鏡の前で悪戦苦闘する様子を眺める。映り込んだしかめ面すらも愛らしいのだから、全く持って、こいつは。
「なぁ、後ろの方絡まっちまってねぇ あーもう、時間ねぇのに!」
コシのある黒髪を見ると、確かに櫛が通らない部分があるようだ。けれどそれがなんだというのだろう。そんなことで魅力が損なわれるなんて全くあり得ない話だ。
「あっしかもここ伸びてきてんじゃん! ダッセェ! なぁ兄貴バリカンしていい?」
「いいからそろそろ行くぞォ。道混んじまうだろがァ」
「うっ……ごめん。もう行ける。……なぁ、やっぱりここさぁ」
「早くしろォ」
「はいっ」
ガチャリと玄関の鍵を閉めて、二人で暮らす愛の巣から外へ。あたたかな陽射しが心地よい。今日は、絶好の行楽日和だ。
助手席からはふんふんと鼻歌が聴こえる。窓から流れていく景色を見やる瞳はキラキラと楽しそうだ。運転席にいるのになんでそんなことがわかるかって? いつもミラー越しに気付かれないように見つめているせいだ。
「なあ兄貴、海沿いの道通んねぇ? 今日天気いいからきっと綺麗だよ」
「ああ、いいなァ」
頷き返すけれど、一番綺麗なのはお前のその楽し気に光る目だ、なんて歯の浮くような台詞を吐いたら、どんな顔をするのだろう。本心を告げてしまいたくなるけれど、久々のデートに浮かれていることがばれてしまうのも照れくさい。いつだって格好いい恋人であり兄でありたいと思う気持ちを、こっそりと持て余している。
ガードレールの向こう側に海が見えると、玄弥は途端に「わぁっ」と声を上げた。まるで子どものようだ。実際に子どもの頃の弟をよくよく知っている実弥としては、それこそつぶさに見つめてきた姿を思い出す。それを踏まえると、普段はシャープな表情が目立つこいつもまだまだ幼い顔をするものだなと目を細めてしまう。「……う、ガキっぽいって思ってんだろ」なんて、それすらもいとしいと思っていることは伝わっていないようだ。ハ、と口の端の笑いだけで返すと、弟はわかりやすくむくれた。
さてどう機嫌を取ろうか。ちらりと視界に入る看板に、これだと思った。ウィンカーを出して右折する。
「あれっ? 兄貴、コンビニ入るの? トイレ?」
「ちょっとな」
弟の、雰囲気も何もない口振りなんて今更すぎる所だが、トイレ以外にもいろいろあるだろうに、全く。デートにも関わらず、弟がそういったことに頓着しないのは、自分以外とこんな関係になったことがないせいだ。それに優越感を覚えるのを隠して、ぐしゃりと髪をかき混ぜるだけで済ませてやる。物馴れていないところも、好きだ。
何か飲むかと聞いても、まだ持ってきた麦茶あるし、と返ってくる。家庭的なところも魅力的だ。誰かに気付かれたりしないように、車の中に置いていく。本当は連れて行きたかったけれど、まるで躾の行き届いた犬のように大人しく尻尾を振っている様子を見て、鍵しっかり閉めとけよと言うだけに留めた。
「ほらよ」
「ん? ……ソフトクリーム?」
「好きだったろ、お前」
「いつの話してんだよ……ありがと」
ぱくりと口に含むと、パァっと顔を輝かせた。昔からそうだ。出かけた先でアイスを買ってもらうことが少なかった頃から、一口食べるだけで嬉しそうな顔をして。そんな弟が可愛くてしかたなくて、自分の分も差し出したことが多々あった。
「兄貴も食べる? あーん」
「アァ」
わざと大き目な一口で食らってやると、「あー!」と惜しがるような声を出す。それでも「むう……おいしい?」と聞いてくる健気さに、「美味い」と返す声が少し笑いを含んだものになってしまう。それをどう捉えたのか。「だよな!」と陽だまりのように笑う弟に口づけた。
「ひぇっ……今そんなタイミングじゃなかったじゃん……」
「うるせェ。いつだって可愛いお前が悪ィ」
「横暴じゃん……」
顔を真っ赤に染めてぽすんと胸を叩いてくる。加減に加減を重ねた拳では何のダメージも与えられないなんて、そんなこともわからずに文句を言う所も愛らしい。全く持って、今日も弟であり恋人でもある玄弥は、ありのまま、魂まですべてが尊いのだ。
じっと上目遣いで見つめる弟にもう一度キスを落として、車のキーを回す。デートはまだまだ始まったばかり。
「あーあ、俺ももっと兄貴みたいに格好良く決められるようになりてぇ」
「十年早ぇわァ」
十年どころか、いつまでもそのままでいてほしい、とは口に出せないけれど。
赤い頬のまま笑う弟に、珍しく実弥の表情筋が素直に動く。
こちらを見ていられなくなって窓の外を眺め出す玄弥を見て、また笑って。そんな時間が、これからも続いて欲しい。
一等いとしい人と過ごす時間は、どんな時だって、胸が苦しいほどに素晴らしいものだ。