『紺青のベールに触れた日』「はぁ……どうして、こんなことに……。似合ってないし……結婚式なんて、参加したことも無いし……自信ないな……。」
淡く陽の光が差し込む控え室。
壁に沿って並べられたドレッサーの前に立つユウは、ため息混じりに呟きながら、大きな姿見の前で身じろぎもせず佇んでいた。
彼女が身に纏っているのは、深い海のような青を基調としたドレス。
光の加減によって藍にも紺にも見える上品な布地は、落ち着いた印象を与え、胸元には繊細なレースが施されている。
ウエストには淡いブルーのサテンリボンが柔らかく結ばれ、裾には銀糸で描かれた花の刺繍が、風も無い室内でそっと揺れていた。
普段は男装姿が定着しているユウにとって、この姿はあまりにも異質だった。
ただ着慣れないだけでなく、動きにくく、守りも効かない。
どこか落ち着かないその姿に、鏡越しに視線をそらしながら、口をへの字にする。
「やっぱり、今からでもオンボロ寮に帰るしか……」
控えめな声でそう呟いた瞬間――。
「ダメですよ。手伝うと仰ったのですから、最後まできちんとお付き合いください。」
不意に背後からかけられた低く澄んだ声に、ユウの肩がぴくりと跳ねた。
驚いて振り向いた先に立っていたのは、見慣れた制服姿ではなく、漆黒に近いスーツを身に纏ったジェイドだった。
彼の胸元には真珠のピンブローチが控えめに輝き、きちんと上げられた前髪の下の瞳が、冴えた光を宿している。
その姿は、まるでどこかの上級貴族のように洗練されており、年相応の学生とは到底思えない気品があった。
思わず目を奪われてしまいそうになったユウは、自分でも無意識に首を振り、無表情を取り繕うように表情を整える。
「ジェイド先輩。ここ、女性用の控え室なんですけど。」
「ええ、承知しています。ですが……あなたの後ろ姿が、あまりにも美しかったもので。つい。」
「つい、じゃないですよ。っていうか、美しいって……。どう見ても“馬子にも衣装”ってやつです。」
そう言いながら、ユウはそっぽを向いて再び鏡へと視線を戻す。
その頬にはわずかに朱が差していたが、彼女自身がそれに気づくことはない。
鏡越しに見る自分は、どこか気恥ずかしさと違和感の塊だった。
そんな彼女の背後へ、ジェイドが静かに近づく。
そして両の手でユウの肩をそっと包み、柔らかな声音で言葉を紡いだ。
「本当に、美しいですよ、ユウさん。いつもの凛とした制服姿も素敵ですが……今日のような装いも、思わず見惚れてしまうほどです。」
「……からかってますよね、それ。」
「とんでもない。本心です。」
彼の声に嘘はない……けれど、どこまでが本気で、どこまでが冗談なのか分からない。
それがジェイドという人間だった。
静かで、丁寧で、柔らかく、何より読めない。
アズールやフロイド以上に、心の底が見えないのだ。
そんなジェイドの言葉に困惑しながらも、ユウはふと、彼の視線が窓の方へ逸れたことに気づく。
レースのカーテンが、微かな風に揺れていた。
「……あなたが、誰かの隣で誓いの言葉を交わす日。僕は、こうしてただ……その姿を見るだけなのでしょうかね。」
ジェイドはそう呟きながら、ふわりとカーテンを摘まんで持ち上げると、それをユウの頭上にそっと掛けた。
まるで、即席のベールのように。
「な、に……?」
驚きに硬直するユウの目を見ながら、ジェイドは微笑みを浮かべ――どこか切なげな声音で告げる。
「ほんの少しだけ、夢を見させてください。もしあなたが“僕の”花嫁だったら、なんて。」
「……はい……?」
それは、あまりに不意打ちの言葉で、ユウの表情が一瞬で崩れる。
目を見開き、唇が震える。
ジェイドはその様子に微笑むと、彼女の手を優しく取り、そのまま片膝をついた。
「――ユウさん。あなたを迎えに参りました。今日から、どうか、僕の隣で生きてくれませんか?」
その声は真剣で、誠実で、少しだけ不器用で――けれど、目だけは冗談を許さぬほど真っ直ぐだった。
それを見て、ユウの理性は一瞬吹き飛びかける。
「じょ、冗談……ですよね……?」
「ええ、冗談です。……“今のところは”ですが。」
「はあぁっ!?なんですか、“今のところは”って!」
「ふふっ。ユウさん、顔がトマトのように真っ赤ですよ。」
「誰のせいですかっ!」
思わず怒鳴ってしまった声を、ジェイドが立ち上がってそっと指先で撫でるように遮る。
そしてそのまま、頬に触れた手は、彼女の耳元へと導かれる。
「……いつか、今日という夢の続きを、見てもいいでしょうか。僕だけの、花嫁として。」
「ッ……ずるいですよ、先輩。そんな言い方……。」
言葉にならない感情に、ユウは視線を伏せ、頬を紅潮させながらスカートの布をぎゅっと掴む。
ジェイドはそんな彼女の仕草ひとつで、心の揺れを読み取る。
そっと額にキスを落とすと、彼女の細い身体を優しく抱き寄せた。
「――では、“いつか”は、僕にください。あなたの全部を。」
「……ダメ、です。」
「おや。ダメですか?」
「だって……私たち、ただの先輩後輩、ですし。」
「では、その“ただの”を越えるお返事を、今すぐいただいても?」
「だーかーらっ!そういうところがずるいんですってば!!」
結婚式の始まりを告げる鐘が、遠くの広間から鳴り始める。
その音を聞きながら、ジェイドは微笑んだ。
大切な彼女の戸惑いと、真っ赤な顔と――すべてを、愛おしそうに見つめながら。