昔から、冬弥は長期的な練習が得意だった。それは幼少の頃から無理とも言える練習量をこなしてきたからなのだが、そういった経緯もあり、「できるまでやる」が彼女にとっての基本思考となっている。加えて彼女は良くも悪くもどこまでも真面目で、またどこまでも恋人に一途だった。
そんな冬弥が迎える恋人との初めてのバレンタインデーを翌月に控えた1月。彼女はまず、こう考えた。
彼をもっと知らなければ。
そのためにまずはカフェやWEEKEND GARAGEで彼がよく口にしているもの、それを食べている時の手の進み具合から好みの傾向を精査して、それに合うものをリストアップした。次に自身の経験のなさと難易度、本番までの日数も考慮しつつ厳選に厳選を重ねて作るものを決定。そして材料を用意し、キッチンを使う人がいなくなった隙を見て毎日それを作り、練習すること約30日。
現在時刻、家族が寝静まった子ノ刻。即ち午前0時。
オーブンの中に並べられたそれらに熱が通っていくのを冬弥は見守っていた。ジー……とオーブンが稼働する電子音だけが静寂に満ちたキッチンに響く。見ている必要などなく、勝手に設定された時間が来れば焼き上がるとわかっていても、どうしても不安で彼女はこの工程の間はいつもこうしてオーブンの前に立った。
(………あと、少し)
祈るように手を握り、固唾を飲む。
レシピに忠実に作ったから、あまり面白みや意外性はないかもしれないが、きっと味はよくできている、と自己評価の低い冬弥も練習の果てにようやく少しだけ自信を持てるようになった。オーブンの表示時間が0になり、焼き上がりを告げる音が耳朶を撫でる。焼き上がったそれらを出し、中でも見栄えのよいものとそうでないものを別々に取り分けて、冷蔵庫の中へ。残る工程はラッピングだが、それは朝にやれば問題ないだろう。今日はもう遅い。早く寝て、練習に備えよう。
今作ったどれかが、明日、いや正確にはもう今日だが、彼の口に入ることとなる。できる限りの努力はした。妥協もしなかった。しかし、手作りのものをあげるのは今回が初めてで、不安は拭えない。
2人の関係が相棒だけだった頃は感謝の意味を込めて既製品を渡してきた。だから、恋人になったからといって、突然手作りのものを用意して、嫌がられる可能性だって捨てきれない。そもそも人の手作りが苦手な人だって一定数いるのだ。ひと月の間、ずっと彰人の喜ぶ顔だけを考えて練習をしてきたが、いざ本番が目の前に迫ってくると怖くなってくる。
(喜んで、もらえるだろうか……)
*
「ーーー♪、ーー♪」
迎えた2月14日日曜日。練習場所として使っている公園にて、この日は白石と小豆沢はおらず、彰人と冬弥2人だけの練習となった。いつもより大きな鞄の中には努力の結晶が入っている。あとは、これを練習の合間に渡すだけ。
今は練習に集中しなければならないのに、バクバクと鼓動がうるさくて彰人の声がいつもより聞き取りにくい。去年までのバレンタインは緊張などしなかったのに、自分の手で作ったというだけでこんなにも違うものなのか。冬弥は顔には出ないものの驚いていた。そんな彼女を彰人は静かに見据えて、目を細める。
ラスサビが終わり、後奏へと差し掛かったところで彼は曲を止めて口を開いた。
「冬弥、どうかしたのか」
白石や小豆沢だったならば、隠し通せたかもしれない僅かな声の乱れ。背後のベンチに置いた荷物が気になっている程度のブレでさえ、彰人には見抜かれてしまう。
「……すまない」
「謝らなくてもいいけどよ、なんかあったのか?」
そう言って彰人はガシガシと髪を掻き乱す。すぐに悩んで溜め込んでしまう悪癖を持つ冬弥が気持ちを吐き出せるように、こうして彼はよく気を配ってくれた。ただ、今回は悩んでいるわけではなく、緊張しているだけだ。あまり彼に余計な心配はかけたくない。ここで渡してしまおう。
そう覚悟を決めて、冬弥は切り出した。
「何かあった、というより、これからある、というか……だな……」
「……ん?どういう意味だ、それ」
「彰人に渡したいものがあるんだ」
ベンチに腰を下ろし、鞄に入れていた保冷バッグからそれをひとつ取り出す。倣って隣に座った彰人は彼女の手の中の透明な袋に入れられ、口をリボンで縛っただけのあまり飾り気のないそれを見て、あぁ、と納得したように呟いた。
「今日、バレンタインか」
「あぁ、だから……よければこれを……食べてくれると、嬉しい」
人生初のお菓子作り。レシピを見て分量を計ることも、オーブンの使い方もわからないところから始まり、30日の努力の末に完成したチョコとチーズのカップケーキを冬弥は恋人へと差し出した。彼は彼女からそれを受け取ると、ん?と首を傾げる。
「これ、手作りか?」
「………っ、嫌、だったか?」
前日に感じた不安が顔を覗かせる。けれど、彰人は即座に、いや、と冬弥の言葉を否定した。その声は酷く優しい。
「すげぇ、嬉しい」
「そ、そうか……」
まずは手作りを嫌がられることがなくてよかった、と胸を撫で下ろす。しかし、彰人がリボンをシュルリと解き、中のカップケーキを手にしたことで、冬弥に再度緊張が走った。味はそれなりにいいはずだ。少なくとも、不味くて食べられない、ということはないレベルのものになっている。それは自身の舌で確認ずみだ。だが、彼は様々な店のケーキを食べているため、それだってあまり信用はできない。
冬弥が見守る中、彰人はパクリとそれに口をつけた。そのままもぐもぐと咀嚼され、やがて喉仏が上下する。その表情は幸いなことに曇る様子はない。これは美味しいと思ってもらえたと考えていいのだろうか。
彼は続けて二口、三口と頬張る。
(食べ進めてくれている、ということは口に合ったのか……?)
そう、都合よく捉えてしまっていいのだろうか。
冬弥が考えあぐねている内に、最後のひとかけが彼の口に収まり、飲み下される。
「あ、彰人……その……」
「美味かった」
「……えっ」
「美味かった。ありがとう」
その言葉で今まで曇天のように胸の中にあった不安が嘘のように消え失せて、代わりに頬に熱が集まった。鏡を見なくとも赤らんでいるのがわかるほど、顔が熱い。けれど、その熱と同じくらい、いや、それよりもその言葉が嬉しかった。
「……気に入ってくれたなら、よかった」