この世界には男性・女性の他にもう1つ、人を区別する性がある。階級、もしくは生まれた時から課せられた使命とも言えるそれはα、β、Ωの3種に分けられる第2の性。
優秀な遺伝子を持つエリートのα。
特筆する才がなく、数の多い平凡なβ。
そして、繁殖に特化し、非常に数の少ないΩ。
世界中の人々がこの3つのうちどれかの性を持ち、それぞれ本能と運命に翻弄されながら生きている。己の遺伝子を未来へと繋いでくれるΩを求めるαと、己に存在理由をくれるαを求め、発情するΩ。数の少ない彼らの子宮を巡り、獣たちは常に相争うことも多く……なんてのは、「そんな時代がかつてはあった」と、学生が持つ社会科の教科書に載っている程度には過去のこと。
今はとても平和である。
誰も彼も、自分の未来も、愛も、本来得られたはずの幸せさえも、何もかもを平凡な奴らに奪われているとも知らずに、牙を抜かれた顔で笑い、どこかの誰かにとって都合のいいハリボテの『平和』を享受している。
ゆえに、世界は今日も平和である。
*
頼んでもいないのに必ずやって来る朝。決まった時間に体を揺さぶられ、その不躾な揺れに「まだ眠い」「もう少しだけ」と抗議すれば、「冬弥くんを待たせる気なの?」「待たせる男はかっこ悪いよ」と脅されて、洗面所に押し込まれた。好きな子を待たせるのはたしかに嫌だし、格好悪いところなんて見られたくないと、彰人は顔を洗って歯を磨き、もぞもぞとまだ眠い体を動かして幼稚園の制服に着替えたら、髪を整える。
そうしている間に焼きたてのトーストとココア。それとカットされたフルーツの入ったヨーグルトがリビングのテーブルに用意されていた。悔しいことにまだ少し高く感じる椅子にヨイショと座り、まずは彰人の好きなココアで口を潤して、それからカリッと焼かれたトーストを齧る。予め塗られていたバターの香りが鼻に抜けるのが心地よく、もう一度甘いココアをゴクリと飲み、またトーストを手に取ったところでテレビから歓声が聞こえて手が止まった。
盛り上がっているそちらに目を向けると、画面内では1人の男性が白と黒のボールを追いかけ、相手からそれを奪うと、思い切り蹴る。蹴られたそれは吸い込まれるようにゴールのネットへと一直線に飛んでいき、瞬間、スタンドから悲鳴のような声が上がった。しかし、ゴールの余韻は長くは続かず、そこで場面が切り替わり、また別のゴールシーンが始まる。どうやらハイライトのようだ。
(あ、そういやサッカーのしあい、あったんだっけ……)
流れるサッカーの試合に、昨日の夜遅くにあるそれを観戦しようとして母に止められたことを思い出して、ニュース番組で流されているハイライトを彰人は食い入るように見つめる。
足をまるで手のように自在に操り、正確にボールを味方へと渡していく選手達。カッコいい、と彰人の瞳が輝く。
『いやぁ……何度見ても凄いですね!』
映像がスタジオに戻り、女性アナウンサーが興奮気味にそう言った。それにスポーツの評論家と紹介された男が、得意げに話し始める。
『最後にゴールを決めた彼、今回が初めての大舞台だったので少し心配だったんですけど、完全に杞憂でしたね。さすがはαとしかいいようのない見事なゴールでした』
『彼、αだったんですね、それなら納得の活躍です』
『えぇ、彼を産んだΩに種付けしたのは過去ワールドカップで活躍した……』
物凄い勢いで試合とは関係のない方向に話が逸れ始めたのを何となく察した彰人は、溜息をついてトーストをパクリと1口。もぐもぐと咀嚼して、誰が誰に種付けしたとかそんなものはどうでもいいから試合の様子を見せろと心の中で文句を並べ、それごとトーストをココアで流し込んだ。そうして甘さでいっぱいになった口に今度はさっぱりとしたヨーグルトを運んで、果物をひと切れふた切れスプーンで掬いあげる。母の気分でいつも入っているものが違うのだが、今日は桃のようだ。薄黄色の果肉に歯をめり込ませると、瑞々しい果汁が溢れ、口内でヨーグルトと仲良く混ざり合う。美味しい朝ご飯に気を良くした彰人は試合を流している番組がないか、リモコンでポチポチとチャンネルを回して探しては眺めてを繰り返し、どうやら昨日の試合はかなりのワンサイドゲームだったらしいことを知る。
