優しさと温もりの抱擁モストロ・ラウンジの閉店後、静まり返った店内にジェイドの落ち着いた声が柔らかく響く。
磨き上げられたカウンター、整然と片付けられたテーブル、その中で一人ソファに腰掛け、物思いに耽るユウの姿があった。
「ユウさん、今日は少し疲れたようですね。よろしければお茶のおかわりでも――」
「ジェイド先輩。」
彼の言葉を遮るように、ユウはまっすぐな瞳を彼に向けた。
その眼差しには、戸惑いと迷い、そして決意が浮かんでいた。
「……本命は、どちらなんですか?」
「……はい?」
ジェイドは一瞬、動きを止めた。
本命――それは通常、誰か一人の心に特別な存在がいることを指す言葉。
しかし、まさかユウの口から、こんな問いが飛び出すとは思ってもみなかった。
その真剣な声色と、揺るぎない視線に、冗談や軽口で応じる余地はない。
「アズール先輩ですか?それとも、フロイド先輩ですか?」
ユウの言葉に、ジェイドは瞠目した。
彼女の中で何かが誤った方向へ膨らんでしまったらしい。
戸惑いながらも、ユウの表情はどこまでも真剣で、必死に真実を求めている。
「ずっと、気になっていたんです。3人はいつも一緒に居るし、距離感も近すぎる感じなので、もしかしたらって。正直、どちらかを選ぶのは大変だと思います。でも、はっきりさせた方が、3人とも幸せだと思いますので。」
小さなティーポットから立ち上る湯気が、静かな空間に揺れる。
ジェイドはそれを見つめながら、微かに眉をひそめた。
「ユウさん、それは……どういう意味でしょう?」
「私は別に反対はしません。お二人とも素敵な方ですし、恋愛は自由です。私はどちらだとしても、応援させていただきます。」
「……」
ジェイドの微笑は張り付いたままだったが、彼の瞳の奥に困惑が宿る。
それを隠しきれないまま、彼はそっとティーポットを置き、ユウの前へと歩み寄る。
「なんだか、すごい誤解をされているようですね、ユウさん。」
「いいえ、私は見ました。」
「……見た?」
「フロイド先輩がアズール先輩の肩に寄りかかって、耳元で何か囁いていたのを。そして、その時、ジェイド先輩、あなたは……優しい目で二人を見ていた。」
「……」
「それに、ジェイド先輩はいつもアズール先輩の紅茶を用意している時、いつも楽しそうに微笑んでいますよね? だから、きっと、3人はそう言う関係で……」
「それは、普通の会話と、休憩時間の戯れのようなものですよ?」
「でも……」
「ユウさん。」
ジェイドは静かにユウの横に腰を下ろし、その華奢な肩にそっと手を置いた。
彼の手は温かく、けれど決して押し付けがましくはない。
「本当に、誤解です。」
「……信じません。」
ユウの頑なな態度に、ジェイドは思わず苦笑を漏らす。
こんなにも意地を張るユウを見るのは、珍しい。
「じゃあ……アズールにでも聞いてみますか?」
「どうせ隠すに決まってます。」
「フロイドは?」
「面白がって誤魔化します。」
「そうですか。なら疑いを考えるのは辞めましょうか。」
悪戯っぽく目を細めたジェイドに、ユウはますます不服そうな顔を向ける。
その真剣さを受け止め、ジェイドは静かにため息をついた。
「では、ユウさん。僕たちが3人で仲良くしている理由、どうしてだと思います?」
「……恋人だから、じゃないんですか?」
「違いますよ。」
「じゃあ、なぜ……」
「あなたのことを、どうしようかと相談していたんです。」
「……え?」
「あなたが、可愛くて仕方がないと。」
「……ジェイド先輩、また、そうやって……」
「信じません?」
「……信じません。」
顔を赤く染め、視線を逸らすユウに、ジェイドは柔らかく笑う。
その瞳には、確かな愛情が宿っていた。
「それなら、もう少し……あなたの誤解が解けるまで、楽しませてもらいましょうか。」
「……え?」
「どちらが本命かという質問ですが、そうですね…僕のお願いを叶えてくれるのなら、教えても構いません。」
「お願い、ですか?」
