『羽化堕天』『羽化堕天』
――ごめんね…。
雅婷は冷たい水に身体を浸して震えながらひっそりと涙を流した。
ずっと憧れていた人だった。
虐げられていた雅婷に唯一優しくしてくれた人だった。
思っていたのとは違う酷い抱かれ方をしたけど、それでもひとつになれる事が嬉しかった。
ある日、自分の腹が膨れていくのに気付いて、淡い期待を抱いた。
(でも――)
彼は良い縁を得て、この村を離れる事になった。
雅婷とはもう何の関わりはないのだと示すように、訪れはぱったりと途切れた。
代わりに、一時は途切れていた男達の夜の暴力が再燃した。
殴られ、蹴られる中で無意識に腹を庇ってしまい、執拗に腹を攻撃された。
「お前のせいで大損した」と男の一人が口走ったのを遠くなる意識の片隅で聞いた。
もう雅婷はなんとなくわかっている。
自分は遊ばれていたのだと。
(でも――)
たとえ賭けの対象とされていたのだとしても、あの一時だけの穏やかな生活は雅婷にとっての掛け替えのないものだった。
だから――。
(ごめんね…)
産んであげられなくて。
もし生まれ変わって来る事があるのなら、私の全部をあげる。
私の身体も存在も、全部全部――。
時を同じくして、憐れな人間の女を観察する影がふたつ。
「あれがお前の担当か? あんな川の中で何をやっているんだ?」
灰色肌に黒髪の男が白髪の男に問うた。
「さあ? かれこれ二時間もああやって川に浸かっているんだけど、人間の考える事はわからないね。…あぁ、わかった。見てて、すぐにわかるよ」
十分ほど息を詰めて見ていた二人は女の腹の辺りから頼りない光が生じたのを確認した。
「人間の女は獣と同じように自分の腹に子を宿すそうだよ。腹が膨れていたらわかるけど、あまり見た目が変わらないからわからなかった」
「! 白無常」
黒無常が白無常を促して視線を誘導すると女の周りを漂っていた光――魂魄が吸い込まれるように女の中に吸収されていった。
「…へえ、喰らう訳でもなく吸収したのか。まだただの人間のはずなのになかなかやるね」
「確かに、素質はなかなかだな」
「そういえば君の担当はどうなった?」
感心する黒無常に白無常が水を向けると、黒無常の眉間に皺が寄った。
「運良く師となる仙に出会って道士修行を始めるようだ」
「へえ、運良くね」
「…なんだ、何か言いたいのか?」
「別に。生まれつき仙となる資質を持つ者は不幸を引き寄せやすいけど、そいつはとびきり幸運だったんだね。まあ嵐白のように道士修行の最中に亡くなる事もない訳じゃないから、もう少し様子を見てみたら? それとも私の受け持ちの中から誰か回す?」
「お前が見切りをつけた者など要らんよ」
「あ、そ」
世の中には生まれつき【仙人】となる資質を持った者がいる。
だがいくら優れた原石でも、磨かねば光らない。
大半の者は自分の才能に気付く事なく一生を終える。
先に黒無常が言った通り、運良く師となる相手と出会って初めて仙としての一歩を踏み出せるのだ。
そして彼ら明王の使徒が求めるのもまた、元々『仙』となる素質を持つ者だった。
彼らの魂魄に妖精の身体を与え、【死霊】に転化させる。
少ない手勢を補う為に新たな仲間の確保が急務だった。
「あれはそうやってお前が気にかけるくらいの逸材なのか」
「性格的にも問題は無さそうだからね。いくら才能があっても仲間にする相手は選ぶよ」
「そうか。逃がすなよ」
「勿論さ」
余談ではあるが、『仙』の資質を持つものは不幸を引き寄せやすい。
否、引き寄せるというのは語弊がある。
彼らの主である明王が言うには「衰えたとはいえ、人間にも危険を察知する本能というものが残っている」のだそうだ。
その言葉に従うなら、周りが異物を排除しようとするから困難な人生を送る事が多いのだろう。
晴れて昇仙したものは『人間界での試練』などと言うそうだが、明王に言わせれば「あれは単に勝ち組の戯言」となるらしい。
なるほど全くその通りだ。
人間はいつでも自分に都合の良い事を言う。
時は瞬く間に過ぎ、季節は移ろう。
雅婷は少女の時期を脱しようとしていた。
雅婷は痛む身体を引き摺りながら山に入り、山の恵みに感謝しながら籠を少しずつ一杯にしていた。