最初に見た評論家の言っていたαのいるチームは元々他にもαの選手が多く所属する強力なチーム。そこにさらなるαが加わったのだから、こうなるのも仕方がないのだろう。だが、面白くない結末に、スーッと胸の奥が冷たくなるのを彰人は感じた。
(……なんだ、つまんねぇの)
あんなに気になっていたのに蓋を開けて見えたものは何ともつまらないもので、彰人は残っていたトーストのひとかけを口に放り込んでから、ヨーグルト、ココアと順番に胃に流し入れた。彰人が朝食を終えた頃、玄関のチャイムが鳴り、時計で時間を確認した母が彰人の鞄にお弁当を詰めて彰人へと声をかける。
「ほら彰人、冬弥くん来たよ」
そんなこといちいち言われずともわかっている、と彰人は椅子から降り、パタパタとリビングを出て玄関へ走った。そして靴を履き、母が開けたドアから外に飛び出すとそこには彰人の母と同年代の女性と、その足の影に隠れる昨日さよならをしてからずっと会いたかった可愛い青色。
「とーや!」
「あきと……!」
青色は彰人を見てパッと表情を明るくし、女性の影から出てとてとてと、彰人へと駆け寄る。互いに伸ばした手をギューッと握り、指と視線を絡めた2人は「おはよう」と挨拶を交して繋いだ手はそのままにもう少しでやって来る幼稚園バスを待つため家の前に仲良く並び立つ。
彰人と冬弥の出会いは偶然で、たまたま同い年の子供を持つ親同士、家が近かったから何となく流れで仲良くなっただけだった。けれど、2人にとって互いの存在はもうなくてはならないほどに大きなものとなっている。繋いだ手はいつまでも離れることはない、と。そう信じて疑いはしなかった。
「あきと、きのうのサッカーはみれたの?」
見たいって言ってたよね、と冬弥がこてん、と首を傾げながら聞いてくるのに対し、彰人は首を横に振る。
「いや、かあさんが、はやくねろって……」
「そっか……」
それを見たかったのは彰人であって、冬弥はサッカーにはあまり興味はないはずなのに、見ているこちらが悲しくなるような顔で、冬弥はしょんぼりと肩を落とした。せっかく一緒にいるのに曇ってしまったその顔に、彰人は慌てて言葉を探し、見つけたそれを声に出す。
「でも、あんまたのしいしあいじゃなかったみたいだし、べつにみなくてもよかったかもしんねぇなって」
「そうなの?」
「ん、なんか、いっぽーてき?だったってテレビでいってた」
「そうなんだ?」
だからあんまり残念じゃなかった。
そう伝えれば、ならよかった、とまた冬弥に笑顔が戻る。彰人はどんな冬弥も大好きだけれど、やはり笑っている顔が一番可愛くて大好きだった。
今日は何をしよう。
昨日はお部屋で遊んだから、彰人が好きなお外で遊ぼう。
それなら砂場がいい。ジャングルジムも滑り台も高いし、かけっこは……やっぱり砂場で何か作ろう。
送迎バスが来るまでの間、握り合った手に相手の温もりを感じながら、そんな取り留めのない話をした。
2人一緒ならどんなところでも楽しいし、幸せだと、事実今までがそうだったから、今日も明日も、これから先もそうに違いない。やって来たバスにやっぱり手を繋いで乗り込んだ彰人と冬弥は母に手を振り、楽しい1日の始まりに顔を見合わせて笑った。
*
幼稚園のない日。公園で遊び、少し疲れた彰人と冬弥はいつもと変わらず手を繋いでトコトコと歩いていた。
昨日見たテレビのこと。
昨日読んだ本のこと。
公園でもさんざ話したのに、まだまだ話したいこと、伝えたいことはたくさんあって、2人はお喋りをしながら行き慣れた道を行く。目指すのはとある駄菓子屋。気のいいおじさんが経営するそこは、幼い2人の行きつけの店である。
こじんまりとした自宅の1階部分を改装して作られた店の敷居を跨ぎ、彰人が「こんにちは」と元気よく声を上げた。すぐに「はーい」と奥から男性の声が聞こえてくるが、しかしそれは2人が予想していた店主であるおじさんのものではなく、まだ歳若いもので、きょとんとした彰人と冬弥は互いに顔を見合せ首を傾げる。
「いらっしゃい、彰人くん、冬弥ちゃん」
20代そこそこといった風体の男性は、不思議そうに自身を見上げてくる幼い瞳に苦笑すると、口を開いた。
