庭先に赤い実が生えている。
長く短い旅を終えた。
一足早く退学した神代類は同い年の卒業を見送ってしばらくしてから、旅に出た。旅に出たのは冬で、戻ったのも冬だった。思わずからだを縮こまらせてしまうような寒さも、吐く息の白さも、大きな霜柱も、何を見ても楽しかった。
それでも冬は他の季節と比べると色彩が貧しい。夏は艶やかに輝いていた緑の葉は、今はすっかり色褪せてしまっている。季節を問わず咲き続けているのではないかと思われた庭先の色とりどりの花々も、皆盛りを過ぎて枯れてしまった。何も植えられていないプランターは寂しげに見える。種は土の下でまだ春を待って眠っていることだろう。
人々が身に着ける衣服は黒・グレー・ベージュに白。革靴の茶も深く深く、沈んだ色をしている。
冬は色の寂しい季節なんだと、新たに知った事実をひとつ胸の奥に仕舞ったばかりだった。
そんな中、紅い実はひときわ目を引いた。
常緑樹の暗い緑の葉に明かりを落とすかのように、賑やかに紅い実は生っていた。
久しぶりにこんなに鮮やかな色を見た。
まばたきをすると、何度もあの柔らかな朱が視界におどった。瞼の裏に焼付くとはこのことか、とまた新たなことを知った。
花が咲いて枯れるのはあっという間だが、一週間経ってもその実はいくつかが地に落ちたのみで、変わらず類を楽しませた。むしろいくつか実が落ちたことでその朱が彩る範囲は増えていく。
「静かだ」
老人の咳。たとえば犬の唸る声。朝は喧騒と無縁の時間ではない。いつもどこかで音はする。けれども類が毎朝実を見て瞼を細める時、ふと興味が湧いて庭をのぞいても生活の気配を感じられないことに首を傾げる時、いつでもその道は静かだった。
その日は雨が降った。予報になかった唐突な雨だった。
雨は冷たく、ともすればあられに変わるのではないかと思ったが、無数の水たまりには、いつまでも氷の結晶らしきものは落ちてこなかった。
傘で雨を防げる範囲には限度があり、無数の水たまりを避けきれなかったつま先は冬の雨を吸いこんでひどく冷たくなった。空にかかる雨雲と、夜の足の速さ、自分の掲げた傘が作る影に身を切るような寒さ。
雨脚が強かったためだろうか。実は朝見た時よりも多く落ちている。
どんよりと暗い中、朱は一層鮮やかだった。
「こんな時間に、どうしたんですか?」
そう言って神代類は男を迎え入れた。
男は百七十センチ代の半ばというところだろうか。ドアノブにかかった手は骨ばって白く、爪は深爪気味に綺麗に切り揃えられている。
無防備な姿で招いた神代類は、来客の訪れを知っていたかのように男に微笑んで見せた。これも知っている。
「上がっていくかい?」
誘導するように半身をずらして奥の廊下に視線を送る。このまま応えなければ類は扉を閉め、鍵をかけ、何事もなかったように一日を過ごすだろう。男にはわかるのだ。
「お邪魔する」
ーー目の前の男は神代類に瓜二つだったのだから
真新しい来客用のスリッパを出しながら、僕以外の人間がこの家に上がるのは初めてだ、と彼は言った。その目には何の感情も浮かんでいない。ただ事実を口にしただけという風情だった。
コーヒーか紅茶かと問われてあなたと同じものを、と男は返す。
ソーサーとカップの擦れる微かな音。蒸気がケトルの狭い出口から先を争って逃げ出す音。
不快に感じない程度の生活音に耳を傾けながら、男は庭を見ていた。カーテンは開かれていて、先ほどまで外で眺めていた実が見える。
「毎朝見ていたよね?」
ことん。意図的に音を立てて、ガラステーブルに真っ白な盆が置かれた。
紅茶が二つ。
「これで良かったかな」
「ああ」
「あの実のなる木は、僕がこの家に越してきたときにはもう植わっていてね」
「そうなのか」
「最初は枯れてしまっても構わないと思っていたけど、今はなんとなくそれも惜しく思うようになった。たまに小鳥が来るんだ。あの実は鳥の好物らしいね」
「食べ尽くされてしまったりはしないのか」
「しないんだ。いつも僕の庭にやってくる小鳥は一羽でやってくる。少しだけ実をついばんで、また数日後に一羽でやってくる」
