「気がつくと浴室で手首を切っているんだが、どうしてそんなことをしているのかも、その間の記憶も、原因に心当たりもなくて……困っている」
感情に任せていきなり抱き締めるという失敗はしたものの、何かを怖がっている彼女を安心させることには成功した、と。そう思った矢先に言われたことがこれである。それは困っている、で済ませていいどころか、間違いなく然るべき機関で治療を受けるべき状態ではないのか。冬弥の家庭環境ではそれができないから本人は困っているなのだろうが。何かあったのだろうとは思ってはいたのだが、まさかそんな状態とは。
(なんでそれを隠してたんだ…)
辛い時、誰かに助けを求めるなんてことを教えられていない彼女は、聞かなければきっと倒れるまで隠し続けるつもりだったのだろう。だから、オレがもっと早くに気づかなければならなかった。
自らの体を傷つけるまで追い込まれていたのに。相棒なのに。ずっと共に歌っていくと言ったのに。オレの言葉は冬弥に届いていなかったのかと、悔しさと不甲斐なさに襲われる。しかし、それを冬弥にぶつけるわけにはいかない。怒りを向けるべきなのは彼女の家庭環境を作っている父親と、伝えきれなかったオレであって、彼女ではないのだから。
「それ、いつからなんだ?」
冬弥自身は原因に心当たりはない、と言うが、それは彼女が父親に追い込まれることに慣れてしまっているからであって、おそらく、諸悪の根源はそこにある。ずっと耐え忍んできた冬弥が耐え切れなくなるきっかけとなった何かが。
冬弥は目を閉じて深く記憶を漁ったようだが、その表情は次第に困ったようなものになった。やはり、彼女は自身のストレス源を認知できないらしい。
(…………まぁ、仕方ねぇか)
それだけ、冬弥の心に巣食うものは根深く、大きいのだろう。そして、その環境に順応せざるを得なかったのだ。生きるために。
「……すまない、彰人」
「いや、気にすんな」
原因そのものを取り除くことはただの学生であるオレにはできない。オレにできることと言えば、これ以上彼女がストレスを溜めないように、以前よりも注意深く見てやる程度だろう。
「なんかあったら隠さず言えよ……相棒、なんだから」
「………彰人……すまない、ありがとう」
冬弥は嬉しそうに、ふわりと笑った。
相棒。オレ自らがそう呼んだ肩書き。今それを越える感情を冬弥に抱いている、と言ったら、彼女はどんな顔をするだろうか。
*
「………あ、彰人……その、また頼めるだろうか……?」
特にどこかに行く予定はないものの、癖のように待ち合わせをした休日。何となく元気のない冬弥が控え目にオレの袖を掴んで、そう言った。
冬弥の自傷を知ってから、すでに数週間の時が過ぎた。あれからも彼女の自傷は止まらず、包帯を替える際に見える手首は無惨な傷跡で埋め尽くされている。しかし、冬弥が言うにはかなり頻度は減っている、らしい。オレからすると1人で悩んでいた頃はどれだけ酷かったのかと言いたくなるが、自傷のみで貧血を起こす程だったのだから、相当だったのだろう。
そして、あれ以来ひとつだけオレと冬弥の間で変わったことがある。それが、この冬弥からの頼み事だ。冬弥が自傷してしまった時、または何か嫌なこと、不安になるようなことがあった時の対処方法として行われるようになった2人だけの秘密。
「今日、家に誰もいねぇから……オレの部屋でいいか?」
オレにとっては天国のようで、同時に試練のような時間が今日も始まるのであった。
「すまない彰人……手間をかけさせてしまって」
「別に迷惑じゃねぇし、気にすんなよ」
オレの自室に場所を移し、ベッドの中央に2人で座って冬弥にそう言いながら、これから行われることを期待して脈打つ自分の心臓を宥める。
オレと冬弥はあくまで相棒。それを忘れてはいけない。最も信頼し合い、背中を預け、高め合う関係だが、その一線を越えることはない。あの日、冬弥の深い心の傷を知った日のように衝動に任せて触れるようなことはないよう、自身を戒める。
彼女に不審に思われない程度に深呼吸を一度、二度。無我、無私、明鏡止水。欲を捨て、相棒の心を救うことだけを考えろ。東雲彰人、青柳冬弥を愛しているならば、今回も乗り越えられる。
………よし。
「ほら、来いよ、冬弥」