普段ならそれで家に帰って、束の間の幸福を味わう――それが許されている時間だった。
「――ん…っ、」
雅婷に油断があった事は否めない。
季節外れの暑さに、普段ならしっかりと着込んで肌を見せないようにしていたのに人目もないし明るい時間なら大丈夫だろうと薄着をしていた。
山菜や果樹の実りに目を奪われてどんどん山の奥に入り込んでしまったのも雅婷にとっては不幸だった。
普段なら立ち入らない区域だった。
後ろから羽交い締めにされてすぐ、逃げられないと悟った。
山仕事を終えた男達のうち誰かが雅婷の姿を見つけていたのだろう。
雅婷が山の奥の開けた場所に来るまで、獲物を見つけた猟師のように慎重に後をつけていたのだ。
男のうちの一人が縄を手に下卑た笑いを向けてくる。
「へっへ、こんな昼間っから楽しめると思わなかったぜ」
雅婷はあっという間に全裸に剥かれて、手首を縛られ、脚は折り畳まれた状態で縛られた。
「あ、あ…」
一時陰っていた陽射しが雅婷の白い身体を白日の元に晒す。
「お? なんだ意外と別嬪だな」
手荒に顎を掴まれて検分される。
知らなかったのかよ、と笑いが起こった。
「そりゃそうだ穴にしか興味ないからな! …どれ、穴の具合も見てやるか」
更に脚を開かされ、男達に視姦される屈辱に雅婷はきつく目を閉じた。
「様子はどうだ」
木の上で高みの見物をしている白無常の側に音もなく黒無常が現れた。
「今ちょうど始まったところ」
ひっくり返された蛙のような格好をさせられた雅婷に醜悪な猿が群がっている様子を白無常は本を読みながら眺めている。
「前回もなかなかだったけど、生き延びちゃったから回収出来なかったんだよね」
時間を取らされてがっかりはしたが、そのしぶとさに期待は増した。
想定外で尸解仙として仙に上がる事を阻止する為には見張っていなければならない。
身体から魂魄が離れた瞬間を確実に回収しなくては。
見下ろす先では猿達が手荒に嬲って気を失った女の側で呑気に煙草をふかしている。
小休止、といったところか。
誰も来ないと確信しているのか、普段よりも責める手管が陰湿だ。
これからもっと色んな事を試そうと道具を片手に雑談に華を咲かせているようだった。
僅かに動いた黒無常を白無常が制す。
「何してるの、あれは私の担当だよ」
「わかっている」
「彼女と深く関わった者には既に〝印〟をつけてある。落とし前は本人につけさせるべきだ」
「そうだな」
* * *
『私は生に限りあるものは愛さない』
いつだったか、白無常に彼らの主である明王が言った。
繊細で傷付きやすいあの方が皮肉としか言い様のないお役目を得てしばらくしてからだろうか。
自分が自分としてある為の『戒め』に聞こえた。
この時、白無常は全身全霊でこの方を守ろうと思った。
あの方が気高くあろうとするならば、それを自分は守ろう。
あの方が傷付かなくていいように、明王様が汚らしい魂に触れなくて済むように、少しでも多くの魂を喰って減らさなくてはならない。
その為に死霊の存在は必要だった。
その代わり――彼らに泥を飲ませる代わりに、自分も彼らを全力で愛そうと思った。
彼らもまた主の愛する『家族』なのだから。
* * *
猿の祭典は陽が落ちかける頃まで続いた。
疲れたら休めばいい、そんな調子で何時間も犯され続けた雅婷が動かなくなっている事に気付いたのは誰だったろうか。
「…おい、こいつ死んでるんじゃないのか?」
どうする、と口々に言い合う男達の中の一人が言った。
「家の中から金目の物がなくなっていれば誰か情人と逃げたんだろうと思うだろうさ。どちらにしろこんな阿婆擦れの事なんざ誰も気にしねぇよ」
それもそうかと口々に言いながら山を降りる男達が見えなくなったのを確認して、白無常と黒無常は雅婷の側に降り立った。
黒無常が虚ろに開いたままの瞳を閉じてやる。
「? そんな朽ちるだけの肉に興味があるの?」
虫籠のような入れ物に雅婷の魂を納めて満足して帰ろうとした白無常が不思議そうに問うた。
「…いや、ただ憐れだと思った」
人間の埋葬という風習は不可解だ。
人間は死んで土に還る。
彼らも自然の一部だという向きもあるけれど、それならば何故箱に詰めたり地面を深く掘って埋めるのだろう?
