ちょっとしたおつかい「ミスタ、靴履けた?」
「はけた! ほら、見てよ!」
先に靴を履いていたエナーが後ろを振り返ると、ちょうどマジックテープを止め終えたミスタが自慢げに玄関に置かれた椅子に座った姿で両足をぶらぶらと数回揺らしたあと、ぴょんと飛び降りてそばに寄ってきた。
背中にはすでに最近買ってもらったお気に入りのリュック。中には向かう先にいる大型犬のおやつが入っているらしい。
ミスタの手にはこれもまたお気に入りのオレンジの帽子。アイクと一緒に買い物に行った時に買ってもらったものだ。帽子のてっぺんには三角形のとがった耳が飾りでついている。売り場で見つけた瞬間から手から離さなかったほど、気に入ったもののようだ。
「ほら、こっちでちゃんとその帽子をかぶって」
「うん!」
大きな声で返事をすると玄関横にある鏡の前で自分で帽子を頭に乗せ、いっちょ前に帽子の角度を気にしてつばをいじったり、帽子を深くかぶっては持ち上げ、髪の毛がぼさぼさになって帽子を脱いでまた乗せ直し、を何度か繰り返していた。
それからしばらくして、やっと満足いく位置になったのか、鏡をのぞき込んで「おれ、かっこいい!」と満足げに笑顔を映した。
「じゃあ、これを頼んだよ」
ヴォックスの声が聞こえ、鏡を見ていたエナーとミスタが廊下の方に目をやった。向かう先であるファルガーに届ける荷物が入った袋をヴォックスが持ち、その横をミリーが歩いていた。
ミリーが靴を履き終わったあと、ようやくその荷物がミリーの手に渡される。
「そんなに重くないと思うが……二つに分けるか?」
「平気よ、このくらい! 兄ちゃんの家なんてすぐそこなんだし」
「ミリーがつかれたら、おれがもつからだいじょうぶ!」
両手をあげたミスタがもうすでに持つ、とでも言いたげに目をキラキラと輝かせていたが、ミスタの身長や握力を考えれば渡すのはだいぶ危険だと、その場にいるミスタ以外の全員が理解していた。
「そうね、疲れた時はお願いするわ。でもミスタ忘れないで。あんたはリュックに入ってるおやつを運ぶって役目がちゃんとあるんだからね」
ミリーがリュックをぽんと叩いてやれば、ミスタの瞳はさらに輝きを増し、リュックの肩ひもをぎゅっと握ってその場全員に見せるように背中を向けた。
「わんちゃんのおやつ! おれがもってるよ!」
「そうそう。今日のミスタはそれを運ぶっていう大事なことを任せてるんだから」
エナーにもミリーにも帽子越しに頭を撫でられたあと、サンダルをひっかけたヴォックスがそこまで見送るといって玄関の扉を開けると、ミリー、エナー、そしてミスタの順で外に出た。
太陽は高く絶好のお散歩日和だろうと、ヴォックスは道に出た三人の背中を若干の眩しく思いながら目を細めた。
「エナー、何かあったらすぐに電話をかけるんだ。いいね?」
ヴォックスの家から目的地であるファルガーの家までは15分かかるかかからないかの距離にある。
車通りが多いわけでもないが、子供三人だけで出かけさせるというのは今日初めてのことだった。
「言われなくてもわかってるわよ。1番がヴォックス、2番がファルガー、3番がニナの番号。あってるでしょ?」
「さすがだ」
首からかけた携帯の画面にある番号に割り振られた人を口にすると、ヴォックスの大きな手がエナーの頭を撫ぜた。
お姉さん、と呼ばれることが多くなったのはエナーにとってはとても嬉しいことであったけれど、こうして『お姉さん』であること以外の理由で褒められることは減っていた。撫でられることには若干の恥ずかしさを覚え始めたエナーだったが、困ったように眉毛を下げながらもそれを受け止めた。
「ミスタ、姉さんたちが離れないように二人を見てるんだ。いいね?」
「わかってるよ!」
ミスタのための言い回しと知っているエナーとミリーは、その言葉には何も言い返すことはなかった。
その言葉はある意味二人にも投げかけられていると、わかっているのだ。
『ミスタから目を離さないように』
自分たちより幼く、そしてあらゆることに興味のつきない年ごろだ。
一緒に遊んでいてもたまに突拍子のないことを聞かれたり、興味があるものに一直線に向かっていったりと、ミスタは自由奔放なのだ。
幼い頃、自分たちもきっとこうだったんだろうと、周りの大人の苦労を少し感じながら、それでも許せるのは、何せこの弟が可愛くて仕方がないからだ。
ヴォックスの言葉を受けてからミリーがすぐに袋を持つのとは逆の手をミスタに伸ばした。
「ねえ、ミスタ。私たちがバラバラにならないために手をつないでくれない?」
「いいじゃない、それ。はい、ミスタ」
エナーもすぐに片手を差し出す。
「あんたが真ん中にいて手を繋いでくれてたら、わたしたちどこにも離れられないでしょ?」
二人に差し出された手を交互に、それから二人の顔を見上げたミスタの顔はまさに名案だと瞳が語るほどキラキラとしていた。
「……わかった!」
すぐに二人の手をぎゅっと握って答えてみせる。
