過去ログ13あの日はよく晴れていたのをよく覚えている。
雲ひとつなくて、空はどこまでも青く澄み渡っていて、今日みたいな日は洗濯物がよく乾くと母親のエヴァが笑いかけてくれたのをバージルはよく覚えていた。あの日はダンテもやたら上機嫌で、バージルにチャンバラをやろうと模擬刀を持ち出して後をついて回っていた。バージルはそんな弟を煩わしいと思っていた。
チャンバラも嫌いではなかったが、本を読みたいときにチャンバラを誘われるのは決して愉快なものではなかった。
本を読もうとソファーに腰をかけてもちょっかいを出してきたダンテのせいで喧嘩が始まることだって少なくはない。それをきっかけに取っ組み合いの喧嘩をしたせいで、本のページがよれたり破けてしまったことだってあったのだ。
そのせいでバージルの怒りを買って喧嘩は一層激しいものになったが、ダンテはバージルが怒れば怒る程に上機嫌になったものだった。
怒った分だけ長くバージルが意識を向けてくれるのだと。
それを教えてくれたのは教養深い隣人だった。バージルの手に届かない高さの本棚から本を引き抜いてくれたとき、バージルの小さな手を包んで教えてくれた。きっと弟さんは君のことが大好きなんだろうねと。
それを聞いたところで腑に落ちる筈もなかったが、その場では素直に頷いてみせた。その方がきっと聡明に見えるだろうという、自分を兄らしくみせたいという見栄がそうさせたのだろう。
だがそんな弟と過ごした記憶を懐かしくも、忌々しく思う日がくるなどバージルは予想したことなんてなかった。
燃え盛る炎のような空を見上げながらバージルは足を竦ませていた。
一体何があったのか?と問いかけて答えてくれる者はこの場にはいない。
今朝はあんなに青く澄んでいた空は黒い雲に覆われ、雲の切れ目から覗く空の色はマグマのように赤い。その瞳で見たことはないが、書物や口で語られたことがある魔界の空とはきっとこんな色をしているのだろう。
そして、その色はか弱い者を押し潰すのを今か今かと待ち構えているのだ。
「ダンテ……!母さん……」
震える手で金色の表紙の本を抱きしめた。
親切な隣人に渡された一冊の本には、自身のイニシャルが刻まれている。それを庇うように抱きしめれば、竦む足を一歩踏み出した。家に帰らねばと。
家には弟と母がいる。こんな恐ろしく悍ましい空の下に取り残されているのを思えば、竦んだ足はまた一歩と力強く地面を踏んだ。
不幸にも、バージルは家から離れていた。
どうせ家で本を読んでいてもダンテに邪魔をされるだろうからと、家から離れた木の下で一人、本を読んでいたのだ。そのせいでバージルは孤立してしまった。
「違う……!」
首を擡げた、ひとりぼっちだという言葉を否定する。
遠くの空から悪魔の甲高い叫びが聞こえた。その声は歓喜に満ちているが、きっとバージルを見つけた喜びで上げているのではない筈だとバージルは願った。
そして、その声がダンテと母親を見つけた喜びでもない筈だと。
「俺が、助けないと……」
兄である自分が二人を助けないといけないのだ。
そんな健気な気持ちを踏みにじるように今度は後ろから甲高い叫び声が聞こえた。
醜悪で恐ろしい悪魔がすぐ後ろにいる気配を感じた。
背中の産毛がぞっと逆立つのを感じたが振り向くことはできなかった。今のバージルにできることはその悪魔を振り切って走り、早く家にたどり着くことだ。
後ろを振り向かないのは恐ろしいからじゃない。
今は急がなくてはいけないから相手をしている余裕なんてないのだと、脈拍が上がる胸の中で叫びながら必死にバージルは走った。
後ろをつける悪魔の気配が消える頃、そんなバージルを嘲笑うように雨が振り始めた。柔らかい霧のような雨ではなく、歩みを遅らせるような強く残忍な雨だった。
そんなに焦っても無駄だと嘲笑うかのように。
乱れた呼気を繰り返す度に、口の中にたっぷりと雨が注ぎ込まれた。息もまともに許されない雨の中、バージルは懸命に走り続けた。
きっと無事である筈の二人が待つ家へ。
「か、あ……さん……」
バージルの期待を裏切って、家族で暮らしている家は崩れかけていた。
家の中からはひっきりなしに悪魔の下品な叫び声が聞こえる。
芝生の生えた庭には砕け、地面には亀裂が幾重に走っている。隅に植えられていた木は根から掘り返されたように倒れていた。
倒れた木の脇にバージルは身を隠していた。
庭の奥に構えた家の玄関は撃ち抜かれ、扉は見る影もない。その奥に見えるのは伏せた母の姿だ。瞼を閉じているもののその優しい瞳がもう自分を見つめてくれることがないことだけは理解できた。
ベルベッドのドレスごと腹部を貫かれたのだろう。赤黒い血溜まりが母を中心に今もなお床に広がりつつあった。
母は死んだ。殺されたのだ。その悪魔がどいつかはバージルには知りようもない。だが、この悪魔たち全員が母の仇だ。こいつらが母親を追い詰め、殺した。
しかしバージルは憎しみよりも悲しみよりも、恐怖を感じていた。
死を迎えた母を前に振り絞った勇気は潰れてしまっていた。
無力であることの恐怖に支配されたバージルは崩れ落ちた。