「あはは、親父なら今日は施設の方に行ってていないんだ、ごめんね」
「……しせつ?もしかしてΩの?」
「そう、Ωがいるとこね」
聞き返す彰人の言葉に、普段あまり店先に立つことのない店主の息子はこくんと頷いて、カウンターに頬杖を突く。その2人のやり取りを、彰人の影に隠れるようにして見守っていた冬弥がポツリと呟いた。
「おじさん、αだったんだ……」
街にいたΩ達が政府によりひとつの施設へと収容されて、幾星霜。Ωが人前から姿を消したことで、社会を回すのは基本的にαとβになった。その中でもΩ達のいる施設へ足を運ぶのは、Ωに種付けを行うαのみである。
初めて知った知り合いのバース性に驚く冬弥に、店主の息子は「αに見えないよね」と笑った。
「今朝政府から種を提供してくれって要請があってね。『久々にΩに種付けできる』ってんで、飛んでったんだよ」
「ふーん……それでかわりにみせばん?」
「そう、俺はβだから、政府から呼び出されることもないし、代打でやってるってわけ」
それは何気ない日常会話だった。Ω性を持って生まれたという理由だけで施設に閉じ込められた人々と、政府からの通達ひとつで施設にいるΩ達に種付けを行う義務を持ったα性の人々。彰人と冬弥くらいの小さな子供ですらそういうものとして教えられ、常識だと思っているこの世界の当たり前のことだった。
朝にウキウキと家を出ていく父親の後ろ姿を思い出していた店主の息子が、不意に「そういえば」と声を上げる。
「2人はバース性診断ってもう受けたの?」
そろそろ病院で受ける頃だよね。
そう言われた2人はまた互いの顔を見合ってから、ふるふると首を横に振った。
「まだそういうのはうけてないとおもう」
「おかあさんと、びょういんにはいってません」
「じゃあ2人はまだ自分がどのバース性なのか、わかってないんだ?」
うん、と同時に頷く子供達に店主の息子は「じゃあさ」と笑みを深める。
「なるなら、どれがいい?」
「……どれが……?」
「うん、Ωと、αと、β……なるならどれがいい?」
繁殖のために管理されるΩか。
種付けの義務を課せられるが優秀なαか。
自由で平凡なβか。
それを、まるで将来なりたい職業を聞くかのような気軽さで、彼は2人に問う。彰人と冬弥は考えたこともないそれに、うーん、と頭の中に己の未来を思い浮かべ、そして、先に口を開いたのは彰人だった。
「サッカーやるならαがいいけど、いちいちむこうのかってでよばれんのもやだし、βでいいや」
才能の差は努力で埋めればいい。そう言い切った彰人に対し、押し黙って深く考え込んだ冬弥は、店主の息子と、それから彰人の顔を見てから、小さく言った。
「ぼくも、βがいい」
優秀なαは、世間から羨望の目で見られる人気者が多い。けれど、それよりも自由を望む2人に店主の息子は意外そうに目を丸くする。
「へぇ、冬弥ちゃんもαじゃなくていいの?」
「あきとと、ずっといっしょにいたい、から……」
キュッ、と繋いだままの手を強く握り、恥ずかしそうに俯いた冬弥は、「それに」と、さらに続けた。
「……しらないひとと、こうびは……」
そこで言葉尻を濁した冬弥は彰人の方を見て、その白磁の肌を淡く染める。Ωであれ、αであれ、政府によって交尾が義務付けられているが、その相手は基本的に政府が選んだ見ず知らずの相手。誰とも知れぬ者と体を繋げることは心に決めた相手のいる冬弥にとっては抵抗感があり、さらにΩに想い人がいても、αが特定のΩに恋をしても、その人と再び見えることは奇跡でも起こらない限り、あり得ない。だからこそ、冬弥はβを望んだのだ。彰人がβを望むのならば、共にいられるβを、と。
「相変わらず仲いいね」
小さな恋心を胸に隠し抱く冬弥を眺め、店主の息子はカウンターの片隅に置かれたボトル型の入れ物から駄菓子を取り出して、そっと差し出す。
「これ、可愛いモノ見せてもらったお礼」
「え、いいのか?」
「うん、2人はお得意様だし、奢りってことで」
なんならジュースもいいよ、と様々なジュースが収められている冷蔵庫を示して言えば、前途ある子供達はキラリと瞳を輝かせて、そちらの方へ足を向ける。その間も小さな手はしっかりと離れぬように握られたままだった。