まるで自然と同化するのを拒むようだ。
「そうだ。折角仲間になるんだし、獣でも呼んでおこうか。肉が新鮮なうちに食べてもらえるといいよね」
白無常の提案にそうだなと答えて、膝をついていた黒無常がようやく立ち上がる。
妖精は死した後、霊質を散らして、自然に還っていく。
種族は違えど獣や虫など誰かの生きる糧となって自然の中に循環していく。
そのなんと幸せな事か。
白無常は心からの慈しみを雅婷の亡骸に向けてその場を立ち去った。
「――やめろ、やめてくれぇ…!」
無様に床を這って逃げようとする男の進行方向に、もぎ取った首を放り投げる。
「お前あんなに善がっていたじゃないかよ…! なんで今更【鬼】になって戻って来るんだ!!」
雅婷の指が男の首を掴んでそのまま吊り上げる。
ぐえ、と絞められる鳥のような声がして、目玉が飛び出さんばかりの赤黒く染まった顔に雅婷は不快そうに目を細め、視線を下げた。
妖精の嗅覚が異臭を認識する。
じんわりと股から脚を伝って広がっていく黒い染みとその膨らみに、猛烈な嫌悪感が湧いた。
「――――…た、ない」
汚い、汚い、きたない――。
雅婷は手を離して床に転がった男の股間に体重を掛けた。
「…いいのか、放っておいて」
雅婷からどす黒い靄が吹き出している。
このまま悪霊に堕ちるんじゃないのか、と問う黒無常に白無常はどこか呑気に「大丈夫じゃない?」と返した。
今の雅婷はまだ人間であった頃の感覚に引き摺られている。
折角妖精として生まれ変わっても、前の『生』での憎しみや恨みを捨てさせないと本当の意味での自分達の仲間にはなれない。
今は試用期間のようなものだ。
悪霊に堕ちたら堕ちたでそれまで。
「まあ見てなよ」
取り憑かれたように男の身体を破壊していた雅婷が男の頭を踏み潰した辺りで、ピークに達していた黒い靄が急速に収束していく。
くたりと力を失った身体を白無常が倒れる前に支えてやる。
「ね、大丈夫だったでしょ。――雅婷」
「…大哥、わたし一体何を――」
「また悪い夢を見ていたんだよ。でももうすぐそんな夢は見なくなる。全部過去になるんだよ」
雅婷の柵はあとひとつ。
雅婷が私情で人間を殺していいのはそれで最後だ。
「――――、――!」
(…? あれ、おかしいな)
目の前の男が何か喚いているのに全然声が聞こえない。
自分では冷静なつもりだけど、心が認識している感情があまりにも振り切りすぎていて、五感が異常をきたしている。
口の形が『雅婷』と叫んだようだが何故だかわからない。
雅婷は這いつくばって何かを訴える男の前にしゃがんでしげしげと顔を観察する。
「?」
…覚えている、気がする。
雅婷は引き寄せられるように唇を合わせ、そして――男の絶叫が響いた。
べっと引きちぎった舌を吐き出して、のたうち回る男を足で押さえる。
雅婷の手がずぶりと男の腹に沈んだ。
腹の中を掻き回しながら、雅婷は「いない、いない…」と呟いている。
イナイ
イナイ、イナイ――
(ワタシハ一体ナニヲ探シテイルノ――?)
妖精は子を孕まない。
既に妖精として完成しつつある雅婷には人間としての知識と妖精としての知識が混在している。
自分でもよくわからないまま行為を続ける雅婷をよそに白無常は部屋の隅で震える男の伴侶と子供に男の罪業を告げる。
「その男は多くの女性を弄び、孕ませた挙げ句、配下の男達に下げ渡して処分をさせた。生命を玩具にしたその男は紛う方なきクズだよ。――雅婷、もうやめなさい。その男の腹にお前の子はいない」
「はい」
…そうか、いないのか。
雅婷は腹から抜いた手でそのまま男の心臓を握り潰した。
男の魂を喰らって、雅婷はほぅと息を吐いた。
今まで混乱していた頭の中から霧が晴れていく。
実にすっきりとしていた。
人間であった自分はなくならないけど、妖精である自分と喧嘩する事なく同居している。
(もう、ゆっくり休んでいいのよ〝私〟)
誰に傷つけられる事もなく、自分で自分を慈しみ、守ってあげられる。
「雅婷、帰ろう」
「うん!」
この日、雅婷が完全な妖精になった日に、雅婷は心から笑った。
「黒哥哥! お帰り!」
どーんと身体が(胸で)跳ね返されるような歓迎を受け、黒無常は苦笑した。
この身体ばかり大きくてまだ幼い妖精には、もう少し慎みを持たせなくてはならない。
「仕事にはもう慣れたのか?」
「うん! 今日も悪い奴をいっぱい殺したよ!」
「そうか、頑張ったな」
「だって明王様にあんな汚らしい魂は触れさせられないもの!」
キラキラとした黒瞳には眩しいくらい生きる活力が漲っている。
「………」
雅婷が完全な妖精に生まれ変わったあの日から、雅婷の心は少し子供返りしたようだった。
彼の主人が言うには、人間の時に出来なかった事の埋め合わせを今しているのだと。
それは必要な事だし、長い妖精の生の中ではほんの僅かな間だけだから付き合ってやれとは言われたが、やはりある程度の躾は必要だろう。
黒無常は纏わりつく大きな子供の鼻を摘まんでやりながら口元に笑みを浮かべた。