなかった。「よく勃つよなこんなところで」「汚ねぇな」「気持ち悪い」理不尽に投げられた言葉が頭の中で勝手に再生されるのが止まらない。膝をついた教室の床がやけに冷たかったのだけ覚えている。早く終わらせたい一心で、必死でエッチなことを考えようとしたが、見られている緊張でうまくいかず、頭の中がぐるぐるとパニック状態になる。早く達するために現実と脳内が切り離されたようになって、自分の性器を扱くのに没頭した。その様子を何人かに写真に撮られた。
     どうしよう。また学校に行ってないのが親にバレたら。家に戻ることになるのだろうか、それだけは絶対に嫌だ。でも明日からどんな顔して教室に行けというのだろう。ふと時計を見ると8時になっていて、あと12時間もしたら学校に行く時間だった。あと10時間、あと8時間……。写真を撮られた以上、それをネタに明日からもいろいろさせられるのだろう。脳内でイマジナリー彼女を飼っているような気持ち悪い男には何をしてもいいと皆思っている。リカちゃんは誰にも見えないし、都合よく出てきてくれるわけではないので証明するすべもない。僕以外の誰にも認識されないリカちゃんはやっぱり存在しないのかもしれない。僕はどこでふるまいを間違えたのだろう。ベッドの上に横たわって行ったり来たりする思考に囚われながら、残り時間を数えていく。その日は風呂にも入れず、朝がやってきた。

     朝方には少しだけ眠ることができた。肩がずんと重く、起き上がると動悸がする。顔を洗って服を着て、その服も昨日床に脱ぎ捨てたものなので綺麗ではない。でも他のシャツの替えもそんな調子で、最近は選択したり、アイロンを当てたりということがとても出来そうになかった。
     今日の時間割を思い出すとか神を見て確認することすらおっくうで、本棚から参考書を手当たり次第につめたら鞄がとても重くなってしまった。ちゃぶ台の前に座っているが、昨日のインスタント麺のカップが置いてあるままで、つゆの中で脂がネギと一緒に固まっていた。バスの時間が一刻一刻と近づいている。もう家を出ないと置いて行かれてしまう。
     ベランダ側の戸締りをして、カーテンを閉めて、上着を着て、玄関に行こうとしているときだった。重く膨らんだ鞄が机の上のカップ麺の割りばしに引っかかって、器が倒れた。食べ残しの汁が広がって机の縁からこぼれて、床の上のラグに染みていく。(片付けなきゃ)(バス来てるのに)(カップ捨てて机の上拭いてラグ洗濯して干して)(無理でしょ)
     たぶんそれが、コップに満杯入っていた水が表面張力でなんとこぼれずにいたのを、決壊させる最後の一滴だったのだと思う。膝からくずおれて、しばらく蹲っていた。

    ***

     あれから何日か経った。戸棚に残ってた海苔とか、わかめとか食べたあとに、いよいよ口に入れるものが調味料しかなくなったので、一度コンビニには買い物に行った。「温めますか?「「いえ、要りません」久しぶりに聞いた自分の声があまりに掠れていたので驚いた。
     日が暮れたころ、不意にチャイムが鳴った。ドアののぞき穴から見てみると、クラスの担任だった。
    「乙骨!生きてるか!?返事が無かったら悪いが入るぞ!!」
    「生きてます……」
     乙骨はドア越しに小さく返事をした。部屋は見られたくないし、絶対開けられなかった。
    「良かった…!一人暮らしだって聞いてたから、まさかと思ってな。親御さんに電話してみたら、すぐには来られないっていうから、代わりに様子見に来たんだ。…大丈夫か?」
    「あの…明日、学校、行きますから…だから今日は、」
    「分かった。明日話そう。絶対来いよ、信じてるからな」
     これで次の日、行かないわけには行かなくなった。

     久しぶりに学校に行ったその日、帰ろうとしたところを数人に囲まれ、その事件は起こった。
    「よお乙骨」
    「久しぶりだな」
    「来いよ」
    「俺がどれだけお前を殴りたかったか」

    ***

     ――乙骨憂太。2016年●月●日、同級生を暴行した後に教室でうずくまっていたところを担任が発見。被害者の生徒4名は被疑者により四肢の数か所を骨折させられ、掃除用具入れのロッカーに押し込められた。発見された被疑者は憔悴しており取り調べは困難。両親と別居していること、以前より不登校であったことから逃亡の恐れありと判断し、現在●●少年鑑別所で保護中。現在事件に対する調査が検察により行われている。

     五条悟は、所長に案内されて鑑別所の無機質で長い廊下を歩いていた。廊下の明りはついておらず、昼時の強烈な日差しが建物内の影をいっそう濃くしていた。
    「原因が分からないのです…すでに3回も鑑別所を移っています。公にはなっていませんが、係員が重傷になったり、隣室の少年が発狂したり。許されないことではありますが、監視カメラを…設置したりも、したのです。本人は、いたって温厚な性格のように見えるのですが…」
    「本人の意思でなくそういうことが起こっていると?」
    「…としか、思えないのです。前所長から、もしものことがあったらここに連絡しろ、との引継ぎがあったので、あなた方を呼ぶに至りました。もしもことって何でしょうか。とその時は質問したのですがね、まさか、こんなことになるなんて…」

