コーラ同盟をいつまでも遅くなった昼飯を取ろうとして、あ、やべぇと思った。思ったというか声に出たかもしれない。
「あれ、石神博士今日珍しい色着てますね」
後ろから同じラボで研究している奴に言われた言葉に「あー」と呻くような声を出して髪をかく。
今さら間違えて着てきたと言っても誰も驚きもしないだろうしちっとばかしからかわれるのが落ちだ。
それよりも、思い出した顔に少し悩んでスマートフォンのトークアプリ、それの一番上をタップして、けれど打ち込む言葉が見当たらずに結局画面をオフにする。
今朝見たのはお可愛い寝顔だった。すやすやと心地よさそうなそれにそっとずれた上掛けを直して、ちいと見ていたら意外と時間がたってしまっていて慌てて洗濯機からろくすっぽ見ずにシャツを掴んで着て、そのまま出てきてしまったのだ。
普段なら出勤前には朝飯を用意したりタイミング良く着替えを渡してくれたりするんだがここ数日マジックショーとテレビの収録とやらで不在が続いていた。そんな奴がそれでも起きてしまえばなにくれと世話を焼きたがる質なのはもうよくよく知っていたから折角なので直前まで珍しい寝顔を堪能させて頂いていたわけだがこれはちょっとばかしマズイ。
けれど遅い昼食というのがこれまた遅く、もう退勤までの方が短くなっていたものだから結局構やしねぇだろと合理的な判断をした。思い付かねぇ文面よりも結局は俺に甘ぇアイツに甘えてしまえという極めて合理的な判断だ、これは。あとはコーラでも一つ買って帰るか。
そんな最適解を即座に決められるほどには冴えていた頭は午後からの数時間も素晴らしく働いた。働きすぎていつの間にか退勤時刻を一時間程過ぎてきたがそれも大したことではないだろう。最近は随分と早い退勤だ。
「もー!千空ちゃんが終わらないとラボの皆も終わりにくくなるでしょ!」何年か前に連日午前様を続けた五日目に言われた言葉を思い出す。ぷりぷり怒って「ウチ帰ってからやりなよ」そう言った顔は実は全く怒っていないのが見え見えだった。メンタリスト様のおありがてぇ助言に従ってみれば午前様続きのときよりかラボ自体の効率が上がったのだからいつまでたっても役に立つ、手放せねぇ。何よりも研究所を離れた、帰り道の足取りが軽くなるんだから手放す気なんてもうさらさら起きそうになかった。
恋愛脳なんてと馬鹿にしていた頃がそれこそ馬鹿らしく思える位にはいまじゃそれがプラスになることだってあると知った。今さらそれを言う気などないがまぁ相手は世界一の専門家なのだからそんなことハナから分かっているだろう。それでも伝えないと分からない事もあると言われたのもまた思い出して途中で寄ったコンビニで忘れずにコーラを一本だけ買った。あんなに苦労した炭酸飲料もいまじゃ数枚の硬貨と引き換えるだけで簡単に手に入ってしまう。それでも変わらずに「千空ちゃんのコーラはゴイスー美味しい!」と喉を鳴らしてくれる姿が早く見たい。
手にもったそれを揺らさぬように少しばかり早い足取りで自宅へと向かう。
復興も一段落した頃に買ったラボから近いマンションの一室。ゲンは駐車場があればそれでいいと言ったがちゃんとアイツの職場とも言える幾つかのテレビ局からもそう遠くないところを選んだつもりだ。それでもテレビ収録をこなしながらマジックショーに飛び回るアイツは俺よりもうんといることが少ない。だからこんな日は気持ちだけが急いてしまう。いつだったか「免許、取ろうかと思ってる」と言ったら「そんな時間もったいないよ」と笑ったけれど取っても良かったんじゃないかと思うくらいには。
暗くなってきた道から見えるマンションの自室には暖かな光。そんなもの一つでひどく上向く俺の心を多分知っているのだろう。
暗い家に帰るのを寂しいとは思わねぇが、帰り着く家に光がついていることが嬉しいと気付いたのは最近だ。逸る気持ちを押さえながらエレベーターを待つ。上階にいたそいつに階段を駆け上がることも一瞬考えたが全く合理的じゃねぇことは分かっている。残念ながら体力はミジンコのままだ。愛の力で筋肉は生まれないらしい。そんな事を考えている間にエレベーターが降りてきて扉が開いた。乗り込んでほぼ習慣となった階を押せば自宅はもうすぐそこだ。