「秘密の庭のようだな」
「そうなんだ」
たくさんの小鳥がやって来て庭でピィピィと鳴きながらすべての実を食い尽くすようになったら、おそらくこの男は実を根こそぎ抜いて、鉄の柵でも立てるのだろうな。男はそう思った。自分の考えたことが間違っていない自信もあった。
そうだ、きっとそうするだろう。
「君も小鳥と一緒だね」
ひとりで来て、通り過ぎ様に静かに眺めて、黙っていなくなる。僕の庭にやってくる小鳥も静かだ。
生きてきた年月と同じだけだけ、手を取り合って来たのだ。誰かに代わりの務まるものではない。それを分かってもらえないことが、男は悲しかった。
目の前に座っている彼には見えないのだろう。その証拠に、類の視線は何もないところを彷徨うことはない。
この静かな実の生る庭で身を寄せ合い、ひとりで生きていくだけだ。それはひどく寂しいことのようにも思えるが、完璧に充たされた人生だった。
「あなたは小鳥に餌をやったりはしないだろ」
「そうだね、ただ生えているだけだ」
「来訪を歓迎したりもしない」
「そうだね、庭を荒らさないなら追い払うこともないけれど」
「そしてオレもまた、あなたにとっては小鳥なんだな」
「君はものわかりがいいね」
ティーカップを先に空にした。
「……おかわりいるかい?」
「いいや、やめておく」
ーーこの庭を荒らしたくないからな
男は立ち上がろうとしたが、彼が優しく肩を押したので、そう一度ソファに身を沈めた。
「僕がこの紅茶を飲み終わるまで、もう少しだけ話そう」
意見は求められていない。それは提案のようであり、決定事項として告げられただけのようにも思えた。
肩には慣れ親しんだ手の感触がある。
僅かに大きく、ぬるく薄い。じんわりと広がるぬくもりを感じると、ゆっくりと全身の力が抜けていく。この心地よさも知っていた。
同時に息を吐き出した二人は、顔を見合わせて笑った。
庭に訪れる者は誰もいない。
ひとりは限りなく幸福だ。
静かで、熱くもなければ冷たくもない。扉には厳重に鍵が掛けられていて、鳴り響くインターホンに眉を顰める必要もない。新しくはないが手入れの行き届いた家具。必要なものだけが必要な場所に揃えられている安心感。
足りないものの何もない家。
ここにたった一人で暮らすのは、さぞや幸せなことなのだろう。
天馬司にはその価値が誰よりも分かった。
好きな紅茶の飲み方。最寄りの図書館の一番人の少ない時間帯。カップの底が見えるまで、二人は二人以外にとって取るに足らないことばかりを話した。
神代類によく似たその男は、今の神代類では知り得ないことをいくつも知っていて、それが一体なぜなのかはもう聞かなくても分かっていた。
「日が落ちてしまうね」
「そろそろお暇する」
「うん。楽しかったよ。それじゃあ」
来た時と同じように廊下を進み、行儀よく揃えられた靴に足を収めて、別れの挨拶を交わす。一歩外に出ると、扉は締まり、鍵のまわる音がした。
誰もいない玄関扉の前で頭を軽く下げてから帰路についた。
薄暗くなった道をいつもより急ぎ足で歩きながら腕時計で時間を確認する。大学生の腕に不釣り合いなそれはあの男がいつも着けていた時計と同じものだ。
卒業祝いに何が欲しい? 何をして欲しい? そう尋ねた神代類に、神妙な顔をした天馬司が差し出した揃いの時計。
「女々しいと思うかも知れないが、一つくらい揃いのものでも持って、見る度オレのことを思い出してはくれないか」
「かわいいなあ」
らしくないその行動が年相応に過ぎてひどくかわいらしく思えて。
文字盤を撫で、嗚呼、と溜息を吐く。
『だから、あんなにも孤独に、一人きりの人生を送ることはないだろう。
けれど、あんなにも幸福であることも出来ないだろう』
静かな庭で、美しい家で。ひとりと寄り添って。充たされた幸福とはああいうものを指すのだろうか。
ちりと感じた羨望を胸の奥底にしまい込み、時差の計算をしながら、この際迷惑をかけても構わないから帰宅したら何も考えずに電話をかけてしまおうと決める。
声が聞きたかったと言うだけで、きっとすべて許されるだろう。