風薫る五月。連休も明けて気温もほどほど、京極からすれば庭仕事には最適な季節だ。広大な葵ノ橋学園は当然植木や花壇も多く、芝刈りや雑草の処理と用務員の仕事には事欠かない。
「我ながら働き者だね、まったく」
脚立と高枝切りバサミを抱えて校庭を横切る。どこかのクラスが授業中らしく、陸上グラウンドからのにぎやかな声が耳に届いている。不意にガサ、と目の前の植え込みが鳴いた。陰から現れたのはキョロキョロと挙動不審な男。姿勢を低くして何かを探しているような……さては覗きか、と京極は眉を顰める。
「おい。あんた」
「うわっ!」
高枝切りバサミの柄で男の尻をつつくと、相手は飛び上がってこちらを向いた。思っていたより若い男だ。学生だろうか。
「びっくりした。用務員さん? 僕になんか用?」
「そりゃこっちの台詞だ。今は授業中だぞ、こんなとこでなにしてる」
「はぁ? 僕、大学生ですけど。授業は空きコマですー」
そういえば男は制服を着ていない。パーカー姿の肩に下げたトートバッグから学生証を取り出し、証拠とばかりに京極へ突き出してきた。葵ノ橋学園大学一年・清洲灰里…顔写真からして本人で間違いない。京極が聞きたかったのはそこではないが。
「…で、その暇な大学生が、高等部の敷地内でなにを?」
「暇じゃないし……そうだ!用務員さんなら見たことあるかも。この辺にツチノコがいたらしいんだけど、知らない!?」
「…………ツチノコ」
覗きや盗撮の言い訳にしては随分とお粗末だ。しかし目を輝かせて息巻く男──清洲の様子を見るに、本気で言っているらしい。誰かに騙されたんだろうが、今どきの大学生にしてはピュアというか、なんというか。
「……あいにく俺は見たことはないが」
「そっかー。やっぱり…」
「だが、さっき向こうの方で何かの脱皮した抜殻を拾ったな。もしかしたらそれがツチノコのだったのかもしれん」
「マジ!? ありがと、ちょっと見てくる!!」
清洲は落ち着きなくバタバタと走っていった。姿が見えなくなってから、京極はククッと笑う。
「……まあ、十中八九ただのヘビの皮だろうがな」
欠伸が出そうな春の日には丁度いいからかい相手だった──と失礼な感想を抱きながら。脚立を抱え直して、京極はまた仕事へ戻った。
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「ちょっと!! ツチノコなんて嘘じゃん!!」
「おっと。ついにバレたか」
開いていた用務員室の窓から勢いよく文句を言いに来たのは先日会った青年、清洲だった。まさかわざわざ用務員室まで来るとは予想外だったが、たまたま今日もこの部屋でくつろいでいた化野はなんとなく察したみたいに「あー」と頷く。
「若い子騙して遊んでたんだ? さすが悪徳用務員サン」
「あっ他に人いたんだ。え、ていうか、悪徳ってなに? いつもこんなことしてんの?」
「人聞きの悪いこと言うんじゃねえよ、不良教師」
「事実だろうに。ところでツチノコってなに? おもしろそうだし聞かせてよ」
「えーと、高等部の先生ですよね? なんでこんなところに?」
化野は勝手に清洲を部屋へ招き入れる。突然の来訪者に室内はにわかに騒がしくなってきた。隠れ家代わりの用務員室が若者ひとり加わるだけでこんなに賑やかになるとは、とこっそり息をつく。とはいえそれは嘆息ではなく、呆れの中に笑みを含んだ溜息であった。
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風が強い日だ。京極の手にしたゴミ袋が風に煽られる度バサバサと鳴っている。湿気の少ないからっ風というやつだが、それはそれで砂埃が舞ってしかたない。何度払ってもざらざらと砂粒が落ちてくる作業着に諦めを抱きつつ、風に乗ってやってくる校内のゴミを拾うのに勤しむ。校舎まわりを練り歩いてようやく一周戻ってきたところで、びゅうと突風が吹く。放課後で生徒も多い時間帯だけあって、あちこちから驚いた声や悲鳴が──。
「うわっぷ!」
なんだか聞き覚えのある声がした。京極がそちらを向けば見覚えのある姿。この間用務員室に乗り込んできた、ツチノコの。