鍵を取り出して回す。明るい玄関に一歩入れば柔らかな匂いがふわりと纏わりついてきた。そしてTシャツにエプロン姿のゲンが室内の奥からパタパタと掛けてくる。髪の毛をちょんまげ見たいな括り方にして、横髪を旅をしていた頃よりちぃとばかり長くするようになったから邪魔ならしかった。少しだけ身に余っているTシャツは、俺のだ。俺の、と言っても部屋着にしているようなシャツは大抵着古したそれだから体型のほぼ変わらない俺たちは目についたのを適当に着る。
「おかえり、千空ちゃん」
穏やかに笑うのも、こんな気の抜けた格好を、髪型をして過ごすのも駆け抜けていた時はしらなかった。いつも誰かを気にするような、あさぎりゲンであることを止めようとしない男が誰のものでもない彼を見せている。こんな毎日を続けたいから研究に勤しめるんだと思う。
誰にも奪わせない。もっと面白くて楽しい世界を。そんな気持ちは初めて会った時から、いや会う前から世界は違えど重なっていたはずだ。
「ただいま、ゲ、」
「あーっ!!やっぱり千空ちゃん着てた!俺のシャツ!!」
穏やかな気持ちで帰宅を告げる前に良く回る口がくるくると動き出す。
「あのねぇ、別に着てもいいんだけどびっくりするのよ、着るつもりの服がないと」
むう、と剥れたゲンは今日着るつもりで洗ったのかもしれない。いや、そうだったのだろう。乾燥機付きのデカイ洗濯機から引っ張り出してきて全部畳み終わっても未だ見付からずに首を傾げた後に一人膨れているのが想像出来てしまってお可愛いな、なんて思ったら目敏いゲンが耳を引っ張った。文字通りに。
「千空ちゃん!気付いてたでしょ!もう、スマホあるんだから連絡してよね!」
「……あー、わりぃ」
その小言はその通りでなんら間違いない言い分なので甘んじて受け入れる。そしてその膨れた横顔にピタリと温い空気にさらされて水滴まみれになったソイツを引っ付けてやる。
「ひゃ」
肩を跳ねさせたゲンがそれでもその正体に正確に気付くのは直ぐだった。
へにょと眉を下げて困ったように笑う顔はやはり特別に甘え。俺にだけ。
「もー。間違えたって言うだけでいいのに」
ゲンがそうやって甘やかすから俺の連絡能力は全くいつになっても向上しねぇんだが、それで困らないのだ。多分もういつまでも。
「あ、なんか焦げ臭くねぇか」
すん、と柔らかな香りに混じった異臭に鼻を鳴らすとゲンがバイヤー!といつもの変な日本語でパタパタと扉の向こうに駆けていった。それをのんびりと追いながら口角は自然と上がってゆく。キッチンの上に珍しく鍋やフライパンが並んでいる。お互い相手が居ないときは外食又はテイクアウトで済ましてしまう質だから珍しい光景だ。そのキッチン、コンロの前でゲンはしゃがんでいる。
「……千空ちゃん、これ、食べられるかなぁ~」
テーブルの上に並んだ味噌汁や湯気を立てる米を追い越して近寄れば困った顔でグリルを覗いているのだと分かった。それを上から同じようにみれば、ちぃとばかし黒くはなっているが良く焼けて旨そうな魚がそこにはある。
「問題ねぇ」
「ジーマーで?しっぽとか真っ黒なんだけど……」
相変わらずあんまり上達しねぇ料理もお可愛いんだがやってしまったみたいな顔をするゲンはちぃとばかし可哀想だ。あと玄関で出迎えてくれんならお決まりのアレ、してほしくねぇこともねぇんだわ。俺としては。
折角コンピューターも発展してんだからそろそろコンロとくっ付けてやってもいいんじゃねぇかな。
旧時代の産物を思い出して幾人かの顔を思い浮かべた。まぁ連絡するのは明後日でもいい。
今はそれよりも。
テーブルを通ったときにぐぅと鳴った腹を思って隣に用意されていた皿を持って促せば「うーん、やっぱ焦げてるよねぇ」としょぼんとした声で呟きながら菜箸で移してくる。
「塩が旨いから問題ねー」
その上でキラキラ光る塩はいつも懐かしい味だ。村長が一番に味見しないと、なんて言う言葉と共に毎年どっさり送られてくるすっかり特産みたくなってしまったそれを少しだけ振り掛けると困った顔の口許が少しだけ上向いた。
「久々に会いたいねぇ」
「そういや最近行ってねぇな」
皿をテーブルに持って行けば後ろからグラスを二つ持ったゲンが続いてやってきた。その手のグラスには並々に注がれたキラキラとした黒い液体。
片方を掬い取ると持ったままのグラスにカチンと合わせる。
「次の休みに行くか」
「……おっけー」
下から再びぶつけられたグラスの輝きは今も変わらない。
そしてそれを一気に飲み干して
「千空ちゃんのコーラ、ゴイスー美味しい」
と笑うゲンにも変わらずにいてほしいのだ。これからもずっと。