「はい。内容は、あなたが了承してくだされば教えます。どうしますか?」
ユウは黙って俯き、真剣に考え込む。
その姿があまりにも真面目で、ジェイドは笑いを堪えるのに必死だった。
「うー……分かりました。その代わり、ちゃんと教えてくださいよ。」
「はい。では…ユウさん、手を繋いでください。あ、普通の手繋ぎではなく、指を絡め合う物ですよ。」
「え…?まぁ…はい…どうぞ。」
ジェイドは隣に座り、ユウの手を優しく取った。
手袋越しの温もりが互いに伝わり合い、指を絡めたその感触は、穏やかでどこか照れくさかった。
「さて、僕の本命が誰か…ですよね?」
「は、はい。」
ジェイドはユウの手を包み込むように握り、まっすぐにその瞳を見つめた。
「あなたです。」
「え……?」
「僕の本命は、あなたですよ。」
世界が静止したかのような感覚が、ユウを包む。
言葉が理解できないまま、ただ、ジェイドの言葉だけが胸の奥に響いていた。
「えっ……ッ!」
「アズールもフロイドも、僕にとって大切な友人であり、兄弟です。僕が恋人として選ぶなら、ユウさん。あなたしかいません。」
ジェイドの声はどこまでも優しく、嘘の無いものだった。
ユウの頬はみるみる赤く染まり、目元には羞恥と戸惑いが浮かぶ。
「ふふっ。誤解が解けたようで、何よりです。」
「……え……でも、でも……。」
「まだ、信じません?」
「……少しだけ、信じそうです……。」
「では、信じてもらえるように、これから証明しますよ、ユウさん。」
その言葉に込められた甘さと優しさに、ユウの心は静かに揺れていた――。
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「と言うのが、僕とユウさんの馴れ初めです。」
「堂々と人の過去の失態を楽しそうに話さないでください!」
夜の海風が心地よく吹く、高台のホテルのバルコニー。
柔らかい光に照らされたテーブルの上には、繊細な模様のティーセットと、彩り豊かなデザート。
潮風に混じる甘いお菓子の香りが、静かな夜にふんわりと溶け込んでいた。
ユウは真っ赤になった顔を隠すように、ティーカップを少し乱暴に置く。
カチャン――と小さな音が響くと、隣に座るジェイドは口元に微笑を湛え、涼しげに紅茶を啜っていた。
その向かい側には、優雅に紅茶を楽しむ、ジェイドの母、ジョルジーナ。
彼女の目元には、愛おしげな、母親のような笑みが浮かんでいた。
「ふふっ、とても可愛らしい勘違いをしていらっしゃったのね、ユウさん。それに、結構頑固なところがあるのね。」
「そうなんです。そこが彼女の可愛らしい所でもあるんですが、いつも誤解や勘違いを正すのが少し大変で…あの後も、なかなか勘違いを正そうとせず、僕たち3人が……ああ、想像もつかないようなことを。」
「ちょっ、本当にやめてください!恥ずかしいので!」
ユウは顔を真っ赤にさせながら、ジェイドの腕を思いきり引っ張る。
ジェイドは、その仕草すら愛しく思いながら、普段とは少し違う、柔らかく親しげな笑顔を浮かべた。
そんな二人を見て、ジョルジーナは目を細め、静かに笑った。
まるで、何もかもを包み込むかのように。
「でも、少し驚きましたわ。あのジェイドさんが、誰かに心を寄せる日が来るとは思わなかったから、ママは嬉しいわ。」
「……僕も、思いませんでした。」
ジェイドはそう答えると、隣に座るユウの手をそっと取った。
指先が触れるだけで、ユウは一瞬びくりと反応する。だが、そのまま逃げることはしなかった。
ジェイドの手の温もりが、静かに、優しく包み込んでいたから。
「これからも、僕はユウさんを大切にしていきます。今日は、お母さんにもそれを是非知っておいてほしくて、彼女を連れて来たんです。」
「嘘ですね。スケジュールの都合が良いのが私とグリムだけだとか言っていませんでした?」
「それはそれ、これはこれです。」
「またそうやって調子のいいことを…」
ふと、そのやり取りの間に、ジェイドのスマートフォンが静かに震えた。