覚悟を決めて、腕を広げる。コクン、と小さく頷いた彼女はおずおずと両の腕をこちらに差し出し、それからゆっくりとオレの背中へ細く、強く握れば折れてしまいそうな手を回してきた。それに合わせて、オレも彼女の背に同じように手を回す。女子にしては背は高いものの、線の細い体はオレの腕の中にすっぽりと収まった。
これが、オレと冬弥の隠し事。
冬弥曰く、以前オレに抱き締められて何かが軽くなった気がした、と。だからまた、彰人の都合のいい時でいいからしてほしい、と。そういうわけである。それに対しオレは、して欲しくなったらいつでも言えと返したわけだが、まさかこんなにも心を揺さぶられることになるとは思わなかった。
体が密着し、ふわりと彼女の使っているシャンプーだろうか、ほんのり甘い香りが鼻腔を擽り、また、あまり意識すると非常にまずいことになるため頭の外に追い出したいが、胸のあたりにとても柔らかなモノが当たっている。反応してはいけない箇所に集まりそうな熱を、オレは必死に散らした。そんなオレにはまったく気づかず、冬弥はオレの肩に額を当ててリラックスしているようだ。程よく力を抜いて、こちらに体を預けてくれている。
(………やべぇって……)
家族にすら、いや、家族にこそ恐怖している冬弥がここまで気を許し、体と心を預けてくれているのは素直に喜ばしい。しかし、紛いなりにも男の部屋、それも男の腕の中でここまで無防備なのは、如何なものか。それが信頼の証としても。
(……オレがお前をどうにかしたいと思ってるなんて、冬弥は想像もしてねぇんだろうな)
すべてわかっているからこそ、オレは何もしない。勝ち得た信頼を溝に捨てるくらいなら、オレはこの関係のままでいい。これはただのメンタルケア。それ以上の意味も、それ以下の意味もない。それでいい。
(それでいい、はずなんだが)
ドクン、ドクンと異常なほど心臓から送り出される血潮が体内を駆け巡り、体温を上げていた。どれだけ無を意識しようとも、好きな相手とこんなことをすればやはり体は素直に喜んでしまう。
ふぅ、とゆっくりと深く息を吐く。まさに、天国であり地獄である。
「………彰人」
「ん?」
いつもよりぼんやりとした声で、冬弥がオレを呼んだ。珍しい。これをしていると、あまり喋らないのだが。
「最近、体が変なんだ」
「変?どっか悪いのか?」
彼女は常日頃から人よりも強いストレスに晒されているため、体調を崩してしまうことが多い。また何か不調が出てしまったのだろうか。そう思った。
オレの背中から手を離し、肩から顔を上げた冬弥は訥々と語る。
「彰人にこうしてもらえば、とても気持ちが楽になっていたのだが……最近は、その……楽になるよりも、むしろ……」
そこで一度切り、言葉を探すように視線を泳がせた冬弥は、ほんのりと頬を赤くして恥ずかしそうにオレを見て言った。
「ドキドキが、勝ってしまって……彰人、私はどうしてしまったんだろうか」
彼女の表情があまりにも雄弁にその答えを語っていて、問われたからには何かを返さなければならないのに、頭が真っ白になって何も出てこない。だって、これは。この表情は。恋する乙女の、それじゃないか。とはいえ、冬弥本人は自分がどんな顔をしているのかも、自分の抱いている感情の正体もわからないらしく、赤らんだ頬が気になるのか、困った顔で自身の顔に触れている。
(………可愛い……)
ダメだ。やっと言葉が出てきたが、今度はそれしか出てこなくなってしまった。
あぁ、今すぐ好きだと思いの丈を叫んで、思い切り抱き締めてしまえたらいいのに。しかし、それはできない。冬弥はまだ、自身の思いに気がついていない。こちらが先回りして言ってしまえば、彼女はきっとまた以前のように深い思考の海に嵌る。そしてそれがもしも、冬弥を自傷に走らせるひとつの要因になってしまったら。
そんなことになれば、オレはオレを許さない。許せない。だから、まだ手は出せない。だが、冬弥が自身の心に気がついた時、その時はオレのすべてを掛けて愛するから。
(早く気づけ、冬弥)
そういう意味でも脈があるとわかっただけで、今は良しとしよう。
「彰人、考えたのだが……これは……」
「……ん?」
オレの中で決着が着くと同時に、知らぬ間に顎に手を当て、熟考していた冬弥は至極真面目な声色で言った。
「もしかして……不整脈、では?」
「おい待て、どうしてそうなった」
違うのか?と、首を傾げる彼女に、オレはそっと長期戦を覚悟した。