一連の言動を自分のみが見てしまっていいものかと口角がぐんと上がるのに気づいたヴォックスは慌てて大きく咳ばらいをし、口元を手でそっと隠した。
「ヴォックス? 風邪?」
「いや――違うよ。さ、それじゃあお使いを頼めるかな」
「うん、いってきます!」
繋いだ両手を元気よくあげたミスタはそのまま下ろすより先に駆けだす。
「ま、待ってミスタ!」
慌てるミリーの声の先でミスタの楽しそうな「レッツゴー!」という声が周辺のご近所さんの耳に確実に入ったことだろう。
ファルガーの家までの道のりはそう難しくはない。
まっすぐ歩いて信号を二つ渡り、赤い屋根の家を曲がればすぐだ。
最初の信号は信号機がついていて難なく進める。
三人で今日のお夕飯はなんだろう、明日は何をしようか、そんなことを話しながらミスタが繋いだ手をぶんぶん振るのをそのままに会話が弾む。
ミスタは自分より背の高い二人を交互に見る。ミリーが話し始めればミリーを見上げ、エナーが言葉を続ければそちらを見上げる。
歌が好きな二人のどちらかが口ずさめば、どちらかが乗り、ミスタの両耳に二人の声が飛び込んでくる。
その時だけ、見上げるのをやめてちょっと先の道を見る。そっと二人の歌声に耳を傾け、そして小さく口ずさむのだ。
歌は好きだけれど、二人のようにうまくはない。だからいつも二人に気づかれないように口ずさんでいるというのに、ミリーとエナー、どちらかが必ず「大きな声で歌った方が気持ちいいいわよ」と言われるのだ。
いつもなんで気づかれてしまうのか不思議で仕方がないミスタだが、そう言ってもらえるのが嬉しくて自然と大きな声でうたようになる。
そうして二つ目の横断歩道にたどり着いた。
一つ目の横断歩道と違うところが二つある。
一つは、信号機がないこと。
もう一つは、車通りがそれほど激しいものではないこと。
横断歩道に誰かがいれば、止まってくれるような運転手のの多い街だ。
幸いなことに三人が横断歩道に差し掛かった時、両サイドから車がくる様子はなかった。
エナーもミリーもそのまま横断歩道を渡ろうと踏み出した時、ぐんと後ろに手を引かれた。
「ミスタ?」
宙に浮いた足を歩道に戻し二人を引っ張った本人、ミスタを見ると、ほんの少しだけ眉を釣り上げて二人を交互に見上げていた。
「ふたりとも、わたるまえにちゃんとみなきゃだめ! おれ、このまえおそわったもん!」
そう言って二人の間から顔を出した。
「こうやって、みぎ……ってこっち?」
「そうよ。私がいるのが右側」
ミリーにそう言われ、自分があっていたとわかると釣り上げていた眉をへにゃりと横にして、もう一度右を見る。
「みぎみて、ひだりみて、もういっかいみぎ!」
「どう、車は来なさそう?」
エナーに聞かれたミスタが自信満々に頷いたあと、手をあげようとして自分の手が二人の手と繋がっていることを思い出した。
「どうしよ……」
「簡単なことでしょ。わたしたちが手をあげればいいじゃない」
さっきは手を引っ張ったミスタが今度は手を引かれる。自分の手に向けていた視線をあげると、両隣の二人がぴっと手を上げて横断歩道に一歩踏み出していた。それにつられてミスタも一歩踏み出した。
「えへへ……ありがと」
「横断歩道を渡る時のルールを守っただけよ。ミスタも一人で渡る時は手をあげてね」
「もちろん!」
自分より高い場所に伸びている手を見て、二人をみて元気に頷く。
ごメートルもない横断歩道を渡り、赤い屋根が見えてきた。
その角さえ曲がれば目的地が見えてくるはずだ。周りの家より少し大きい屋敷はミスタも数回行けばすっかり気に入るほどだった。
芝のふかふかな庭に大きな犬がお行儀よく座っているのが見え、走り出したくなったミスタだったが繋いだ二人の手を思い出しぐっと我慢した。
それでも我慢できずにほんの少しだけ早足になるのは止められなかった。
ぱたぱたと地面を蹴って、屋敷の前に着くと、ファルガーの飼い犬がお座りして待っていてくれた。後ろの尻尾がその大きな体の左右からちらちらと見えて抱きつきたくなってしまった。
「にーちゃーん!」
ドアベルを鳴らしながらミリーの大きな声が響くと、すぐにドアが開いた。
「思っていたより早かったな」
ヴォックスとはまた少し違う声の低さのファルガーが三人の前にしゃがんでそれぞれの頭をぽんと撫でていく。
「はい、これ。ヴォックスから」
「ありがとう。重くなかったか?」
「軽かったわ! でも、せっかくなら運んできたレディに何かあると嬉しいけど」
袋を渡しながら、部屋の奥から香るお菓子の匂いに気づき、ミリーが視線を一度視線をそちらに向け、それからファルガーを見上げる。
「もちろん。エナーもミスタもお菓子と紅茶を用意してある。……ミスタは先に庭に行きたいようだが、どうしたい?」
「え!? あ、あのさ……おれ、おやつそとで食べてもいい? あの子のおやつ、もってきたんだ!」
「そうだったのか。じゃあミスタ用にクッキーをとりわけよう。まずは全員手を洗っておいで」
三人揃った返事が家の中に響き、家に来るまでの緊張がそれぞれ解けたのか、三人の賑やかな足音が家中に響き渡った。