閻魔刀を手にすれば、何匹かの悪魔を葬ることはできるだろう。しかしあまりにも数が多すぎた。一匹を殺し、二匹を殺し……、そのあとはバージルが嬲られる番であろうことは予想にできた。
スパーダの息子である以上、ムンドゥスはきっと楽には死なせることはないだろう。それを思うとガチガチと奥歯が鳴った。
震える手足と奥歯を抑えようと、自分の体を抱き竦めながら地面にしゃがみこむ。それでも死を間近に感じる恐怖には抗えなかった。
死にたくないという生存本能がバージルをその場に縫い留めた。
せめて兄としてダンテの安否を確認しなくてはと、軋んだ足で立ち上がる。だが、その足は決して家の中へと進めることはできなかった。
「ダン……テ」
無事であってほしいと強く願った。力を持てない自分を憎みながら、どうか弟だけは無事であるようにと神へと祈り続けた。
ウィリアム・ブレイクの詩に描かれた神は慈悲深いのだから。
自分から全てを奪わないでくれと頭が痛くなるほどに奥歯を噛み締め、強く強く赤黒い空へと祈りを捧げていた。
……悪夢も永遠には続くことはない。
やがて一帯に静寂が訪れ、分厚い黒い雲もどこかへと立ち消えていた。
蕩けた太陽が地平線へと沈もうとしているが見えることから、あれから数時間が経過したことだけが分かった。
頭が重く、割れるように痛い。それにみぞおちが引きつったような鋭い痛みを発していた。ふらふらと危なげな様子で何とか立ち上がると、バージルは霞む目で周りを見渡した。
荒れ果てた現状に変わりはないが悪魔達はバージルに気がつくことはなく立ち去ったようだった。それを確認すれば、足を引きずるようにして自宅へと足を踏み入れた。
まず、バージルの目に留まったのは……母親の死体だ。
「母さん……」
乾ききった声で母親を呼ぶ。その声はひどく弱々しく、今にもかき消されてしまいそうくらい小さい。
倒れこむように母親の脇に膝をついた。美しいブロンドの髪は柔らかく、可憐な花の香りがした。しかし血の気の引いた青い肌が、母がもう死んでいるという現実を無情に突きつける。
母の乱れた髪を整えると、青ざめた母の左頬に唇を落とした。寝る前にいつもそうするように。ダンテは母の右頬を、バージルは左頰をといつの間にか決まっていたルールに従って。
涙はどうしても流せなかった。母が死んで悲しいという気持ちばかりはあるのに、涙が砂になってしまったかのように流すことだけはできなかった。
兄の権威をかなぐり捨てて、声を張り上げて大声で泣ければ良かったのに。
バージルには決してそうすることはできなかった。それが空々しくバージルの胸を凍てつかせていく。
心が底冷えていく一方で足はもう震えてはいなかった。
ゆっくりと立ち上がると二階へと足を歩ませ、ダンテと一緒に過ごしていた自室を確認した。
クローゼットの中、ベッドの下、ソファーの後ろを見て回り、隠れられそうな場所をあちこち見て回る内、バージルの心はすっかりと寒々しいものとなってしまっていた。
そして、玄関に近いクローゼットの中で気を失っているダンテを見つけた頃、バージルの母親の死を嘆き悲しむ心は芯まで凍り付いてしまっていた。
クローゼットを開けたときに香った可憐な花の匂いを嗅いだ瞬間に。
母親はダンテを守って死んだのだろうという事実にバージルの家族を思う優しさは音を立てて砕け散った。塵のように砕けた心を抱いたまま、バージルはクローゼットをそっと閉めた。
弟のダンテであろうと、もう誰にも縋ったりはしないと。
「……なあ、Vちゃんどーしたの?ママのことでも思い出したぁ?」
今しがた、Vが思い出していた記憶は幼いバージルのものだ。
そのとき手にしていた本を手に取ると、その表紙を指でなぞる。
グリフォンと共にVはかつての生家の前に立っていた。バージルとして最後に足を踏み入れた時から、バージルから切り離されたときから何も変わっていない。幼い頃、身を隠していた折れた木も、朽ちてはいるが形は残っていた。
「父なるものなんて愛せるもんか。兄弟たちだって同じなのに。好きだとしてもドアの回りで、パンくずを食ってる小鳥程度にさ」
突拍子もないVの言葉に、もう慣れたという調子でグリフォンが嘴を開く。
どうせそれもウィリアム・ブレイクの詩なんだろうと。
「はいはい詩人ちゃん。いいから早くスパーダを回収しに行こうぜ」
「……そうだな」
かつて母親が倒れていた場所には血の跡さえも残ってはいなかった。
おおよそダンテか、警察官か誰かが清掃を行ったのだろう。しかしバージルは母親の墓の場所も知らなかった。第一に、人間性を切り離してしまったバージルはもう母親の死を悼むこともできない。
一度は背を向け、スパーダの気配に向かって足を歩ませたが、後ろ髪を引かれる思いのままに振り向き家の中へと足を踏みいれた。
「今更、遅いのは承知の上だが……」
最後に母親を見た場所に立ち、母が伏せていた場所に右手を置いた。
ざらついた埃の厚さが過ぎた年月を感じさせる。
「……おやすみ。母さん」
やはり母を思い、涙を流すことはできなかった。
それでもようやく自身の中で母と決別ができるような心地がした。
完全な自己満足に過ぎないが、ほんの少しばかり肩の荷が下ろせたような気がした。