雨と傷とふたりの心三界の狭間に位置する、仙郷たる空桑にも季節や天候の変化は存在する。人も動物も植物も、そして人と営みを同じくする食魂も太陽の光だけでは生きていけないのだから、雨が降るのは当然のことだ。
しかし桃源郷といえば穏やかな常春のイメージであったが、実はそうでもないのか、はたまた食神・伊摯の好みであるのかはわからない……と、徳州扒鶏は雑巾を絞りながら首を傾げた。
今は人間界で言うところの雨季にあたる。草木育む恵みの雨、と喜びたいところだが残念ながらそうもいかない。過日の襲撃の傷痕の修復作業に追われる空桑では、連日しとしとと振り続ける雨によって発生する雨漏りと若及び全食魂との格闘が至る所で繰り広げられていた。
ある者は桶やバケツ、或いは甕や欠けた皿や傘などを持って水滴の落下地点へ走る。またある者は雑巾で床を拭き、力仕事の得意な者や身軽な者は屋根に上り応急処置を施す。徳州はといえば指揮能力を買われ、自らも床を拭きつつ若と共に駆け回る食魂達に指示を飛ばす手伝いをしていた。
一つ片付いたと思えばまたどこかで雨漏りの発見があり、その度に手空きの食魂達が総動員するのだ。終わりのない作業に辟易しつつも皆活力に満ち溢れ、一段落つけば笑みを浮かべて互いを労い合う。そんな賑やかな雨の日の日中が、不謹慎かもしれないと思いつつも徳州は好きだった。
だが、ひとたび喧騒が遠ざかれば雨は徳州を苛むものとなる。夜、現から離れ微睡の境に逃げ込んだとしても、雨はありし日の記憶を夢として纏い徳州を追ってくる。
総合的に見ると、雨の日は、苦手だ。
「おせーよ」
「……符?」
徳州が夜の巡回を終えて充てがわれた部屋に戻れば、この時間はとうに眠っているはずの弟、符離集焼鶏のぶっきらぼうな声が飛んできた。
遅いと言われたものの、普段の平均帰還時刻より28分36.4秒も早く戻っているのだが。反論を胸の内に抱えつつも雨音を掻き消す人の声に、知らず強張っていた肩の力が抜ける……が、気にすべき点は山ほどある。
先手を打つように符が口を開いた。
「夜更かしがどうとか言うなよ。俺は明日遅番なんだ」
「それは知っているが……あぁ、何から聞けばいいのか。まず……」
何故こんな時間に起きているのか。何故オレを待っていたのか。いや、それよりも。
「何故、オレのベッドにいるんだ?」
部屋着姿の符はベッドの上で胡座をかき、クッションを片手に抱きながら通信デバイスを弄っていた。完全に彼の寛ぐ姿勢だが、何故わざわざ自分ではなく徳州のベッドにいるのか。
すると符は手元の画面から一瞬徳州へと視線を寄越したと思うと、通信デバイスをぽいと枕元に放り投げた。精密機械を粗雑に扱うんじゃない、と口をついて出た小言を聞いているのかいないのか、クッションを両腕で抱き直すと明後日の方向を向く。
「今日はここで寝る」
「…………符、悪いが意図が全くわからない」
流石に困惑が伝わったのだろうか、符はひとつ舌打ちすると歯切れ悪く言葉を続けた。
「……ここんとこ雨で、お前がずっと辛気臭い顔してやがるから……仕方ねーから、一緒に寝てやるって言ってんだよ」
ぎくりと肩が跳ねたのを、符に見られなかったことが幸いだった。
徳州は人間界にいた頃に起きたあの雨の日の事故のことを、符には話していない。知っていたとしても、過去の記録を読んだ程度だろう。それなのに何故。勘付かれるほどに挙動不審だったのだろうか。
視線は変わらず逸らされたままだというのに、逃げるように頭に乗ったままの帽子を目深に被り直す。弟の不器用な気遣いが、ありがたくて申し訳ない。
……オレには、気遣われる資格もないのに。
「符、それは……」
重い口を開いた途端、符は眦を吊り上げた。
「うるせーな、俺はもうここで寝るって決めたんだよ!嫌だっていうなら、お前が俺のベッドで寝ればいい……それだけの話だろ!」
声を荒げ、抱いていたクッションを枕に寝る体勢を取る符の姿を、徳州は何も言えないままに眺めていた。
会話が途切れ、ざあざあと、帰る前より大降りになってきたとわかる雨音が聴覚を支配する。明日の補修作業はより大変になるかもしれない。そんな楽観的思考を雨の記憶が押し流していく。
動き出すきっかけとなったのは、不意に胸に走った鈍い痛みだった。
短めの湯浴みと着替え、明日……既に日が変わり正確には今日だが……の準備を終えた徳州は逡巡の果てに自分のベッドに向かった。この季節にしては厚めの毛布の裾を捲って体を滑り込ませると、眠ったと思っていた符の気配が微かに動いた。が、徳州の方に背中を向けたままじっとしている。
その後ろ頭を見ながらできる限り距離を取った位置に落ち着くが、それでも男二人で使うには少々手狭なベッドの上だ。少しでも手を伸ばせば触れられるところに符がいる。触れているわけではないのに、微かに温もりが伝わってくる。
この温もりに安堵することは、オレには許されるのだろうか。
……小さく頭を振って思考を切り替えた。過去ではなく今……目の前の弟のことに。
符は一体、何を思って一緒に寝るなど言い出したのだろう。
準備の間改めて考えてみたが、彼が事故と徳州のことを知っているとは考えづらい。だが徳州の様子がおかしいことを雨と結びつけた。しかし徳州自身、雨と関連づけられそうな事柄は事故しかないのだ。繋がらない。何一つ。数字がぐちゃぐちゃな方程式を解けと言われている気分だった。
いつだって、符の思考は理解が及ばない。兄弟なのに。
もしやそれは、「義理の兄弟」であるからなのだろうか。血の繋がった人間の兄弟、あるいは食魂であっても佛跳牆と鶏茸金絲筍のように同じ親を持つ兄弟だったらもっとわかったのだろうか?