「清洲?」
「あ、こないだの用務員さん…っゲホッ!ゴホッ!」
京極の存在には気づいたものの、清洲は咳を繰り返すばかりだ。今の風で埃でも吸い込んだのだろうか。
「おいおい大丈夫か? 水持ってきてやろうか」
「ゲホ、だい、じょーぶ…。あ、待って、喉より目がやばいかも」
「目? あ、こら擦ったら」
「うわ、いたた、いった!痛すぎて開かない!無理!!」
咳が止んだ途端によく喋る口だな、と言いかけて京極は言葉を飲み込んだ。不運な青年に追い打ちをかけるほど悪趣味ではないつもりだ。加えてこの状況、傍から見たら京極が清洲を泣かせているようにもとられかねない。さすがにそれは、外聞が悪すぎる。
「目にゴミでも入ったか。そこから入ってすぐにトイレがあるから、顔洗ってこい」
「ゴミっていうか、多分これ壱茶の…うう…」
目を抑えながらなにやらもにょもにょ言っている清洲の手を引いて、京極は校舎の中へ誘導する。外への渡り廊下近くのこのトイレは、生徒たちが使う教室から離れていることもあり利用者は少ない。誰もいない洗面台で顔を洗う清洲に、京極は作業着のポケットに突っ込んでいたタオルを差し出した。
「ほらこれ使え。しかし突風のせいとはいえ災難だな、あんたも」
「あ、どうも。たぶんこれジョロキア茶のせいだから人災みたいなもんだけどね」
「ジョロキア…まさか唐辛子か?」
「そうそう。挽いてお茶にしたのを出されたんだけど、その粉が髪とかに付いてたのかも。ほんっと悪ふざけにも程があるんだよ!」
「そりゃあ過激な友達がいたもんだなあ」
思い出して目を怒らせる清洲に、京極は生返事をしながらもその友達とやらの気持ちもわからないではない。大袈裟なくらいリアクションを返してくれる清洲はいじりがいがあるんだろう。
「京極さん」
不意に名前を呼ばれた。頭ひとつ低いところにある顔を見下ろせば、丸く大振りな目がぱちりと瞬いて京極を映す。擦った下瞼が、まだ少し赤い。
「名前教えてたっけか」
「ううん。高等部から進学したやつに聞いた。有名なんだね、背の高い用務員さんって言ったらすぐわかったよ」
「評判良いだろ? 背が高くて、かっこいい、用務員さんって」
「うわウザぁ。自惚れ屋って評判ももっと広まるべきじゃない?」
白けた視線を寄越しながら清洲は肩をすくめる。話の腰を折らないでよね、と前置きが入った。
「助けてくれてありがとうございます。…タオルって洗って返した方がいい?」
「いいや。学校の備品だ、俺が洗うよ」
「そう? じゃあおまかせしよっと」
「ククッ…敬語、一瞬だったな。苦手か?」
「そんなことないけど、なんかアンタ相手だと忘れるっていうか、違和感っていうか」
「まあ俺相手なら構わんが、先生方にはちゃんとしろよ」
ぽんぽんと清洲の頭を軽く叩いてから、はたと気づく。ついうっかり小さい子相手のように扱ってしまった。内心焦る京極に対して清洲は不思議そうに首を傾ける。
「……? なに? 頭になんか付いてた?」
「……ああ。ここんとこに、赤い粉が」
「ええ!? まだジョロキア付いてるの!?」
ぱっと手を離して「もう取れた」とごまかした。清洲は自分でも髪を掻きながら顔を顰めている。
「まだどっかに付いてそう…さっさと帰って髪洗お。じゃあね京極さん」
「ああ。気をつけて帰れよ清洲。途中でまた泣いても今度は助けてやれないぜ」
「は!? さっきも泣いてないし!」
ぷいと顔を逸らした勢いのまま去っていく清洲に京極はひらひらと手を振る。先ほど無意識に清洲の頭を撫でた手だ。
「……気をつけねえとな」
普段の京極は人に触るのも触られるのも避けている方なのだが、つい構いたくなるとでもいうのか、妙な引力のある青年だ。今のご時世、同性でも変にボディタッチや話しかけすぎればなんとかハラスメントで訴えられかねない。特に相手は多感な若者だ。馴れ馴れしくしすぎないようにしなければ。
気を取り直すように「さて」とひとりごちて、返されたタオルを作業着に引っかけると、京極は中断していたゴミ拾いを再開したのだった。
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