     その少年の居所である部屋に辿りついたときだった。所長の目が見開かれる。施錠されていたらしきその重い扉は人間の力でしたとは思えないほどベコベコに歪んでおり、外に開かれていた。部屋の中は空だった。廊下側に、見張り役だったと思しき職員が意識を失って倒れている。
    「大丈夫か!?」
     所長が駆け寄りながら、どこかへ電話をかける。気持ち悪い残穢だな、と五条は思った。サングラスを外して目をこらす。これほどの呪力なら、建物越しでも見えるはずだ。ぐるりと見渡すと、すぐに見つけることができた。建物の外側?非常階段か。上に昇っている。五条は「非常階段にいます」と所長に声をかけると、五条は扉を開けて非常階段を駆け上がった。急ごうと思って2段飛ばしにしたのも良くなかったのかもしれない。カンカン!という金属音が高らかに鳴って、乙骨は下をのぞくと、五条と目が合い、その目の鋭さにぞくりとした。捕まったら邪魔されるとかではなしに、本能的に「逃げないと」と思った。
     錆のついた金属板を軋ませながら、上へ上へ昇っていく。手すりが振動でゆれてガタガタと鳴っていた。「おいこら!まて!」という声が下から聞こえて、乙骨ががむしゃらに走った。リーチの差があって五条の方が若干速いので、だんだん距離が詰まってくることに焦りを感じる。非常階段への鍵は防災のため空いていたが、屋上への鍵は基本的に閉まっていた。ガチャガチャ、と回してそれに気づいた乙骨は、横に倒してあったパイプ椅子を頭上に持ち上げると、ドアノブに向かって振り降ろした。一度では壊れないので、何度も何度も。だんだん角度が歪んできて、ついにぽろりと取れる。丸い形のドアノブがころころと転がり、階段の隙間を落ちて五条の足元に転がる。
    (どこが『温厚な少年』だよ!?)
     先ほど所長が述べていた乙骨評に脳内で異議を唱えつつ先を急ぐ。乙骨が何を考えているのか分かってきた。間に合わないかもしれない、と思う。
    「待てって、おい!」
     五条がやっと屋上にたどり着く。乙骨は一瞬振り向くと怯えた顔を見せ、また走り出す。手の届く距離になって五条が手を伸ばすが、寸でのところで届かなかった。
    (おいおいおいおいおい)
     屋根の縁でちょっとためらうとか、そんなそぶりを見せたら届く距離だった。しかし彼は躊躇なく飛び出した。ほっとした顔を見せる彼の顔は、一瞬後に戦慄に変わる。五条も一緒に飛び降りたのだ。
    (とどけ、とどけ)
    下を向いている五条の視界では、景色がこれ以上ないほど早く流れていく。一方仰向けに落ちていく乙骨には、一面の空の中で全てがスローモーションに見えた。一面の青、それと同じ色をした目がこちらを見据えて、必死に手を伸ばしてくる。脱力して落ちていく乙骨の手は自然に上に伸ばされていて、その手を自分で取ったのか、向こうから掴まれたのか分からなかった。
     乙骨を抱きかかえる五条は、無限を広めに展開して衝撃なく地面に着地する。土の上に転がりながら、乙骨の心臓がこれ以上ないほど鳴っているのを感じる。全力疾走で息が切れていて、すぐに立ち上がることは難しかった。しばらくすると、腕の中で嗚咽が聞こえてくる。
    「死なせてください、死なせてください……」
    (嘘つけ、こんなに震えてるくせに)
    かたかたと震える丸い頭を抱く。『秘匿死刑が決定』『本人も了承している』…。上層部はいつも正確な情報をもたらさない。まだ16歳だぞ。

    足音がする方に首を向けると、所長が駆け寄ってくるのが見えた。目撃者はどうやら彼一人のようだ。
    「大丈夫ですか?」
    「あ、っと……。このことは、内密にして頂けますか」
    所長は、無言で頷いた。

    ***

     気を失った乙骨を担いで車に乗り込むと、伊地知が悲鳴を上げた。
    「ごごご五条さん…!その子って、今日処分予定だった…!」
    「高専に持って帰るわ~」
    「何言ってるんですか!また上層部から睨まれますよ!」
    「今に始まったことじゃないでしょ~。っていうか、早く車出したほうがいいよ。『里香』がもし出てきたら、この車なんかぺしゃんこだから!」
    「あ~~~も~~~~!!あなたって人は!!」
    『里香』という単語に怯えながらも、伊地知は高速で車を走らせる。五条は上着を脱ぐと、後部座席で横たわる少年の肩に上着をかけてやった。
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