着信画面には、フロイドの名前。
ジェイドは画面を一瞥し、「少し席を外します」と微笑みながら立ち上がる。
扉の向こうに姿が消えると、バルコニーに残されたユウは、ふっと息を吐き、夜空を仰いだ。
港町の灯りが、月と星の光と交じり合い、まるで宝石のように海面を照らしていた。
「……とても綺麗な街ですね。」
ユウがぽつりと呟くと、ジョルジーナは静かにティーカップを置いた。
「ええ。私もこの場所はお気に入りです。昼間の陽気さも良いですが、夜の静けさは格別です。ユウさんも、気に入ったようですね。」
「はい。ずっと見ていたくなるほど、気に入りました。」
「それは良かったわ。でも私は、今はあなたのことを見ていたいわ。」
「……え?」
ジョルジーナの穏やかな言葉に、ユウは目を見張った。
ジョルジーナはふわりと微笑みながら、手を伸ばし、そっとユウの頬に触れる。
その手のひらから伝わる温もりは、どこまでも優しく、柔らかい。
「あなた、とても……静かで、穏やかに見えるのに……たくさん、辛いことを経験してこられたのですね?」
「ッ…!」
ユウの胸が、ぎゅっと締め付けられる。
誰にも見せていないはずの痛み。
この世界では隠し通してきたはずの過去を、彼女はまるで見透かしているようだった。
「……どうして、そう思うんですか?」
「母親の勘、でしょうか。」
ジョルジーナは微笑みを崩さず、ユウの頭に手を伸ばした。
その手が、そっと髪を撫でる。
「私も、色んなことを経験して来ました。そして、今のあなたの様な目をしている子を、私は何人も見てきましたもの。」
遠い記憶の中で、母に撫でられたことを思い出す。
霞んだその記憶が、今、現実の温もりとして蘇る。
「泣いても、いいのですよ?」
「……泣きません。」
「ふふ、そう。でも、時には、無理をなさらずに。」
「……私は……」
「あなたは……よく、頑張ってこられましたのね。」
その一言が、ユウの中に静かに染み渡っていく。
心の奥に触れられたような感覚に、思わず肩が震えた。
「……どうして……そんなふうに……」
「ジェイドさんが、あなたを見る目を見ていれば、わかります。」
「……え?」
「守りたいものがある人は、強くなれるのです。そして、あなたの中には……守りたいものが、たくさんあるのでしょう?」
ジョルジーナは立ち上がりユウの後ろに立つと、彼女を優しく抱きしめた。
その手の中に、自分がいる――ただそれだけのことが、こんなにも安らぐものだとは、ユウは知らなかった。
「私が、この子の母親だったら、たくさん褒めてあげたい。そう思いましたの。」
「……ジョルジーナさん。」
「でも、今はジェイドさんに任せますわ。あの子は、あなたを幸せにしようと、きっと……全力を尽くしますから。」
優しい手が、ユウの髪をそっと撫でる。
「でも、辛くなったら私のところにいつでもいらっしゃい。あなたの母親の代わりに、私があなたを抱きしめてあげます。」
「……はい。」
涙はこぼれなかったけれど――ユウの胸の奥は、静かに、確かに温まっていた。
やがて、ジェイドが戻ってきた時、ユウは穏やかな微笑みを浮かべていた。
それは、ほんの少し前までの彼女とは違う、柔らかな微笑だった。
「……どうかしましたか?」
ジェイドの問いに、ユウは小さく首を振る。
「……いえ。ちょっとだけ……優しい夢を、見ていた気がして。」
「ふふ、それは……良い夢でしたね。」
ジョルジーナの微笑みは、夜の星空よりも、あたたかかった。
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「では、2人とも、おやすみなさい。ジェイドさん、あまりユウさんを寝不足にするような行為をしないように、気を付けてね。」
「しないのでご心配なく。」
「ふふっ、あらそれは残念。」
「では、おやすみなさい、お母さん。」
「ええ。ユウさんも、ジェイドさんが変なことをしたら、私の部屋にいつでも来てくださいね。」