“ーーーーまさか”
脳裏に蘇るのは、困ったように笑う若の声。いつだったか、若に溢したことがあるのだ。その答えだった。
“実の兄弟だって親子だって、血は繋がってても全く別の存在なんだよ。読心術でもない限り考えが全部わかるなんてありえないよ。“思考がわかる”ように見えるのは相手とずっと一緒にいて、あるいはずっと見ていて、どんな時にどんな気持ちになるのかっていうのを経験として知っているから予測ができるだけなの”
生まれた時から様々な食魂と過ごしてきたという若の言葉に得心がいくと同時に、わからないはずだ、と嘆息した。
徳州が符離集の村長一家から符を引き取ったのはほんの数年前だ。そしてその数年の間、符との向き合い方を間違えていた。決定的な過ちを犯すまで、その事実に気付きもしなかった。
今だって手探り状態だというのに、わかるはずがない。そもそも、理解できるようになるのかすら。
(…………いけない)
雨で気が滅入っているせいか、思考がどんどん底無し沼に沈んでいる。これは、よろしくない。
眠ってしまおうと毛布を被り直した、その時。
「…………い」
「……?」
雨音にかき消されそうな符の声を、断片だけかろうじて耳が拾い上げた。次いで、ごそごそと動く音。
「遠いんだよ……チッ、仕方ねーな……!」
声が明瞭になったことで、徳州は先程の音は符がこちらを向いた時のものだったことを理解する。
それとほぼ同時に、人の形をした温もりが懐に潜り込んできた。
「……!?」
上げかけた声を、夜半であることを思い出し咄嗟に飲み込む。徳州の体に引っ付く形になった符もまた黙っている。無言の間に、しかし雨音が割り込む隙はなかった。自分の心音がやけに大きく聞こえて、うるさいほどだ。
「…………痛ぇの?」
沈黙を破ったのはまたも符だ。だが、つい先程までのふてぶてしさは何処へやら、その声色は静かに響いた。
「……何が?」
「これ」
服の上から胸に、……空桑に来る直前の騒動の際に負った傷の痕に、符の指が触れる。
「治った傷でも、雨の日に痛くなったりするって、餃子の奴が言ってたから……その……」
言葉尻がどんどんしぼんでいき、最後までは聞き取れない。それでも、ようやく理解した。
なるほど、傷痕の気圧痛が原因だと思って心配してくれたのか。
しかし行動の理由は納得できても、それが何故一緒に寝ることに繋がるのかは分からない。徳州は再び思考を巡らせかけて、じっと見上げてくる符の視線に気付き、慌てて言葉を紡ぐことに意識を向けた。
「ずっと痛いわけじゃない。気圧が大きく変化する時くらいだよ」
「けど、痛ぇんだろ」
「大したことじゃない」
「……ふぅん」
「本当だから」
「そうかよ」
虚勢と取られたのだろうか、符の声に不満げな色が混じる。宥めるように金色の頭を撫でると、符の体が一瞬強張った。
子ども扱いするなと暴言の一つでも飛んでくるかと思ったが、意外にも大人しいのをいいことに徳州はしばらく符の柔らかな髪の感触を堪能した。
……符の思考はわからないことだらけだが、それは“まだ”わからないだけなのだ。食魂の命は永く、符は不満げではあっても隣にいてくれる。徳州のことを完全には理解できないであろう彼も、わからないなりに気遣おうとしてくれている。
どれだけの時間がかかろうとも、少しずつ知っていくしかない。今日だってこんな風に心配してくれる符の優しさを知ることができたのだから。
(いつか、符に話せる日が来るのだろうか)
雨の日が憂鬱な本当の理由を。
もしかしたらそんな日も来るのかもしれないと、初めて思うことができたのはこの弟のおかげだろう。
頭を撫でていた手を、そのまま緩く抱き込むように回す。抵抗は、なかった。
「ありがとう、符。おやすみ」
「……………おやすみ」
その日見た夢はほんのりと暖かく、雨の日が苦手な理由がひとつ減った。