「は、はい。おやすみなさい。」
ジョルジーナが軽やかに笑いながら部屋を後にすると、バルコニーには再び静けさが戻った。
ユウは深く息を吐き、胸に残る温もりをそっと手で押さえた。
そして、まるでその感触を確かめるかのように、再び夜風の中へと足を運ぶ。
「……少し、冷えますね。」
ぽつりと呟くユウの背後で、衣擦れの音がした。
ジェイドがゆっくりと近づき、脱いだジャケットをそっとユウの肩に掛ける。
その仕草は自然で、言葉以上に温かかった。
「冷えないように。無理をして風邪など引かれたら困りますから。」
「……ありがとうございます。」
ユウはジャケットの襟元に手を添え、視線を夜の港町へと向ける。
昼間の賑わいが静まり、灯りだけが規則正しく並ぶ街並みは、どこか別世界のように幻想的だった。
ジェイドは隣に立ち、ユウと同じ景色を見つめている――ようで、時折その視線はユウの横顔へと向けられていた。
彼女の頬にかかる髪、遠くを見る瞳の揺らぎ、そのすべてを目に焼き付けるように。
「……お母さん、何か言っていましたか?」
「言ったというか…とても、優しかったです。」
「ふふ、そうでしょうね。」
「……優しくて、温かくて……でも……」
言葉を探すように、ユウは口を閉ざす。
夜風が頬を撫で、心の奥に潜む記憶を静かに揺り起こす。
「それが、すごく懐かしい気がしたんです。きっと、昔……母も同じ様な優しさをくれたんだろうなって……。」
その言葉に、ジェイドは静かに頷き、ユウの手を取った。
冷たさを帯びたその手は、震えてはいなかったが、どこか頼りなく感じられた。
「すごく……あたたかかった。」
ユウの目元に、ふと熱が滲む。
そして、ぽたりと、涙が頬を伝った。
「……あれ、おかしいですね……ジェイド先輩、どうしましょう。これ、止め方が、わかりません……。」
戸惑いと羞恥の混じる声に、ジェイドはそっと彼女を抱き寄せた。
腕の中に納まるその小さな体を、静かに、優しく包み込む。
「いいんですよ。そのまま、泣いてください。」
「でも……。」
「泣いてください。あなたの涙が、流れきるまで。」
その低く響く声に、ユウの心がまた揺れる。
自分の弱さを認めることの恐ろしさ、でも――誰かの前でだけは、それを許してしまいたいという欲。
ユウはそっと顔をジェイドの胸に埋め、溢れる涙を止めようとはしなかった。
港の灯りに照らされながら、温かい涙が夜に滲んでいく。
ジェイドは何も言わず、ただ静かに背を撫でる。
時折、ユウの髪に唇を寄せ、小さく囁く。
「あなたが、どんなに過去を背負っていようとも、僕は今、ここにいるあなたを守りたい。」
「……ジェイド、先輩。」
「大丈夫ですよ。あなたは、もう一人ではありません。」
ユウの涙は止まらなかった。
けれど、その涙は、痛みから生まれたものではなかった。
胸の奥に、じんわりと広がっていく温もり――それは、確かに彼女を包み込んでいた。
(……どうして、ジェイド先輩は……私なんかに……)
優しさを受けるたびに、心のどこかが軋む。
本当は、こんな風に誰かに触れてはいけない。
こんな穏やかな夜に、包まれてはいけない――
(……こんな幸せ……間違ってる……)
元の世界。
失ったもの。
背負った罪。
許されない過去。
けれど――
「……ユウさん。」
ジェイドの声が、その思考のすべてを包み込むように響いた。
「……大丈夫です。あなたは、ここにいていいんです。」
「……っ」
その言葉に、不安が少しだけ、薄れていく。
何度も、何度も、自分の中で否定してきた気持ちが、少しずつ、ほぐれていく。
ジェイドは、変わらずユウを抱きしめ続けた。
ただ静かに、ただ優しく。
言葉にならない想いが、胸に溢れて――
(……ずっと、このまま……ここに居たい。)
そう、思ってしまう自分がいた。
それが、どれほど危うくても。
それでも、今だけは――この温もりの中に、居たい。
ただ静かに、彼の鼓動を聞きながら――夜はゆっくりと、更けていった。